帝国の南東部。リベールとの国境に近いパルム近郊で、恐ろしくも幻想的な光景が人々の目を釘付けにしていた。
細かく砕けた塩の欠片が、雪のようにパラパラと街に降り注ぐ。
帝国各地に現れた〈塩の杭〉思しき巨大な構造物が突如、崩壊を始めたのだ。
不吉の前兆だ。この世の終わりだと慌てる人々がいる中、街を一望できる高台に〝親子〟の姿があった。
戦争の道具と言えば〝銃〟が主流となりつつある現代において、時代遅れとも言える大剣を携えた父と娘。
旅行客には見えないし、帝国軍の兵士と言った風にも見えない。
旅の剣士という表現がピッタリ合いそうな風貌の親子の正体は、帝国に名を馳せる二大剣術の一派。
アルゼイド流の総師範にして〈光の剣匠〉の名で知られるヴィクター・アルゼイドと、その娘のラウラであった。
「どうにか片が付きましたね。騎神に似た敵が現れた時は、どうなることかと思いましたが……」
「所詮は紛い物だ。〝いまの我等〟に斬れぬ道理はない」
いまの――ヴィクターが口にした言葉が意味するところを、ラウラも理解していた。
一度死んで甦ったと言うだけでも信じられないが、こうしている今も身体の奥底から溢れてくる力は想像の域を超えていたからだ。
自分たちが人ではなくリィンの眷属に――〝不死者〟となったのだと実感するほどの力。
以前フィーが言ってた〝人を辞める〟と言う意味が、いまならはっきりと分かる。
一生を剣に捧げて技術を磨いたところで、人の身では辿り着けない境地に自分は立っていると実感できるからだ。
自惚れではない。いまの自分なら〝一軍〟が相手であったとしても、この身と剣だけで退けることが出来るだろう、と――
「ラウラ、自信を持つのはいい。だが、力に呑まれるな」
「――! は、はい、父上」
そんな考えをヴィクターに見透かされ、ビクリと肩を震わせるラウラ。
まだ先程の戦いの高揚感が身体に残っているのも、そんな考えが頭を過った理由にあるのだろう。
しかし自然と人外になったことを受け入れ、好戦的な考えに至っていたことにラウラは恐怖を覚える。
まるで身体だけでなく〝心〟まで、人ではなく怪物のものに変わってしまったかのような錯覚に襲われたからだ。
「何を考えているのかは分かるつもりだ。だが、そなたはそなただ。ラウラ」
「私は私……」
「剣は心で振るものだ。心が歪んでいれば、正しい剣は振れぬ。だが――」
ラウラの剣筋は少しも歪んでいなかった。
ヴィクターが幼い頃から知るラウラの剣。己を信じ、恐れに打ち勝とうとする実直な剣だった。
それは力に振り回されている部分は多少あるのだろうが、心まで呑まれていないと言うことだ。
力に溺れる者は人を見下し、他人の言葉に耳を傾けないものだが、ラウラは違う。
「力は所詮、力だ。扱う者によって、ありようは如何様にも変わる。それを誰よりも強く体現している人物を、そなたは既に知っているはずだ」
「あ……」
ヴィクターに言われて、ラウラの頭にリィンの姿が過る。
一軍に匹敵。いや、国すら滅ぼせるほどの力を持ちながら、少しもぶれることなく自らの生き方を貫く男の姿が――
それは彼が猟兵だから――ヴィクターの言うように『力は所詮、力』でしかないと言う意味を理解しているかだろう。
ヴィクターと違うところがあるとすれば、リィンは必要とあればその力を誇示することも躊躇わないところだ。
十万の兵士を殺したのも警告であり、自身を抑止力とするため。
強大な力がもたらす結果、恐怖が人々に与える影響をよく知っているからだろう。
ヴィクターの言うように確かにリィンほど力に溺れず、それを体現している人物はいない。
だが、それだけに思うのだ。
「……兄上は大丈夫でしょうか?」
リィンが持つ力は強大だ。それこそ、ラウラがその身に感じている力ですら、ちっぽけに思えるほどに――
リィンなら大丈夫という根拠のない理由で、これまでは不安に思うこともなかった。
しかし不死者となった今だからこそ、リィンが内に秘めた力の強大さが理解できる。
人の身では――いや、人外の怪物であっても持て余すほどの力が、リィンにはあるのだ。
ヴィクターの言うように力は所詮、力だ。
