光を通さない暗闇の中で膝を抱えて蹲る小柄な女性の姿があった。
アルベリヒの目に留まり、儀式に必要な呪いの受け皿とするため、選ばれた不運な女性。
しかし本来の歴史では、士官学院を卒業した後に教官となり、その傍らでNGOにも参加し、卓越した交渉術と持ち前の度胸で目覚ましい活躍を見せるはずだった。
そんな彼女の名は――トワ・ハーシェル。
ノルンやキーアがそうであったように、リィンによって運命を大きく変えられた一人と言って良いだろう。
しかし、リィン自身が彼女に何かをした訳ではない。軍人となる道を選んだのも彼女自身の選択だ。
その結果アルベリヒに利用されたのだとしても、これからやろうとしていることを含めて、すべて彼女自身が決めたことだった。
だから――
「これで……よかったんだよね?」
トワは自らの意志で、帝国を蝕む呪いの力と共に消えようとしていた。
嘗て、人の姿と意志を持った〝幻の至宝〟がそうしたように――
もうそれしか、この世界を救う方法がないと考えたからだ。
それに呪いに蝕まれ、グールと化した人々の魂もトワは救いたいと願っていた。
アルベリヒの計画に利用され、戦争の犠牲となった人々に罪はないからだ。
なのに、これ以上彼等の死を冒涜し、罪を犯させるような真似をトワはさせたくなかったのだろう。
だから、選んだ。
自分一人が〝犠牲〟となることで、この世界を〝呪い〟から解放するという手段を――
幸いにも儀式に必要な条件はアルベリヒが揃えてくれていたので、トワ一人でも儀式を起こすことは出来る。
しかし、黒の巫女――聖杯だけでは儀式は完成しない。
集められた呪いの力を利用して、儀式を完成させるための〝贄〟が必要不可欠だからだ。
しかし、これからトワがやろうとしていることに、リィンの代わりに贄に選ばれたセドリックの力は必要なかった。
アルベリヒが〝巨イナル黄昏〟と呼ばれるこの儀式の完成に拘ったのは、巨イナル一の錬成に必要な舞台を整える必要があったからだ。
そうして整えられた舞台で七体の騎神が最後の一体になるまで潰し合うことで、巨イナル一を錬成するのに必要な条件を揃える。
それが数百年の歳月をかけて、アルベリヒがイシュメルガのために準備を進めてきた計画の全容だった。
リィンによって儀式が持つ本来の意味は失われてしまったが、帝国を蝕む呪いの力を利用するという一点において、これほど完成された儀式はない。だからアルベリヒも儀式が本来の役割を果たせないと分かっていながら、リィンの代わりをトワとセドリックにやらせることで、呪いの力をイシュメルガの強化に役立てようと計画を修正したのだ。
正確には呪われた騎神である〝緋の騎神〟に的を絞ることで、イシュメルガの新たな器とする計画だったのだろう。
それに儀式によって条件さえ整えておけば、ゾア=ギルスティンを巨イナル一と共に吸収することも不可能な話ではない。
幻想機動要塞をこのタイミングでだしてきたのも、大規模な戦争をノーザンブリアに限定して起こしたのも――
呪いの力を増幅して、限られた〝資源〟を有効に活用するためであった。
だからトワも、そんなアルベリヒの計画を利用することにしたのだ。
集めた呪いの力を利用して〝呪いごと自らの消滅〟を願うことで、帝国を呪いから解放するために――
「ごめんね。クロウくん、アンちゃん……それに……」
ジョルジュくん、と涙を滲ませながらトワが親友の名を口にした、その時だった。
光が届かないはずの暗闇に、一筋の光が差し込んだのは――
思わず顔を上げるトワ。それもそのはずだ。
この空間を支配する暗闇は、ただの闇ではない。
集められた呪いが濃縮された瘴気の塊と言えるものだ。
普通の人間であれば、触れただけで気が触れるほどのもの。
太陽の光が届くはずもなかった。なのに――
