「ノーザンブリアに侵攻していた部隊が全滅した?」

 ジュライとノーザンブリアの中間に位置する荒野に帝国軍の後方基地があった。
 慌てた様子で天幕へと飛び込んできた兵士からの報告を受け、ありえないと言った驚きの表情を見せる老人。
 紫を基調とした帝国軍の軍服の上に白衣を纏った〝彼女〟の名は、ベアトリクス。
 トールズ士官学院の保険医で、アリサたちVII組の恩師でもある人物だ。
 現役を退いていたが政府からの要請でヴァンダイク学院長と共に軍へ復帰し、現在は後方支援の責任者を任されていた。
 元々〈死人返し〉の異名で呼ばれるほどの実力者で、老いた今でもその実力はヴァンダイクに次ぐほどと噂されている。
 実際、在学時代はラウラを含めたVII組の全員で挑んでも、ヴァンダイクとベアトリクスの二人に勝つことは出来なかった。
 そんな数々の功績と逸話を持つ彼女のもとに届いた報告というのが、ノーザンブリアへ侵攻していた三十万の軍が全滅したという信じがたい内容であった。
 カイエン公爵家やクロスベルの支援を受けているとはいえ、ノーザンブリアの戦力は五万に届くかかどうかと言ったところだ。
 普通に考えれば、六倍もの戦力差を覆せるとは思えない。ましてや、この戦争に帝国軍は最新鋭の兵器を幾つも投入しているのだ。
 それだけの兵力を投入しておきながら作戦が失敗したなどと、俄には信じがたい話であった。
 そんな中、ベアトリクスの脳裏に先の侵攻作戦のことが過る。

(まさか、灰の騎神が……)

 政府はリィン一人に十万の兵が壊滅させられたと言う話を本気で信じていなかったようだが、ベアトリクスは違っていた。
 誇張が混じっていようと実際に十万の兵は帰って来ず、二千人以上の兵士がノーザンブリアの捕虜となっている事実があるからだ。
 それにたった二機で、クロスベルへ侵攻した共和国軍の部隊を退けた実績が〈暁の旅団〉にはある。
 まだ正式に猟兵団を結成する前のこととはいえ、その当時ですらそれほどの力を持っていたのだ。
 そのため、帝国の方が数では上回っているとはいえ、今回の戦争も厳しい戦いになることをベアトリクスは予想していた。
 政府からの要請を受けたのも、それが理由と言っていい。
 少しでも、この〝無益〟な戦争での犠牲者を減らすこと。それが、ベアトリクスが軍に復帰した最大の理由であった。
 それだけに三十万もの兵士の命が失われたという報告は、ベアトリクスにとって受け入れ難い事実だった。
 とはいえ、

「詳しく状況を聞かせてください。もしかして、騎神が現れたのですか?」

 まずは状況を把握するのが先だと、報告に現れた兵士にベアトリクスは尋ねる。
 仮に騎神が現れたのであれば、そのことを帝都に連絡し、対策を整えなければならない。
 まだ二十万以上の兵士が後方には残されているが、三十万の兵力でも敵わなかった敵を相手に出来るとは思えないからだ。
 通常、軍は三割の人的損耗で全滅と表現されることが多い。これは組織的な戦闘の継続が困難になるためだ。
 ましてや、既に帝国軍は今回の戦争で投入した兵力の半数以上を既に失っている。
 いまの状況でノーザンブリア側が反撃に転じ、騎神が攻めてくるようなことがあれば帝都も危険に晒される可能性が高いとベアトリクスは考えたのだろう。

「いえ、それが……」

 黒い雷のようなものが戦場に降り注ぎ、部隊が壊滅したという話を兵士から聞き、ベアトリクスは困惑の表情を見せる。
 実際、報告している兵士も状況をよく分かっていない様子で困惑している様子が見て取れた。
 こんな報告を聞かされれば、普通であれば鼻で笑うところだ。
 兵士が報告を躊躇ったのも、信じて貰えない可能性が頭に過ったからだろう。
 上官に虚偽の報告と取られれば、処罰されることも十分にありえるからだ。
 もっともベアトリクスは、そんな愚かな上官ではなかった。
 先に侵攻した部隊はジュライや周辺の村々から徴用した兵士が主であったが、後方に控える部隊は違う。
 正規の訓練を受けた帝国正規軍の兵士が大多数を占めているのだ。すぐに嘘と分かるような報告をするとは思えない。
 それに常識では推し量れない出来事が、既に次々と起きているのだ。騎神や幻想機動要塞の存在もそうだ。
 常識では考えられない何かが戦場で起きていると考えるのが自然だろう。

(まずは情報を集めないと……。いえ、その前に司令部へ連絡を……)