しかし大きな力は時に自身を傷つけ、破滅を招くこともある。
リィンなら大丈夫だと信じたいが、ラウラが不安に思うのも無理のないことだった。
「何を心配しているかは理解できるつもりだ。しかし、彼は〝ひとり〟ではない」
そう言われて、真っ先にラウラの頭に過ったのはノルンの姿だった。
街を覆うような結界を張り、高度な転位術を使いこなし、聖獣を従える少女。
リィンの養女と言うこと以外、ラウラはノルンについて詳しくは何も知らない。
分かることは、彼女も自分たちと同じ――リィンの〝眷属〟であると言うことくらいだ。
しかし、自分たちと違う〝役割〟を彼女が担っているということはラウラにも理解できた。
塩の杭が機能を停止したのを見届けると、何かを察知して二人の前から姿を消したのだ。
恐らくはリィンのもとへ向かったのだと推察できる。
「確かに〝彼女〟なら……」
それにフィーやエマもいる。
ヴィクターの言うように自分が心配するようなことではないのだろうと、ラウラは納得する。
納得するのだが――
「違う。〝彼女たち〟だ。そのなかにはラウラ――そなたも含まれているはずだ」
ヴィクターはそんなラウラの考えを察し、誤りを訂正する。
驚いた様子を見せるラウラだが、何とも思っていなければリィンがラウラを救うことはなかったとヴィクターは考えていた。
どちらかと言えば、自分が不死者として甦えることが出来たのは、ラウラのお陰だと察していたからだ。
「確かに彼は〝猟兵〟だ。だが、それだけが理由ではないだろう」
戦力になるからと言う理由だけで、ヴィクターとラウラを甦らせた訳ではないだろう。
そもそもリィンは騎神の起動者であり、自身も一国を相手取れる力を持ちながら猟兵団の団長もやっている。
腕が立つと言っても、たかが人間の剣士二人をリスクを冒してまで生き返らせる理由としては薄い。
そのことからも自身の秘密を共有しても構わないと思えるほどには、ラウラのことを信頼していると言うことだ。
ヴィクターも一定の信用は得ていると思うが、信頼されていると言うほどにはリィンとの関係は深くないと自覚していた。
となれば、こうしてヴィクターが甦ることは出来たのは、ラウラのお陰と考えるのが自然だ。
「孫の顔を見られるのも遠くはなさそうだな」
「ち、父上!?」
寂しくもあるし、複雑な感情はある。
しかしリィンほどの強者なら娘を任せられる資格は十分にあると、ヴィクターは考える。
「しかし一度死んで甦った身。子供が出来るかどうかは、ミルスティン女史に確認を取っておく必要があるか……」
「絶対に止めてください!」
リィンの仲間でこういうことに一番詳しそうな人物と言うことでエマの顔が浮かび、ヴィクターが名前を口にした瞬間――
ラウラは鬼のような形相で、父親に詰め寄る。
ベルに相談するよりはマシかもしれないが、それでも相談されたエマが戸惑う姿は想像に難しくない。
他意はないと言ったところで通用しないだろう。誤解を生むことは目に見えていた。
「まったく……父上も少し変わられたのでは?」
以前はこのような話をする父親ではなかっただけに、ラウラは訝しげな視線を向ける。
無口で必要なことしか口にせず、家での会話も二言三言と言った感じで、こんな風に話が弾むこともなかった。
自分のことは余り語ろうとしない父が、こんな風に冗談を言うところをラウラはほとんど見たことがない。
悪い意味ではないが、変わったと感じるのも無理のないことであった。
「変わった、か。そうなのだろうな」
一度、死んだ身だ。帝国最強の剣士、ヴィクター・アルゼイドはもういない。
なら祖先のように一人の剣士として腕を振るい、更なる高みを目指すのも悪くはないと――
以前の自分からは思いもしなかったようなことをヴィクターは考えていた。
肩の荷が下りたとは、こういうことを言うのだろうとも思う。
自分でも気付かない内に〈光の剣匠〉の名は、重荷となっていたと言うことなのだろう。
「ラウラ、今日をもって免許皆伝を授ける」
奥義を伝授された時から、いつかはこういう日が来るとは思っていた。
しかし突然の機会に戸惑い、ラウラは反応が遅れる。
とはいえ、そこはさすがに一流の剣士と言ったところか?
