碧と緋の混じり合った〝暁〟をイメージさせる空の下、灰色の大地が広がる世界。
テスタロッサより吸収された呪いの力が、灰色の大地に溶け込むように消えていく。
本来は呪いの力を吸収するなんて真似をすれば、アルグレスのようにヴァリマールも呪いに精神を侵されて、自我を失っていたはずだ。
大地だけでなく空も黒く染まり、この世界は完全に闇に閉ざされていたことだろう。
しかし、いまのヴァリマールは〝灰の騎神〟と呼ばれていた頃のヴァリマールとは違う。
起動者と共に成長を続け、自らの限界を悟ったヴァリマールは進化を求めた。
この先もずっとリィンと共にあるため、起動者の力となるために――
そして辿り着いた答えが〝王者の法〟や〝巨イナル一〟のように、リィンの力の一部となることであった。
勿論、ヴァリマールの力だけでは成功しなかっただろう。
エマとヴィータの協力。そして他の騎神の同意があったからこそ、ヴァリマールは〝七の騎神〟という枠組みから逸脱した存在へと進化することが出来たのだ。
新たな〝権能〟――黒を除いた六の騎神を構築することで――
いまのヴァリマールは騎神でありながら、リィンが持つ〝異能〟の一つとなっている。
リィンが死ねば、当然ヴァリマールの存在は消える。
この先、リィン以外の人間とヴァリマールが契約を結ぶことは永遠にない。
そうなると分かっていて自身のすべてを捧げることで、ヴァリマールはリィンを〝最後〟の起動者に選んだのだ。
結果、ヴァリマールは強大な力を得た。
リィンの眷属となることで嘗ての力を取り戻したローゼリアよりも、遥かに大きな存在へと進化した。
それも当然と言える。ヴァリマールが捧げたのは、己が存在のすべてだ。
代償は大きければ大きいほど、得られる対価も大きい。
眷属ではなく異能――いや、権能とも呼ぶべき存在になることで、至宝に並び立つ力を得たのだ。
例えるなら、いまのヴァリマールは〝灰〟ではなく〝暁〟の騎神と呼ぶのが正しいだろう。
世界でたった一人――〝リィン・クラウゼル〟のためだけに存在する騎神なのだから――
それにローゼリアが例えたように、リィンの持つ力は世界そのものを内包しているかのように底が見えない。
コップに墨を落とせば水は黒く濁るだろうが、広大な海に僅かな墨をまぜたところで影響などゼロに等しい。
そんな世界の一部となったヴァリマールに、人の悪意が生んだ〝程度〟の力が通用するはずもなかった。
そう、この世界はヴァリマールの精神が眠る世界であると同時にリィンの心象世界でもあるのだ。
だからこそ、
「……妙だな」
異物が侵入すれば、すぐにリィンには分かる。
しかし、イシュメルガの反応をリィンは感じ取れずにいた。
いまのイシュメルガは帝国全土から集められた〝呪い〟の力と完全に同化しているはずだ。
そうしなければ存在を保てないほどに弱っていることは間違いないと、リィンは確信していた。
だから、この精神世界で最後の決着をつけるために、テスタロッサを浸食していた〝呪い〟を吸収したのだ。
なのに、イシュメルガの存在を感じ取れないことにリィンは怪訝な表情を見せる。
『……主よ。いま戻った』
「アルグレスか。ノルンはどうした?」
『我の〝本体〟と共に要塞の外で待機している。制御を失ったグールが向きを変え、大部分が北西へと向かっているようだ』
「なに? そっちは確か……」
リィンの影から全高二十アージュを超える巨大な竜が姿を現す。
それは大地の聖獣アルグレスが自らの精神をリィンのもとへ送り込むために生みだした分体であった。
普通ならそんな真似は出来ないが、この世界はアルグレスにとっても新たな命を授かった〝故郷〟と言っていい。
呪いごとリィンに存在を吸収され、生まれ変わったのが今のアルグレスであることを考えると、いまのヴァリマールに近い存在と言えるだろう。
アルグレスが現れたことに特に驚く様子もなく、リィンは何か考え込む様子を見せる。
帰還の報告もあるがグールのことを早急に報せる必要があると感じて、この場に姿を見せたのだろう。
ノルンが外の警戒に当たっているのは、万が一に備えてのことだと察せられる。
そして、アルグレスの話からも恐らくグールの群れが向かっているのはジュライだと予想できる。
(亡くなった兵士の大半は、この戦争のために動員された徴用兵って話だったな)
だとすればグールとして甦って尚、愛する人や家族のもとへ帰りたいという思いが――
帰巣本能のようなものが働いているのかもしれないと、リィンは考える。
しかし、そんな状態で故郷へ帰ったところで、更なる悲劇を生むだけにしかならない。
哀れではあるが、このまま消してやった方が……と考えたところで、リィンは違和感を覚える。
「グールは〝呪い〟の力で動いているんだよな?」
『その通りだが、それがどうかしたのか?』
「……なんで、まだ動いているんだ?」
呪いの力の大半はイシュメルガに吸収されたはずだ。
いや、そもそもの話、帝国全土に現れた〈塩の杭〉も怒りや悲しみと言った人々の負の感情を糧に〝呪い〟の力を増幅する狙いがあったのだと推察される。戦争を引き起こして三十万もの兵士の命を奪ったのも、相克の条件を整える以外に〝呪い〟の力を高めて吸収する狙いがあったのだろう。
なら、すでにグールとなった人々は役割を終えていると考えるのが自然だ。
一時的にグールとして甦ったとしても、最終的にはイシュメルガが〝呪い〟の力をすべて吸収してしまえば消えるはず。
なのに、まだ動いていると言うことは、まだ〝呪い〟の力は残っていると言うことになる。
儀式に失敗した? すべてを吸収することが出来なかった?
