――はじまりの深淵。
クイナの案内でリィンたちは〈はじまりの命〉が眠るとされる神域を目指していた。
「はじまりの深淵ね。そこに女神様がいるの?」
「えっと、ちょっと違うかな?」
騎神の操縦席からそう尋ねてくるシャーリィに、クイナはヴァリマールの手の平に腰掛けながら答える。
生まれたての大地は何もない退屈な世界だった。
その世界に変化をもたらすために、マイアが生み出したのが〈はじまりの大樹〉だ。
だが、はじまりの命は違う。母なる海より誕生した生命すべてのルーツとされる存在。
この世界で生まれた最初の命≠ェ〈はじまりの命〉だと、クイナは説明する。
「マイアはね。いまも眠ってるの」
大地神マイアは夢を見ることで因果に干渉し、世界に恩寵を与える。
謂わば、この世界はマイアの夢の世界≠ニ言ってもいい。マイアが目覚めれば夢は終わりを迎える。
この世界に存在するありとあらゆる命が、マイアのもたらした進化の概念によって生まれたものだ。
それは即ち、マイアが目覚めれば世界から女神の恩寵が消え、因果が解き放たれる。
すべてがリセットされると言うことを意味していた。
「難しいことはよく分からないけど、女神様を起こしたら世界が消滅するってこと?」
「うん。この世界は消滅して、原初の世界だけが残る……」
シャーリィはよくわかっていない様子だが、リィンはクイナの話を聞いて「なるほど」と納得した様子で頷く。
完全に理解したとは言い難いが、少なくともマイアがどのような手段で世界に干渉しているかは分かった。
壮大なVR空間。仮想現実のようなことを、マイアは〈原初の世界〉に干渉することで実現したのだろう。
この世界が現実ではない≠ニ言っている訳ではない。謂わば、元々存在する世界に重ね合わせるように作られた異界。それが、この世界の正体と言う訳だ。
だとすれば〈はじまりの命〉が眠る世界とは――
「原初の世界とは、現実世界。表の世界と言うことか?」
この世界がマイアの見ている夢の世界なら、現実の世界も当然あると言うことだ。
いまは現実≠ニ夢=\―表≠ニ裏≠ェ入れ替わっているような状態なのだと、リィンは考える。
それこそが、クイナの言っている〈原初の世界〉なのだろう。
なら、はじまりの深淵についても予測が出来る。
「うん。いま向かっているのは、表と裏を結ぶ狭間の世界。その先に――」
マイアがいる、とクイナは答えるのだった。
◆
『アタシたちの世界が、女神様の見ている夢ね』
この世界で生まれた人々からすれば俄には信じがたい――いや、信じたくない話だろう。
なのに余り驚いた様子のないイオを見て、ダーナは尋ねる。
「……やっぱり、イオちゃんも気付いてたんだね」
『薄々とだけどね』
余り考えようとしなかっただけで、その可能性はイオも考えていた。
この世界の成り立ちや、ラクリモサについて知れば知るほど、違和感が拭えなかったからだ。
そもそも〈はじまりの大樹〉を消すことが、どうして世界の消滅に繋がるのか?
テオス・ド・エンドログラムを倒せば進化の概念が消え、ラクリモサが終わりを告げることは確かだ。
だが、それは大地神マイアが干渉する以前の世界に戻ると言うだけに過ぎない。
歴史は変わるかもしれないが、世界が消えてなくなる訳では無い。
なのに緋色の予知≠ヘダーナとクイナに何もかもが消えてしまった世界を見せた。
だとすれば、この世界が消えてしまう理由はラクリモサにではなく、別にあるのではないかとイオは以前から考えていたのだ。
『でも、それなら女神様を目覚めさせたら世界は結局滅びちゃうんじゃないの?』
イオは当然の疑問をベルにぶつける。
結局、世界が滅びてしまうなら〈緋色の予知〉を回避できたことにはならない。ダーナやクイナの覚悟も無駄に終わると言うことだ。
だが、リィンにせよ、ベルにせよ、口にしたことは必ず実行してきた。
性格は悪いが、少なくとも口から出任せを言うような人物でないことを、イオはその身でよく知っている。
ましてやベルはクイナの願いを叶えると約束したのだ。そんな中途半端な計画を立てるとは、とても思えなかった。
「なんの用意≠烽ネしに目覚めさせれば、そうなるでしょうね」
原初の世界に干渉することで、元の世界に重ね合わせるように創造された異界が、この世界の正体だ。
ダーナとクイナが予知で見たのは、本来の姿を取り戻した世界。何もない表の世界の光景だ。
いまの状態でマイアを目覚めさせれば、その未来に行き着くことは確実だった。
だが、
「テオス・ド・エンドログラムと同化することで進化の概念≠取り込んだクイナさんは、これまでに実行されたラクリモサの記録――大地神マイアが見ている夢の記憶も受け継いでいる。仮に世界が消滅することになったとしても、その記憶があれば世界を再構成することも理論上は不可能ではありません。それに――」
マイアは、どうして夢という手段で世界へ干渉しているのか?
