「はあ……いい湯だね」
「だなあ。最近いろいろとあったから骨身に染みる」
頭の上にタオルを乗せた太老の横で、まったりとした表情で露天風呂を堪能する桜花。
その反対側には――
「王様。もう一杯、如何が?」
「悪いな。おっとっと……」
徳利の入った桶を脇に置き、太老に酌をする恵那の姿があった。
そして――
「恵那さん、こちらにも頂けますか?」
お猪口を片手にお代わりを催促するアリス。
アリスの横にも徳利の入った桶が浮かんでいるが、既に中身は呑みきった後なのだろう。
空の徳利が入った桶を見て、少し驚いた様子で恵那は言葉を返す。
「ちょっと意外。姫様って、お酒強いんだね」
「私も驚いています。どう言う訳か、まったく酔った感じがしないんですね」
そう言って、首を傾げるアリス。
十代でも通じるくらい幼い顔立ちをしているが、こう見えてアリスは二十四歳。立派に成人している大人の女性だ。
お酒は嫌いな訳でも苦手な訳でもないが、あくまで付き合いで嗜む程度で、それほど強い方ではなかった。
しかし今はどれだけ飲んでも、ほろ酔い程度にはなるが酔った感じがしない。
そのため、気付けば一合徳利を五本――五合ものお酒を飲み干していたのだ。
正直、自分でも驚いていた。
「生体強化の影響だね」
と、そんなアリスの疑問に答える桜花。
酒も過ぎれば毒となる。そして生体強化に用いられるナノマシンには、身体に有毒な成分を無効化する力がある。
体内のナノマシンが一定量以上のアルコールを分解しているから泥酔することがないのだと説明する。
そのため、同じく太老や桜花も普通に酒を飲んだ程度では、酔っ払うことはない。
桜花の場合、見た目の問題もあって公の場で飲酒をすることは滅多にないのだが――
「生体強化って?」
聞き慣れない言葉を耳にして、アリスと桜花の話に割って入る恵那。
そう言えば、と恵那の存在を失念していた桜花は自分の失言に気付き、太老に視線を向ける。
桜花の視線に気付き、こっちに話を振るかと言った様子で溜め息を溢す太老。
しかし、どうしたものかと太老は答えに悩む。
(言っても理解されないだろうしな……)
恵那にはまだ、異世界や宇宙のことは話していないのだ。
というか、生体強化について詳しく説明したところで、恵那が理解できるかどうかは怪しい。
生体強化の施術を受けたエリカですら、ちゃんとした意味では未だに理解しきっているとは言えないのだ。
だから一々誤解を解くのが面倒で、もうカンピオーネということで通しているという経緯があった。
そのため、どう説明したものかと太老が考えていると――
「ほら、今更なにを恥ずかしがってるのよ。リリィの所為で出遅れたんだから、さっさと行くわよ」
「ま、待て! まだ心の準備が――」
脱衣所の方からエリカとリリアナの声が聞こえてくる。
抵抗するリリアナを無理矢理にでも浴場に引っ張り込もうと、腕を掴むエリカ。
リリアナも必死の抵抗を試みるが、生体強化を受けたエリカの腕力に敵うはずもなく――
「危ない!」
浴場に引きずり込まれる。
しかし勢い余って、足を滑らせるリリアナ。
真っ先に反応した太老が、そんなリリアナを受け止めようと湯船から立ち上がり、前へでる。
だが、
「あ」
誰が発した声か?
身体に巻いていたバスタオルがハラリと床に落ち、太老に覆い被さるように転倒するリリアナ。
その後、時間にして十秒ほどの静寂が場を支配する。
そして、
「――ッ!」
リリアナの悲鳴が浴場に響くのだった。
異世界の伝道師外伝/新約・異界の魔王 第41話『トラップ』
作者 193
「ごめんなさい、リリィ。まさか、あんなことになるとは思っていなかったのよ」
まだ温泉でのことが頭から離れないのか?