いや、違う――と、リィンは考える。
「帝国中から集めたにしては、力の総量が小さすぎる」
ヴァリマールがテスタロッサから吸収した〝呪い〟の力は、確かに常人であれば精神を崩壊しかねないほどのものだ。
だが、それは毒に侵されたら大半の者は死ぬと言っているのと同じに過ぎない。
帝国中から集めたという割には、ヴァリマールが吸収した呪いの量が余りに小さいとリィンは感じる。
そして――
「まさか、シャーリィの奴!?」
シャーリィが何をしたのか?
イシュメルガがどうなったのかに気付き、リィンは困惑と驚きに満ちた声を上げるのだった。
◆
一体なにが起きているのかと言った様子で、困惑の表情を浮かべるアルフィンの姿があった。
ベルによって送り込まれた〈緋の騎神〉の精神世界で、セドリックを探していたところまでは覚えている。
しかし決死の覚悟で挑んだ結果は、予想だにしない状況が待ち受けていた。
「陛下はご無事です。精神に大きな負荷を受けた影響で、いまは眠っておられますが……」
少し時間はかかるかもしれないが目覚めるはずだと、すやすやと眠るセドリックに膝枕をしながらトワは語る。
ここは夢の中のようなものなので実際に無事かどうかは見た目だけで判断しにくいが、トワが嘘を言ってるようには見えなかった。
それよりも問題は――
「トワさん……あなたが、どうしてここに……」
どうしてトワが〈緋の騎神〉の精神世界にいるのかとアルフィンは疑問を持つ。
取り込まれたセドリックや起動者のシャーリィなら分かるが、トワがこの場にいる理由が想像できなかったためだ。
「はは……どうしてでしょうね。こんなはずじゃなかったんですけど……」
そんな風に乾いた笑みを浮かべるトワを見て、アルフィンの胸に何とも言えない切なさが宿る。
状況を理解していないと言うよりは罪悪感に苛まれ、酷く落ち込んでいると言った様子が見て取れたからだ。
これでは、まるで――
「まるで、そのとおりです。目の前にいる私が、すべての元凶――〝黒の巫女〟の正体です」
アルフィンの心を読んだかのように、トワは自虐的な笑みを浮かべながら疑問に答える。
いや、実際にアルフィンは疑問を口にしていない。トワがアルフィンの考えを読んだのだ。
優れた感応力を持つ者は未来を予測するような直感を発揮したり、相手の考えを読むことが出来ると言った話をアルフィンは思い出す。
実際ノルンやキーアがそうした超常的な力を持っていて、二人には劣るがレンやティオも近い力を有していた。
しかし以前のトワに、そんな力はなかったはずだ。
確かにクレアが認めるほど頭脳明晰で勘の鋭いところはあったが、超常的な力は所持していないはずだった。
なら、どうして――と言う疑問がアルフィンの頭に浮かぶ。
「黒の巫女と言うのは、黒の騎神の巫女と言う意味ではありません。黒の巫女とは、黒の史書の大元となるシステム――の代行者」
肝心な部分がアルフィンの耳には聞き取れない。
しかし、それがトワを変えてしまった原因だということは察することが出来た。
「私は取り返しのつかないことをしてしまった。でも、幸いにも〝元凶〟の一つは取り除かれ、セドリック陛下は寸前のところで精神の消失を免れ、私も自我を取り戻すことが出来ました。それもイシュメルガ諸共、呪いの大半をシャーリィさんが引き受けてくれたからなのですが……」
セドリックが無事なのはシャーリィのお陰だと聞かされて、驚いた様子を見せるアルフィン。
まさか、シャーリィがそんなことをしているとは思ってもいなかったからだ。
だとすれば、テスタロッサが暴走したのも、それが原因なのではと考えるが――
「いえ、違います。イシュメルガは集めた〝呪い〟の力と一緒に吸収されて、もうこの世に存在しません」
「え……じゃあ、リィンさんと戦ってたのは?」
「シャーリィさんの〝意志〟と言うことになりますね。まだ力を使いこなせていないようですが」
トワから大凡の事情を聞かされ、何とも言えない表情を浮かべるアルフィン。
セドリックのことも勿論心配だったが、シャーリィのことも気に掛けていたからだ。
なのにリィンと戦っていたのはイシュメルガではなくシャーリィだと聞かされたら、複雑な感情を抱くのも無理はない。
いや、そもそもそんなことが人間に可能なのかと言った疑問がアルフィンの頭に浮かぶ。
聖獣ですら自我を失うほどの〝呪い〟を吸収しながら、暴走することなく自我を保つと言うことが――
ましてやイシュメルガも吸収してしまうなど、俄には信じがたい話だった。
