艦長室を後にしたエステルとヨシュアは、扉の前に控えていた団員の案内で格納庫へ向かっていた。騎神を見学に行ったというレンを迎えに行くためだ。
 前を歩く団員に注意を払いながら、ヨシュアは小声で隣を歩くエステルに声を掛ける。

「エステル。さっきのことだけど、気を付けた方がいい」
「……どういうこと?」
「完全に目を付けられたってことだよ。今回はあっちが折れてくれたけど……」

 今回はリィンに譲ってもらっただけだとヨシュアは感じていた。その気になれば、エステルの意見など無視して強引に事を為すだけの力があるのに、そうしなかったためだ。
 共和国軍を撤退に追い込んだ騎神の力を用いれば、クロスベルを制圧することなど造作もないはずだ。だが、それをすれば街に被害がでる。民間人にも多くの死傷者がでるだろう。だからヨシュアは遊撃士として、リィンの提案を呑むしかなかった。
 エステルがいなかったら、あのまま条件を呑まされていた可能性が高い。しかし、こんな幸運は二度と続かないとヨシュアは考えていた。

「二度も同じ手が通用する相手じゃない。彼の目は本気だった」

 戦場で敵として会えば、顔見知りだからと手加減をしてくれる相手には思えない。
 エステルを睨んだ時の恐ろしいまでの冷たい目を思い出すだけで、ヨシュアは〈漆黒の牙〉と呼ばれていた頃の感覚が蘇ってくるかのような錯覚を覚える。

「わかってる。でも――」

 そんなヨシュアに対し、ギュッと拳を握り締めながらエステルは答える。普段の彼女であれば、どんな相手とでも分かり合うことを諦めたりはしない。しかしリィンだけは、根本的に自分とは相容れない存在であるとエステルは感じていた。
 ヨシュアの言うように戦場で敵として出会えば、リィンは一切の慈悲なく命を奪いに来るだろう。それでも――

「あたしは遊撃士よ。父さんと母さんの娘なんだから」

 百日戦役で命を落とした母の姿が、エステルの頭を過ぎる。
 話し合えば、きっと皆わかってくれるなんて甘いことはエステルも考えてはいない。リィンの言うように、話の通じない相手がいることは理解している。それでも最初から敵と決めつけ、相手と向き合う努力を諦めることはしたくなかった。
 だから譲れない。例え、敵わないとわかっていても、エステルは自分の信念を曲げるつもりはなかった。

「……分かった。でも、優先順位を間違えないで」
「うん。遊撃士の理念。あたしたちにしか出来ないこと、だよね」
「それがわかっているなら大丈夫だ」

 エステルが目的を見失っているわけではないとわかり、ヨシュアは安堵する。
 リィンと争うことが本来の目的ではない。遊撃士協会は地域の平和と民間人の保護を目的とした組織だ。エステルやヨシュアの目的も、クロスベル政府によって不当に捕らえられている人々を解放することにあった。
 現在もクロイス家の治政に反発する政治家や、その家族が政府に捕らえられており、クロスベルで活動をしていたギルドの関係者も逃げ遅れた者から拘束され、拘置所に収容されると言った事態が起きていた。
 この件に関して当然ギルドは抗議をしているが、逆にクロスベルはオルキスタワー襲撃事件のことを持ち出し、遊撃士がテロリストに加担して大統領の暗殺を謀ったとして各国にギルドへの制裁を呼び掛けていた。そのことを思えば、少なくとも〈暁の旅団〉とギルドの間に相互不干渉の約束を取り付けることが出来たのは大きな収穫だったとヨシュアは考える。いまは彼等と争っている場合ではない。クロスベルの問題をこのまま放置して、より大きな争いへと事態が発展していくことをヨシュアは恐れていた。
 実際リィンは帝国との密約を否定しなかった。クロスベルが帝国に併合されるようなことになれば、共和国が黙って見ているとは思えない。最悪、クロスベルの問題が二大国の戦争へと発展していく可能性すらあった。

(どこかで落としどころを見つけないと大変なことになる。リィン・クラウゼル……彼は何を考えている? 猟兵なら戦争を望んでいると考えるのが自然だけど――)

 戦争を生業とする猟兵であれば、戦争を望んでいると考えるのが自然だが、何かがおかしいとヨシュアは感じていた。しかし、幾ら考えても答えはでない。
 まさか、この件にエリィが関与しているとは、この時のヨシュアは想像もしていなかった。


  ◆


「嫌ッ! レンはここに残るって決めたんだから!? エステル一人で帰ればいいでしょ!」
「我が儘を言わないの! レン一人を置いて帰れるわけがないでしょ!?」

 船に残ると我が儘を言うレンを連れて帰ろうと、エステルは説得を試みていた。
 しかし、まったく話に応じないレンに痺れを切らし、強硬手段に打って出るエステル。
 緋の騎神の足にしがみつくレンを、力任せにエステルは引っ張る。

