ジュライとノーザンブリアの中間に位置する荒野に設けられた帝国軍の後方基地。
グールの侵攻を食い止めるために兵力が集められていたのだが、いま未曾有の混乱にあった。
ランドック峡谷の頂に現れた黒い繭の塊のようなものから、巨人が突如出現したからだ。
嘗てノルド高原に現れ、帝国軍の艦隊の攻撃をものともしなかった巨神エレボニウスを彷彿とさせる黒い巨人。
それと同等か、それ以上に強大な化け物が目と鼻の先に突如出現したのだ。
訓練を受けた兵士と言えど、彼等も人間だ。
常識で計り知れない存在を前にして、恐怖を感じるのは無理のないことだった。
しかし、
「狼狽えてはいけません!」
そんななか、混乱する兵士たちに檄を飛ばす老体がいた。
軍服の上から白衣を纏った齢七十近い老婆。
彼女こそトールズ士官学院の保険医にして、帝国軍においてヴァンダイクと並ぶ有名な人物――ベアトリクスだ。
年若い軍人にとっては、それこそ伝説的な存在。そんな彼女の言葉は、帝国軍の兵士にとって心強いものだった。
このように混乱している状況であれば、尚更だ。
「まずはラマール州全域に避難命令を! 機甲兵及び空挺部隊は引き続き巨人の監視をしつつ防衛戦を維持――」
そして兵士たちに適切な行動を取るように、次々に指示を飛ばしていく。
そんなベアトリクスの指示に従い、すぐに行動を開始する兵士たち。
確かに常識では計り知れないことが起きているのは確かだが、どんな状況であったとしても軍人の為すべきことは変わらない。
ここで彼等が逃げてしまえば、次に危険に晒されるのは戦う術をもたない一般の人々だ。
故郷で待つ家族が、愛する人が、友人が危険に晒されることになる。そんなことは兵士である彼等も分かっているからだ。
帝国の歴史が血に塗れていることは事実だ。しかし、彼等も普通の人間だ。
人を殺すことに喜びを覚え、戦争を愉しむような残虐な思想は持ち合わせていない。
帝国人と言うのは本来、質実剛健で生真面目、誇りを重んじる気質があるからだ。
(どうにか、落ち着いたようですね。あのようなものを見れば、混乱するのは当然ですが……)
とはいえ、問題が解決した訳ではない。
兵士たちにも言ったように、この場から撤退するという選択肢は当然、彼女の中になかった。
せめて、周辺の街や集落から住民を安全な場所へ避難させるまでは時間を稼ぐ必要があるからだ。
しかしノルド高原に現れた巨神と同等のものであるなら、いまの戦力で太刀打ち出来る相手ではないとベアトリクスは冷静に分析する。
いや、帝都に応援を求めたところで、どれだけ戦力を集めようとも目の前の怪物には勝てないだろうと――
「せめて、彼がいてくれたら……いえ、これは図々しい考えなのでしょうね」
ふと脳裏にリィンと灰色の騎神のことが浮かぶが、ベアトリクスはそんな自分の考えを否定する。
都合の良い時だけ英雄扱いし、自分たちに不都合になったら国から追い出し、敵として排除しようとする。
アルベリヒの計画に利用された側面があるとはいえ、それを実行したのは紛れもなくこの国の貴族や政治家たちなのだ。
僧兵庁と結託し、リィンを人類に仇なす敵と認定することで自分たちの行いを正当化し、この戦争の責任をリィンに押しつけようとも画策した。
これは言ってみれば、恩を仇で返すような行いだとベアトリクスは考えていた。
リィンが自分は猟兵だ。依頼を受けてやったことだと言っても、先の内戦が彼の活躍で収束したことは誰もが認める事実だからだ。
なのに再び自分たちが危機的な状況に陥れば、また都合よく彼に頼ろうとする。
ベアトリクスが図々しい考えだと、自分の考えを否定する気持ちも理解できなくはなかった。
しかし、それでもそんな考えが頭を過ってしまうのは、彼女が軍人であると同時に〝医師〟でもあるからなのだろう。
彼女が〈死人返し〉と呼ばれたのも、敵味方を問わず戦場で負傷した者の手当てを行ってきたためだ。
当然そのことに対して軍内部でも賛否の声はあったが、それでも彼女は自らの行いを止めることはなかった。
戦争の犠牲者を減らしたいとか、そんな大きなことを考えていた訳ではない。
目の前に傷ついた人がいれば、救える命があるのなら助けたい。医者として、ただ当然のことをしてきただけだ。
