「しばらく仕事を休んで、身を隠した方がよくないですか?」
そう言って、同僚の女性を心配する素振りを見せる男性記者。
首からカメラをぶら下げた彼の名はレインズ。
グレイスの同僚にして、クロスベルタイムズのカメラマンだ。
そして彼には、もう一つの顔があった。
元リベール王国軍の大佐、アラン・リシャールが起業した民間の調査会社『R&Aリサーチ』の諜報員という顔が――
謂わば、情報収集のために王国が各国に放っているスパイの一人だ。
「これからって時に、なに言ってるのよ。これから世界は〈暁の旅団〉を中心に大きく動くわ。そんな彼等に密着して取材できるんだから、このチャンスをいかさずして何が記者よ!」
やる気を漲らせ燃えるグレイスを見て、深々と溜め息を漏らすレインズ。
電波ジャックを行ったのは〈暁の旅団〉だが、クロスベルタイムズも手を貸したことに変わりは無い。
そのことで帝国軍情報局に目を付けられ、帝国政府からは名指しで抗議される始末。
まだ帝国から直接の接触はないが、拉致や監禁の可能性も考慮しなければいけない状況だ。
事務所の周りにはルバーチェ商会の派遣した護衛がついていることからも、こういった荒事に慣れているレインズでさえ身の危険を感じる状況に置かれていた。
記者は元々危険と隣り合わせの仕事とはいえ、レインズがグレイスを心配するのは当然と言える。
「心配しすぎよ。彼等が用意してくれた護衛がついてるし、帝国軍の侵攻を阻止した結界もあるのよ」
とはいえ、グレイスの言葉にも一理あった。
ルバーチェ商会から派遣されてきた護衛は、あの西風の元部隊長ガルシア・ロッシが鍛えた精鋭たちだ。
高ランクの猟兵が相手でも、後れを取らない実力者が揃っている。並の相手なら返り討ちにあうのが関の山だ。
それにクロスベルには、帝国軍の侵攻を阻んだノルンの結界が張り巡らされていた。
この結界は物理的な攻撃を無効化するだけでなく、クロスベルに対して害意を持つ者の侵入を阻む術が組み込まれている。以前、クロスベルが独立宣言を世界に発した際、この地に伝わる〈鐘〉と零の巫女の力を使って展開した結界をベースにベル≠ェ改良したものだ。
ノルンはデミウルゴスへと至ったキーアのもう一つの可能性。並行世界のキーアだ。
この世界のキーアに出来たことが、ノルンに出来ない道理はない。
それに異世界の技術と知識を取り込み、ベルの魔導師としての力は以前と比較にならないほど向上している。
ベルの知識とノルンの力があれば、より強力な結界を張れたとしても不思議な話ではなかった。
しかし、この結界も万能≠ニ言う訳ではない。
あくまで結界が効力を発揮するのは、クロスベルに対して害意≠持つものだけだ。
レインズを例に挙げると分かるように直接的な危害を加える意志がない者には効果がなく、諜報活動を目的とした侵入者を完全に防げるものではない。それにあくまで侵入を阻む結界なので、結界内に入られてしまえば効果がないという欠点も抱えていた。
クロスベルは地政学上、帝国や共和国出身の人間が多い。
だから結界を張ったところで、既に多くのスパイや工作員に入り込まれていると考えて良いだろう。
本国の命令を受けて、そうした者たちがグレイスを標的にしないと言う保証はない。
そう言う意味では、レインズの心配も当然と言える。
だからと言って――
「ああ、記者魂が騒ぐわっ!」
グレイスが大人しくするとは、レインズも思ってはいなかった。
むしろ、こういう状況にこそ燃えるのが、グレイス・リンという記者だ。
だから危険を承知で、リィンの誘いに乗ったのだろう。
「早速、取材へ向かうわよ」
「えっと……どこへ?」
「空港よ! 代表団を待ち伏せて、通商会議のコメントを貰うわ」
――本当はノーザンブリアに取材へ行きたいんだけどね。
と話すグレイスに「勘弁してください」と、レインズは溜め息を漏らしながら肩を落とすのだった。
◆
『――帝都は随分と混乱しているみたいです』
政府や軍の施設に民衆が押し寄せているとクレアは話す。
クロスベルタイムズの報道でノーザンブリアへ侵攻した帝国軍が壊滅したことが市井に広まったからだ。
兵士の大半は爵位を持たない平民が多くを占めている。それは領邦軍も同じだ。
そのため家族や友人の安否を心配し、情報を求める民衆が政府や軍の施設に押し寄せた言う訳だ。
