「えっと……この辺りだと思うんだけど」

 雨の降る中、右手に傘、左手にメモ用紙を持った黒髪の少女は道に迷っていた。
 青のブラウスとチェック柄のスカート。肩口までで短く揃えられた髪は、少女の活発さを窺わせる。
 少女の名は万里谷ひかり――名前からも察しの通り、万里谷祐理の妹だ。
 メモ用紙と睨めっこするひかり。そこに描かれた独創的な地図は、本当に地図かと疑うような代物だった。
 なんとなく場所の予想はつくのだが、目的地に記された『このあたり』の文字がなんとも言えない頼りなさを醸し出している。
 この地図を書いた知り合いは、『たぶん、あっち』と言いながら直感と本能だけで旅が出来てしまうような野生児だ。ひかりには難易度が高い。

「ううん……やっぱり、お姉ちゃんにちゃんと道を聞いてくるんだったかな? でも、話したら絶対に止められるし……」

 霊視に長けた姉の勘の鋭さを知ってるだけに、ひかりは迂闊なことを聞けなかった。
 今日も訝しむ姉を振り切って、家をこっそりと抜け出してきたのだ。それだけに時間は余り残されていない。
 あの姉のことだ。すぐに自分の居場所を見つけて後を追ってくるだろうと、ひかりは警戒していた。
 ここまで無茶をして飛び出してきたのには理由がある。七人目のカンピオーネ、正木太老にどうしても一目会いたかったからだ。
 ひかりは見習いとはいえ、祐理と同じく特殊な力を持つ媛巫女の一人。そんなひかりが太老の名前を知ったのは最近のことだ。祐理と違い、直接会ったことは一度もない。
 しかし彼女は四年前から――太老のことを知っていた。





異世界の伝道師外伝/異界の魔王 第14話『万里谷』
作者 193






 あれは今から約四年前の夏休み。知人に誘われ、家族でオーストリアを旅行した時のことだ。
 その頃、ヴォバンはまつろわぬ神招聘の儀式のため、優れた巫力を持つ巫女や魔女を探し求めていた。リリアナ・クラニチャールが祖父の命令で、ヴォバンのもとに連れて行かれたのもその時期だ。
 エリカ・ブランデッリが認めるように、万里谷祐理ほどの逸材は世界でも稀だ。その当時十二歳の少女に過ぎなかった祐理だが、それでも世界で上から数えた方が早いほどの高い資質と霊能力をその身に備えていた。そのため、オーストリアに家族旅行で偶然訪れていた祐理は、ヴォバン子飼いの魔術師達に不運にも見出され、拉致同然に侯爵のもとへと連れ去られたのだ。
 当然、そのことを知った両親は激怒したが、相手は魔王だ。人間にどうこう出来る相手ではない。それに、ひかりのこともあった。
 当時八歳とまだ幼かったひかりだが、それでも姉と同じように媛巫女に選ばれるだけの資質を彼女は有していた。とはいえ、才能があると言っても巫力は姉よりもずっと低く、まだ巫女としても未熟なひかりが狙われる可能性は低い。でも万が一、ひかりまで連れ去られるようなことになれば――
 そう考えた両親は、祐理を残して日本へと帰国する決意をした。そうすることでしか、娘を守れなかったからだ。

 しかし、そのことを帰国してから両親に聞かされたひかりは涙した。
 幼く未熟であろうと、彼女も媛巫女だ。儀式の生け贄として魔王に連れて行かれた姉がどうなるか、自ずと理解していたのだろう。
 祐理が姿を消し一月(ひとつき)が過ぎ、その頃になると大人達は諦め、両親ですら祐理のことを忘れようと努力を始めていた。そうしなければ、不安と後悔で心が潰れてしまいそうだったのだろう。
 ひかりはそれでも諦めず、姉の帰りを待ち続けた。何日も、何日も……。

 ――それから更に一月が過ぎ、祐理は以前と変わらぬ姿で万里谷の家へと帰ってきた。

 ひかりは涙を流して喜び、両親も笑顔で祐理の無事を祝福した。
 そんな魔王のもとから帰ってきた姉に聞かされた、とても強くて優しい王様の話。ひかりはその話に夢中になった。
 それはまるで英雄譚に登場する勇者のようで、大好きな姉を助けてくれた優しい王様に、ひかりは少しずつ興味を抱くようになっていった。

 ――ずっと王様に会いたかった。一言『お姉ちゃんを助けてくれてありがとう』とお礼を言いたかった。

 自分でも無茶をしているということは、ひかりも自覚していた。
 幾ら、姉を救ってくれた人とはいえ、相手はカンピオーネだ。世界中の魔術師に『王』と崇拝される人物。お礼を言いたいからといって気軽に会えるような人物ではない。
 それに過去に囚われの少女達を救っていようが、相手は『魔王』だ。危険なことは理解していた。
 それでも、ひかりはどうしても太老に会いたかった。それに――不思議と大丈夫な予感があった。

