「なんだか寒気が……」

 悪寒を感じて肩を震わせるリィン。

『……団長? どうかしたのか?』
「いや、なんでもない。それより続きを聞かせてくれ」

 誤魔化しながら導力器(ARCUS)に返事をする。通信先にいるのはヴァルカンだった。
 リィンの指示通り地下水道に網を張っていたヴァルカンたちは、会議の襲撃を企てていたテロリストたちを確保することに成功した。
 ただ、そこで予期せぬ問題が一つ起きていた。テロリストの一部が以前報告にあった異形の怪物に変身したのだ。

「魔人化か……やはりグノーシスが使われていると見て、間違いはなさそうだな」

 グノーシスが使われている可能性は高いと考えていたが、これで確定したと言っていい。
 しかし、だからと言って状況が改善されるわけではない。問題の厄介さが浮き彫りになっただけだった。
 魔人化が確認されたということは、そのテロリストたちが服用したのは赤い錠剤の方だと想像が付く。グノーシスには二つのタイプが確認されており、青い方は服用した者の潜在能力を大幅に引き出し、運を呼び込む効果があるとされているが、異形の怪物へと人を変えるような力はない。問題は魔人化という現象を引き起こす赤い方の薬だった。
 これを服用したのが、ヴァルカンの言っていたテロリストだけであればいいが、もし市井にも広まっているとすれば面倒なことになる。
 街に魔獣が解き放たれるようなものだ。ただの暴徒ならまだしも魔人が相手では、訓練を受けている兵士でも下手をすれば命を落としかねない。

『で、どうする?』
「予定に変更はない。どちらにせよ、元凶を絶つのが早いしな」
『了解だ。ああ、そうだ。もう一つだけ、シャーリィが言ってたんだが――』

 通信の最後に、シャーリィが狩りの途中でツァオを見たという話を聞き、リィンは眉をひそめる。

(ツァオ・リーか)

 ツァオ自身が言っていたように敵に回ることはないと思うが、気の許せる相手ではないとリィンは感じていた。
 政府の依頼か? それとも上の指示か? 別に思惑があってのことか?
 何れにせよ、シャーリィが出会ったのが偶然と考えるのは楽観的だ。

「リィンさん」

 声を掛けられ振り返ると、そこにはエリィとリーシャの姿があった。

「その様子だと得るものはあったみたいだな」
「はい。帝国だけでなく、リベールや共和国。それにレミフェリア公国からも、暫定的に政府の承認を頂きました。これでクロイス家の支配から、クロスベルを解放する大義名分を正式に得たことになります」

 やはりそうなったか、とエリィの話を聞くリィン。ディーター・クロイスに事件の容疑が掛けられている以上、クロスベルの現体制を支持したところで得るものはない。それにここまで問題が大きくなっては、各国ともに落としどころを模索しているはずだ。
 最低でも事件に関わった者たちの処罰。そしてクロスベルには相応の賠償を求める必要があるが、そのことについて交渉する相手がいないのでは意味がない。亡命政府を承認し、エリィを政府の代表として各国が認めたのはそれが理由だ。
 手放しに喜べる理由ではないが、そこは今後の交渉次第とも言える。どちらにせよ、クロスベルを解放しなければ進まない話だ。

「そのことで皆さん、リィンさんにお聞きしたいことがあると……」
「……話? カール・レーグニッツが語った話だけでは不十分か?」

 リィンのその問いに、エリィは首を縦に振って答える。
 ギリアスは帝国や共和国だけでなく、大陸中の国々を巻き込んだ大きな戦争を引き起こそうとしているとカールは語った。
 平和な世は人を腐らせる。過去の栄光に縋るしかなく、因習に縛られ生きている帝国貴族などその最たる例だ。
 だがこれは何も貴族に限った話ではない。年々増加傾向にある凶悪事件。領土問題や民族的・宗教的問題を理由に、大陸各地で絶えず起きている紛争。そして共和国を中心に根深い問題となっている東方からの移民問題。そうした内外の問題から目を背け、自分には関係のないことだと思考を停止し、日常を送っている者が果たしてどれだけいることか?
 政治に関心を持つこともなく、権利ばかりを主張し、義務を果たそうともしない。こうした問題は大小あれど、多くの国が抱える問題だ。
 だからこそ、必要だと考えた。
 自らの身に災厄が降りかかるまで、人という生き物は気付かないものだ。
 ならば、知らしめてやればいい。平和とは如何に脆く、儚いものであるかを――