『ドライケルス広場にも民衆が集まって、皇家に説明を求める声が上がっているようです』
そして問題は政府や軍だけでなく、皇家や貴族に対する不信感にも繋がっていた。
百日戦役の真実が公表されることで、人々の心に国へ対する大きな不信感を芽吹かせた。
そして、先の内戦でも少なくない犠牲者がでたと言うのに今回の敗戦だ。
原因を作った貴族や、そんな貴族たちを御せなかった皇家へ矛先が向かうのは当然の流れと言えるだろう。
とはいえ――
『民衆の怒りの大半は、貴族へ向いているようですが……』
先の内戦から衰えを見せているとはいえ、皇家の人気は根強い。
皇家の求心力の低下。不甲斐なさを嘆く声はあっても、皇家のことを悪く言う人間は少ない。
帝国臣民にとって皇帝とは神に等しい存在で、心の拠り所ともなっているからだ。
それは皇帝を始め皇家の人々が献身的に国のため、民のために尽くしてきた歴史も背景にあるのだろう。
帝国中興の祖であるドライケルス帝の残した志が、いまも皇家には受け継がれていると言うことだ。
それに――
『暁の旅団……リィンさんに対する恐怖と憎しみが、今回の暴動の主な起因となっているようです』
敗走ではなく全滅。
十万近い兵士の命がたった一人の手によって奪われたと言う事実は理解しがたいものだ。
その力が帝国に――自分たちへ向けられるかもしれないという憶測が民たちの間で広がっていた。
実際、帝国はノーザンブリアだけでなくクロスベルにも攻撃を仕掛けているのだ。
報復として逆に攻め込まれたとしても、何かを言える立場にない。
そうした不安と恐怖が民衆を駆り立て、暴動へと発展させているとクレアは説明する。
「……この先の流れを、どう読みますか?」
話を聞いて逡巡する素振りを見せると、少し間を置きつつアルフィンはクレアに尋ねる。
クレアの言うように暴動の起因となったのは、ノーザンブリアでの戦争の結果がすべてだろう。
だが、それはリィンが望んでしたことだ。アルフィンにも、こうなることは予想できていた。
それよりも問題は、この後に予想される世界≠フ動きだった。
『帝国が引き下がることはないかと。少なくとも帝国政府から休戦の申し入れがあるとは思いません』
「……あれだけ一方的に敗退したと言うのに?」
『後先を考えなければ、帝国は百万の兵を動員できます。それに民衆の不安を抑えるためにも負けを認める訳にはいかない。対外的には強くでるしかないでしょう』
十万の兵を失っても帝国軍そのものが消滅した訳ではない。
常備軍だけでも六十万人以上。予備役の兵も入れれば八十万を超える。
更に徴兵をすれば、総兵力は百万を軽く超えるだろう。
まだまだ戦える余力を残している状況で、帝国が負けを認めるとは思えない。
それに降伏などすれば、民衆の不安を更に煽るだけだ。
強い帝国のイメージを崩さないため、これまで以上に強硬な姿勢を貫く可能性が高いというのがクレアの見立てだった。
『それに教会≠ノも不審な動きがあります』
「まさか……」
基本的に教会は一方の国に肩入れしたり、各国の内政に干渉することはないが例外は存在する。
それがアーティファクトの回収であり、異変に関することだ。
そして、今回の一件。
教会が介入するのに十分な理由があることにアルフィンは気付く。
『ノーザンブリアの異変解決に僧兵庁≠ェ動いたようです』
そんなアルフィンの考えを肯定するように、クレアはそう告げるのだった。
◆
「やはり、動きましたか」
アルフィンの話を聞きながらも、驚いた様子もなく紅茶を口に運ぶミュゼ。
その落ち着いた様子からも、教会の動きを予想していたのだろうとアルフィンは考える。
「……いつから、こうなると予想していたの?」
「オルディスで教会が接触してきた時からですね」
教会の人間と接触していたことを明らかにするミュゼに、呆れた様子を見せるアルフィン。
特に隠すようなことではないと本人は思っているのだろう。
しかし、それならそれで事前に説明して欲しかったと言うのがアルフィンの本音だった。
「リィン団長は気付いていましたよ?」
「……え?」
「星杯騎士団の副長さんと情報交換をしていたようで、教会内部も一枚岩ではありませんから」
リィンが知っていたと聞かされ、どこか納得した様子を見せるアルフィン。
最初からノーザンブリアを餌に教会を招き寄せるつもりだったと考えれば、一連の流れに説明が付くからだ。