「あらあら、困りましたね」

 そんな二人の様子を、シャロンは頬に手を当てながら見守っていた。
 とはいえ、その表情を見れば困っているというよりは、状況を楽しんでいると言った方が正解かもしれない。
 その隣では、ヨシュアは厳しい視線をシャロンに向けていた。

「……〈死線〉のクルーガー。執行者のあなたが、どうしてこの船に?」
「さて、なんのことでしょうか? 私はただのメイドですよ」

 その反応から、まともに答える気はないのだとヨシュアは判断する。
 破壊工作や穏行術を得意とするヨシュアにして、彼女ほど暗殺と諜報活動に長けた人物はいないと言わしめる女性。
 シャロン・クルーガー。〈死線〉の二つ名を持つ執行者の一人だ。
 既に結社の人間ではないとはいえ、ヨシュアが彼女の顔を見忘れるはずがなかった。どうして彼女がカレイジャスに乗っているのかと、ヨシュアが警戒するのも当然だ。執行者は盟主に行動の自由を認められているとはいえ、この状況で猟兵の船にシャロンが乗っていることを偶然と片付けるには無理があった。

「おいおい、なんの騒ぎだ」
「あら? 目が覚めたの?」
「たくっ、上まで声が響いてたぞ。一体なにがあった?」
「団長の連れてきた子が船に残るって騒いで、引き取りにきた保護者と揉めてるだけよ」
「なんだ、そりゃ……」

 まだ半分寝ぼけた様子で格納庫に姿を見せたヴァルカンに、スカーレットは肩をすくめながら状況を説明する。
 しかし話を聞いても、ヴァルカンにはさっぱり事情が呑み込めなかった。

「なんで、そんな我が儘を言うのよ!? 理由を話しなさい!」
「……エステルには関係ないことよ」
「あんですって!? 関係無くないわよ! あたしたち家族でしょ!?」
「うっ……そ、それでも関係ないの! とにかくレンのことは放って置いてよ!」

 エステルの剣幕に気圧されながらも、レンは負けじと抵抗を続ける。
 余りに頑ななレンを見て、むうと唸り声を漏らすエステル。確かに気侭な性格ではあるが、こんな風に我が儘を口にする子ではない。レンが意固地になっているのには、〈パテル=マテル〉のことが理由にあるとエステルは察していた。
 だからと言って、ここは仮にも猟兵団の船だ。レン一人を置いて帰れるはずもない。特にヨシュアに対する冷たい態度やクロスベルの一件もあって、エステルはリィンのことを快く思っていなかった。いや、どちらかと言えば、リィンの考えや生き方に抵抗を覚えていると言った方が正しい。目的のためなら平然と人を殺すと宣言するリィンのやり方をエステルは認められない。ましてやレンの家族になる。彼女を幸せにすると誓ったのに、そんな人間の近くに彼女を置いて帰るような真似が出来るはずもなかった。

「とにかく帰るわよ。残るなんて我が儘を言っても迷惑でしょ?」
「まあ、別にいいんじゃない?」
「ほら――って、ええ!?」

 エステルとレンの間に、自然と割って入るシャーリィ。
 いつの間にと言った顔で驚くエステルに向かって、シャーリィは思ったことを口にする。

「足手纏いになるようならともかく、結構やるみたいだしね。その子、エステルより強いんじゃない?」
「うぐっ……それは……」
「当然よ。レンは天才なんだから」

 自信ありげに胸を張るレンを見て、「この子は……」とエステルは歯軋りする。エステルも遊撃士に成り立ての頃と比べれば随分と腕を上げた自信はあるが、やはり元執行者のヨシュアやレンと比べれば実力的に見劣りすることは自覚していた。
 A級遊撃士に推薦されておかしくないだけの実績がありながらもB級に留まっているのは、やはり実力が伴っていないところが大きい。リベールの異変に関してもエステルの力だけで解決したとは言えないため、最低でもA級に昇格できるだけの功績があるのにB級への昇格に留められたのはそれが主な理由だ。
 それに遊撃士に求められるのは強さだけではない。事件を解決に導くために必要な知識と洞察力、何事にも動じない冷静さが遊撃士には必要不可欠だ。そういう意味でエステルは精神的に未熟であり経験不足とギルドに見做され、ヨシュアと二人でようやく一人前という評価を得ていた。
 そう考えると、シャーリィの指摘はある意味で的を射ていた。遊撃士と違い、猟兵に一番求められるのは強さだ。どれだけ功績があろうと実力が伴わなければ評価はされない。逆に言えば、遊撃士と違って年齢による資格制限などは存在しないし、実力さえあれば子供でも重用される。それが猟兵の世界だ。
 エステルが間違っていると言う訳ではないが、裏の世界の常識からすればレンを子供扱いするのは間違っている。しかし、だからと言ってエステルは引き下がるつもりはなかった。