「トワ!」
「ジョルジュくん!? どうして――」
光の膜のようなものに包まれたジョルジュの姿がトワの瞳に映る。
ジョルジュを守っているのは、彼の傀儡――〈ナグルファル〉の結界であった。
しかし幾ら地精の開発した人形兵器の結界と言えど、この空間で無事でいられる保証はない。
「ダメ! 戻ってジョルジュくん!」
トワがこんな決断をしたのは、結局のところ大切な人たちを――友人を守りたかったからだ。
彼等の未来を、大好きな人たちがいるこの国を、自分の命に代えても守りたいとトワは願っていた。
なのに――
「ダメだよ。ジョルジュくん……」
ジョルジュがここで命を落とせば、トワの行動が意味を失ってしまう。
しかしジョルジュを追い返そうとするトワの声が、心なしか小さくなる。
決意したと言っても、やはり彼女の中にも迷いがあったのだろう。
「ダメなんかじゃない。本来責任を取るべき人間はトワ……キミではなく〝僕〟なのだから」
トワの元に辿り着くと、ジョルジュは心の底から申し訳なさそうな顔で謝罪の言葉を口にする。
どんな理由があろうともアルベリヒの言いなりとなって、地精の計画に加担していたのは紛れもない事実だからだ。
周囲を欺き、大切な友達を裏切っておいて、どんな言い訳も通用しないとジョルジュは考えていた。
しかもその結果、トワをこんな風に追い詰めてしまったことを後悔もしていたのだ。
だから――
「キミは皆のところへ帰るんだ」
「無理だよ。私がやらないと、この呪いの力は再びこの国を蝕むことになる。それに……」
もう遅い、とトワは口にする。
既に帝国を蝕んでいた呪いの大半は、トワによって〝聖杯〟に集められている。
この暗闇の空間こそが〝聖杯〟そのものなのだ。
中核となるトワを失えば、制御を失った呪いの力は再びこの国を蝕むことになる。
いや、これだけの力が一箇所に集められて、何も起きないと考える方が不自然だった。
間違いなく、これまでよりもよくないことが起きる。きっと、人の手に負えないようなことが――
だから自分の命惜しさに、途中で儀式を中断するなんて真似をトワが取れるはずがなかった。
しかし、
「言っただろう? 責任を取るのは〝僕自身〟だって」
「――! 待って、まさかジョルジュくん!」
――ごめんよ、トワ。
転位の光に包まれる中、それがトワの聞いたジョルジュの最後の声だった。
◆
「こんな時に冗談はよして!」
アリサの怒声がブリッジに響く。
こんなに彼女が取り乱しているのは、実の父親が口にした説明に反発してのことだった。
アリサの父、フランツが口にしたのはトワを助けることが出来る唯一の方法だった。
しかし、それは――
「トワ先輩の代わりに父さんを犠牲にするなんて、そんな真似が出来るはずもないでしょ!?」
トワの代わりにフランツが犠牲になるというものだったのだ。
トワを呪いから引き離したとしても、それで問題が解決する訳ではない。
黒の巫女という中核を失った呪いの力は暴走し、周囲に甚大な被害をもたらすことが予想されるからだ。
恐らくは〈塩の杭〉を超える被害が、ノーザンブリアやジュライだけでなく北の大地全域にもたらされるだろう。
だからこそ、その呪いを暴走させないため、繋ぎ止めるための〝核〟が必要だった。
そして、黒の巫女を除いてその役目を果たせるのは自分しかいないと、フランツは口にしたのだ。
「地精は長く、イシュメルガの眷属として生きてきた。私自身、十年の時をアルベリヒとして生きてきたのだ」
だからこそ、自分なら〝贄〟の代わりを果たすことが出来るとフランツは説明する。
本来リィンやセドリックが果たすはずだった役割。
儀式を遂行し、巨イナル一を真に完成させるために必要不可欠な贄。
聖杯に注がれた呪いの〝核〟となることが出来るのは、二人を除けばイシュメルガの眷属である自分しかいない。