それは説明しているトワも感じていることなのだろう。
普通の人間なら発狂するような悪意に晒されて、シャーリィは笑みを浮かべていたのだ。
これについてはイシュメルガも完全に想定外だったに違いない。
帝国全土から集められた負の感情よりも、シャーリィの〝狂気〟が上回ったと言うことなのだから――
「〝リィン団長〟とは別の意味で、彼女も規格外の〝怪物〟なのだと思います」
シャーリィ・オルランド。彼女は間違いなく、リィンと同じく人外の怪物だと――
いや、人でありながら怪物の精神を持っていた彼女は、魔王の因子だけでなくイシュメルガを取り込むことで〝真の怪物〟へと進化を遂げたのだろう。
それが、トワの導き出した答えだった。
魔王の放つ狂気に晒されても平然としていた時点で、シャーリィの異常性を察するべきであった。
自分が捕食者のつもりでいて獲物に成り下がるなど、イシュメルガは選ぶ相手を間違えたと言うことだ。
「では、もうこれで……」
すべて解決したのではないかとアルフィンが口にすると、トワは首を横に振る。
先程トワは〝元凶の一つ〟が取り除かれたと言った。
それは即ち、まだ解決すべき問題が残っていると言うことを示唆していた。
そう言われてアルフィンの頭に真っ先に浮かんだのは、白銀の騎神――ゾア=ギルスティンの姿だ。
しかし、トワは再び首を横に振る。
「〝あの人〟のことはリィン団長に任せておけば問題ありません。むしろ、脅威なのは――」
トワが地面に向けて腕を振り下ろすと周囲の景色が変わり、外の光景が映し出される。
上空から地上を見下ろしているような状況に、驚きと戸惑いを見せるアルフィン。
しかし、すぐにその驚きは別の対象へと移る。
「あれは……」
地上を徘徊するグールの群れを目にしたからだ。
数十万を超えるグールの群れが街を呑み込みながら数を増やして、大陸を呑み込んでいく光景がそこには広がっていた。
いや、人だけではない。呪いによって凶悪化した魔獣。瘴気に侵された獣が人を襲うことで、更に数を増やしていく。
世界が混沌に包まれ、最悪の状況へと陥っていく様は悪い夢と片付けるには余りに凄惨な光景であった。
「これは嘗て起きた光景。そして、これから起きる〝この世界〟の未来でもあります」
世界の滅びの瞬間を見せられ、呆然と固まるアルフィンにトワはそう告げる。
再び場面は切り替わり、ジュライや帝国方面へ向かうグールの群れが映し出される。
それは夢ではなく現実の光景であった。
「儀式の完了を待たずイシュメルガが消滅したことで、行き場を失った〝呪い〟の力が〝屍人〟の暴走を招いた。このまま放って置けば、パンデモニウムの影響は帝国やノーザンブリアだけでなく大陸全土に広がり、人々の恐怖と嘆きが世界を滅ぼすまで〝呪い〟の力を大きくしていく……」
そうなったら最初に見せた光景と同じことが、この世界でも繰り返されることになるとトワは語る。
グノーシスを原因とする集団暴走事件。
あれとは比較にならない規模の暴動が世界で起きるということを、それは示唆していた。
「それなら、リィンさんに相談をすれば――」
リィンなら〝呪い〟の影響を受けずに消し去ることが出来るのは、先のアルグレスの一件からも明らからだ。
リィンに相談をすればと訴えるアルフィンに、トワはそれは難しいことを説明する。
「国そのものを焼き払うつもりなら、それも可能かもしれません。ですが……」
確かにリィンは呪いの影響を受けないが、イシュメルガがやったように〝呪い〟を集められる訳ではない。
仮に拡散した〝呪い〟を浄化するのであれば、終焉の炎を打ち込む必要があるだろう。
しかし、それには最低でも帝国やジュライは焦土と化す必要がある。
そもそも根本的な原因を解消しなければ、グールを倒せば解決と言う訳にはいかないからだ。
「まさか……」
トワが何を考えているのかを察して、アルフィンは息を呑む。
トワの話が真実であればイシュメルガが存在しない今、行き場を失った呪いの〝受け皿〟となれる存在は一人しかいないからだ。
「クロウくんに謝っておいてください」
「待っ――」
トワを止めようと手を伸ばすが、急速に現実世界へと意識が引き戻されていくのをアルフィンは感じ取る。
それでも――
「ダメ……戻って――トワさん!」
離れていくトワの姿を目に焼き付けながら必死に手を伸ばし、アルフィンはトワの名を叫び続けるのであった。
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