ヴァリマールの全身から放たれた瘴気≠帯びたマナは、大地と空を覆い尽くすほどに広がっていく。
このままならノーザンブリアの街も呑み込まれていただろう。
しかし、
「これは……」
街を囲うように展開された結界を目にして、アルフィンは困惑と驚きの声を漏らす。
マナは目に見えないだけで、どこにでも存在する霊力や魔力の源となる力だ。
基本的に人体には影響がないとされているが、大量に浴びれば精神に障害をきたすこともある。
しかも、瘴気を帯びたマナだ。
耐性のない一般人が大量の瘴気を浴びれば、グノーシスの被害者のように魔人化する可能性も考えられる。
最悪の事態を免れたことで安堵すると同時に「誰がこれを?」という疑問がアルフィンの頭を過った、その時だった。
『間に合ったみたいだね』
頭に響くような声がしたかと思うと、転位の光と共にアウロラのブリッジに姿を見せる少女。
澄み渡る空のように青い髪。
少女のあどけなさと、巫女としての神秘性を兼ね備えた存在。
――ノルン・クラウゼル。
デミウルゴスへと至ったキーアのもう一つ≠フ可能性。
そして、リィンの眷属にして家族≠ニなった少女だ。
「リィンに頼まれてたんだ。もしもの時はクロスベルのようにノーザンブリアの街も結界で守って欲しいって。ここには鐘≠ェないから少し準備に手間取っちゃったけど、間に合ってよかった」
一仕事終えたという顔で、サラリと重要なことを口にするノルン。
顔を見合わせ、まさかと言った表情でアルフィンたちが驚くのも無理はない。
リィンに頼まれていたと言うことは、
「まさか、最初からこうなること≠ェわかっていたのですか?」
この事態を予想していたと考えることも出来るからだ。
ノルンは幻と時。そして、空の三つの至宝の力を宿した零の巫女と呼ばれる存在だ。
ある意味で、最も神に近い存在とも言える。
しかも彼女は時の流れを読み、因果律に干渉すると言った能力を有していた。
歴史を変えるのは簡単なことではないとの話だが、それでも近い未来を予見することは出来る。
それだけにノルンがこの状況を予見し、リィンが密かに対策を練っていたのではないかと考えたのだろう。
「残念だけど、この世界の未来は私にも見えない。本来の歴史から大きく外れてしまってるから」
しかしノルンは首を横に振ることで、アルフィンたちの考えを否定する。
ノルンの未来を見る力は、本来ありえたはずの可能性を観測しているに過ぎない。
だが、この世界は因果の環から外れ、神々にも予見できない未来へと歩み始めていた。
原因は今更語るまでもなく、リィンにある。
「言ったでしょ? リィンに頼まれたって。本人曰く、猟兵の勘らしいけどね」
ノルンの話を聞き、そんなバカなと思う一方で『リィンなら……』と納得する一同。
リィンの直感の鋭さは、内戦時から嫌というほど目にしている。
ノルンが言うところの本来の歴史を知っているというのも理由の一つにあるのだろうが――
猟兵に育てられ、幼い頃から戦場を渡り歩いてきた経験も影響を与えているのだと考えられる。
数多の死線を潜り抜けてきた戦士の直感というのは、時に理屈を無視して正解に最も近いことがあるからだ。
すべてを予想していた訳ではないだろうが、アルベリヒが罠≠仕掛けていることくらいは推察できる。
最悪の場合、街が人質に取られ、ノーザンブリアの人々に害が及ぶ程度のことは想定していたのだろう。
「助かりました。出来れば、事前に報せて欲しかったですが……」
「敵を欺くには味方からとも言うでしょ? どこに目≠竍耳≠ェあるか、わからないからね。リィンの受け売りだけど」
「それは、まさか……」
スパイが潜んでいる可能性を示唆され、アルフィンは戸惑いを顕わにする。
地精と繋がっている裏切り者が近くに潜んでいることは、可能性として考慮はしていたのだろう。
しかし、出来ることなら杞憂であって欲しいと願っていたに違いない。
そんななか――
「やはり、そういうことですか……」
ノルンの話を聞き、ミュゼは合点が行ったと言う様子を見せる。
最初から地精と繋がっている者が身近にいることを疑っていたからだ。
「さすがだね。その様子だと、もう見当が付いてる?」
「以前から怪しい人間を候補に挙げて調査を進めていたので大凡の予想は付きますが……いまはやめておきます」
答え合わせをするにしても、きちんと場を設けるべきだとミュゼはノルンの問いに答える。