「でもダメよ! あんな奴の傍にレンを置いておけるもんですかッ!」
「あんな奴って、リィンのこと?」
「そうよ! ううっ……思いだしただけでも腹が立つ!」
「アハハッ、エステルってやっぱり面白いよね」
「……何がおかしいのよ?」

 猟兵の船だからという理由より先に、リィンが気に食わないからレンを傍に置いておけないというエステルの主張は、シャーリィからすれば新鮮で面白い話だった。
 そんななか腹を抱えて笑うシャーリィを見て、呆れた表情を浮かべながらも、リィンの傍にレンを置いておけないというエステルの主張をアリサは肯定する。

「でも納得の行く理由だわ。あの女誑しは、子供への悪影響しかないもの」
「えっと、あなたは……?」
「アリサ・ラインフォルト。この船の整備を担当している技師よ」

 突然、会話に割って入ってきたアリサを警戒するエステルだったが、すぐにここが何処かを思いだして慌てて頭を下げる。

「あ、あたしは遊撃士のエステル・ブライトです。で、こっちが――」
「レンちゃんでしょ? うん、報告で聞いてた通り、可愛いらしい子よね」

 ヴァルカンと同じく騒ぎを聞きつけてやってきたアリサのもとにも、エステルたちやレンの情報は伝わっていた。
 正直なところリィンが女の子を拾ってくることなど、いまに始まったことではない。驚きよりも、またかと言った呆れの方がアリサは大きかった。
 いや、これは他の船員に聞いても同じ反応が返ってくるだろう。

「今日のところは大人しく保護者の人と帰りなさい。また遊びにきていいから」
「でも……」

 シャーリィという味方が現れたかと思えば、アリサに今日のところは帰るように促され、レンは戸惑いの表情を浮かべながら、まだ未練があると言った様子で〈緋の騎神〉を見上げる。レンがこれほど騎神に拘るのは、アルティナと同じような理由からだった。
 レンの家族として〈パテル=マテル〉は彼女に寄り添う存在だった。離れていても〈パテル=マテル〉との繋がりを感じることが出来たため、レンは恐れや不安を抱くことなく心の平穏を保つことが出来ていたのだ。
 傍に〈パテル=マテル〉がいてくれたから、いつでも強いレンでいることが出来た。しかし〈パテル=マテル〉が破壊されたことで、レンは家族を――自身の半身とも言うべき存在を失った。そのため心にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われ、自分自身でも気付かない内に酷い孤独感に苛まれるようになった。それはエステルやヨシュアという新たな家族を得ても満たされることはなかった。
 以前「レンは強いね」とヨシュアが言ってくれたことがある。そう、レンは強い。どんな環境でも適応し、ありとあらゆることを短い時間で学び、吸収する天才的な頭脳と感覚を兼ね備えている。
 レンは強い。だから哀しいことなんてない。寂しいなんて思わない。レンが心を強く持ち続ける限り、誰もがレンを愛(必要と)してくれるのだから――
 でも、このままでは強いレンではなく、ただ皆に守られる存在に過ぎなかった弱い頃のレンに戻ってしまう。そうなったら、また家族を失ってしまうかもしれない。そんな不安がレンの心を支配していた。
 本当はわかっているのだ。エステルはこれまでに出会ったどんな人たちと違う。彼女はきっとレンが弱くても捨てたりはしない。そう頭では理解していても、レンは弱い自分を認めることが出来なかった。
 そんなレンの気持ちを知ってか知らずか、シャーリィは少し考える素振りをして、不安げな表情を浮かべるレンに手を差し伸べる。

「そんなに気になるなら乗ってみる?」

 それはレンにとっても思いもよらない誘惑だった。

「……大丈夫なの? 騎神って適性がないと乗れないんじゃ?」
「んー、たぶん適性ならあると思うんだよね」

 シャーリィが言うのなら、レンには適性があるのかもしれないとアリサは考える。
 本来であれば反対すべきなのだろうが、レンの様子がおかしいことはアリサも察していた。

(まあ、仕方ないか。どちらにせよ、動かすことは出来ないだろうし……)

 悩んだ末、それでレンの気が済むのであれば、とアリサは納得した。
 しかし、何がなんでも止めておくべきだったと、後にアリサは後悔することになる。



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