「見事に嵌められたわね」
そう言って溜め息を漏らすヴィータの視線の先には、先程までアルグレスが拘束されていた祭壇があった。
床に描かれた魔法陣は効力を失い、聖獣を縛っていた鎖も粉々に砕かれて床に散乱している。
肝心のアルグレスの姿はと言うと、縦穴を伝って上層へ逃げてしまっていた。
こうなってしまったのも――
「どうやら、聖獣を封じていたこの魔法陣。工房の結界と連動していたみたいね」
アルグレスだけを転位させるつもりが、聖獣の封印と結界の工房が結び付いていたのだ。
その結果、工房の出入り口が北の大地と繋がってしまったと言う訳だ。
黒の工房の本拠地はグレイボーン連峰の地下深くに存在すると言っても、厳密には本当に岩山の中に工房が造られている訳ではない。
仕組みは魔女の隠れ里と同じだ。次元の狭間にある結節点とも言える場所に空間ごと固定され、存在を秘匿されているというのが正しい。
騎神の試しの地や帝国各地に存在する霊窟にも同様の技術が用いられており、条件さえ揃えば異なる場所に出入り口を繋げることは可能なのだ。
最初からアルベリヒはアリアンロードの企みに気付いていたのだろう。だからこそ、罠を仕掛けていた。
「……地精の長を甘く見ていた。これは私の失策です」
あっさりと自分のミスであることを認めるアリアンロード。
とはいえ、起きてしまったことは仕方がないとヴィータは考えていた。
彼女を責めることは簡単だが、それよりも問題はアルベリヒの狙いだ。
どうして聖獣だけでなく工房ごと転位させる必要があったのか?
考えられるのはリィンだけでなく、より多くの人間を巻き込むためだ。
恐らく地上には巨大な大地の裂け目が出現しているはずだ。
その裂け目に呑まれれば、まだ工房のどこかへ転位されるのならマシな方で、最悪の場合は次元の狭間に放り出される可能性がある。
街中で発動すれば、数千――いや、数万の命が危険に晒されることとなるだろう。
「婆様、結界に取り込まれた人たちの数と位置は把握できそう?」
「既にやっておるが、正直に言って厳しい。恐らくは数万人単位で巻き込まれておる」
「……そんなに?」
「転位先は北の大地。巻き込まれたのは恐らく――」
「……帝国軍ってことね」
探知の魔術で状況を探りながら説明するローゼリアの話を聞き、何が地上で起きているのかを察するヴィータ。
恐らくは帝国軍がノーザンブリアへの侵攻を開始し、リィンが戦争へ介入したのだろうと――
「次元の狭間に落ちた人たちは諦めるしかないわね」
「と言うことは、それ以外の者たちは助けるのか?」
「意外?」
「いや、そうでもない。性格は捻くれておるが、根は妹思いの優しい姉だと分かっておるからな」
「性格のところが余計よ。婆様だって人のことを言えないでしょうに……」
自分のことを棚に上げるローゼリアに、呆れた様子で溜め息を吐くヴィータ。
性格が捻くれているとまでは言わないが、素直じゃないところはローゼリアも他人のことを言えない。
それに隠しごとの多さでは、二人とも似たり寄ったりであった。
この場にエマがいたら、どっちもどっちだと断罪することだろう。
「ねえ、そんなことよりもアルグレスだっけ? 追い掛けなくていいの?」
頭の後ろで両手を組みながら二人の話に割って入るシャーリィ。
確かにシャーリィの言うように、逃げた聖獣のことも放っては置けない。
まさか封印が解けるなり、襲い掛かってくるのではなく逃げるとは思っていなかったからだ。
それに逃がした理由をもう一つ言い訳するなら、本来であれば転位陣が発動すればアルグレスだけが転位するはずだったのだ。
結果は先に説明したとおり工房そのものが北の大地と繋がってしまった訳だが、アリアンロードの肩を持つわけではないとはいえ、さすがにこの状況を予想しろというのは無理があった。
「そもそも、どこへいったんだろ?」
正直、シャーリィの目から見てもアルグレスに理性が残っているようには見えなかった。
そんな状況で封印が解けたら、シャーリィたちに襲い掛かってきても不思議ではない。
しかし目の前の獲物にはまったく目もくれず、縦穴を伝って上層へと逃げてしまったのだ。
「確かに……そう言われてみると妙じゃな」
シャーリィの疑問には、ローゼリアも一理あると思ったのだろう。
長い歳月、呪いに侵され続けたことで、アルグレスは本能だけで動く獣と化していた。
野生の勘でシャーリィやアリアンロードに敵わないと悟って逃げたとも考えられるが、その割には少しの躊躇いもなく二人を無視して飛び去ったことが気に掛かる。
逃げたと言うよりは、まるで他の何かに引き寄せられるように――
「まさか」
何かに気付いた様子を見せるローゼリア。
