「百億ミラですか。リィンさんらしいと言うか……そのことを、あの子には伝えたのですか?」

 リィンらしいとアルフィンは納得した様子で頷きながらエリゼに尋ねる。
 昨日のことだが、使者との会談を終えて帰ってきたら、リィンはアリサに連れ去られた後だったのだ。
 まだ政務が残っていたため、追い掛けるのを断念したアルフィンだったが、ミュゼがリィンに接触したとエリゼから話を聞いて昨晩からずっと気になっていた。
 元々そのことを相談するつもりで、リィンに手紙をだしたからだ。

「はい。驚いているというか、呆気に取られた様子でしたが……」
「まあ、それはそうでしょうね」

 当然の反応だろう、とアルフィンは思う。
 過去、同じようにリィンを利用しようと近付いた者は、そのほとんどが交渉に失敗している。
 ミュゼは自分ならと自信があったのだろうが、アルフィンは最初から上手く行くとは思っていなかった。

「姫様は余り驚かれていないみたいですね」
「元々、お兄様に請求するつもりでしたから」
「……百億ミラをですか?」

 だからリィンに味方をするつもりで、オリヴァルトを相手に布石を打っておいたのだ。
 今頃は金策に走っている頃だと思うが、それも無駄になってしまったとアルフィンは肩をすくめる。
 幾らオリヴァルトでも、百億ミラなんて大金は許容できる範囲を超えているはずだ。
 いまの帝国政府にそれだけの余裕はない。先の内戦の影響で、帝国の財政は切迫しているからだ。

 戦火に晒された街の復興に国も多額の予算を割いてはいるが、それでも十分とは言えない状況だ。内戦で家や仕事を失った人々からは、既に不満の声が上がっているとも聞く。貴族たちがノーザンブリアへの侵攻を叫ぶ背景には、そうした領民たちの不平不満をノーザンブリアへと向けさせたい思惑もあった。
 家族や友人を失った人々の中には、内戦を引き起こした貴族たちの処分を求める声も少なくはないからだ。
 とはいえ、貴族たちをすべて処分してしまっては、国の運営が成り立たなくなってしまう。貴族制度の廃止も時期尚早だ。
 それに問題は貴族だけではない。ギリアス・オズボーンの指示の下、これまで強引な施策を進めてきたツケが帝国政府には回っている。貴族に限らず、平民出身の軍人や役人の中にも問題を抱える者は多いと言うことだ。改革を進めるにせよ、一筋縄ではいかない。何れも段階を踏んで進めていくべき話だった。
 そうしたこともあって余り多くの負担を貴族たちに求める訳にも行かず、足りない予算を補うために皇家の持ち出しも多いと言う訳だ。
 仮に十億ミラであっても、いまの皇家にそれだけの金を捻出する余裕はないだろう。

「さすがに、それほどの額は想定していませんでしたけど、こうなるだろうとは予想していたので。ですが、ある意味で納得ですわね」
「……納得ですか? 姫様は妥当な額だと思われているのですか?」

 百億ミラというのは、小国の国家予算にも匹敵する額だ。
 普通であれば、とても妥当な額とは言えない。
 エリゼが疑問を挟むのも無理はなかった。

「オリヴァルト兄様が、国の財政を憂慮するのは当然のことです。戦争を回避したいというのも理解できます」

 しかし、それは帝国政府の都合だと、アルフィンは答える。
 オリヴァルトにも事情はあるのだろうが、その事情に付き合う理由はクロスベルにも〈暁の旅団〉にもない。
 猟兵に仕事を依頼するのであれば、相応の対価を支払うのは当前のことだ。
 アルフィンとて総督となったからには、クロスベルの利益とならないことを進んで協力するつもりはなかった。

「ですが、そのことと百億ミラの報酬が妥当という話は……」

 言っていることは正しいと、エリゼも理解できる。
 しかし、だからと言って百億ミラという法外な報酬が、妥当な対価とは思えない。
 常識に照らし合わせば、エリゼの反応が普通だった。でも、アルフィンの考えは違っていた。

「例え話をしましょうか。戦争を回避したとします。では、そのあとノーザンブリアはどうなると思いますか?」
「……え?」

 エリゼの考えは、帝国貴族として正しいものだ。
 しかし、あくまでそれは帝国の立場に沿った意見に過ぎない。
 間違っているとは言わないが、ノーザンブリアの視点が欠如していると、アルフィンは指摘する。