部屋の角で布団を被り、部屋に引き籠もって出て来ないリリアナに謝罪をしながら、説得を試みるエリカ。
異性と一緒の風呂に入ると言うだけで、必死の抵抗を試みるほど男に対して免疫がないと言うのに――
少なくない好意を寄せている相手に一糸纏わぬ姿を見られ、胸を揉まれたのだ。
太老が下敷きとなって庇ったお陰で怪我はなかったとはいえ、リリアナが羞恥の余り部屋に引き籠もってしまうのは無理のない話だった。
とはいえ、エリカも理由もなく嫌がるリリアナを温泉へ引っ張って行った訳ではない。
彼女なりにリリアナの立場を案じてのことだった。
現在、青銅黒十字は太老の庇護下にあるとはいえ、対外的には魔王に隷属している立場だ。
太老に求められれば、どんなことでも従わなければならない立場にリリアナはいる。
それこそ、身体を求められれば身体を差し出し、死ねと言われれば命を差し出さなければならない。
この程度のことで恥ずかしがっていては、満足に役目も果たせないだろう。
そして、リリアナが太老に隷属しているからこそ、他の魔術師たちもクラニチャール老がしたことに目を瞑り、王の裁定を黙って受け入れているのだ。
太老にその気がなくとも、リリアナには相応の振る舞いが要求される。リリアナがそんな態度では、他の魔術師たちも納得はしないだろう。
王の慈悲に縋って特別扱いを受けている青銅黒十字に、不満を抱いている魔術師は少なくないと言うことだ。
「恵那は王様にだったら、全部見られても構わないんだけどな」
「……あなたは少し自重なさい」
それだけに、恵那の半分でもリリアナに積極性があればとエリカは考える。
本来であれば、リリアナのことなど放って置くのが良いのだろう。
勝手に自滅してくれれば、それだけでライバルが一人減るのだ。
しかし姑息な手でライバルを蹴落としてまで、太老の一番になりたいとエリカは考えていなかった。
やるからには正々堂々と勝利し、太老の一番の騎士は自分だと周囲に認められなければ意味がない。
そうでなければ、胸を張って太老の横に並び立つことなど出来ないと考えているからだ。
これは、相手が誰であっても決して曲げることの出来ないエリカ・ブランデッリの矜持の問題だった。
「落ち着くまで、放って置くしかないと思うよ。エリカお姉ちゃんの心配も分からなくはないけどね」
と、話に割って入る桜花。
桜花に考えを見透かされ、微妙に複雑な感情を表情に滲ませるも――
桜花の言うように今はそっとしておくしかないと考え、エリカは二人と共にその場を後にするのだった。
◆
「まさにお約束≠ニ言う奴ですわね」
何やら嬉しそうに、そう話すアリス。
勿論、話題の内容は先程の浴場の件だ。
「随分と楽しそうだな」
「ええ、太老様といると退屈しませんから」
寸分の迷いもなくそう答えるアリスに、鬼姫と通じるものを感じ取る太老。
その好奇心に満ちた瞳と眩い笑顔からも、本心から言っていると理解できたからだ。
自分の周りにはどうしてこんな女性ばかりが集まるのだろうと、太老の口からは大きな溜め息が溢れる。
「それで、リリアナの胸の触り心地はどうでした?」
「……ノーコメントで」
答えにくい質問をされ、回答を拒否する太老。
どのように答えても、自分の首を絞めると分かっているからだ。
「小さい胸の方が好みだという情報があったので、真相を確認したかったのですが」
「ちょっと待て。それは、誰からの情報だ?」
「誰からの情報も何も、皆さん噂されていますよ?」
酷い誤解だと肩を落とす太老。
とはいえ、普段の言動と行いが招いた結果でもあるので、完全な誤解とは言えなかった。
噂の出所はカレンなのだが、意外と核心を突いているあたり、太老のことをよく観察していると言えるだろう。
「……小さい胸が好みなら私にも勝算があるかと思ったのですが」
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
ぼそりと何かを呟くアリスを見て、邪なものを感じて訝しむ太老。
しかしアリスの態度から、普通に尋ねても誤魔化されるのがオチだと察して追求を諦める。
この手のタイプは本心を隠すのが上手く、一筋縄ではいかないと理解しているからだ。
それにリリアナとのことは、どう言い繕ったところで自分にも非があると太老は認めていた。
不可抗力とはいえ胸を揉んでしまった以上、男に責任がないとは言えないからだ。
「アテナたちも連れてきてやったらよかったな」
そのため、これ以上は面倒なことになりかねないと感じ、別の話題を振る太老。