アルグレスは呪い≠ノ侵されていた。そう、巨イナル一の呪いにだ。
仮にだが、騎神と騎神が引き合うように呪いにも同じような性質があるのだとすれば――
より大きな力へと引き寄せられた可能性が高い。
「……その予想、当たりかもしれないわね」
ローゼリアの考えを読み、その予想が概ね外れていないことを肯定するヴィータ。
リィンの〈鬼の力〉もまた、帝国に蔓延する呪い≠根源とする力だ。
巨イナル一と繋がっていると言う意味では、アルグレスとリィンの置かれている状況は近いとも言える。
「リアンヌ。御主はどうやってアルグレスのことを知ったのじゃ?」
「いま〈結社〉は割れています。計画の一時中断を宣言し、あなた方の行く末を見守ると決めた盟主の考えを尊重する者たちと、その決定を不服とし、計画を推し進めようとする者たちに――。そう言う意味では、私も彼等と同じと言えるのでしょうね」
盟主の決定に逆らい、計画を推し進めようとする者たち。
その者たちから情報提供を受けたのだと、アリアンロードの話を聞けば察せられる。
アリアンロードの目的は分かる。幻焔計画を推し進めることで黒≠表舞台へと引きずりだし、二百五十年に渡る因縁に決着を付けるつもりなのだろう。
元より、そのつもりで結社に身を置いたことも察しが付く。
リアンヌ・サンドロットとは、そういう女性だとローゼリアが一番よく知っているからだ。
しかし、
「だとすれば、上手く誘導されたと考えるのが自然じゃろうな。いや――」
態と利用されたのか?
と、ローゼリアは鋭い目をリアンヌへ向ける。
彼女の知るリアンヌ・サンドロットであれば、こんな見え透いた餌に引っ掛かるとは思えなかったからだ。
「否定はしません。そうしなければ、尻尾を掴ませてはくれないでしょうから」
あっさりと自分の非を認めるはずだとローゼリアは思う。
最初から、こうなることをアリアンロードは予想していたのだから――
数千、数万の犠牲がでることを彼女は分かっていた。
それでも地精の誘いに乗り、舞台の役者を演じて見せた。
その理由も察せられる。
九百年もの間、歴史の裏に姿を隠し、ずっと表舞台に姿を見せなかった用心深い相手だ。
計画が上手く行かなければ、すべての元凶――イシュメルガが表舞台に姿を現すことはないだろう。
「納得が行かないと言う顔をしていますね。やはり、あなたは優しすぎる」
「リアンヌ。御主……」
「私の手はとっくに血に塗れています。数千、数万では済まない命をこれまでに奪ってきた。そして、ここで元凶を取り逃せば、その数倍――いえ、数十倍の命がこの先も失われることになるでしょう」
だからこそ、どんな犠牲を払ってでも計画を推し進める必要があったとアリアンロードは語る。
彼女の言うことは、ローゼリアにも理解できた。
いまを逃せば、イシュメルガの足取りを掴むことは難しくなる。これ以上の計画の遂行が難しいと分かれば、地精も再び隠れてしまうだろう。
そうなってしまえば、帝国の呪いを解く術は失われ、この先もずっと彼等の影に脅え続けることになる。
この地で暮らす数千万という人々の命が危険に晒されると言うことだ。
そのことを考えれば、アリアンロードの言うように大事の前の小事と言えるのかもしれない。
救国の聖女などと呼ばれていても、彼女のしてきたことは命の奪い合いに他ならないからだ。
「じゃが――」
「その辺りにしといたら?」
それでも納得が行かないと言った様子で、アリアンロードに詰めよろうとするローゼリアをシャーリィが止める。
戦争を生業とする猟兵だからこそ、アリアンロードの考えが共感できるからだ。
実際、目的のためであれば、シャーリィも見知らぬ他人がどうなろうと気にも留めない。
必要な犠牲なら数万の命が失われようと、必要なことと割り切るだろう。
それはリィンも変わらない。実際、内戦時には敵兵だけでなく数多くの貴族の命を奪っている。
更にノーザンブリアでの戦いでも、リィンは容赦なく帝国軍の命を奪っていた。その必要があったからだ。
「婆様の負けね。私もこの件に関しては、そこの聖女さんやシャーリィが正しいと思うわ」
「ヴィータ、御主まで……」
「婆様は少し人間に肩入れしすぎよ」
本来、聖獣の役割とは、女神より託されし至宝の行く末を見守ることにある。
ローゼリアのように人と同じように生活し、協力的な上位種というのは稀な存在だった。
それは彼女が焔の聖獣であると同時に、魔女の里の長であることも理由にあるのだろう。
「でも、意外ね。私も婆様と同様、あなたにこんな真似が出来るとは思っていなかったわ」
「……私は皆が思っているほど清廉潔白な人間ではありません。黒を追っているのも女の未練……ただの私怨です」