 カールの語ったギリアスの目的。それは政治に関わる者として、エリィや各国の代表たちも考えさせられる内容だった。
 革新派が貴族派に勝利した後も、帝国の内情は何一つ変わっていない。貴族だけが腐敗しているのではないと、帝国の抱える根深い問題をオリヴァルトは痛感させられていた。恐らくはギリアスもそのことに気付き、カールもそんなギリアスの考えに共感したのだろう。
 しかしだからと言って、真っ当に生きている人々の平穏を脅かしていい理由にはならない。
 争いがあろうとなかろうと、カイエン公のような人間は少なからずでてくる。この世に腐敗しないものなどない。それが帝国のように何百年と続く大国ならば尚更だ。
 ギリアスのやろうとしていることは独善に過ぎない。それを許すわけにはいかなかった。
 だが、これはギリアスの目的だ。マリアベルの目的も同じとは限らない。
 これまでの彼女の行動を見るに、ギリアスとは別の思惑で動いているとエリィたちは考えていた。
 混乱を起こすという意味では、確かにグノーシスで民衆を操り、暴動を起こすというのは悪くない手だ。
 しかし戦争を起こすだけが目的なら、このような手に頼らずとも他にやりようが幾らでもある。
 謀略を得意としてきたギリアスらしからぬ直接的なやり方だ。ならば、それとは別の思惑が動いていると考えるのが自然だった。

(仕方がないか。どちらにせよ、いつまでも隠し通せる話じゃない)

 エリィの言うように、マリアベルの思惑についてリィンは察しが付いていた。カールからギリアスの目的を聞き、ようやく確信を得たと言ってもいい。
 そのことを話さないという選択もあるが、各国ともに被害を受けている以上、それでは納得しないだろう。
 それを口実にクロスベルとの戦争に介入されることだけは避けたい。

(少し餌を撒いておくか)


  ◆


「マリアベルの目的は恐らく文明を崩壊させ、一度すべてをリセットすることだ」

 ――大崩壊の再現。それがリィンの語ったマリアベルの目的だった。
 想像を大きく超えた思惑に各国の代表は言葉を失う。

「どうして、そのようなことを……」
「……そこまでは分からない。しかし〈碧の大樹〉の力を用いれば、不可能な話ではない。古代ゼムリア文明崩壊の原因は天変地異にあると言われているが、俺は〈七の至宝(セプト・テリオン)〉が関係していると見ている」

 理由は分からないと言ってはいるが、リィンがまだ何かを隠していることは明白だった。
 碧の大樹にそのような力があるということ自体、この場にいる誰もが初耳だったのだ。しかし嘘を言っているようにも見えない。恐らくは何かしら思い当たることがあるのだと、アリシア二世は察する。しかし、それを追及すべきかどうか悩む。
 隠したと言うことは、話す意思がないと言うことだ。リィンにそれを強制する権限は、この場にいる誰にもなかった。
 国の威信を背負い、会議に招かれた人物たちだ。そうしたことは他の皆も理解していた。

「リィンくん。キミが何の根拠もなく、こんな話をする人物でないことはわかっている。しかし僕たちは国を預かる身だ。世界が滅びると言われて『はいそうですか』と信じることは出来ない。その根拠を話してもらうことは?」

 しかし、このままでは埒が明かないと考え、オリヴァルトがそんな彼等を代表してリィンに尋ねる。
 リィンとの関係を考えても、帝国人である自分が質問した方が角が立たないと考えてのことだった。

「言っておくが理解を得るために話したわけじゃない。これは警告≠セ」

 そんなオリヴァルトの心情を知ってか知らずか、リィンの口からでたのは拒絶の言葉だった。
 それは最初から話し合いをするつもりなどなかったと言うことだ。
 なら、どうして――という疑問がアリシア二世の頭に過ぎる。

「あなたなら、この状況をどうにか出来ると?」
「違うな。俺にしか出来ない。だから黙って見ていろと言っている」

 傲岸不遜とも取れる態度で、リィンはアリシア二世の問いに答える。
 国の助力など求めてはいないと言うことだ。それは以前からリィンが一貫して言っていることでもある。しかし――

(彼はどうして、ここまで……)

 クロスベルの問題に他国が介入することをリィンは嫌っていた。
 最初それはクロスベルの置かれている政治的事情を憂慮してと考えていたが、どうにもそれだけが理由ではないようにアリシア二世は思う。

「信じる信じないは自由だ。だが、邪魔をすると言うのなら――」

 頑ななリィンの態度に、これ以上の話し合いは無駄だと誰もが悟る。しかし国政を預かる者として引けない理由が彼等にもあった。
 こうしている今も大陸の至るところで、グノーシスが原因と思われる暴動が起きている。ここまで被害が大きくなってしまえば、各国も黙って見ていることは出来ない。ヘンリー・マクダエルの興した亡命政府を承認し、エリィをその代理として認めたのは賠償の問題もあるが、一刻も早く何が起きているのか原因を突き止めるためだ。責任の所在を明らかとするため、ディーター・クロイスの身柄を欲してはいるが、彼から有益な情報を得られるとは誰も思ってはいなかった。そのため、最も真相に近い位置にいると思われるリィンの協力を欲したのだ。
 互いに一歩も譲ることが出来ず、重苦しい空気が場を支配する中、その沈黙を破ったのはロジーヌだった。

