長い、長い夢を見ていた。
人間たちと共に災厄に立ち向かった日の出来事が昨日のように思える。
呪いに蝕まれ、身体だけでなく魂さえも汚され、もはや自我が戻ることなどないと獣≠ヘ思っていた。
しかし、
『ここは……』
瞼を開けると、目の前には灰色の世界が広がっていた。
寂しく、それでいてどこか懐かしくも感じる景色。
そんな景色に獣が目を奪われていると――
「ようやく目が覚めたみたいだな」
背後から声を掛けられる。
獣が声のした方に振り返ると、そこには一人の男が佇んでいた。
灰色の髪に真紅の瞳。髪色と同じ灰色のシャツの上には、黒いジャケットを羽織っている。
そして、胸元と肩に刺繍された太陽≠フエンブレム。
それが、この男が何者であるかを示していた。
しかし呪いに侵され、自我を失っていた獣が男の名を知るはずがない。
そのことに男も思い至ったのだろう。
「そう言えば、自己紹介がまだだったな。俺の名は――」
『必要ない。強き者――リィン・クラウゼルよ』
知るはずのない男の名を獣――アルグレスは口にするのだった。
◆
「なるほど……俺の名前が分かるってことは、どうやら上手く行ったみたいだな」
『こうして対峙することで、ようやく理解≠オた。我を喰った≠フだな』
アルグレスの話を聞き、説明の手間が省けて助かるとリィンは小さな笑みを漏らす。
「悪いな。他に手がなかったから、一方的ではあるが女神との関係≠断たせてもらった」
『構わぬ。我の役目は千年以上も前に果たされている。大地の至宝が焔の至宝と交わり、新たな存在として生まれ変わった時にな……』
千二百年前、相克によって生まれた〈巨イナル一〉のことを言っているのだとリィンは察する。
女神から聖獣が与えられた役目は、人間に与えられた至宝の行く末を見守ることだけだ。
そう言う意味では、相克によって新たな力が誕生したものの大地と焔の至宝は失われ、一先ずの結末を見たと言っていいのかもしれない。
その巨イナル一も人間たちの手によって封じられ、アルグレスの役目はそこで一旦終わりを迎えたのだろう。
とはいえ、
「その割に身を犠牲にしてまで世界を守ろうとするなんて、随分と人間に肩入れするじゃないか」
『盟約に含まれていない行動であったことは理解している。我はただ、友との約束を果たそうとしたまでだ』
「……友? ああ、先代の魔女の長か」
約束と言うのが何なのかは分からない。
しかしアルグレスと先代の魔女の長との間には、確かな絆があったのだとリィンは感じ取る。
だとすれば、先代の魔女の長が亡くなった経緯もアルグレスは知っているのかもしれない。
気にならないと言えば嘘になるが――
「まあ、そこを深く追及するつもりはない」
『……よいのか?』
「資格がないとは言わないが、当事者よりも先に問い質すつもりはないしな」
ローゼリアよりも先に真相を知りたいとは、リィンは思っていなかった。
それに既に終わったことだ。
今更、真相を知ったところで死人が生き返る訳でもない。
それよりも、いまは優先すべきことがあるとリィンは考えていた。
「事後承諾になるが、俺と契約≠結んでもらえるか?」
『……今更だな。呪いごと魂を喰らわれた時点で、既に我に選択肢など……』
「それは、さっき謝っただろ。あれ以外に手が思いつかなかったしな」
何を今更と言った問いに、呆れた様子を見せるアルグレス。
既にアルグレスの魂は、リィンの内包する世界に取り込まれてしまっている。
一度、融合してしまえば分離することなど不可能。それは過去のローゼリアが証明していることだ。
むしろ、こうして意識が残っていること自体、アルグレスにとっては不思議なことだった。
『完全に吸収しなかったのは何故だ?』
「俺は先代のローゼリアみたいになるつもりはないからな」
『何をバカな……広大な海に水滴を溢したところで、我が与える影響など高が知れている』
「随分と自分を過小評価するじゃないか」
『この世界を見れば分かる。お前の内包する力は我を遥かに超えている。いや、もしかすると……』
女神さえも、とアルグレスは口にしかけた言葉を呑み込む。
リィンが心配しているような結果には絶対にならないという確信がアルグレスにはあった。
アルグレスの方がリィンよりも格上であれば、魂に影響を与える可能性は確かにあるだろう。
しかし、リィンの力は圧倒的に聖獣であるアルグレスを凌駕している。
仮に吸収したところでリィン自身に与える影響はほぼゼロに近い。
過小評価などではなく、力の差を理解した上での発言だった。
だからこそ疑問に思ったのだ。リィンはどうして、そうしなかったのかと――
『……今代のローゼリアのためか?』
リィンが先代の魔女の長について尋ねなかったのは、今代の魔女の長――ローゼリアに配慮してのことだとアルグレスは察する。
だとすれば呪いの力だけを吸収し、自我を取り戻させたのは、それもローゼリアのためではないかと考えたのだ。
「ロゼとは協力関係にあるが、ここらで貸しを作っておくのも悪くないかと思ってな。それに――俺は猟兵≠セ。使えそうな奴を見つけたら、声を掛けてみたくなるのは自然だろ? 丁度、手が足りてなくて困っていたところだしな。猫≠フ手も借りたいほどに」
