太老達がイギリスに居る頃、赤銅黒十字の本部でパオロ・ブランデッリは、とある筋に依頼していた調査結果に唸っていた。
以前、零式がイタリア海軍を壊滅的な被害に追い込んだことは記憶に新しい。当然ではあるが、軍や政府としては、それほどの戦闘力を持った兵器を放って置くことは出来ない。
しかし、あれは魔王の持ち物だ。魔王の逆鱗に触れることを恐れ、調査や監視も満足に出来ない状況にイタリア政府は立たされていた。
更に言えば、零式によって軽空母を含む、海上戦力の三分の一を失ったことも大きい。ここまで大きな損害を出してしまうと艦隊の再編成も困難を極める。国防上、絶対に避けては通れない問題だけに、厳しい財政事情のなかイタリア政府は難しい決断を迫られていた。
そこで万策尽きた政府は、赤銅黒十字に魔王との交渉を依頼してきたのだ。
その交渉の結果、赤銅黒十字が手に入れた物。それが、パオロが目を通している代物と言う訳だ。
「まったく、どこまでも底の知れぬ御方だ」
パオロに手渡された太老からのお詫び。それは一枚のデータディスクだった。
交渉を持ち掛けられるまでもなく、イタリア海軍の件は太老も零式の保護者として申し訳なく思っていた。
そんな時に舞い込んできた今回の話だ。
ならばと、太老が提示してきたのは赤銅黒十字を通じての技術提供だった。
太老は銀河有数の哲学士だ。『宇宙一の天才科学者』を自称する白眉鷲羽の弟子でもある。
人間の持つ知識や技術とは、それその物では用途の限られた、ただのパーツにしか過ぎない。哲学士とは、そうした膨大な技術と知識を組み合わせ、新たな使い道や科学の可能性を探求する分野のことだ。
銀河連盟条約において、恒星間移動技術を持たない初期文明惑星に対する過度の接触や技術提供は原則禁止されているが、何事にも例外はある。
ここは銀河連盟の目が届かない異世界ということもあるが、太老は表向き、樹雷――鬼姫の依頼でこの世界に来ている。特に『皇家の樹』に関することは最重要優先事項。そのためであれば、太老の責任において裁量を振うことを許可されている。
それに彼等の扱えない超科学技術を提供した訳ではない。哲学士の理念に則って太老が提供したのは、この世界の知識でも実現が可能な科学技術の数々だ。
それは既にある技術に手を加え、新たな使い道を提示したに過ぎない。
もっとも、それだけでも人類の発展に大きく貢献するアイデアであることは間違いなかった。
これらの科学技術によって生み出されるであろう膨大な利益を考えれば、イタリアは失った艦隊を補填する以上の経済的優位に立てる。長年続いてきた不況を脱するチャンスともなるだろう。それだけに、太老から託された責任は重いとパオロは理解していた。
まずは現状を理解し、太老から託された物の価値をしっかりと把握すること。
そのためツテを使い、パオロは信頼できる筋に太老から渡されたデータの解析を依頼したのだ。
その結果は語るまでもない。これが公表されれば、人類の歴史は大きく動き出す。
パオロは魔王との交渉役を引き受けることを条件に、イタリア政府には『守蛇怪・零式』の所有権が正木太老にあることを公的に認めさせることに成功していた。
これほどの力を持つ魔王だ。正面を切って争うのは、さすがに無理だと悟ったのだろう。政府はその条件を呑み、赤銅黒十字に望みを託すしかなかった。
人間では魔王に勝てない。科学という力を手にした今でも、それは変わることのない自然の摂理だ。
くしくもイタリア海軍壊滅の件は、人々が忘れ掛けていた魔王の脅威を世界に知らしめるものとなった。