 ――この王様は、きっと他のカンピオーネとは違う。

 ただの先入観かもしれない。それでもひかりは姉の話を、自分の勘を信じた。

「どうかされたのですか?」
「あ、実は道に迷って……」

 マンションから出て来たメイド服の女性に声を掛けられ、少し驚きながらも、ひかりはメモ用紙を女性に見せた。
 綺麗な人だな――と思いながら、ひかりは女性の顔を見上げる。
 こんな街中でメイド服を着ていることもそうだが、どこか日本人離れした垢抜けた印象を受ける女性だった。

「ああ、これはたぶん――」

 このマンションですよ――と口にしかけたところで、メイド服の女性は胸を締め付けるような息苦しさに耐えかね、地面に蹲った。
 場を包み込む濃厚な呪力の気配。ひかりも息苦しさを感じ、強い力に押しつけられるように地面へと横たわる。

「ふむ、ここか」

 雨の中、嵐と共に現れたのは一人の老人だった。
 仕立ての良いスーツに身を包み、気品と威厳さえ漂わせる老人の佇まいは、これまで生きてきた歳月と経験さえ臭わせる。

「キミだな。幼き少女よ」

 ひかりのなかに凡人とは比較にならない呪力を感じ取り、老人はそう声を掛けた。
 百年に一人の逸材と言われる特殊な霊能力を身に宿し、潜在能力は祐理をも凌駕すると言われているひかりの資質を老人は一目で見抜いたのだ。

「王の傍に控える幼い少女。話に聞いていた通り、なかなかの力を秘めていると見える」

 圧倒的な恐怖と威圧感。身体を小刻みに震わせながら、ひかりは老人を見上げる。
 老人の瞳が怪しく揺らめく、そこには僅かに好奇の色が滲んでいた。
 緑柱石(エメラルド)の瞳――ひかりはその瞳の色を見て、目の前の人物が何者かを悟った。

「少女よ。我が無聊を慰める贄となるがいい」

 ――サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。
 三百年の時を生き、数多の神を嗜虐し、多くの権能を簒奪した古き王。最凶最悪と恐れられるカンピオーネ。
 そして『万里谷』の名を持つ少女にとって、深い因縁のある人物だった。


   ◆


「――アリアンナ!」

 不作法に扉を開け放ち、部屋へ飛び込むエリカ。そこはエリカとアリアンナが二人で暮らしているマンションの一室。
 ほんの三十分ほど前、エリカの携帯電話に桜花から連絡が入った。
 それは、マンションの前で倒れていたアリアンナを保護したという知らせだった。

「エリカ様?」
「アリアンナ、もう起きて大丈夫なの?」
「はい。その……貴重な霊薬を分けて頂いて、以前よりも体調が良いくらいです」

 少し言い難そうにエリカに事情を説明するアリアンナ。
 霊薬という言葉を聞いて、エリカの脳裏には四年前の事件が過ぎった。

「おかえり。早かったね、エリカお姉ちゃん」

 ――気付かなかった!?
 気配に気付かなかったことに驚きながら、声のした方へ振り返るエリカ。振り向いた先には、太老と桜花の姿があった。
 カチャカチャとノートPCを弄っている太老の横で、桜花はまったりとお茶を飲みながら寛いでいる。
 他人の家だというのに我が家のように振る舞う二人に少し呆れつつも、エリカは膝をつき右手を胸にあて騎士の礼を取る。

「王よ、御前での非礼をお詫びします。アリアンナを救って頂いたご恩は必ず――」
「ああ、そういうのはいいから、前にも言ったけど普通に太老でいいよ」

 まだ王様と呼ばれるのに慣れていないのか、辟易とした表情を浮かべる太老。
 そんな太老の心情を察してか、エリカは呼び方を言い直す。

「では、太老と。ところで――」
「まずは事情を説明した方がいいよね」

 エリカが質問をするより先に口を開いたのは桜花だった。
 相手が太老(カンピオーネ)では聞き辛いこともあるだろうと配慮してのことだ。

「マンションの監視カメラに犯人の姿が移っていたわ。アンナお姉ちゃんを気絶させたのはデヤンスタール・ヴォバン。『東欧の魔王』と恐れられているカンピオーネよ」
「ヴォバン侯爵が!?」

 エリカにとってそれは信じがたい話だった。
 何故、ヴォバン侯爵がアリアンナを――と考えたところで、エリカの視線は太老に向く。
 ここをヴォバンが尋ねてきたとすれば、その理由はアリアンナより太老にあると考えるのが自然だったからだ。

