ヴァリマールの操縦席で、リィンは空を見上げる。
空は元の色を取り戻し、空間の亀裂から地上に漏れ出ていた〈塩の杭〉も消滅していた。
しかし、
「兄様、これは……」
「ああ、ちょっとやり過ぎてしまったみたいだな」
エリゼの困惑した声を聞き、その原因を知るリィンは困った顔で頬を掻く。
確かにユミルは救われた。しかし山の一部が消失し、アイゼンガルド連峰の一角には灰の大地が広がっていた。
とても隠し通せるような規模ではない。帝都から調査隊が派遣されてくるのも時間の問題だろう。とはいえ、調べたところで原因を特定できるようなものでもないので、一先ずリィンは問題を先送りすることにした。
「ヴァリマール。動けそうか?」
「戦闘ハ無理ダガ、コノ場カラ移動スル程度ナラ問題ハナイ」
まずはこの場から離れるべきだとリィンは判断する。山の異変に気付いた郷の人々が様子を見に来ないとも限らない。ヴァリマールの姿を人目に触れさせることだけは避けなくてはならないと考えた。
エリゼもその判断には納得した様子で首を縦に振る。
「この辺りで騎神を隠せるような場所に心当たりはないか?」
「それでしたら――」
リィンが適当な場所をエリゼに尋ねた、その時だった。
ブワッと灰が風に巻き上げられ宙を舞ったかと思うと、谷底から巨大な影が飛び出してきた。
咄嗟に影の姿を追って、空を見上げるリィン。そして目にする。
「魔煌兵!? こいつ、まだ動いて――」
それは遺跡の下敷きになったはずの魔煌兵だった。
だが、ヴァリマールと同様にリィンの力も底を尽きかけていた。
(クッ――せめて、エリゼだけでも!)
少しでも時間を稼いで、エリゼだけでも逃がすことをリィンは考えるが、
「なッ!?」
魔煌兵の胸を一本の槍が貫いた。
目を瞠るリィン。次の瞬間、魔煌兵の身体が頭から股に掛けて半分に裂ける。
崩れ落ちる魔煌兵の後ろから姿を見せたのは、巨大な戦斧を手にした騎神だった。
その緋色の鎧を纏った騎神の姿をリィンが見忘れるはずがない。
「〈緋の騎神〉……」
誰が動かしているのか?
どうしてテスタ・ロッサが自分を助けたのか?
困惑の表情を浮かべるリィンに、目の前の騎神から声が掛けられる。
「リィンさん、ご無事ですか?」
「その声……まさか、エマか!?」
「シャーリィもいるよ!」
予想を遙かに超えた事態に、目を丸くして驚くリィン。
テスタ・ロッサから聞こえてきた声。それは間違いなくエマとシャーリィのものだった。
◆
あれからエマとシャーリィの二人と合流したリィンは騎神をユミル近郊の森に隠し、エリゼと共にシュバルツァー家の屋敷へと帰ってきていた。
食堂でエリゼの淹れた紅茶をご馳走になりながら、シャーリィに詳しい話を聞くリィン。
「〈緋の騎神〉の起動者になった?」
「うん」
「どうして、そんなことに……」
過程を無視したシャーリィの話に、リィンは意味が分からないと言った表情で溜め息を漏らす。
そんなリィンの疑問に、エマは苦笑しながら答える。
「恐らくリィンさんのグングニルで浄化されたことが原因ではないかと」
そもそも〈緋の騎神〉は最初から呪われていたわけではない。話は現在から九百年程前、当時〈緋の騎神〉の起動者だった時の皇帝が、帝都を死の都へと変えた暗黒竜を調伏したことに始まる。その時に浴びた竜の返り血が、後に〈紅き終焉の魔王〉を目覚めさせる穢れとなったのだ。しかしリィンがグングニルによって、その呪いごと〈緋の騎神〉を浄化してしまった。
詳しい理屈は分からないが、ようはその影響で〈緋の騎神〉は呪われる前の状態にリセットされているのだとリィンはエマの話で解釈した。
「それに彼女、以前に〈緋の騎神〉と単独で戦って良い勝負をしていましたから、それで認められたのではないかと……」