動揺を隠し切れていない様子からも、いまアルフィンに告げるべきではないと考えたのだろう。
それでなくとも目の前には問題が山積しているのだ。
それにノルンの口調からして、既に問題は解決していると考えるのが自然だった。
「……いろいろと聞きたいことはありますが我慢します。あとで説明してくれるのですよね?」
「うん。詳しい話はベルから聞いた方が早いと思うしね」
ノルンの口からベルの名を聞き、納得した様子を見せるアルフィン。
ミュゼを出し抜ける相手となると候補は限られる。
最初から、この件にベルが一枚噛んでいることを察していたのだろう。
「まだ気になることはありますが、一先ず街の安全は確保できた……となると、やはり一番の問題はアレ≠ナすか」
太陽は閉ざされ、まるで皆既日食でも起きたかのように世界は暗く、闇に沈んでいた。
この現象を生み出しているのが、ヴァリマールであることは疑いようがない。
問題はヴァリマールに何が起きたのかだ。
「やはり、お兄様の身に何か……」
リィンの身に何か起きたのではないかと心配するエリゼ。
騎神と起動者は一心同体の存在。エリゼがそう考えるのも当然と言える。
「……巨イナル一」
そんなエリゼの疑問に口を挟んだのは、ノルンではなくロジーヌだった。
千二百年前、魔女と地精によって異なる次元に封印された呪いの源。
焔と大地。二つの至宝が一つとなることで生まれた偶然の産物。
零の至宝にも匹敵する力を秘めた鋼の至宝。それが巨イナル一≠ニ呼ばれる存在だ。
「正解。呪いごと大地の聖獣を取り込むことで、リィンが贄≠ニして真の覚醒を遂げたみたいだね」
「それは……零の巫女であるあなた≠フようにですか?」
「半分正解で、半分はずれかな。リィンはまだ$l間だよ」
まだ……ということは、既になりかけている≠フだとロジーヌは解釈する。
そう、ノルンと同じ神≠ノ近い存在に――
だが、なりかけと言っても人間には到底及ばぬ力を持っていることは間違いない。
ただでさえ、一軍と一人で互角以上に渡り合えると考えられていたリィンが更なる力を得たのだ。
世界を滅ぼしうる力を手にしたと考えても過言ではないだろう。
(このことを教会の上層部が知れば……)
リィンの排除に動く可能性があるとロジーヌは考える。
現在は〈暁の旅団〉と敵対しない方向に動いてはいるが、それはあくまで騎士団の考えだ。
教会としての意思が統一されている訳ではない。
帝国で起きている異変の解決に動き出した僧兵庁を始め――
封聖省のなかにも、騎神は教会で管理すべきだとする考えを持った者たちがいるのだ。
『私は野暮用≠ェあって同行できませんが、あとのことはよろしく頼みます』
そのことから、トマスが同行しなかった理由をロジーヌは何となく察する。
以前から教会の上層部がリィンの排除に動く可能性をトマスは危惧していた。
野暮用というのは、恐らくその件に関係したことだと予想が付くからだ。
「何を考えているのか察しは付くけど、もう手後れ≠セと思うよ」
「……それは、あなた方が法国との戦争≠視野に入れているからですか?」
「気付いてたんだ」
「これだけ派手に動けば嫌でも気付きます」
既に〈暁の旅団〉は教会との全面衝突を視野に入れて動いている。
しかし〈暁の旅団〉の方から教会に仕掛ければ、各国は教会の味方をせざる得なくなる。
その先に待ち受けているのは、大陸全土を巻き込んだ戦争だ。
だからこそ、敢えて力を見せつけるように動き始めたのだとロジーヌは考えていた。
リィン率いる〈暁の旅団〉を危険視する教会の人間は少なくないからだ。
敢えて教会から手をださせるように挑発しているのだと受け取る。
「その計画……考えたのはベルさんですか?」
「あ、やっぱりわかる?」
わからないはずがないと言った様子で、溜め息を漏らすアルフィン。
自分たちの正当性を訴えるために、相手を挑発して手をださせるような謀略をエリィが考えるとは思えない。
となれば、こんな計画をリィンに提言できるのはベルしかいないと考えたからだ。
「……その計画にリィンさんだけでなく、あなたも手を貸していると言う訳ですか」
ノルンの態度から言って、教会との戦争に納得済みであることが窺える。
しかし、彼女はノルンと名乗ってはいるが、その正体は並行世界のキーアだ。
少なくともこの世界のキーアなら特別な事情もなく戦争≠引き起こすような計画に乗るはずがない、とアルフィンは考えたのだろう。
「必要≠ネことだからね」