 何が起きたのかを調べる必要があると考えるが、ヴァンダイクにも話を通しておくべきだとベアトリクスは考える。
 現在ヴァンダイクは司令部にて、正規軍の最高司令官として采配を振るっていた。
 とはいえ、作戦の決定権は政府が握っており、実際には〝お飾り〟のようなものだ。
 ヴァンダイクが司令官に任命されたのは、彼の人徳と権威を利用するためであった。
 一度目の侵攻が失敗したことで、落ち込んだ士気を上げる狙いもあったのだろう。
 しかし今なら、政府に停戦を働き掛けることも可能かもしれないとベアトリクスは考えていた。
 お飾りと言ったところでヴァンダイクを慕う者は多く、味方は少なくないからだ。

「至急、司令部に通信を――」

 ヴァンダイクと話をするため、部下に指示をだそうとした、その時だった。
 また一人、ベアトリクスのもとへ慌てた様子で兵士が駆け込んできたのは――
 最初に飛び込んできた兵士よりも息を切らせ、切羽詰まっている様子が見て取れる。
 何か、緊急を要する事態が起きたのだと察するベアトリクス。

(まさか、騎神が――)

 最悪の事態が頭を過ったところで、兵士の口から予想だにしない報告を耳にすることになるのだった。


  ◆


 帝国軍の兵士たちが包囲するように周囲を固めて警戒する中、いまは使われていない〝駅〟に一台の車両が止まっていた。
 ギリアス・オズボーンが提唱した領土拡張政策が盛んだった頃、補給線に使われていた軍の貨物路の一つだ。
 一般の人々には、ほとんど存在すら知られていない駅。そこに停車しているのは、銀色の装甲を持つ一台の列車であった。
 ――デアフリンガー号。
 政府の専用列車アイゼングラーフ号の同型機にして、現在はログナー侯爵家の所有とされている装甲列車だ。
 だが表向きそうなっているだけで、実際には決起軍と通じているという情報は帝国軍の中でも共有されていた。
 ノーザンブリアへ侵攻していた軍が壊滅したという報告を受けたタイミングで、そんな列車が現れれば警戒するのは当然であった。
 そんな中――

「まさか、あなたとこんな風に顔を合わせることになるなんて思わなかったわ」

 ベアトリクスはデアフリンガー号の車内で、護衛の兵士と共に会談に臨んでいた。
 危険だと警戒する兵士の声がある中、敢えてベアトリクスがデアフリンガー号に赴いたのには理由があった。
 ノーザンブリア側の代表として会談を求めてきたのは、嘗ての〝教え子〟であったからだ。

「私も、です。先生」

 クレア・リーヴェルト。氷の乙女の異名を持つ、鉄道憲兵隊の元士官。
 そして今は軍を辞め、暁の旅団に身を寄せているという噂はベアトリクスの耳にも届いていた。
 とはいえ、そのことでベアトリクスはクレアを責めるつもりはなかった。
 彼女に先の内戦の責任を取らせようとした政府にこそ、責任があると考えているからだ。
 それで優秀な軍人を一人失ったのだ。むしろ、帝国が受けた損失の方が大きいとさえ考えていた。

「それに……まさか、あなたもご一緒だとは……」

 そう言ってベアトリクスが視線を向けた先には、どこか高貴さを感じさせる見目麗しい女性の姿があった。
 リベール王国の王太女、クローディア・フォン・アウスレーゼだ。

「クローディア王女。あなたは、どうしてここに?」

 ノーザンブリアと帝国の戦争に王国が干渉するのか、と言った厳しい視線をベアトリクスはクローディアに向ける。
 ベアトリクス自身は今回の戦争は帝国に非があると考えているが、それとこれは別の問題だ。
 経緯はどうあれ、現在ノーザンブリアと帝国は戦争状態にある。
 仮に王国がノーザンブリアの味方をするというのであれば、帝国としても王国に対して相応の対応を取らざるを得ない。

「何か勘違いをされているようですが、私はただの見届け役です」

 見届け役。その言葉の意味を考え、ベアトリクスは推察する。
 そして――

「やはり、この会談の狙いは〝停戦交渉〟ですか」

 ベアトリクスの言葉に、無言で微笑みを返すクローディア。
 そのことから帝国側に交渉のテーブルに着く意思があるかを確かめるために、クレアが代表で派遣されたのだと察する。
 クローディアが一緒なのは、この提案がノーザンブリアからの正式な依頼であるということを証明すると同時に、王国が停戦の仲介役を務めると言う意味もあるのだろう。
 ベアトリクスとしては彼等が停戦を求めるのであれば、その提案に応じてもいいと考えていた。
 問題はそれを帝国政府が受けるかどうかだ。

(いまの政府では難しいでしょうね。それに……)

 仮に停戦となった場合、三十万もの犠牲者をだした政府や軍に対して国民の怒りが向く可能性がある。
 今回の戦争を決定した政府の関係者は責任を追及されることになるだろう。
 そして、皇家に対しても当然のことながら不満の声が上がるはずだ。
 先の内戦を止められなかったことやハーメルの悲劇の真実が公表されたことで、ただでさえ皇家の信用は損なわれている。
 そこに今回の戦争の結果が公表されれば、今度こそ国民は皇家を見限るかもしれない。
 そうなれば、再び内戦が引き起こされる可能性がゼロとは言えなかった。