「ああ……」
そんなこともあったな、と心の中でリィンは呟く。ようは騎神と単独で戦ったことが、起動者になるために必要な試練として認められたということだ。
しかし、それはそれで頭の痛い問題だった。ずっと封印されていたとはいえ、〈緋の騎神〉はアルノール皇家の所有物だ。
しかもアルノール皇家の血筋でないと動かせないと言われているものをシャーリィが動かしたとしれれば、面倒な騒ぎになることは目に見えている。
「シャーリィ。それ元のところへ帰してこい」
「うん、無理」
笑顔でそう答えるシャーリィに、そりゃそうだよなとリィンは溜め息を漏らす。
シャーリィからすれば新しい玩具を手に入れたような感覚なのだろうが、帰ったらアルフィンにどう言い訳するかとリィンは頭を悩ませる。しかしその後、怒るに怒れない理由をエマから聞かされ、リィンはこの問題を棚上げすることに決めた。
というのも、時空の歪みに呑み込まれた二人が無事だったのは、シャーリィが咄嗟に〈緋の騎神〉の起動に成功したからだと聞かされたからだ。
それから二人で次元の狭間を彷徨っていたらしい。しかし、そんな話を聞くと疑問が湧く。
「よくこっちの世界へ来られたな」
「うん。最初はどうなることかと思ったんだけど、大きなワンコに遭ってね」
「……ワンコ?」
どうして、ここで犬の話がでてくるのかとリィンは首を傾げる。
「恐らくは聖獣だと思います。巨大な狼の姿をしていました」
「うん、その聖獣っていうの? なんか見覚えがある気がするんだけど、とにかくそのワンコを追って亀裂へ飛び込んだらリィンを見つけたってわけ」
エマとシャーリィの話から、ある犬もとい狼がリィンの頭を過ぎる。
クロスベル地方で語り継がれている巨大な狼の姿をした聖獣のことだ。だが、確証はない。
その推測が当たっていたとしても、そもそも次元の狭間で何をしていたのかと疑問は残る。
そんな風にリィンが考えごとに耽っていると、エリゼが静々と手を上げながら先程から気になっていた疑問を口にした。
「あの……兄様、そちらの方はエマさんですよね?」
「ああ……エリゼの知ってるエマじゃなくて、俺と同じ世界からきたエマだけどな」
エリゼの質問にどう答えたものかと一瞬考えるリィンだったが、もう自分のことを話してしまった以上はエマのことを隠しても無駄だろうと思い、真実を告げる。それにエリゼの様子からも、この世界のエマと面識があることが窺えた。
リィンの話から目の前のエマが自分の知っているエマでないことを確認したエリゼは丁寧に頭を下げ、自己紹介をする。
「危ないところを助けて頂き、ありがとうございました。エリゼ・シュバルツァーです」
「いえ、こちらこそ。エマ・ミルスティンです」
「シャーリィ・オルランドだよ」
挨拶も対照的なエマとシャーリィを見て、エリゼは目を丸くしつつ苦笑を漏らす。
そんな三人を横目に自己紹介を終えたところで、リィンは少し言葉を溜めて本題に入った。
「これからどうしたもんかな?」
「ここってシャーリィたちの知ってる世界じゃないんだよね?」
「ああ……所謂、並行世界とか言う奴だな」
状況を再確認するリィンとシャーリィ。
並行世界という定義が正しいかは分からないが、リィンは便宜上そう呼ぶことにした。
「エマの魔術でスパッとどうにかならないの?」
「さすがにそれは……」
首を傾げながら尋ねるシャーリィに、エマは難しい表情を浮かべ答える。
理論上は不可能と言わないまでも、世界の境界を越えるには普通の転位魔術では不可能だ。
それこそ古の時代、〈空の女神〉が人々に授けたとされる至宝の力でも借りなければ難しい。自分は勿論のことヴィータでも無理だろうとエマは思う。
「心配はいらないよ」
