クロスベル市とエルム湖を挟んだ対岸に、古くから保養地として利用される場所があった。
ミシュラム。貴族や資産家の別荘の他、最近では大規模なテーマパークがオープンし、高級ブティックや一流ホテルが並ぶアーケードなど、観光客を呼び込むためのリゾート開発が積極的に進められている地区だ。その別荘地の一角に身を潜めている人物がいた。
ヘンリー・マクダエル。エリィの祖父にしてクロスベルを代表する政治家の一人だ。だが現在はオルキスタワー襲撃に関与した嫌疑を掛けられ、逃亡生活を強いられていた。
しかし指名手配中の身とはいえ、彼が政治の世界に身を置き、築き上げてきた繋がりは侮れるものではない。
名だたる資産家を始め、政府や軍の中枢にも彼と関係の深い支援者が大勢おり、そうした人々の協力を得て政府の追跡を逃れていた。
「どう? 様子は?」
ホテルの一室でカーテン越しに身を隠しながら、ヘンリーの潜伏する屋敷を監視する若い男に声を掛ける女性――クロスベルタイムズの女性記者、グレイス・リン。彼女もヘンリーを影ながら支援する協力者の一人だった。
正確にはヘンリーに限らずロイドたちレジスタンスにも多くの情報を提供し、その活動を助けていた。彼等に協力しているのは徹底した管理社会を築くため、マスコミまで監視下に置こうとする政府のやり方に納得が行かないためだ。記者として自分に出来るやり方で、人々に真実を伝えていく仕事にグレイスは誇りを持っていた。
しかし最近は政府の監視が厳しさを増していることもあって、彼女も行動を思うように取れずにいた。そんななかで起こったのが今回の事件だ。
ヘンリーが潜伏している屋敷は現在、国防軍の兵士たちに取り囲まれていた。まだ大きな衝突は起きていない様子だが、それも時間の問題と言えるだろう。
「昨日より人数が増えてます。でも、なんですぐに踏み込まないんですかね?」
若い男――クロスベルタイムズの記者レインズは、カーテン越しに監視を続けながらグレイスに尋ねる。
「協力者を炙り出すためでしょうね」
「え? それがわかってて彼等に連絡したんですか?」
思いもしなかったグレイスの答えに、レインズは驚いた様子を見せる。
このままではヘンリーが捕まるのは時間の問題だ。だから特務支援課に助けを求めたのだとレインズは思っていたのだ。
しかし、これが罠なら助けにやってきたロイドたちも危険と言うことになる。
彼等まで捕まってしまえば、それこそ政府の思う壺だ。
「何もしなくても彼等なら助けに行くわよ。それに――」
どちらにせよ、ロイドたちの耳に入るのは時間の問題だとグレイスは考えていた。
知れば彼等は確実にヘンリーを助けようと動くはずだ。そこでグレイスは危険を承知で彼等に情報を渡すことにした。
罠であることを事前に知っていれば、まだ打つ手はあると考えたからだ。それに――
「強力な助っ人を呼んであるから心配はいらないわ」
「……助っ人ですか?」
助っ人と聞いて、レインズは訝しげな表情を浮かべる。
グレイスの言い方から察するに、ロイドたちのことではないだろうと察することが出来た。
「あなたにいろいろとツテがあるように、あたしにも独自のツテがあるのよ」
しかし追及する前に痛いところを突かれ、誤魔化すように笑うレインズ。そんな彼の隣に立ち、グレイスは窓から見える景色を眺める。
レインズの背後関係について、グレイスはある程度の見当を付けていた。助っ人の件を彼に相談しなかったのは、彼の本業≠気にしてのことだ。
一年近く一緒に仕事をしてきた相棒だ。仕事の仲間としてはレインズのことをそれなりに信用してはいるが、だからと言って隠し事をしている相手に全幅の信頼を置くほどグレイスはお人好しではなかった。それにグレイスにも少しは迷いがあったのだ。彼女、いや彼女たち≠ノ助けを求めると言うことは、ロイドたちに対する裏切りにもなりかねない。それでも最終的に手を結ぶことにしたのは、記者の勘と欲求に従ったためだ。
(ロイドくんたちには悪いけど、あたしは報道記者。どちらの味方と言う訳でもない)
上衣のポケットに手を当てるグレイス。そこには彼女――リーシャ・マオから手渡されたデータチップが入っていた。
リィンが密かにリーシャに託し、グレイスに渡すように頼んでおいたものだ。そう、グレイスが取り引きをした相手とは、エマとリーシャのことだった。
最初に取り引きを持ち掛けてきたのはリーシャの方からだった。これでもクロスベルタイムズに所属する記者だ。〈暁の旅団〉の噂はグレイスも耳にしている。当然、団のメンバーにリーシャ・マオの名前があることも彼女は知っていた。幾ら顔見知りが相手でも、普通なら危険とわかっていて猟兵と取り引きをする記者は少ない。しかし良い意味でも悪い意味でも、グレイスは他の記者と違っていた。それに憑物が落ちたかのように以前とは違う雰囲気を纏ったリーシャを見て、彼女の心を射止めた青年にグレイスは興味を持ったのだ。