「教会は〈暁の旅団〉――リィン・クラウゼルを支持します」

 この一言に各国の代表は驚く。こうした異変が起きた際、頼まれずとも真っ先に介入してくるのが彼等――七耀教会だ。特にアーティファクトが絡む事件の裏には、必ずと言っていいほど教会の影が存在した。ましてや女神の至宝に関することで教会が、その解決を他者に委ねるなど信じがたい話だった。
 故にオリヴァルトは息を呑み、確認の意味を込めてロジーヌに尋ねる。

「それは……教会は理由を知っていると?」
「詳しくは私も聞かされてはいません。ですがこの度の異変を解決するには、彼の力を借りるのが最善であると教会は判断しています」

 現在、ゼムリア大陸を襲っている異変。その原因を探るべく、各国は情報を求めている。
 しかし、それ以上に優先させなくてはならないのは、迅速に事態を収束させることだ。
 故に苦悶の表情を浮かべる。国の命運を一人の人間に託さなくてはならない状況と言うのは、為政者としては許容しがたい問題だ。
 しかし話の正否はともかく、教会がリィンに任せるのが最善と判断している以上、そのことを疑う余地はない。

「どちらにせよ、自国のことで手一杯の状況を考えれば、任せて見てもいいのでは?」

 そう口にしたのは、共和国の大統領ロックスミスだった。
 責任の放棄。他力本願とも取れる内容だが、彼の提案はそう的を外れたものではなかった。
 リィンの言っていることが真実だった場合、異変が収まるのを待っていては手後れとなる恐れがある。
 しかし、どの国も暴動を抑えるだけで精一杯で、異変の解決に戦力を割くような余裕はない。そのことは各国の代表もわかっていた。


  ◆


『よかったの?』

 議場を後にしたリィンの頭に声が響く。それが次元の狭間に身を置く、もう一人のキーアの声だとリィンはすぐに気付いた。
 ロジーヌの後押しがあったとはいえ、半ば脅しのようなカタチで黙らせたようなものだ。
 折角いろいろと根回しをしてきたのに、これが原因で国との関係が悪くなるかもしれないと考えれば、彼女が心配するのも無理はなかった。

「マリアベルの思惑について触れると、俺たちのことも話す必要があるしな」

 マリアベルが大崩壊を企てていると言うのは憶測に過ぎないが、嘘を言っているわけではない。しかし、すべてを語っているわけではなかった。そして、その理由が自分にあることをキーアは気付いていた。
 至宝を身に宿し、神へと至った少女。彼女の存在が明らかになれば、この世界の者たちが黙っているはずもない。
 彼女の力を危険視する者。彼女の力を手に入れようと画策する者。面倒な連中に狙われることは容易に想像が付く。
 そうなれば二度と、この世界に姿を現すことは出来なくなるだろう。
 キーアからすれば元の生活に戻るだけなのだが、リィンはそれをよしとはしていなかった。

『キーアの所為だよね……』
「それは違う。どちらにせよ知られれば、俺も面倒な連中に付け狙われることになる。ただ、それだけの話だ」

 キーアの話が確かなら、至宝の力を消滅させる力がリィンにはある。それは女神の力の否定に繋がる。
 空の女神を信仰する七耀教会の信者あたりが聞けば、面倒なことになるのは目に見えている。詳しく事情を話せない理由の一つにそれがあった。
 異能や魔法の類を無効化する程度の力だと誤解させておく方が、まだマシだ。

「まあ最悪、全部バレたら旅にでもでるか」
『……旅?』
「ああ、まだ見たことのない――知らない世界を旅するんだ」

 面倒なことは投げ捨てて旅にでる。自分で言ってなんだが、悪い手ではないとリィンは考えていた。
 世界を旅するための翼は手に入れた。ならば、何処にだって飛んでいけるはずだ。

「その時は一緒に行こう」

 リィンの誘いに、キーアは目を丸くして驚く。
 キーアの願いによって生まれた彼女は、改変された歴史を見守る存在に過ぎない。
 彼女は観測者だ。自分の足で世界を旅して見て回るなんてことを考えたことはなかった。
 でも――

『うん』

 いまは、それも悪くないと思える。
 考えもしなかったこと、想像もしなかったことをリィンはたくさん教えてくれる。
 きっと世界には自分の知らないことが、もっとたくさんあるのだろうとキーアは思う。
 一人で殻に籠もっていたら、ずっと気付かなかった。だから――

『リィン。願い事、決まったよ』



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