それが、フランツの主張であった。
「でも、そんなこと……」
フランツの説明は納得できる。
トワを救い、呪いの暴走を食い止めるには確かにその方法しかないのだろう。
だが、
『一つ聞きたい。〝贄〟とやらになったら、アンタはどうなるんだ?』
アリサがずっと胸に抱いていた疑問を、クロウは騎神から通信越しにフランツへ投げ掛ける。
トワを助ける方法があるのなら、アリサには悪いがクロウは手段を選ぶつもりがなかった。
だからこそ、アリサではなく自分の口からこの質問をするべきだと思ったのだろう。
「恐らくは自我を失い、暴走するはずだ。そして――」
ただ暴れ回るだけの不死の怪物と化すだろうと、フランツはクロウの疑問に答える。
グノーシスによって異形の怪物となった者たちと同じ末路を辿ると言うことだ。
しかし、それは同時に怪物と化したフランツを倒すことが出来れば、すべてが解決すると言う意味を示すものでもあった。
『なるほどな。だから俺の――いや、騎神の力が必要だったと言うことか』
トワを助ける方法がある。そう言いながらも、フランツがクロウの力を必要とした理由。
それは騎神でしか、呪いの力で異形の怪物と化した自分を殺すことが出来ないと分かっていたからなのだろう。
最初から死ぬつもりで、トワを助けるための方法を提案したと言う訳だ。
しかし、それが彼なりの責任の取り方なのだと、クロウは納得する。
ギリアス・オズボーンに復讐を誓い、帝国解放戦線を率いていた過去があるからこそ、フランツの気持ちが理解できるのだろう。
故に――
『アンタの案に乗らせてもらうぜ』
トワを助ける方法があるのなら、クロウはフランツを殺すことになっても躊躇うつもりはなかった。
その結果、アリサに恨まれることになっても、優先すべきことは決まっているからだ。
もっとも――
『恨んでくれても構わないぜ』
「そんなこと出来る訳がないでしょ……」
クロウに怒りをぶつけるほど、アリサは子供ではなかった。
分かっているのだ。フランツが自分の命を懸けて責任を取ろうとしている理由も――
そして、フランツを止めるということはトワを見殺しにするのと同じだと言うことが――
「時間がないわ。移動しながら作戦を立てるわよ」
そんなことが出来るはずもない。なら、答えは決まっていた。
まだ迷いはある。それでもフランツの覚悟を無駄にしまいとアリサが覚悟を決めた、その時だった。
突然、ベイオウルフ号にカレイジャスからの通信が入ったのは――
『大変よ!』
通信越しに聞こえてきたのは、スカーレットの声だった。
随分と慌てた様子から何かが起きたのだということだけは察することが出来る。
『ランドック峡谷に巨大な怪物が現れたわ!』
「……え?」
まったく予想しなかったスカーレットの報せにアリサだけでなく、その通信を聞いていた全員が耳を疑う。
いまフランツと話をしていたことが、まさか既に起きているとは誰もが予想していなかったからだ。
「まさか、トワ先輩が……」
「いや、それはないはずだ。彼女には巫女としての適性がある。黒の巫女に覚醒した彼女が呪いの浸食を受けて怪物になるなど……」
そこまで口にして、フランツはあることに気付く。
地精の末裔は――イシュメルガの眷属は、自分だけではないという事実に――
「まさか、ゲオルグ……彼なのか?」
「ゲオルグ? それって……」
銅のゲオルグ――またの名をジョルジュ・ノーム。
フランツと同じ地精の血を受け継ぐ末裔にして、クロウやトワの親友。
それは誰もが予想し得なかった未来。
事態はアリサやフランツの予想を超えた状況へと変化していくのだった。
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