「皇家の方々のことを心配されているのでしたら考えがあります。私の案と言う訳ではありませんが……」
「それは一体……」
「まだ全容は話せません。ですが、この計画を考えられたのは〝ミルディーヌ公女殿下〟とだけお伝えしておきます」

 クレアの話を聞き、目を瞠るベアトリクス。
 十年前、海難事故で命を落としたアルフレッド公の忘れ形見にして、いまオルディスを〝不当〟に占拠している決起軍の発起人。
 それがミルディーヌ・ユーゼリス・ド・カイエンであり、ミュゼ・イーグレットと名乗っている少女であった。
 もっともバラッド候や政府が認めていないだけで、彼女自身はカイエン公爵家の正式な継承者であると公言している。
 実際、血筋で言えば、ミュゼは間違いなく公爵家を継承する資格を持っている。
 本来、貴族の爵位というのは親から子に継承されることを考えれば、バラッド候よりも正当な資格を持つと言えるだろう。
 事故で命を落としたミュゼの父親であるアルフレッドは先代のカイエン公の兄であり、本来であれば彼女の父親がカイエン公となっていたはずだからだ。

「……嘘ではなさそうですね。分かりました。この件は私が責任を持って、上に伝えます」

 政府がどう対応するかは分からないが、どのみち戦争の継続は難しい状況だ。
 少なくとも軍の上層部は停戦に応じる可能性は高いと、ベアトリクスは見ていた。
 それにヴァンダイクであれば、誤った判断をすることはないだろうと考える。

「それと、もう一つ。どちらかと言えば、こちらが〝本題〟かもしれません」

 これ以上に重要なことがあるのかと言った表情を浮かべるベアトリクスに、クレアは信じられないような話を告げるのであった。


  ◆


「まさか、そんなことが……」

 死者が動き出し、ノーザンブリアだけでなく周辺の街へ向かっているとの説明を受け、ベアトリクスは困惑の声を漏らす。
 まさか戦場でそんな非現実的なことが起きているとは想像もしていなかったからだ。

「原理は私たちにも分かりません。ですが、原因は特定できます。恐らくは空に浮かんでいる〝あの要塞〟が元凶だと――。そして、帝国の各地に現れたという塩の杭。あれらも関係していると見て、間違いないでしょう」

 原理は分からないとクレアは言うが、根拠も無くそんなことを口にするような人物ではない。
 彼女がそう断言するからには、何かしらの根拠があるのだとベアトリクスは察する。
 恐らくは、この件にも騎神が関係しているのだと考えられるが――

(いまは詮索している時ではありませんか……)

 クレアの話が事実なら、もはや戦争どころの話ではない。
 そんな化け物が周辺の街や村を襲えば、被害は甚大なものになることが予想される。
 帝国だけの問題ではなく、人類の危機とも言える状況だ。

「想定される範囲が広すぎて、私たちだけでは被害を食い止めるのは不可能と判断しました」
「……それで、我々にも協力しろと?」
「帝国軍の協力が得られないのであれば、それはそれで仕方ありません。ですが、それで困るのは帝国の方ではありませんか?」

 クレアの言う意味が理解できないベアトリクスではなかった。
 仮に化け物が国境を越えれば、原因を作った帝国が各国の非難を受けるのは免れないからだ。
 しかし政府の回答を待っていては、被害を食い止められないかもしれない。
 だからこそ、クレアは直接乗り込んできたのだろう。
 後方の指揮をベアトリクスが執っていると分かった上で――
 ベアトリクスも、そんなクレアの考えは察していた。
 その上で――

「国境は我々が受け持ちます。そちらに増援を送ることは出来ませんが……」

 覚悟を決め、軍を動かすことを約束するのだった。


  ◆


「無茶をする」

 部下からベアトリクスの伝言を聞いたヴァンダイクは、どこか呆れた口調で話しながらも笑みを溢す。
 通信で直接伝えるのではなく、一方的に伝言を送ってきた理由を察したからだ。
 上からの命令を無視して勝手に軍を動かせば、どう弁明したところで軍法会議は免れない。
 だからと言って上の判断を待てば決定に時間を要する上、その責任をヴァンダイクに負わせることになりかねない。
 だからこそ自身の判断で軍を動かし、通達のみに留めたのだろう。

「ベアトリクスが覚悟を決めたというのに、儂だけがこのままと言う訳にはいかぬか」

 だが、この戦争に疑問を持っているのはベアトリクスだけではなかった。
 お飾りであることに気付きながらもヴァンダイクが軍に復帰したのは、この戦争の終着点を探るためでもあった。
 ベアトリクスが立てた道筋。いまならば、この戦争を止められるかもしれないとヴァンダイクは考える。
 ならば――

「若者よ、世の礎たれ。ならばこそ、まずは我々年寄りが示すべきだろう」

 かの獅子心皇帝の言葉を胸に刻みながら、ヴァンダイクも自身に出来ること為すため、動き始めるのだった。



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