――黒の史書。その名前にリィンは覚えがあった。
前世の記憶。リィンが原作知識と呼んでいるその知識の中に『黒の史書』と呼ばれるアーティファクトの存在があったからだ。
騎神に関わる真の歴史≠蒐集するアーティファクト。
本編には直接関係するようなものではなかったが、騎神の秘密や帝国の歴史を知る上で重要な手掛かりとなるものだった。
その原本をアルノール皇家が所有していると聞いて驚くも、リィンの頭に一つの疑問が過ぎる。
「どうして、俺が〈黒の史書〉について知っていると思った?」
セドリックの様子を見る限り、リィンが〈黒の史書〉について知っていると当たりを付けて話を振ったことは明らかだった。
しかし、これまでにリィンは一度も〈黒の史書〉について、誰かに話をしたことはない。
これはアルフィンやフィーにすら一度も語ってはいないことだ。
リィンの記憶を覗き見たエマなら或いは知っているかもしれないが、そのことをエマが誰かに話すとは思えなかった。
「簡単な推測です。黒の史書には、リィンさんのことは少しも書かれていないのですよ」
「……何?」
黒の史書は騎神に関する歴史を蒐集するアーティファクトだ。
だとすれば、灰の起動者であるリィンのことが少しも書かれていないと言うのはおかしい。
その話が本当だとすれば、セドリックがリィンに疑惑を持つのは当然だった。
「正確には、リィン・シュバルツァーという名前の人物のことは書かれていました。しかし、男爵家にそんな名前の男子はいない」
そういうことかと、リィンは事情を察する。
リィン・シュバルツァーとはルトガーにではなく、シュバルツァー男爵に拾われた本来の歴史≠フリィンの名前だ。
その名前が〈黒の史書〉に記されていると言うことは、行き着く答えは一つしかない。
「黒の史書とは、歴史を蒐集するタイプのアーティファクトではなく予言の書≠ネんだな?」
「……さすがですね。これだけの情報でそこに行き着くなんて」
リィン・クラウゼルではなく、リィン・シュバルツァーのことが書かれていたという時点で明らかだ。
黒の史書とは、この世界で既に起きた出来事を記述するものではなく、起こり得た未来。
本来の歴史を教えてくれる予言の書≠セと推察できる。
だとすれば〈黒の史書〉には、リィンが『原作知識』と呼ぶ本来の歴史が記されているのだろう。
(待てよ? だとすれば、トマスの奴……)
教会が『黒の史書』について、存在を把握していないとは思えない。
実際にリィンの持つ原作知識の中でも、トマスはVII組の生徒を上手く誘導することで〈黒の史書〉の断片を集めていた。
はっきりとしたことは言えないが、教会がそのようなものを見過ごすとは思えない。
ならば、トマスも歴史の歪みの中心にリィンの存在があることに気付いているはずだ。
しかし、そのことに敢えて触れるような真似はしなかった。
興味本位で首を突っ込んで、虎の尾を踏むことを恐れたのか?
それとも――
(いずれにせよ、教会の出方を窺うしかないか)
いまは互いに不可侵を約束しているが、それもいつまで続くか分からない口約束だ。
ベルの望むとおりにするつもりはないが、いずれ教会とは矛を交える時が来るという予感はリィンも持っていた。
少なくとも〈空の女神〉の行方を追うリィンたちの目的を知れば、教会が黙っているとは思えないからだ。
それにこの世界を救うには、いまのところ〈始まりの地〉のオリジナルを利用するしかないと言う結論がでている。
しかし〈始まりの地〉は、空の女神を信仰する彼等にとっては神域≠ニも呼べる場所だ。
そのことを説明したところで、教会が素直に協力してくれる可能性は低い。現状では相当に難しいとリィンは見ていた。
「事情は分かった。それで? お前は何がしたいんだ?」
リィンが〈黒の史書〉について何かを知っていると、セドリックが疑惑を持った事情は理解した。
しかし、それを打ち明けてどうしたいのかとリィンは尋ねる。
トマスが敢えて尋ねなかったのは、リィンの正体に確信がなかったということもあるのだろうが、素直に答えて貰えるとは思わなかったからだろう。むしろ、そのことを尋ねることで警戒を促し、リィンとの関係を悪化させる恐れすらある。いまの教会にとって、それは悪手でしかない。暁の旅団と正面からぶつかれば、星杯騎士団の総力を結集しても勝てるか分からない。仮に勝利できたとしても壊滅的な被害を受けることが予想されるからだ。
そうなってしまえば、教会は〈結社〉に対抗する術を失ってしまう。彼等に漁夫の利を与えるようなものだ。
だからこそ、教会は〈暁の旅団〉と相互不干渉の約束を結んだのだ。
帝国とて、それは同じだ。
リィンの機嫌を損ねるような真似をして、仮に〈暁の旅団〉が共和国の味方に付くようなことがあれば帝国は滅びかねない。
アルフィンをクロスベルの総督に就任させ、リィンとの仲を半ば公認しているのは、暁の旅団を敵に回さないための保険でもあった。