「――ッ!?」
そんな時だった。少女の声が屋敷にいる全員の頭に響いたかと思えば、世界から色が消える。
何かに気付いた様子で、壁の時計に目を向けるエマ。そして目を瞠った。
ピクリとも動かない時計の針。それだけではない。窓の外へと目を向けると、重みで屋根の上から滑り落ちた雪の塊が宙で停止していた。
まるで世界から、この屋敷だけが切り離されたように周囲は静まり返っていた。
「エマ、これは……」
「はい。私たち以外の時間が止まっているみたいですね。ですが……」
そんな真似は魔術でも難しい。いや、人間には不可能と言ってもいいだろう。
だとすれば、これを為した人物は――そんなエマの疑問に答えるように元凶は姿を現す。
青白い光を放ちながら部屋の中央に現れる人影。それは真っ白な衣装に身を包んだ蒼い髪の少女だった。
宙に浮いたまま少女はリィンたちを見下ろし、ほんの少し寂しげな笑みを浮かべる。
「キーア……」
以前、自身のことをキーアと名乗った少女。彼女が頭に語りかけてきた少女だと、リィンにはすぐに分かった。
零の巫女。クロイス家の妄執が生み出した至宝の力を身に宿す少女。そして――
キーアを見て、シャーリィは何かを思い出したかのように声を上げる。
「あれ? ランディ兄のとこにいた子だよね?」
「うん……久し振りだね。お姉ちゃん」
二人は面識があった。出会ったのは、すべてが始まった場所――クロスベルだ。
どこか懐かしむように、キーアはシャーリィに挨拶を返す。そんな緊張感のないやり取りに呆れ、すっかり毒気を抜かれた様子でリィンは先程の言葉の意味をキーアに尋ねた。
「いろいろと聞きたいことはあるが、心配はいらないってどういう意味だ?」
「そのままの意味。リィンたちは元の世界へ帰れるよ」
「……お前がどうにかするってことか?」
「間違ってはいないけど、案内役は別にいるから少し違うかな?」
要領を得ないキーアの説明に、リィンは訝しげな表情を浮かべる。
まともに答える気がないと言うよりは、本人も詳しく説明できるほどの知識がないと言った様子だった。感覚で話をしていると言う意味では、シャーリィにある意味で似ているかもしれないとリィンは考える。だとするなら、これ以上は話を聞いたところで無駄だ。
だからリィンは、ずっと気になっていた別のことをキーアに尋ねる。それはある意味で核心に迫る質問だった。
「お前は本当にキーア≠ネのか?」
「そうだよ。私はキーア。嘗て〈零の巫女〉と呼ばれた存在。ただ――」
リインの質問に少し逡巡した様子で言葉を溜め、キーアは答える。
「リィンの知っているキーアとも、シャーリィが知っているキーアとも私は違う。私はキーアの願いが生んだ存在」
「……キーアの願いだと?」
キーアの願い。リィンは前世の知識から、その願いの内容に心当たりがあった。それだけに複雑な表情を見せる。
「そう、大切な人を助けるためにキーアは因果に干渉し、歴史の改変を行った。その結果、世界は枝分かれするように分岐し――私が生まれた」
やはりそういうことか、とリィンは納得する。
因果に干渉し、歴史を改変するということは、すべてをなかったことにするということだ。
なら、なかったことにされた世界はどうなるのか? その答えが目の前にあった。
「それじゃあ、あなたは……」
「そう、私はキーアの願いが生んだ〈碧き虚ろなる神〉」
エマもリィンと同じことに気付いた様子でキーアに尋ねる。そして淡々とした様でエマの質問に答えるキーア。その答えにより、リィンとエマは確信する。
キーアの願いにより、なかったことにされた歴史。その矛盾が生んだ存在。それが彼女なのだと――
「お前が俺の知っているキーアじゃないということは理解した。なら、お前の目的はなんだ?」