エリカとリリアナが頑なに反対するから置いてきたが、こんなことなら連れてきてやればよかったと太老は話す。
単純にアテナたちにも日本の温泉を堪能させてやりたいという善意から言っているのだろうが――
「それは止めておいた方がいいかと……どれだけ人に近い姿をしていても、あの方々は神≠ナす。そして、まつろわぬ神と魔王は本来、戦いを避けられない宿命にあります。羅濠教主と対峙すれば、どうなるかは明白。確実に命の奪い合いへと至るでしょう」
同じことはウルスラグナにも言える。
グィネヴィアをおいてきたのも、彼女が標的となる可能性がゼロとは言えないからだ。
羅濠教主の目的や出方が分からない以上、出来るだけ慎重に事を運ぶべきだとアリスは考えていた。
エリカやリリアナも同じ考えなのだろう。だからこそ、アテナたちを連れてくることに反対したのだ。
「うーん……そういうものか? 大袈裟な話じゃなくて?」
「はい、確実に。太老様だから、そんなことが言えるのです」
魔王と呼ばれるだけの実績と力を有していることは間違いないが、太老が普通の魔王と違うことにアリスも薄々とではあるが気付いていた。
神を殺せるだけの力を持ってはいるが、太老からはまつろわぬ神≠ノ対する敵意や戦意が微塵も感じられないからだ。
本来、まつろわぬ神と魔王は互いに引かれ合い、出会えば闘争本能を駆り立てられる関係にある。
戦いを宿命付けられた両者の間に、話し合いによる解決という手段はない。
しかし、太老は違う。太老の身体からは神の気配≠感じるが、根本的に他の魔王とは違う存在だとアリスは感じていた。
普通の魔術師であれば、太老と他のカンピオーネとの違いに気付くことは出来なかっただろう。
アリスが気付くことが出来たのは、彼女がルクレチアやリリアナと同じ魔女の血を引いているからだ。
それも先の二人とは比較にならないほど、強力な霊能力を彼女は有していた。
伊達に『天の位を極めた魔女』と呼ばれていない。
それだけに――
「こんなことを言いたくはありませんが、もう少し自覚をなさってください」
心配して言ってくれているのだろうが、アリスにだけは言われたくないと太老は心の底から思うのだった。
◆
「そうか。まだ部屋に引き籠もっているのか……」
エリカたちからリリアナの様子を聞き、心配そうな表情を浮かべる太老。
夕飯の時間になっても出て来ないことを考えると、相当に重症であることが窺える。
一言、謝罪すべきかと悩む太老に――
「気になるのは分かるけど、お兄ちゃんは何もしない方がいいよ」
かえって問題がややこしくなるから何もするな、と桜花は忠告する。
桜花にそう言われては、何も言い返せずに唸るしかない太老。
原因の一端が自分にあると自覚しているからだ。
桜花の言うように、当事者が説得するのは余計に話が拗れる可能性が高い。
エリカもそう思って、しばらくリリアナと距離を置くことを決めたのだろう。
「でしたら、私が様子を見てきましょうか?」
そう言って、太老と桜花の間に割って入ったのはアリスだった。
リリアナから話を聞くにしても、当事者の太老とエリカは除外される。
恵那はリリアナとの面識が薄く、更には性格的にもこの手の相談相手に向いているとは言えない。
桜花も太老の妹と言うことで、本音を語ってくれない可能性の方が高いだろう。
そう考えると消去法で、このなかではアリスが最も適任と言えなくもないのだが――
「微妙に心配だな」
「うん。アリスお姉ちゃんだし」
「……どう言う意味ですか?」
いろいろと前科があるだけに信用がなかった。
とはいえ、他に良い案がないのも事実だ。
アリスに様子だけでも見てきてもらうかと太老が妥協しかけた、その時だった。
「――ッ! この感覚って」
恵那が一早く何かに気付き、声を上げる。
アリスとエリカも少し遅れて、何かの気配に気付く。
「この気配……まさか、まつろわぬ神? ですが、一体どこから……」
「この方角、まさか――リリィ!」
慌てて走り出すエリカ。食事の手を止め、その後を太老たちも追い掛ける。
風の如き速さで廊下を駆け抜け、真っ直ぐにリリアナの部屋へと駆け込むエリカ。
部屋に足を踏み入れると同時に、エリカが目にしたものは――
「――ッ! エリカ、来るな!」
「リリィ!」
黒く染まった地面に呑まれ、闇の中へと沈んでいくリリアナの姿だった。
……TO BE CONTINUDE
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