リィンの存在を快く思っていない貴族たちですら、その程度のことは理解している。だから彼等もアルフィンとのことに口を挟まないのだ。
なのに皇帝自ら、そのような行動にでたことにリィンは疑問を持つ。
経験は不足しているが、セドリックは聡い。そうした愚かな行動にでるとは思えなかった。
「何も……リィンさんが何者≠ナあろうとアルフィンの大切な人で、僕にとって恩人であることに変わりはありませんから」
しかしセドリックは首を横に振って、そう答える。
リィンが何か大きな秘密を抱えていることは、セドリックも理解していた。
とはいえ、そのことを問い質すつもりはない。いや、自分の立場を考えれば、知るべきではないとすら考えていた。
仮にリィンの抱える秘密が帝国の運命を左右するようなことなら、それを黙っていることなど出来ないからだ。
「ただ、一つだけ聞かせてください。アルフィンはこのことを……」
知っているのかと尋ねるセドリックに、リィンは無言で頷き返す。
「なら、安心できます」
アルフィンが知っていて何も言わないのなら、少なくとも悪いことではない。
セドリックは、ほっと安堵の表情を浮かべるのだった。
◆
「なるほど……」
セドリックから〈黒の史書〉に記されていたという本来の歴史について話を聞き、リィンは納得した様子で頷く。
リィンの持つ記憶と〈黒の史書〉に記されているという話は、概ね差違はなかったからだ。
しかし、これではっきりとした。ギリアスが未来を知っているかのように先を見越して行動できていたのは、本来の歴史を知っていたからだと言うことが――
「ギリアスに〈黒の史書〉のことを教えたのは、ユーゲント三世か」
「確かに〈黒の史書〉に記されている内容を話したのは父です。ですが、その前にオズボーン閣下は〈黒の史書〉の存在を知っていたようです」
ギリアスが〈黒の史書〉の存在を知っていた理由。それも自ずと予想が付く。
百日戦役の頃、ギリアスが幼いリィンを連れて〈黒の工房〉に接触したことは、ベルの証言からも明らかとなっているからだ。
恐らくは、その時に〈黒の史書〉についても知ったのだろう。
「それで? 内戦以降の話はなんて書かれているんだ?」
リィンが覚えているのは、内戦時までの記憶だ。それ以降のことは何一つ知らない。
本来どう言う歴史を辿るはずだったのかを知れば、そこから見えてくるものもあるかもしれないと思い、リィンは尋ねたのだが――
「わかりません」
「……どういうことだ?」
セドリックは首を横に振り、そう答える。
分からないとはどういうことかと、少し語尾を強めながら尋ねるリィン。
黒の史書には、未来のことが書かれている。そう話したのは、セドリック自身なのだ。
「内戦以降のことは何も書かれていないのです。いえ、正確にはリィンさんが〈騎神〉の起動者となってからの記述が……」
先のことが書かれていないと聞かされ、リィンは驚きつつも納得する。
(だから、計画の実行を急いだのか)
黒の史書に記されていた歴史を基に立てた計画が、リィンの存在によって先が読めなくなってしまった。
だからギリアスは当初の予定を大きく前倒しにしてまで、計画の実行を急いだのだと推察したからだ。
「ユーゲント三世は、なんと言っているんだ?」
「計画の詳細について、何も詳しいことは聞かされていなかったようです」
「……それを信じろと?」
ギリアスを宰相に任じたのはユーゲント三世だ。何も知らなかったでは済まされない。
そもそも計画の内容を聞かされていないと言うのに、どうしてそこまでギリアスに肩入れすることが出来たのかとリィンは疑問を持つ。
「僕も父の言葉を素直に信じた訳ではありません。当然そのことを問い質しました。すると……」
ユーゲント三世の口から語られたのは、代々皇帝となった者に受け継がれてきた帝国の真実≠セったとセドリックは話す。
それこそが、皇家が秘匿し続けてきた〈黒の史書〉の原本と――呪い≠フ話だった。
「……呪いだと?」
ローゼリアの話がリィンの頭を過ぎる。
この地を古くから蝕んできた巨イナル一の呪い。
ローゼリアの話によると帝国の血に塗れた歴史の裏には、この呪いが深く関係しているとの話だった。
邪悪なものを呼び寄せ、人心を惑わせる呪い。
嘗て、帝都に災厄を振りまいた暗黒竜や、二百五十年前に起きたとされる獅子戦役。
最近では十三年前に起きた百日戦役なども、すべてこの呪いによる影響が原因だったとリィンはローゼリアに教えられたのだ。
「何か、心当たりが?」
「最近、知り合った魔女から、そんな話を聞かされてな。だが、合点が行った」
ユーゲント三世の目的は、帝国を呪いから解放することにあったのだとリィンは察する。
とはいえ、
「ギリアスの話を信じる根拠がユーゲント三世にはあったんだろうが――」
様々な葛藤や何か深い考えがあったのかもしれないが、理解できないとリィンは頭を振る。