その結果が、イタリアだけでなく国連のお墨付きによる『守蛇怪・零式』の所有権の所在を明確にすることに繋がったわけだ。
魔王の持ち物であると認めてしまえば、誰も手をだすことは出来ない。どの国家にも属さないというのは、イタリアの一人勝ちを阻もうとする各国の思惑も絡んでいた。
そんななか舞い込んできた噂の魔王による科学技術の提供。これが何を意味するか、わからないパオロではない。
「問題は、この技術の取り扱いか……」
幾ら、魔王に託されたとはいえ、赤銅黒十字だけで、これを管理するのは危険すぎる。
人とは強欲な生き物だ。この技術によって生み出される利益を巡って、苛烈な争いが繰り広げられることは想像に難くない。もっと最悪なのは欲をかき、更なる力を望んで太老に取り入ろうとする者達が現れることだ。
――過ぎた力は身を滅ぼす。
まさに、これは悪魔の取り引きだ。
人間に智慧の実を食べることをそそのかした蛇のように――
人類は今、悪魔の手を取るべきか否か、選択を迫られている。そんな錯覚すら思わせる。
「赤銅黒十字を……いや、傘下に収めた結社すべてを人類の盾とする気か。我々は試されていると見るべきだろうな」
良くも悪くも魔王の多くは野性的な人物が多い。目的のために知略を巡らせることはあるが、最終的に拠り所とするのは勘や闘争本能と言った人間の本質的な部分だ。しかし、何事にも例外はある。
イギリスの黒王子などは人間を侮らず、目的のためであれば組織や政治すらも利用する狡猾な魔王だ。こうした魔王は人間にとって非常に危険だとも言える。
逆に言えば、ヴォバンのように端から人間を見下してくれている方が、行動も読みやすく対処もしやすい。
太老はまさに黒王子と同じく、人間がもっとも警戒する厄介な魔王の方だった。
政府からの依頼とは言え、魔王との交渉を引き受けたことを、今になってパオロは少し後悔し始めていた。
異世界の伝道師外伝/新約・異界の魔王 第15話『思惑と交渉』
作者 193
イギリスに駐留する各国の魔術結社、政府が注目するなか、太老とアリスは一月振りの再会を喜び、挨拶を交わす。
もっとも、素直に喜べることばかりではなかった。
アレクサンドル・ガスコイン。この会談の席に、太老と同じ魔王の一人が同席していたからだ。
「一度会って話がしたいと思っていた。貴様が飼っているそこの女には、俺も随分と辛酸をなめさせられているからな」
皮肉を込めた言葉で、真っ先に口を開いたのは黒服の男――アレクだった。
テーブルを挟み、太老の右隣にはエリカ。そして左隣には何故か、この席に名指しで呼ばれた零式が控えている。
アリスは英国側の代表ということで、今はアレクの隣の席に腰掛けていた。
嘗ては世界最大の貿易港として名を馳せたロンドン港。しかし今では船舶の大型化が進み、コンテナを利用した物流が主流となったことで、ティルバリーやフェリクストウと言った外界に面した港に役割を移すことになり、嘗ての名残を残すばかりとなった。守蛇怪・零式が停泊しているのは、そんな再開発の進む港の一角だ。
対談は正午から行われ、近くの高級ホテルで食事を取りながらと言うことになった。
一般人の避難は完了済み。ここで魔王の戦いが繰り広げられることになれば、こんなホテルなど瞬く間に倒壊してしまう。関係者達が最悪の事態を想定して固唾を呑んで見守るなか、魔王の対談は執り行われた。
――プリンセス。これはどういうことですか!
――それは、私が聞きたいくらいです!