だからこそ、目的のためであれば手段を問わない。それが彼女の覚悟なのだとヴィータは理解する。
禁忌を犯し、妹弟子に嫌われる覚悟をしてまで魔女の里を飛び出したヴィータだからこそ、アリアンロードの気持ちが理解できる気がしたのだろう。
「もう話は済んだ? で、結局、追うの? 追わないの?」
「……こんな状況だって言うのに危機感がないというか、あなたは相変わらずマイペースね」
シャーリィの空気を読まない質問に、呆れて溜め息が溢れるヴィータ。
とはいえ、この程度のことは危機とも感じていないのだろうと思う。
実際リィンでなくとも、いまのシャーリィならアルグレスを殺すことが出来る。いや、それどころかアリアンロードに勝利していることを考えれば、リィンを除けばシャーリィと互角に戦えるのは大陸で数えるほどしかいないことになる。
ヴィータですら直接的な戦闘力では、シャーリィの足下にも及ばないと認めていた。
「そのあたり、どうなの?」
ローゼリアはアルグレスの呪いをリィンなら浄化できるのではないかと考えているみたいだが、そう上手く行くとは思えない。
むしろ呪いが解ける前に、リィンに殺される確率の方が高いだろう。
そして、アリアンロードもそうなる可能性が高いことを理解しているように思える。
だからこそ、本当にそれでいいのかと言った意味を込めて、ヴィータはアリアンロードに尋ねたのだ。
「黒の目的は、聖杯を完成させることです。そのためにも贄≠ヘ二つも必要ない」
贄――と言うのは、リィンとアルグレスのことだと察せられる。
巨イナル一から漏れ出す呪いの受け皿となっているのが、この二人だからだ。
片方が死ねば行き場を失った呪いの力は、もう一つの贄へと集まる。
それがアリアンロードの言う聖杯の完成へと近付くのだろう。
しかし、それは――
「……それで彼は――リィン・クラウゼルは大丈夫なの?」
聖獣すら理性を失うほどの呪いを一身に受けると言うことだ。
普通に考えれば、正常な状態を保てるとは思えない。
最悪の場合、今度はリィンが理性を失い、本能のままに破壊の限りを尽くすのではないかという懸念があった。
そうなったら聖獣どころの話ではない。全力のリィンを止められる者はいないからだ。
「それを確かめる意味で、彼女と矛を交えました。恐らくは……」
「うーん。リィンなら大丈夫じゃない? シャーリィにも出来たんだし」
「……そう言えば、御主どうして平気なのじゃ?」
そう言えば、と今更ながらに気付くローゼリア。
普通は魔王の狂気に晒されて、理性を保つことなど難しい。
実際、先代の〈緋の騎神〉の起動者である偽帝オルトロスは欲望に心を支配され、本能の赴くまま仲間や兄弟を手に掛けるほど正気を失っていたのだ。
しかし、シャーリィからは特に変わった様子が見られない。常識的に考えて、ありえないことだった。
「意思というか、力で従わせた感じ?」
「普通、そんな真似は出来ぬのじゃが……」
即ちそれはシャーリィの精神が、魔王の狂気を上回ったと言うことだ。
人間に出来る芸当ではないと、ローゼリアが呆れるのも無理はなかった。
だが、確かにリィンが呪いに負けて理性を失うと言うのはイメージがし難い。
実際、鬼の力も完全に抑え込んでいて、呪いの影響もまったくと言っていいほど受けていないのだ。
王者の法の力があるとはいえ、リィン自身の精神力も並外れていることが窺える。
「いろいろと気を揉んでいた自分がアホらしくなるというか、黒の奴が少し可哀想に思えてきたのじゃが……」
規格外の相手に常識を当て嵌めても意味がないことを悟ったローゼリアは頭を抱えるのであった。
後書き
原作でギリアス・オズボーンも終末の剣を持っていたことから「どうして地精は自分たちの手で大地の聖獣を殺さず、新たな終末の剣が誕生するのを待ったのか?」「リィンに聖獣を殺させたのか?」という二点に疑問を持ちました。
呪いに侵された聖獣を殺すことが黄昏を引き起こすトリガーとなっていたと言う話のようですが、ただ聖獣を殺すだけならイシュメルガの起動者となったギリアスでも可能だったのではないかと。そこから推察できるのは、恐らく贄≠ナあるリィンの手で殺させることに意味があったのではないかというのが私の考察です。
イシュメルガに対抗するための武器として、もう一本の終末の剣をギリアスが造らせたのではないかとも考えたのですが、OZシリーズの研究自体は随分と前からされていたのではないかと思える描写があったので、他にも理由があるのではと考えた結果、本作品ではこういうカタチになりました。
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