「戦争とは結果がすべてです。貴族連合が敗れ、セドリックの率いた正規軍が勝利した。そして彼等――〈北の猟兵〉は、その貴族連合に味方していたのですよ」

 帝国政府の不興を買った〈北の猟兵〉と、これから契約を結ぶ大貴族や企業はいないだろうとアルフィンは話す。
 帝国は共和国と双璧を為す、西ゼムリア大陸最大の強国だ。
 それを承知の上で〈北の猟兵〉と契約を交わすと言うことは、帝国を敵に回しても問題ないと考えている勢力に限られる。
 そうした相手は限定される。仮に〈北の猟兵〉が共和国と手を結べば、帝国はそれを理由にノーザンブリアへ侵攻するだろう。
 ノーザンブリアは帝国の北に位置する自治州だ。西にはジュライ特区が、東にはアイゼンガルド連峰を挟み、ノルド高原がある。
 ここを共和国に押さえられれば、長く睨み合いが続いているノルド高原の戦況にも影響を及ぼすことは確実だ。
 いまは反対に回っている者たちも、実際に自分たちの喉元にナイフを突きつけられるとなれば、黙ってはいないだろう。

「ですが、猟兵たちの稼ぎにノーザンブリアは依存しています。実際、先の内戦で満足な報酬を得られなかったばかりに、ノーザンブリアの人々は冬を越すことすら困難な状況に直面しているとの話です」

 問題は帝国だけでなくノーザンブリアにもあるとアルフィンは見ていた。
 状況は差し迫っている。帝国が侵攻するしないに関わらず、生きるか死ぬかの状況にノーザンブリアの人々は直面していると言うことだ。
 食糧が尽きるのも時間の問題だろう。そうなれば、飢えてしなないために〈北の猟兵〉たちも手段を選ばないはずだ。
 最悪の場合、食べ物を求め、近隣の村や街を襲う可能性は高い。
 もしそのような無法に彼等がでれば、帝国政府とて動かざるを得なくなる。
 どちらにせよ、衝突は避けられないと言うことだ。

 しかし、同情する余地はあるとはいえ、彼等は被害者ではない。〈北の猟兵〉は納得の上で貴族連合に雇われて内戦に参加したのだ。
 アルバレア公の指示でやったこととはいえ、彼等はケルディックを焼き討ちしている。
 ノルド高原の戦いにおいても、依頼を受けてノルドの民の集落を彼等は襲撃しているのだ。
 リィンたちがあの場にいなければ、ノルドの民は皆殺しにされていたかもしれない。
 戦争に負ければ、どうなるか? 猟兵である以上、覚悟は出来ているはずだ。
 アルフィンは帝国の皇女として、帝国の民を傷つけた〈北の猟兵〉たちを庇うつもりはなかった。
 しかし、

「戦争が起きる起きないに関係なく、多くの人が犠牲となる。そういうことですか……」
「まだ帝国に併呑された方が、餓死者を減らせる可能性が高いと言えるでしょうね」

 ノーザンブリアそのものを憎んでいるかと言えば、そうではない。
 猟兵たちの稼ぎに依存してきたノーザンブリアの人々に罪がないとは言わないが、子供にまでその責任を問うのはどうかと思う。
 どちらにせよ、いまのままの生活を続けていれば先はない。遅かれ早かれ、ノーザンブリアは地図から姿を消すことになる。
 貴族たちの思惑はどうあれ、ノーザンブリアが帝国に併呑されることは、現状を踏まえれば彼等にとっても悪い話ではないとアルフィンは考えていた。
 だが、彼等のことを最も良く知るのは同じ猟兵だ。リィンなら、当然ノーザンブリアの抱える問題にも気付いているだろう。

「だから兄様は話を断るために、あのような条件を?」
「それなら、はっきりと断っていると思いますわよ? エリゼもリィンさんの性格は理解しているでしょう?」

 このままリィンが依頼を受けずに放って置けば、ノーザンブリアが帝国に併呑されるのは時間の問題だ。
 エリゼの言うようにノーザンブリアのためを考えれば、下手に希望を与えるよりは静観するのが彼等のためだ。
 しかしリィンの性格を考えると、まだそれでも理由として弱いとアルフィンは考える。
 どんな思惑があってリィンは百億ミラなんて無茶な条件を提示したのか?
 アルフィンが考えた理由。それは――

「試しているのだと思いますわ」

 自分やエリィの時と同じように、ミュゼを試すつもりで無茶な条件を提示したのだろうとアルフィンは答える。

「では、兄様は最初から金銭が目的ではなかったと?」
「それは、どうかしら?」

 リィンが一度口にした条件を撤回するとは思えない。
 ミュゼが条件を呑まなければ、リィンが仕事を受けることはないだろう。
 しかしリィンが意味もなく、そんな条件を出すはずもない。
 百億ミラもの対価を要求した裏には、ミュゼにもメリット≠ニなる何かがあると言うことだ。

「あの子のことが気になるのはわかりますが、リィンさんを信じましょう」

 そのことにミュゼが気付くことが出来れば、きっと――
 恐らく悪い結果にはならない。そう、アルフィンは信じていた。

「では、そういうことで――」
「何、当然のように出て行こうとしてるんですか? まだ仕事≠ヘ終わっていませんよ?」

 話の流れで執務室を出て行こうとするアルフィンの肩を掴むエリゼ。

「相談にも乗ってあげたのですから、今日くらいは見逃してくれても良いではありませんか!?」
「ダメです。明後日まで予定がビッシリと入っているのですから諦めてください」