アイコンタクトで、アリスに抗議するエリカ。
イギリスに向かうとわかった時点で嫌な予感はしていたエリカだったが、到着早々こんな一触即発の状況に陥るとは思ってもいなかった。太老とアリスの間で、話はついているものとばかり思っていたからだ。
しかし、それはアリスも同じこと。まさか、こんなことになるとは思ってもいなかった。
カンピオーネのことをよく知る魔術師であれば、食事も喉を通らない危機的状況だ。
「イギリスってメシがまずいと聞いてたけど、これは美味いな。あ、お代わり貰えますか?」
なのに、マイペースに食事を続ける太老を横に、エリカは冷や汗を流す。
その仏頂面から考えていることまでは読めないが、少なくともアレクの機嫌が良くないことだけは確かだ。
気まずい。出来れば、この場から立ち去りたい。
ピリピリと張り詰める空気の中、エリカとアリスは同じことを考えていた。
「……話を聞いているのか、貴様は?」
「聞いてるよ。ようするに零式がなんかしたってことだろう?」
具体的に何をしたかまではわからなくても、零式が迷惑を掛けたことくらいはわかる。
もっとも、そんなことを言われても、どうしようもないと言うのが太老の答えだった。
零式に手を焼いているのは、自分も同じだからだ。
「それで……お前、今度は何をしたんだ?」
「さあ?」
零式に訊いてみるも、予想通り覚えていないのか、期待した答えは返ってこない。
こんなこと前にもあったな、と太老はため息を漏らした。
正直こうなっては零式に訊ねるだけ無駄というものだろう。覚えていないことを反省しろとも言えない。
「あれだけのことをしておいて覚えていないだと!」
席を立ち、激昂するアレクを前に『本当にお前、何やったんだ?』と、太老は非難の視線を零式に向ける。
ここまで怒るからには、また面倒なことをやらかしたのだろうと太老は思った。
「王立工廠から盗みだした美術品・魔導具の数々! 忘れたとは言わせん!」
お前、そんなことしたのか、と零式を睨む太老。
ふと太老の頭を過ぎったのは、零式が弄って遊んでいた骨董品の数々だった。
太老は「ああ、あれのことか……」とアレクの話に納得する。
「その反応、やはり貴様の指示か。白々しい真似を……」
「いや、それは誤解だ。そもそも、俺に骨董趣味はないぞ」
「何が誤解だ。俺が狙っていた貴重な代物を、行く先々で奪っていく真似をそいつにさせていたのも、貴様だということは既に調査済みだ!」
なんのことだ? と再び首を傾げる太老。
すると隣に座っていたエリカが、アレクの話を補足するように太老に事情を説明する。
「アレクサンドル様のその手の話は有名よ。『興味がある』という理由だけで、欧州各地の魔術結社が秘蔵する魔導具や神具を強奪し、そのなかでも特に重要性の高い貴重な物は返却せず、コーンウォールにある王立工廠の美術館に展示されているの。たぶん、零式が奪ったのは、そのお宝のことよ」
「それ、『泥棒』って言わないか?」
「……言い掛かりだ。泥棒ではない。ただ、借りているだけだ」
自信たっぷりに反論するアレクだったが、「それはどうなんだ?」と太老は呆れ返る。
時には怪盗のように予告状を出し、盗んだ美術品の代わりに『拝借書』を現場に残していく。
その手際の良さは、現代のアルセーヌ・ルパンと言ったところだ。
――興味があるから借りた。伝統ある英国の流儀にならっているだけ。
と吹聴するあたり、アレクの捻くれた性格がよくわかる。
「ようするに、零式は泥棒の上前をはねたわけか」
これは、どっちもどっちじゃないだろうか? と太老は思う。
ましてや、自分が目を付けていた物を先に盗まれたというのは、言い掛かりに等しい。
どうしてカンピオーネというのは、こうも身勝手で常識がないのか?
「で、お前は俺にそれを言って、どうしたいんだ?」
「貴様が不当に集めている魔導具の開示を求める。そのなかには、俺が探している物もあるはずだ」
「俺は元の持ち主に返却するつもりなんだが……」
「ならば、俺が預かってやる。重要性の低い物は持ち主へ返却する。それで問題あるまい」
「いやいや、俺が言うのもなんだけど問題しかないだろ? なんだよ、そのジャイアニズム」
「む……何が問題だと言うんだ」
これはダメだ、と諦める太老。何を言っても、アレクは自分の考えを曲げないだろう。
太老としては、零式の集めたガラクタに興味はない。処分に困り、赤銅黒十字で預かって貰えないかとエリカにも相談したことがあるが、強力な呪いを帯びた危険な代物もあるため、丁重に断られたという経緯もあった。
そんな物を目の前の男に渡す危険性がわからないほど、太老はバカではない。
「却下だ。百歩譲って、お前のところに元からあった物は返却してもいいが、それ以外はちゃんと元の持ち主に返す」
「くっ……やはり、そう素直には応じないか。なら、もう一つの用事を済ませるとしよう」