「何も……私はただの観測者。世界の修正力から、改変された歴史を見守る存在に過ぎない」
「世界の修正力?」
「うん。言ったよね。リィンがキーアを知っているように、キーアもリィンを知っているって」
キーアの説明に何かに気付いた様子でリィンは目を瞠る。それは薄々感じていた可能性の一つだった。
どこか自分を誤魔化すように「まさか」と呟くリィンに、キーアは頷きながら真実を伝える。
「そうだよ。世界が歪みを正すために呼んだ存在。それがあなただよ。リィン」
自分が転生した理由を聞かされ、リィンは複雑な表情を浮かべる。
キーアの秘密を知ることが、まさか自分の秘密にまで繋がっているとは思ってもいなかった。
だとすれば、すべての原因はキーアにあるということだ。そして――
「ええっと……ようするにキーアを殺すためにリィンが呼ばれたってこと?」
話の内容を完全には理解していないはずなのに、シャーリィは核心を突いた質問をする。
それはリィンも考えはしたが、敢えて口にはださなかったことだった。
「で? リィンはどうするの?」
「どうするも何も……そんなの俺の知ったことじゃないしな」
シャーリィの直球な問いに、リィンは面倒臭そうに頭を掻きながら答える。
世界が歪みを正すために転生させたと言われても、ピンと来ないというのがリィンの本音だった。
「……リィンは、それでいいの?」
「良いも悪いもないだろ? お前が敵に回るって言うなら話は別だが、そんなつもりもないんだろ?」
敵として立ち塞がるなら仕方ないと思う部分もあるが、言ってみればそれだけだ。
恨み言の一つでも言われる覚悟をしていたのだろう。困惑した表情を見せるキーアに、リィンは肩をすくめながら尋ねる。
「そんなことより俺たちは本当に帰れるのか?」
「うん、帰れるよ。キーアは、そのために来たんだから――」
それだけ聞ければ十分だった。感謝こそすれ、キーアをどうにかするつもりはリィンにはなかった。
原因は確かにキーアの願いにあるのかもしれないが、それはあくまで切っ掛けに過ぎない。リィンが転生することをキーアが願ったわけではないはずだ。
ましてや、リィンは自分のことを不幸だと思ったことはない。そのことでキーアを恨んでいるかと言うと、そんなことはなかった。
「エリゼ。騒がせてしまって悪かったな」
「いえ……行ってしまわれるんですね」
「ああ、あっちにはやり残したことがある。それに帰りを待つ奴等もいるしな」
寂しげな表情を浮かべるエリゼに、リィンはそう言いながら苦笑する。
エリゼのことが気にならないと言えば嘘になるが、あちらの世界にはやり残したことがある。帰りを待つ家族がいる。
それに、あの時見せてくれた覚悟と強さがあれば、彼女なら大丈夫だろうとリィンは思っていた。
「大丈夫だよ。この世界のリィンも、ちゃんと生きてるから」
「え……」
キーアに兄が生きていると言われて、エリゼは放心する。
心のどこかで兄様は死んでいるのではないか? そんな不安にも駆られていたのだ。
キーアの言っていることが本当だとは限らない。でも、微かな希望がエリゼのなかで息づく。
そんなエリゼの頭を優しく撫で、リィンは倉庫で見つけた刀とオーブメントをエリゼに手渡した。
「持ち主に返してやってくれ。エリゼ、お前の手でな」
そう言って、リィンたちはエリゼの前から姿を消した。
この三ヶ月後、エリゼは兄を探すため、アイゼンガルド連峰で起きた異変を調査するため屋敷を尋ね来たトヴァルと一緒に旅へでる。
後に〈槍の聖女〉の再来と呼ばれ、大陸全土で五人目のS級遊撃士となる少女が産声を上げた時だった。
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