これがリィンのことをよく知るトマスやロジーヌなら罠だと気付いたかもしれないが、相手は僧兵庁から派遣された僧兵たちだ。
黒の工房の動向を探り、介入する機会を窺っていたことからも、目の前に降って湧いたチャンスを棒に振るとは思えない。
上手く行けばリィンを始末し、星杯騎士団すら回収を断念した騎神を手に入れられるかもしれないからだ。
教会内の派閥争い。そこで優位に立つことこそ、僧兵庁の狙いにあるのだろう。
しかし、そうなるとミュゼが僧兵庁と、どんな取り引きをしたのかが気になる。
「……教会とどのような取り引きをしたのですか?」
「情報提供と物資の融通を条件に、領内の問題に教会は介入しない。むしろ、後ろ盾になってくださると力強い言葉を頂きました」
「それは……」
バラッド候ではなくミュゼの側に立つことを教会が約束したと言うことだ。
しかし領内のこととはいえ、これは紛れもなく内政干渉に当たる。
そこまで具体的な約束を交わしていたとは思わず、アルフィンが戸惑を見せるのは無理もなかった。
しかし、
「姫様はご存じないのかもしれませんが、特に珍しい話でもありませんよ」
教会は表向き中立を謳ってはいるが、それが守られているかというと微妙なところだ。
このゼムリア大陸において七耀教会は信仰の拠り所にして、人々の生活に欠かせない存在となっている。
教会のない街や村はないほどで、それほどの影響力を持つ教会が政治と無関係でいられるとか言えば難しい事情がある。
教会の運営費の大半は、寄付によって賄われているからだ。
そして教会の支援者の大半が、各国の特権階級や政府関係者に集中している実情がある。
表向きは内政に干渉しないと言っていても、そうも行かない現実があった。
「……事情は分かりました。とはいえ、情報提供ですか」
「はい、何か?」
「ミュゼ。あなた、こうなるように教会を誘導しましたね?」
否定しないミュゼを見て、やっぱりと溜め息を吐くアルフィン。
最初に疑問を持ったのは、幾らなんでも僧兵庁の動きが早すぎると感じたからだ。
焦っているというか、何かを急いでいるかのような動きの尚早さだ。
恐らくそれはミュゼが僧兵庁にもたらした情報に理由があるとアルフィンは考えていた。
「教会はいまなら<潟Bン団長を殺せると考えているはずです」
「まさか……」
「そのまさか≠ナす。教会は……いえ、僧兵庁は最初から戦争を止めるつもりなどなかった。〈黒の工房〉だけでなく帝国軍の相手も〈暁の旅団〉にさせ、すべてが終わったところで漁夫の利を得るつもりだったと言うことです。潰し合わせ、力を消耗したタイミングで仕掛ければ、巨神を討滅した怪物が相手でも勝てると計算したのでしょうね」
力任せに正面から挑み、封聖省の二の舞となることを恐れたのだろう。
だからこそ〈黒の工房〉と〈暁の旅団〉を潰し合わせることで、仕掛けるタイミングを探っていたのだとミュゼは話す。
ミュゼが話したのは、黒の工房の拠点に〈暁の旅団〉が突入する日が近いこと。
ノーザンブリアとの戦争にリィンが介入する可能性が高いことを示唆しただけに過ぎない。
しかし、僧兵庁はそれを仕掛けるべきタイミングと考え、準備を進めていたのだろう。
「まあ、私にも予想できなかったことがありますが……」
少し困った表情で頬に手を当て、そう話すミュゼ。
ミュゼが想定していなかったこと――
それはヴァリマールの変化と、いまノーザンブリアで起きている異変。
そして、黒の工房の拠点に取り残されたリィンが未だに帰還していないことにあった。
「もう一手、打つ必要がありそうですね」
「なるほど……それで、わたくしだけでなく彼女≠この場≠ノ招いたと言う訳ですか」
アルフィンとミュゼ。
二人の視線が扉の前で話が終わるのを静かに見守っていた少女に集まる。
短く纏められた銀色の髪に白く透き通るような肌。
深い夜の闇を連想させる紺色のドレスに身を包んだ少女。
「お力を貸して頂けますね?」
「はい。それが、ノーザンブリアのためになるのであれば……」
ミュゼの問いに寸分の迷いもなく答える彼女こそ――
悪魔の一族と蔑まれてきた大公家の末裔にして、ノーザンブリアの代表。
大公女、ヴァレリー・バルムント。それが、いまの彼女の立場と名前だった。
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