それは〈はじまりの命〉が関係しているとベルは見ていた。
マイアは世界そのものに干渉しているのではなく、はじまりの命と精神を共有しているのだとベルは話す。
この世界はマイアが見ている夢であると同時に、はじまりの命の見ている夢でもあると言うことだ。
なら――
「クイナさんの心を繋ぐ力≠使えば、女神と同じように〈はじまりの命〉の精神に干渉することが出来ますわ」
そうすることで、この世界はクイナの夢にもなる。
仮にマイアが目覚めたとしても、夢を見続ける者がいる限り、その夢が終わることはない。
謂わば、マイアの見ている夢をクイナの能力を使い、乗っ取るとベルは言っているのだった。
「本当にそんなことが可能なのかはやってみないと分からない。でも……」
可能性があるなら諦めたく無い。
そう話すダーナを見て、彼女やクイナがベルの計画に乗った理由をイオは再確認する。
仮にこの世界がマイアの見ている夢だとしても、彼女たちは生きている。
この世界に生きる人々にとって、この世界こそが現実であることに変わりは無い。
夢から覚めれば消えてしまうなどと言われて、すんなりと受け入れられるはずもなかった。
「……ベル。どのくらいの確率で成功すると思ってるの?」
「そうですわね」
この世界を女神から解放する方法については分かった。
しかし、理論上は可能であっても、実際には上手く行くという保証はない。
確かにクイナは進化の概念≠取り込み、理から外れた存在へと進化したが、同化したのはあくまで女神の眷属だ。
大地神マイアに対抗できるほどの力を手に入れたとは思えない。少なくともフィーには、この計画が上手く行くようには思えなかった。
そんなフィーの疑問に、
「成功確率は一パーセントにも満たないでしょうね」
肩をすくめながらベルはそう答え、「クイナさん一人では」と言葉を付け加えるのだった。
◆
「これが、はじまりの命?」
騎神の操縦席で首を傾げ、期待していたのと違うという様子で残念そうな声を漏らすシャーリィ。
一面、見渡す限りの海。星空の下、青く照らし出された海面には胚子≠フような原初生物が浮かんでいた。
「うん。でも、見た目に惑わされないで」
と、クイナが口にしたところでシャーリィとリィンは何かに気付き、警戒するように構えを取る。
その直後、海中から伸びる触手がヴァリマールとテスタ・ロッサに襲い掛かる。
それは以前に戦ったイカによく似た古代種と同じものだった。
それも一匹や二匹ではない。海中から伸びる触手の数は、軽く見積もって百を優に超えている。
そればかりか――
「あれはジャンダルムにいた」
触手を避け、空に飛び上がったヴァリマールに襲い掛かる翼竜。
それはジャンダルムを縄張りとし、アドルたちに倒された翼竜と同じ種類のものだった。
数にして、ざっと三十。他にも多種多様な生き物が〈はじまりの命〉を守るように海面に姿を現す。
「へえ……」
期待外れだと思っていただけに、好戦的な笑みを浮かべるシャーリィ。
「いいね! 面白くなってきた!」
際限なく湧き出る敵。
数の上では圧倒的に不利だが、シャーリィの瞳に絶望の色はなかった。
むしろ新しい玩具を見つけた子供のように愉しげな声で笑い、獣の群れに飛び込んでいく。
「リィン。少しの間、時間を稼いでくれる?」
「……分かった。そのために、ここまでついてきたんだしな」
クイナが何をしようとしているのかを察したリィンは内側に意識を集中し――〈王者の法〉を解放する。
ここまできて、出し惜しみをするつもりはなかった。
「道は、俺が作ってやる」
リィンがアロンダイトに力を注ぎ込みと、ヴァリマールはその意志に応えるように銃口を構える。
視認できるほどのマナが集束し、大気を震わせる。
その直後、轟音と共に放たれた光が獣の群れを呑み込み、一筋の道を作り出した。
「いけ! そして、終わらせてこい!」
「うん!」
空を蹴り、ヴァリマールの集束砲によって出来た道を一気に突き進むクイナ。
新たに湧き出た獣がクイナに襲い掛かろうとするが、剣や槍と言った武器がクイナを守るように降り注ぐ。
それは、テスタ・ロッサの武器だった。
(そうだ。私は一人じゃない)
リィンがいる。シャーリィがいる。
ベルが、フィーが、そしてダーナやアドルたち皆が――
たくさんの人たちの力を借りて自分はここにいるのだと、クイナは再確認する。
仮に成功の確率が一パーセントを切るのだとしても迷いはなかった。
必ず成功させる。そのために、ここまでやってきたのだ。
「空間障壁!? でも――」
あと一歩と言ったところで、テオス・ド・エンドログラムも使っていた障壁がクイナの行く手を阻む。
想念の力を解放し、空間に干渉するクイナ。
クイナの能力を最大限に発揮するには、対象に直接触れる必要がある。
結界に守られている状態では、はじまりの命の精神に干渉することは出来ない。
もっと、もっと力を、とクイナは願いながら想念の力を引き出していく。
その時だった。
――いいよ。妹のお願いだもんね。お姉ちゃんが力を貸してあげる!
頭の中に誰かの声≠ェ響いたかと思うと空間に亀裂が走り、障壁が砕け散る。
一瞬なにが起きているのか分からず呆けるも、すぐに思考を切り替え――
はじまりの命に向かって手を伸ばすクイナ。
あと三メートル。二メートル。一メートル。五十センチ。
(届いて!)
指先が〈はじまりの命〉に触れ、
「クイナ!」
リィンの声が響いた直後――
海中から現れた巨大な口が、はじまりの命ごとクイナを丸呑みにするのだった。
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