「もう一つの用事?」
「貴様のところにいる女神のことだ。まつろわぬ神をこの国に引き入れるなど、何を考えている」
話だけを聞けば、カンピオーネとしての責務を全うしようとしているようにも見える。
しかし、アレクサンドル・ガスコインという男が、そんな殊勝な人物であるはずがない。
「アテナのことか。探し物を手伝ってやっているだけだ」
「探し物だと?」
「ああ、『蛇』を探してるとか言ってたな。お前は何か知らないか?」
「……『蛇』だと?」
太老から『蛇』という単語を耳にした瞬間、アレクの眉間にしわが寄る。
「何か心当たりがあるのか?」
「……いや、わからん。それを探して、貴様はどうする気だ?」
「本人は『蛇を取り戻せば、三位一体の姿に戻れる』とか言ってたな。まあ、その時になってみなければわからないけど」
太老の話を聞き、「なるほど」と納得の表情を見せるアレク。
こうして魔王の対談は、一先ずの終わりを迎えた。
◆
「よく我慢しましたね、アレク。てっきり戦闘になるものと思っていましたが……」
「俺をどこぞの戦闘狂どもと一緒にするな!」
ホテルを出たところでアレクを出迎えたのは彼の側近、サー・アイスマンだった。
ここ英国で騎士叙勲を受けた魔術師で、欧州ではパオロと並び称される聖騎士級の使い手だ。
アレクよりも背が高く、ガッシリとした体型をしており、如何にも鍛え上げられた体つきをしている。
「それで交渉は決裂したのですよね? だから言ったでしょう。さっさと諦めてくれると、我々としては非常に助かるのですけど」
「フン、今日のところは挨拶を済ませただけだ。引き下がったつもりはない」
「相手は既に、あなたの同類を二人も倒した魔王です。そう簡単にいくとは思えませんが……」
「だろうな。それに色々と油断のならない男であることは確かだ」
「と、言うと?」
「アテナに奴が協力しているのは、アテナに力を取り戻させるためだ」
「それは……また……」
アレクが言わんとしていることをアイスマンは察した。
まつろわぬ神に協力して、力を取り戻させる。その目的は大体察しが付く。今の状態のアテナと戦ったところで、満足な結果は得られないだろう。だからこそ、完全な姿を取り戻したアテナと真っ先に殺し合うため、アテナが力を取り戻すのに協力しているのだと、二人は太老の行動を深読みしたのだ。
常人では考えもしないことだが、闘争を好むカンピオーネであれば不思議なことではない。
「なるほど。それを知って、アレクはどうするつもりで?」
「どうもしないさ。俺にそれを告げたということは、手を出すなという警告だろう。俺も今、奴と事を構えるつもりはない」
正確には、上手くかわされたと言ったところだ。太老の人となりを、アレクは直接会って見極めるつもりでいた。
相手の出方次第では強引な手段に出ることも考えていたアレクだったが、実際に太老と対峙してみて、やはり一筋縄ではいかない相手だと痛感させられた。
最悪アテナのことをつき、そこから交渉の糸口を見出すつもりだったが、あの手の戦闘狂にその手の交渉が通用しないことはアレクも理解している。ヴォバン侯爵や剣の王など、その最たる例だ。
人の皮を被ってはいても、あれは獣だ。あそこで自分が引き下がらなければ、アテナとの前に同族で殺し合いになっていただろうと、アレクには確信めいた直感すらあった。
それだけは避けたい。相手の過失を責めるつもりで、あの場に零式を招いたことも今となっては失敗だった。
噂に聞く『青い悪魔』と、その主である魔王を同時に相手して勝てると思うほど、アレクは自信家ではない。
「はっきり言って、ここは事情を話して協力をお願いした方がいいのでは?」
「却下だ! 奴と事を構えるつもりはないと言ったが、それは今の話だ。それに――」
「それに?」
「あれと俺は決して相容れない。それは奴も理解しているはずだ」
あれ――零式に対してアレクは苦手意識を持っていた。
それに、そんな悪魔を飼い慣らしている太老を、アレクが信用できるはずもない。
「なら、どうされるおつもりで?」
「何もしないと言っただろう。今はまだ……な」
そう言って足早に雑踏へ消えて行くアレクの後を、慌ててアイスマンは追い掛けた。
◆
その頃、プリンセスはというと――
「この縄を早く解いてください! 今日は生身なので洒落になってませんわ!」
「お父様の命令なので却下です。さっさと知ってることを吐いて楽になってください」
「ちょっ! エリカ、あなたも見てないで助けてください!」
「申し訳ありません、プリンセス。王の命令には逆らえませんので」
「いやああああああっ!」
警戒に当たっていた魔術師達が耳を塞ぐほど、大きな悲鳴がホテルに響き渡った。
……TO BE CONTINUDE
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