リィンの口から返ってきた答えに、アルグレスは呆気に取られた様子で目を丸くする。
まさか使えそうだから、人手が足りないからスカウトしたなどと――
そんな答えが返ってくるとは思っていなかったからだ。
『……面白い男だ。我は女神の遣わした聖獣だぞ?』
「知ってるさ。でも、こんな目に遭わされてアンタだって、原因を作った女神に言いたいことの一つや二つあるだろ?」
『原因か……確かに至宝を人間に与えたのは女神だ。そういう考え方もない訳ではないか』
自分の取った行動を後悔などはしていないが、リィンの言葉にも一理あることをアルグレスは認める。
どのような考えが女神にあったのかまでは、さすがにアルグレスにも分からない。
しかし人に過ぎた力を与え、多くの哀しみと不幸を生んだことは確かだ。
そこはアルグレスも否定するつもりはなかった。
「とはいえ、力は所詮、力でしかない。至宝の使い方を誤った人間にも責任がないとは言わないがな」
リィンとて、女神にすべての責任があるとは思っていない。
上手く利用することが出来れば、女神の至宝は大きな力となったことは間違いないからだ。
そう言う意味では、欲望のままに行動した結果、至宝を暴走させた人間にも大きな責任はあるだろう。
とはいえ、人間には過ぎた力であると女神が理解していなかったとは思えない。
結果が分かっていて、敢えて人間に至宝を与えたのではないかとリィンは考えていた。
『女神を憎んでいるのか?』
「逆に尋ねるが、お前等はどうなんだ?」
『どういう意味だ?』
「……そうか、ガイアであった頃の記憶がないんだったな」
異世界の女神、大地神マイアはリィンに言った。
一柱の神が生み出せる至宝は、生涯で一つであるように――
ガイアの化身である守護聖獣は、本来一つの世界に一体しか存在しないと。
しかし、この世界には七つの至宝と七体の聖獣が存在する。
そこから導きだされる答えは一つしかない。
少なくとも六つの世界の滅亡に、空の女神が関与していたと言うことだ。
いや、リィンの内に宿る至宝を含めれば、七つの世界の滅亡に関与していたと考えることも出来る。
「ツァイトにも確認を取ったが、あいつも女神と出会う前の記憶がなかった。お前もそうなんじゃないか?」
『……確かに。だが、どういうことだ? お前は何を知っている?』
「信じるかどうかはお前に任せる。これは俺が異世界の神から聞いた話だ」
と前置きをして、リィンはマイアから聞かされた話をアルグレスに聞かせるのだった。
◆
「――これが、俺の知る真実だ」
リィンの話を聞き、静かに逡巡するアルグレス。
この話をしたところで、アルグレスの協力を得られるかどうかは五分五分と言ったところだろうとリィンは考えていた。
千年以上もの歳月を女神との盟約を果たすために生きてきたことを考えれば、今更生き方を変えろと言われても難しいのは理解できる。
ましてや既に女神との繋がりは断たれているとはいえ、アルグレスは女神の遣わした聖獣の一体だ。
女神を裏切れるかと言うと、正直なところ難しいだろう。
しかし聖獣の協力があれば、この先に予定している計画も進めやすくなるというのも事実だった。
女神の行方を掴むこともそうだが、始まりの地を押さえることも目的の一つにあるからだ。
地精との戦いは、その障害の一つに過ぎないというのがリィンの認識だ。
逆に言えば、だからこそローゼリアに協力して、貸しを作ろうとしているとも言える。
『正直に言えば、全面的に信用することは出来ない。だが、お前が嘘を言っていないこともわかる』
アルグレスの話を聞き、当然だろうとリィンは納得の表情を見せる。
イオのように眷属とすることで団の力になって欲しいと考えるが、無理強いをしたところで良い結果は生まない。
協力を得られないのであれば、それはそれで仕方がないとリィンは考えていた。
そのことを考えれば、騙そうとしている訳ではないことを理解してもらえただけでも、むしろ前進と言えるだろう。
『だから、お前の誘いを受けようと思う』
「いいのか?」
記憶がない以上は、リィンの話が正しいかどうかを確かめる術はアルグレスにない。
だからこそ断られても仕方がないと考えていただけに、リィンは少し驚いた様子を見せる。
『騙すつもりはないのであろう? 嘘であった時は、命で償ってもらうまでだ』
そういうことか、とリィンは納得した様子を見せる。
勿論、アルグレスもリィンと戦えば、自分の方が不利だと言うことは理解している。
しかし仮に先程の話が嘘で女神の方に理があった場合、アルグレスは命を賭してリィンを止めようとするだろう。
「なら、これからよろしく頼む」
そうと分かっていても態度を変えないリィンに、若干の戸惑いを覚えるアルグレス。
しかし、だからこそ――
『こちらこそ、よろしく頼む。我が主よ』
聖獣を統べる王に相応しいとアルグレスは笑みを浮かべるのだった。
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