――必要なこと。
ノルンがそう言い切るからには、他に手がないのだと推察できる。
恐らくそうしなければ、計画している以上の犠牲が生じることになるのだろう。
そこまで聞けば、何も言うことはなかった。
アルフィンも皇族だ。為政者としての教育は受けている。何が最善かわからないほど子供ではない。
でなければカイエン公に味方し、砦に立て籠もった貴族たちを粛清したりはしない。
あの時リィンに依頼して彼等を始末したのは、彼等を生かしておけば内戦の後始末が長引く可能性が高いと判断したからだった。
そのことが原因で貴族たちに恐れられクロスベルへと追いやられた訳だが、アルフィンは間違ったことをしたとは思っていなかった。
「この話は一先ず置いておきましょう。それよりも今は――」
ノーザンブリアの人々にどう説明したものかと――
闇に覆われた空を見上げながら、アルフィンは溜め息を漏らすのであった。
◆
「あれこれと気に病んでいたのがバカらしくなるわね」
「まったくじゃ……」
暗く染まった空を見上げながら、二人揃って溜め息を漏らすヴィータとローゼリア。
二人が溜め息を漏らしたくなるのも無理はない。
巨イナル一は魔女と地精が力を合わせることで、どうにか封印することに成功した人智を越えた力だ。
人間に扱えるものではないし、だからこそこの地に住まう人々は巨イナル一がもたらす呪い≠ノ苛まれてきた。
巨イナル一を生み出す切っ掛けを作った一族の末裔として、二人もこの問題をどうにかしたいとずっと思い悩んできたのだ。
ヴィータが盟主の誘いに乗り、結社へと身を置くことを決めたのもそれが理由の一つと言っていい。
だと言うのに――
「姉さん、お祖母ちゃんも、そのくらいで……」
「愚痴りたくもなるわよ。これって暴走≠オてると思う?」
「いや、暴走していたら、今頃は国中に呪いが溢れておるじゃろ」
しかし、呪いが溢れ出す様子はない。
それどころか、あれだけ国中を浸食していた呪いの気配が消え、怖いほどの静けさを見せていた。
考えられることは一つしかない。アレグレスにも出来なかったこと。
巨イナル一から漏れ出る呪いを一身に受けながらも、一切外へ漏らすことなく制御していると言うことだ。
それは即ち――
「巨イナル一を完全に自分のものにした、と言うことじゃろうな」
「今頃、アルベリヒは慌てふためいていることでしょうね」
巨イナル一の力を完全に自分のものにしたと言うことだ。
普通の人間に真似の出来ることではない。
幼い頃から鬼の力に触れながらも呪いをものともしなかったリィンだからこそ、出来たことと言えるだろう。
これまで自分たちがやってきたことはなんだったのかと――
二人が無力さを噛み締めるのも無理のないことだった。
「それにエマ、あなた気が付いてる?」
「うむ……恐ろしいほどの魔力を纏っておるの」
その影響はエマにも現れていた。
リィンと主従の契約を結ぶことで力を増したエマの魔力が更に膨れ上がったのだ。
ヴィータどころかローゼリアですら、足下にも及ばないほどの膨大な魔力。
凡そ人の身では扱いきれないほどの魔力が、エマの身体を満たしていた。
皆が無事に工房から脱出できたのは、この桁外れの魔力によるところが大きいと二人は考える。
精霊の道が他の転位術と比較して効率が良いとは言っても、規模が大きくなれば相応の魔力を消費することに変わりはない。
数千人の人間を一度に転位させるには、ヴィータやローゼリアだけの魔力では到底足りない。
騎神の力を借りても無事に全員を転位させるのは、本音で言えば難しいというのが二人の見立てだったのだ。
しかし、それを可能としたのがエマの魔力だった。
しかも、あれだけの術を発動した後だというのに、まったく消耗した様子がない。
いまのエマは魔王≠ノ匹敵する魔力を備えていると見て、間違いないだろう。
「人を化け物≠ンたいに言わないでください。ちょっと、どうして目を逸らすんですか!?」
信頼する家族からの不当な扱いに不満の声を上げるエマ。
とはいえ、人外の領域に足を踏み入れたことは紛れもない事実。
リィンと共に歩むと決めた時点で、こうなることは運命だったと言える。
「諦めなさい」
「うむ、諦めが肝要じゃ」
投げ遣りな二人の態度を見て、今更ながらに覚悟が揺らぐのを感じながらエマは肩を落とすのだった。
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