リィン・クラウゼル。帝国の内戦を終結に導いた立役者にして、台風の目と称される青年。彼がここクロスベルにおいても、現状を打破する鍵を握っているとグレイスは睨んでいた。その証拠が、このデータチップの中にある。少なくとも取り引きの相手としては、これ以上ないくらい魅力的な相手だ。
リィンがグレイスを取り引き相手に選んだのも、そうした彼女の性格を見抜いてのことでもあった。彼女が権力に屈しない強さを持った本物の記者なら、この話に乗らないはずがないと考えたからだ。
利用されていることにはグレイスも気付いていた。それでも、これはチャンスだと考える。
彼等を見ていれば、きっと真相≠ノ近付ける。記者としての勘が、そう囁いていた。
◆
「――そう、ありがとう。この御礼は必ず。お兄さん≠ノもよろしく伝えてください」
受話器を置くと眼鏡の女性はフウと息を吐きながら、背もたれに身体を預ける。
彼女の名前はソーニャ・ベルツ。身に付けている白い制服からも分かるように、クロスベルの国防軍に所属する軍人だ。現在はここベルガード門を預かる司令官の任についていた。
本来であれば、オルキスタワー襲撃事件の件でロイドたちの行動を見過ごし、市内に入れた責任を取らされていても不思議ではなかったが処分を免れていた。
というのも、アリオス・マクレインが軍を脱退して姿を消したことで、兵たちの間で彼を国防長官に任命した政府に対する不信感が大きくなっていたからだ。
そんななかで人望の厚いソーニャを更迭させれば兵たちの反発を招き、最悪の場合は組織を割る結果に繋がりかねない。それに彼女の代わりを務められる人材がいないことなどを理由に処分は見送られていた。
(状況から察するに〈暁の旅団〉がクロスベル入りしたことは確実。彼等の狙いはやはりマクダエル議長と見て、間違いないでしょうね)
実のところヘンリー・マクダエルの情報を流したのはソーニャだった。
正確にはクロスベルタイムズの記者レインズに相談したのだ。彼もそうだが、彼の兄がリベールに本社を置く民間調査会社『R&Aリサーチ』に所属する諜報員であることを知ってのことだった。
何故そのような真似をしたかと言えば、政府がヘンリー・マクダエルを餌にロイドたちを誘き出し、反政府勢力を一網打尽にする計画を企てていることを事前に察知したからだ。しかしそれを阻止する力は、いまの彼女にはなかった。だからこそ危険を承知でヘンリーを逃がすために外部へ協力を求めたのだ。
レインズから得た情報から、グレイスが取り引きを交わしたという相手が〈暁の旅団〉の関係者であるとソーニャは確信する。つい先日『王都から〈暁の旅団〉のメンバーが姿を消した』という未確認の情報も入っていたからだ。
まさか〈暁の旅団〉が釣れるとは思っていなかったが、帝国との関係やクロスベルとの因縁を考えれば、彼等が出張ってきた事情も分からなくはない。
通商会議までは大人しくしているものと考え、彼等の行動力を甘く見ていたというのが正直なところだった。
(正直、彼等がでてくるのは予想外だわ。これでは、計画を見直す必要がある)
問題はこれからのことだ。余り被害を大きくしないように立ち回りたいが、ソーニャは表立って動くことが出来ない。処分保留中と言うこともあり、権限を制限されていることもあって動かせる兵の数も限られていた。だからこそ外部の協力者に頼らざるを得なかったという事情が彼女にはある。
本来であれば、ヘンリーの逃亡先にはリベールを考えていたのだ。そのための準備も進めていた。その矢先に〈暁の旅団〉がグレイスに接触したとの情報だ。彼等がでてきた以上、計画を練り直す必要があった。
ましてや被害をゼロに抑えることは事実上不可能と言って良いだろう。
彼等は猟兵だ。目的のために敵を殺すことを躊躇するとはソーニャには思えなかった。
「あれこもこれもと考えるのは欲張りすぎね……」
欲を言えば余り犠牲をだしたくないが、それが不可能なことはソーニャにもわかっていた。
しかし、ここで手を打っておかなければ、より多くの犠牲をだすことになるとソーニャは考えていた。だからレインズに相談をしたのだ。
つい先日も共和国の侵攻があったばかりだ。騎神の活躍で事なきを得たとはいえ、先のような幸運がいつまでも続くと考えるほどソーニャは楽観的ではなかった。ましてや〈碧の大樹〉という不確かなものの力をあてにするようでは軍人は務まらない。