「お察しの通りよ。だから、アンナお姉ちゃんの件は恩に感じなくいいよ。こっちが巻き込んじゃったみたいなもんだしね」
「ぐっ……」

 桜花に批難めいた目を向けられ、言葉に詰まる太老。この件に関しては反論の余地がない。
 幾ら鉄壁のセキュリティを誇るマンションでも、外で犯行に及ばれてはどうすることも出来ない。
 太老も相手の性格を読み間違え、後手に回ってしまったのは自分のミスだと素直に認めていた。

「やはり四年前の事件が理由でしょうか?」
「そうだと思うよ。お兄ちゃんに果たし状を送りつけてくるくらいだし」
「は、果たし状ですか?」
「うん。リリアナ・クラニチャールって女の人がきたんだけど、お兄ちゃん『面倒臭い』って追い返しちゃったから」
「リリィ……」
「ああ、やっぱり知り合いだったんだ」

 妖艶に微笑む桜花を見て、エリカは思わず息を呑む。背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
 同じミラノに居を構える『赤銅黒十字』と『青銅黒十字』の関係から当たりを付け、エリカとリリアナの関係を疑いカマを掛けたのだろう。草薙護堂に自分がいるように、この少女はやはり王を補佐する存在なのだとエリカは悟った。
 必要があれば力を貸してくれるが、決して味方と言う訳ではない。
 平田桜花は、あくまで正木太老の味方だ。物事の中心には、常に太老にとって善か悪かの判断基準がある。
 太老にとって害悪と判断されれば、自分達は容赦なく切り捨てられるだろうとエリカは漠然と理解した。

「心配しなくても、エリカお姉ちゃんが敵と通じてるとか思ってないから安心して」

 その言葉に、ほっとエリカは胸を撫で下ろす。四年前の事件が原因とわかれば、後は太老とヴォバンの問題だ。出来ることならこの件にはこれ以上関わりたくないが、ヴォバンの真の狙いがわからない以上、楽観視は出来ない。可能な限り早く状況を見極める必要がある。ヴォバンという脅威が迫っている以上、更に敵を増やすような真似は絶対に避けるべきだとエリカは考えていた。
 それに王同士友誼を結べるなら、それが一番平和的な解決だ。しかし何を切っ掛けにその関係が崩れるかわからない。互いに譲れない物の一つや二つはあるだろう。そうした時にすれ違いや衝突は起きるものだ。それでなくても先を読めないのがカンピオーネという存在だ。太老と友好を結びつつ、エリカが桜花と連絡先を交換したのも、すべては護堂のために少しでも情報を集め、万が一の時に備えるためでもあった。
 それほどに、自分と互角以上の駆け引きをする目の前の少女に、エリカは強い警戒心を抱いていた。恐らく見た目通りの年齢ではないだろうと考える。

(まさか、神祖?)

 ありえない話ではないとエリカは考える。
 神祖とは嘗てこの世界に顕現した女神が、人へとその身を落とした魔女の総称だ。
 神やカンピオーネには及ばないものの膨大な呪力を身に宿し、人智の及ばない異能と不老不滅の肉体を持つ。例え死んでも転生を遂げる――正真正銘の化け物と言える存在だ。
 そんな考えを表に出さないように平静を装い、エリカは桜花へと質問を続けた。

「これから、どうされるおつもりですか?」
「そこはお兄ちゃん次第だけど……まあ、もうやることは決まってるみたいだしね」
「当然、あの爺には生まれてきたことを後悔させてやる!」
「えっと……」

 やる気になっている太老を見て、エリカは先日の戦いを思い出す。アリアンナが襲われたから――と言う訳ではなさそうだ。では、何が彼をこれほどやる気にさせたというのか?
 エリカの見立てでは、太老もまた護堂と一緒で積極的に戦いに身を投じるタイプではない。いざと言う時はカンピオーネの例に漏れない無茶をするが、なんの理由もなしに自分から戦いを仕掛けるような人物ではないと考えていた。
 だとすると、太老をその気にさせた何か別の理由があると言うことだ。
 エリカが不思議に思っていると、桜花が手招きをして一枚の写真をエリカに見せた。

「……女の子?」

 マンションに備え付けの監視カメラの映像にしては、顔まではっきりとわかる鮮明な写真に少し驚く。しかし、問題はそこではなかった。
 写真には甲冑の騎士に担がれ、どこかへ連れ去られる幼い少女の姿が写されていた。
 背格好は桜花と同じくらい、小柄な少女だ。服装もよく似ている。どこかで見たことのあるような、誰かの面影を感じるがはっきりとしない。そこでエリカは考えた。
 草薙護堂(カンピオーネ)参謀(あいじん)を自称するだけあって、エリカは一度でも会ったことのある人物の顔と名前は決して忘れない。少なくとも、そのなかにこの少女の姿はなかった。
 だとすれば、誰かの関係者かと記憶を辿り――何かに思い至った様子でエリカは顔を上げる。
 桜花はそんなエリカの視線に気付き、首を縦に振って答えた。

「万里谷ひかり――万里谷祐理の妹よ」





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