 それはそれ、これはこれだ。
 抵抗するアルフィンを慣れた様子で押さえ込み、エリゼは手帳を捲って次の予定を確認するのだった。


  ◆


「いいか、何か奢ってくれると言われても、もう二度と知らない人について行ったりするなよ?」

 そう、イオに注意するリィンの姿は、まさに子供を諭す父親と言ったところだった。
 床に正座をして不満げな表情を浮かべるも、取り敢えず納得した様子で頷くイオ。
 一方で、イリアは納得が行かない様子で不満を漏らす。

「……ちょっと、なんで私がこんな扱いを受けないと行けないのよ?」
「黙れ、誘拐犯」

 椅子にロープで拘束されたイリアを、リィンは蔑むような目で見下ろす。
 黙ってついて行ったイオも悪いが、そもそもの原因は食べ物でイオを釣ったイリアにある。
 騒動の原因を作ったイリアに責任を問うのは、当然のことだった。

「イリアさんが本当にすみません……」

 平身低頭と言った様で深々と頭を下げるリーシャを見て、リィンは頭を掻く。
 確かにリーシャは劇団アルカンシェルのアーティストだが、暁の旅団のメンバーでもある。
 そんな彼女に今回の一件で責任を問うつもりは、リィンにはなかった。
 そもそも、まだイオのことを紹介していなかったのだ。リーシャが気付かないのも無理はない。

「そんなことより、さっきの話、考えてみてくれた? この子の才能を遊ばせておくのは勿体ないわ」
「……お前、まったく反省してないだろ?」
「すみません! すみません!」

 イリアの代わりに何度も何度も頭を下げるリーシャを見て、リィンは溜め息を吐く。
 動機に関しては分かった。しかし、まさかイオにそんな才能があるとは、リィンも思ってはいなかったのだ。
 一目でそれを見抜く当たり、さすがはイリア・プラティエと言ったところかと、リィンは少し感心する。
 性格に難はあるが、リーシャをスカウトしたことから人を見抜く目や、アーティストとしての実力は本物だ。
 天才と変人は紙一重と言うが、まさにそれを地で行くのがイリアという女性だった。

「イオ、お前はどうしたいんだ?」
「うーん……」

 余り乗り気ではないのか?
 リィンに尋ねられて、微妙に悩む素振りを見せるイオ。
 正直、興味はあるが面倒臭いと言うのが、イオの本音なのだろうとリィンは察していた。
 とはいえ、イリアが簡単に諦めたりしないことは、イオもわかっているのだろう。

「ずっとは面倒臭いし、でもたまになら……」

 劇団には所属しないが、たまに舞を披露するくらいなら受けてもいい。
 そう、妥協案を提示するのだった。


  ◆


「ところでリィンさん」
「なんだ?」

 改まった様子でリーシャに名前を呼ばれ、リィンは首を傾げながら尋ねる。

「いつの間に子供を作ったんですか!? あの赤い髪……まさか、シャーリィとの――」
「そんな訳がないだろ!?」

 出来るだけ考えないようにしていたことをリーシャに言われ、冗談でも止めてくれと叫ぶリィン。
 シャーリィのことは嫌いではないが、まだそうした関係になるつもりはない。いや、覚悟が出来ていないと言った方が良いだろう。
 いまシャーリィとそんな関係になれば、確実にアルフィンたちも暴走する。
 どうにか作った時間的猶予を、自分から縮めるような真似をリィンはするつもりはなかった。
 そもそもイオのような大きな子供が出来るような年齢でもない。
 何かおかしいとは薄々と察していたのだろう。リィンの話を聞いて、リーシャは安堵の息を吐く。

「何がどうなって、そんな話になったんだ?」
「え? イリアさんが、イオちゃんはリィンさんの子供だって……」

 クラウゼルの名を聞けば、確かにそんな誤解をしてもおかしくはないがイリアのことだ。
 リーシャがどんな反応をするかわかっていて、そんなことを口にしたのだろうということは簡単に察せられた。
 イオの件といい、どうしたものか……とイリアへの罰≠リィンが考えていると、

「あの……」

 まだ何か言いたいことがあるのか?
 緊張した面持ちのリーシャに「なんだ?」とリィンは尋ねる。

「お、おかえりなさい!」

 意を決した様子で勢いよく頭を下げながら、そう叫ぶリーシャ。
 突然のことに呆気に取られるリィンだったが、「ああ……」とリーシャにまだ伝えていなかったことを思い出す。
 イオのことがあって忘れていたが、本当は昨日の内にリーシャにも帰ってきたことを伝えるつもりだったのだ。
 だから――

「ああ、ただいま」

 リーシャの頭に手を置き、そう答えるのだった。



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