「……いえ、私も彼等のことを言えないわね」
政府や〈暁の旅団〉のことを非難する資格は自分にはないと、ソーニャは自虐的な笑みを見せる。
事情があるとは言っても軍の情報をリークし、ヘンリーを逃がすために外部へ協力を求めるなど規律を重んじる軍人がすべき行為ではない。彼女は自分の犯した罪から逃れるつもりはなかった。
しかし、まだやるべきことがある。罪を償うのは、それからだ。
ソーニャは覚悟を決め、通信機に手を掛ける。
「至急、タングラム門のダグラス副司令に繋いで頂戴」
例え反逆者の汚名を被ることになったとしても、この地に希望を残すために――
自分に出来ることを考え、ソーニャは行動を開始した。
◆
「……厄介だな。どうやら連中は一人も逃がす気はないようだ」
ガッシリとした体格を包み込む紺色のスーツ。そして眼鏡の奧に潜む鋭い眼で、窓から外の様子を観察する男。彼の名はアレックス・ダドリー。クロスベル警察に所属する捜査官だ。と言っても現在は指名手配中で役職の頭には『元』が付く。
そんなダドリーの隣でタバコに火を付け、一服する中年の男性。セルゲイ・ロウ。彼も元警察官でロイドたちの上司をしていたこともある人物だ。ダドリーと共にオルキスタワー襲撃事件に関与した容疑を掛けられ、指名手配中の身の上だった。
一服を終え、携帯の灰皿に吸い終わったタバコを捨てると、セルゲイはダドリーの疑問に答える。
「連中も焦ってるってことだ。目の前の敵に集中するため、先に足下を固めておきたいんだろ」
「暁の旅団……ですか」
ダドリーとセルゲイ。そして彼等の仲間が身を潜めるミシュラムの別荘は、国防軍の兵士に取り囲まれていた。まだ本格的に動きを見せる様子はないが、それも時間の問題だろうと二人は考える。
とはいえ、屋敷を取り囲んでいる兵士の数はざっと百人は超える。ダドリーたちは全員で十人足らずと言ったところだ。とてもではないが、正面から戦って敵うような戦力差ではなかった。
逃げる算段を考えるも、完全に取り囲まれていて猫一匹逃げ出せる隙間はない。絶望的な雰囲気が漂う中、部屋の奧で椅子に腰掛け、じっと話を聞いていた白髪の老人が沈黙を破るように声を発した。
「私に付き合う必要はない。キミたちだけでも逃げたまえ」
ヘンリー・マクダエル。エリィの祖父にして、クロスベル自治州の元議長だ。いや、クロスベルはまだ国家として承認されていないことや、正式な手続きを経て解任がされたわけではないため、彼を『議長』と呼んでも差し支えはないだろう。実際、ダドリーたちはまだ彼のことを『議長』と呼んでいた。
政府はそのことを認めないだろうが、長くクロスベルで政治家をしてきたヘンリー・マクダエルの持つ影響力というのは、それほどに大きなものだ。
それがわかっているからこそ、政府もヘンリーの身柄を確保することに躍起になっていた。
「議長が捕まれば、次は俺たちの番です。どちらにせよ、後がない」
「そういうことです。大義名分を失えば、俺等のやってることはテロと変わらない。そうなれば、国防軍も今まで以上に本腰を入れてくるでしょう」
ダドリーとセルゲイの言葉に納得しつつも、ヘンリーは複雑な表情を見せる。
自分の役割は理解しているつもりでも、やはり他の誰かが犠牲になるというのは気分の良いものではない。これまでも多くの人々が盾となり囮となり、ヘンリーを逃がすために身体を張ってきた。
そのなかには軍に捕らえられるだけでなく命を落とした者もいる。ヘンリーが彼等の身を案じるのは無理もなかった。
「だが、どうするつもりかね? この人数で、あの数を突破するような案が……」
ない。そんな都合の良い案があるはずもなかった。
ヘンリーの問いに答えられず、難しい表情で黙り込むダドリーとセルゲイ。彼とて意地悪でそんな質問をしているわけではない。全員で逃げられれば良いのだろうが、状況がそれを許してはくれない。このまま国防軍と衝突すれば、両方に多くの死傷者がでることになるだろう。セルゲイやダドリーも軍に捕まるだけでなく命を落とすかもしれない。そんな覚悟を二人から感じ取ったからこそ、ヘンリーは尋ねていた。
まだ逃げられる可能性があるのならまだしも、若い命を無駄に散らせたくはない。
沈黙が場を支配する中、軍に投降することをヘンリーが呼び掛けようとした、その時。
「――では、私たちと取り引きをしませんか?」
部屋に女性の声が響いた。
ヘンリーを庇うようにダドリーとセルゲイは銃を構える。
彼等の仲間も銃を抜き、周囲を警戒する中、その声の主は姿を現した。
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