すぐに頭を切り替え、父親に接する娘ではなくアルゼイドの剣士として、ラウラは礼の構えを取る。
ヴィクターは父親であると同時にラウラにとって憧れであり、師でもあるからだ。
故に剣の修行に明け暮れた日々を思い浮かべながら、ここまで自分を鍛えてくれたことに感謝し――
「これから私は〝私の道〟を行くつもりだ。そなたも、そなたの道を行くがいい」
師の言葉を一字一句噛み締めながら、ラウラは深々と頭を下げるのであった。
◆
「こいつは……」
戦いの気配を辿って砦の最上階に辿り着いたリィンとアリアンロードを待っていたのは、黒い瘴気に包まれた一体の騎神――
〈緋の騎神〉の変わり果てた姿だった。
禍々しい気配を放つ〈緋の騎神〉にリィンが眉を顰める中、
「どうやら〝呪いの力〟に呑まれたみたいですね」
呪いの浸食を受けたのだと、アリアンロードは分析する。
リィンは何事もなかったが、本来であれば呪いの力というのは人の身で取り込めるものではない。
呪いによって生まれた瘴気は周囲の環境を変化させ、肉体だけでなく魂すらも浸食する。
魔王の力を宿した騎神と言えど、過ぎた薬は毒となるように大量の瘴気を取り込めば、まったく影響がない訳ではない。
それに起動者は生身の人間だ。どれだけ強靱な精神力を持っていようと、強大な負の力に抗えるはずもなかった。
死ぬまでイシュメルガの声に抗い続けたドライケルスのような存在が稀なのだ。
そのドライケルスとて、呪いの力を直接取り込めば無事では済まなかっただろう。
「嫌な予感が的中したってことか……」
異界より最後の一体となった騎神〈ゾア=ギルスティン〉をこの世界に呼び寄せ、黒の騎神を依り代とすることで〈巨イナル一〉の力を取り込むつもりだったのだろう。
しかし、その計画は失敗に終わった。
マクバーンのように異なる次元の同一存在であれば融合することが可能だと判断したのだろうが、異界より呼び出された最後の騎神は〝黒の騎神〟ではなかったからだ。
そのため、イシュメルガは触媒とした器を奪われ、精神だけの存在となった。
この物質世界において幻獣がそうであるように、霊的な存在は存在を維持するだけで力を消耗する。
だからこそ、セドリックを新たな宿主に選んだのだろう。
そしてオルトロスの記憶と知識をコピーし、セドリックに偽帝オルトロスの生まれ変わりであると思わせることで自身の存在を隠し、セドリックだけでなく周囲の眼も欺いたのだ。
真の計画を隠すために――
二度に渡る計画の失敗で精神だけの存在となっても、いまだに巨イナル一を手にすることを諦めていないと言うことだ。
だからこそ息を潜め、機会が訪れるのを待っていた。
その結果が、リィンとアリアンロードの目の前で禍々しい気配を放つ〈緋の騎神〉と言う訳だ。
しかし、これもまだイシュメルガの計画の途中と思っていいだろう。
イシュメルガの目的は巨イナル一の力を手にし、女神に代わってこの世界の〝神〟なることだからだ。
なら、イシュメルガは今度こそ、ゾア=ギルスティンとの融合を目指すはずだ。
テスタロッサとゾア=ギルスティンが衝突すれば、勝っても負けても相克によって二つの力は融合することになる。
それこそが、イシュメルガの最後の秘策であると、リィンたちは考えていた。
「テスタロッサ……いや、イシュメルガの相手は俺がする。リアンヌは、もう〝一体〟の方を頼む」
「さすがですね。やはり、気付いていましたか」
緋の騎神を見下ろしながら話すリィンに対して、アリアンロードは遥か上空を見上げる。
出方を窺うように、月を背にして地上を俯瞰する白銀の騎神――ゾア=ギルスティンの姿があった。
儀式によって力を取り戻したとはいえ、銀の騎神だけで〈ゾア=ギルスティン〉の相手が厳しいことはリィンにも分かっていた。
戦力的に考えれば、アリアンロードがイシュメルガの相手をするのが正しいのだろう。
しかし、それで〈銀の騎神〉まで呪いに侵され、イシュメルガに取り込まれてしまっては意味がない。
呪いの力に抵抗する術を持つリィンだけが、イシュメルガに対抗できるというのはアリアンロードも理解していた。
故に――
「足止めだけでいいのですか?」
「……大きくでたな」
「イシュメルガとの相性が悪いことは認めます。ですが――」
私は伝説に謳われる聖女です、と自信を顕わにする。
自分に心配をかけないため、目の前の敵に集中できるようにとアリアンロードなりの激励だと理解しながらも――
「なら、伝説に恥じない力を見せてくれ」
リィンは挑発するかのように、猟兵らしく好戦的な笑みを浮かべるのであった。
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