国の未来を憂うだけなら誰にだって出来る。しかし、為政者に求められるのは現状を嘆くことではなく具体的な対策を講じることだ。
それがギリアスの計画に乗ると言うことだったのかもしれないが、ユーゲント三世は自分では何一つとして行動を起こしてはいない。
成り行きに身を任せていただけの話だ。
「悪く言えば他力本願。浅慮が過ぎるな」
リィンに遠慮の無い言葉を突きつけられ、セドリックは何も言えずに押し黙る。
実の父親のことを悪くは言いたくないが、それはセドリックも感じていたからだ。
ただ、ユーゲント三世にも同情の余地があるとすれば――
「……父はきっと後悔していたのだと思います」
オリヴァルトの生みの母親が若くして亡くなった事件。その事件に関与していたとされる猟兵団を雇ったのは、とある帝国の貴族だった。
当時、皇太子だったユーゲント三世は彼女を妃に娶るつもりでいたが、貴族社会の帝国ではそれを快く思わない者も少なくなかった。そんな折、先々代の皇帝が病状の悪化により床に伏せ、次期皇帝の話が持ち上がったのを切っ掛けに再びユーゲント三世の縁談話が持ち上がる。当然、四大名門を始めとした大貴族たちは自分たちに近しい娘を新たな皇帝の妃にと推すが、ユーゲント三世は頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。
そして、あの事件が起きてしまった。
四大名門へ取り入るため、とある貴族が猟兵を雇い、辺境で静かに暮らす母子を襲わせたのだ。
幸いなことにオリヴァルトは、ユーゲント三世が密かに付けていた護衛の活躍で逃げ果せた。
しかし猟兵の銃弾に倒れ、母親の方は命を落としてしまう。その後のことだ。
皇帝に即位したユーゲント三世が当時、皇家の侍女をしていたプリシラを妃に迎え、オリヴァルトを正式に自身の息子だと公言したのは――
そうしたセドリックの話に、リィンは真剣な表情で耳を傾ける。
「だから呪い≠ノ拘ったんだな」
てっきり百日戦役が切っ掛けだと思っていただけに、リィンは驚かされる。
愛する人を失った悲しみは察せられる。ましてや、それが呪い≠ネどという得体の知れないものの仕業だと知れば、正気ではいられなかっただろう。
そんななかギリアスから話を持ち掛けられ、心を動かされた気持ちも理解できなくはない。
同じく愛する女性を失い、幸いと言って良いのかは分からないが子供の命だけは救われた者同士。
似た境遇に、どこか共感を覚える部分もあったのだろう。
しかし、
「同情する点はある。だがそれは呪い≠フ所為にして、現実から目を背けただけの話だ」
呪いが存在しないなどとは言わない。
しかし、すべてを呪い≠フ所為にして傍観に徹するのは、ただの逃げだとリィンは酷評する。
「リィンさん、それは……」
「お前が親父さんのことを信じたい気持ちは理解できる。皇帝だって人の子だ。道を間違えることもあるだろう。だが――」
その犠牲となるのは国であり、そこに住まう人々だ。間違っていたで済ませられる話ではない。
アルフィンがどんな想いで、力を貸して欲しいと契約を持ち掛けてきたかをリィンは知っている。
家族を殺され、故郷を焼かれ、家を失い。それでも、懸命に生きようと頑張っている人たちは大勢いる。
愛する人を失ったのは、ギリアスやユーゲント三世だけではないのだ。
「それが許される立場かどうか、もう一度しっかりと考えてみるんだな」
そう言ってリィンは席を立つと、顔を伏せるセドリックを部屋に残して、その場を後にするのだった。
◆
「リィンさん? もう、お話はよろしいのですか?」
セドリックから聞いていた時間よりも、随分と早く部屋を出て来たリィンに驚き、尋ねるクレア。
「ああ、必要なことは話した。あとは……」
本人次第だ、とリィンは話す。
セドリックとの間に何かあったのだと察するも、何も聞かずに「そうですか」とクレアは一言頷く。
少なくともリィンが、セドリックを害するようなことをするとは思えなかったからだ。
「会場へ戻られますか?」
「いや、もう十分役目は果たせただろう。悪いが、オリエを呼んできてもらえるか?」
と、オリエの名を呼び捨てにするリィンに対して、クレアは胸の辺りがざわつくのを覚える。
そうして眉をひそめ、リィンにオリエとの関係を尋ねようとした、その時だった。
「プリシラ皇太妃?」
リィンの声で、ハッと我に返るクレア。
自分でも何をしようとしていたのか分からず戸惑いながらも、プリシラ皇太妃の姿に気付く。
供も連れず真っ直ぐに廊下を歩いてくるプリシラ皇太妃を見て、セドリックに用があるものと考えるクレアだったが――
「やはり、こちらにいらしていたのですね。わたくしとも少しお話をしませんか?」
お目当てはリィンだと知って、呆けるのだった。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m