軍人である以上、彼女も人の命を奪ったことはある。
しかし、自らの行いが矛盾していると理解していながらもベアトリクスは戦場に赴き、多くの命を救ってきた。
そんな彼女だからこそ、このような状況でも考えてしまうのだろう。
少しでも多くの命を救う方法があるのなら、恥ずべき行為であったとしても希望に縋りたいと言う気持ちが――
しかし、リィンがこの国を見捨てたとしても、それは仕方のないことだとも理解していた。
それに猟兵は確かに戦争を生業としているが、同時に一流と呼ばれる猟兵であれば依頼主を裏切ることはない。
彼等にとって契約は絶対で、受け取った報酬分の働きは命を懸けても完遂する。
そうでなければ、山賊や海賊と言った無法者と大差がないからだ。
故にノーザンブリアと敵対する帝国は、リィンにとって今や敵であると言える。
ノーザンブリアに怪物が向かえば話は別だろうが、態々この国を助ける理由がない。
「皇女殿下をクロスベルに追放するような真似をせず、彼等を帝国に引き留めていれば、このようなことにはなっていなかったのでしょうか?」
ベアトリクスに責任がある訳ではないが、この国を代表する者たちが行ったことだ。
この国に住む以上、まったく自分たちに非がないとベアトリクスは考えていなかった。
ましてや彼女は軍人だ。それも現役を退いていたとはいえ、それなりの地位を与えられた人間だ。
政治に口を挟めるような立場にはないとはいえ、一般人と同じと言う訳にはいかないのだろう。
それだけに、どうしてこのようなことになったのかと後悔が募る。
「この老婆の首ですむのなら、幾らでも差し出すところですが……」
「彼なら〝いらない〟と言うでしょうね」
そんなベアトリクスの胸の内を察しているかのように声が掛けられる。
喧騒の中にも響く、凛と済んだ声。
嘗ての教え子の声を、ベアトリクスが間違えるはずもなかった。
「クレア……あなたが、どうしてここに……」
「私だけではありませんよ。先生」
クレアがそう言うと、彼女の後ろから帝国の者であれば誰もが見知った人物が姿を見せる。
一瞬、珍しく呆けた姿を見せるもハッと我に返り、慌てて地面に膝をつくベアトリクス。
そんな彼女に釣られてか? 周囲の兵士たちも慌てて頭を垂れる。
無理もない。クレアと共に彼等の前に姿を見せたのは――
「そう、畏まらないでください」
帝国の軍人である彼等が忠誠を誓う君主。
第八十八代皇帝セドリック・ライゼ・アルノールの姉にして、クロスベルの総督。
――アルフィン・ライゼ・アルノールであった。
◆
『肝の据わった姫様だが、本当に行かせてよかったのか?』
「〝クレア〟も一緒だし、大丈夫でしょ。それに……」
アルフィンが適任なのは間違いない、とアリサはクロウの質問に答える。
これから巨神との戦いを始める上で、帝国軍の存在はアリサたちにとって邪魔者以外の何者でもなかった。
一応、グールの一件で停戦の状態にはあるとはいえ、国家間で正式に約束が交わされた訳ではない。
それ故に共闘するなど不可能だし、後ろを気にしながら戦えるほどの余裕がない状況だ。
だから帝国軍にはさっさと逃げて欲しかったのだが、そう上手くは行かないということもアリサは承知していた。
ランドック峡谷に通じる防衛線を固めているのは、この戦争のために徴兵された兵士ではなく正規の訓練を受けた軍人だからだ。
しかも指揮を執っているのは、あのベアトリクスだ。
どのような危険があるか分からない状況とはいえ、命惜しさに目の前の敵から逃げるとは思えない。
だから彼等を退かせるためにも、彼等に言うことを聞かせられる人間が必要だったのだ。
それがアルフィンと言う訳だった。
もっとも、いまのアルフィンは帝国の皇女であると同時にクロスベルの総督でもある。
そんな彼女の言葉に帝国軍が耳を貸すかどうかは分からない。
下手をすれば、その場で包囲されて捕らえられる可能性すらある。
クロウが何を心配しているのかは、当然アリサも理解していた。
しかし説得には自分が向かうと言いだしたのは、アルフィン自身なのだ。
「言って聞くようなら苦労しないわ……」
なんとも言えない複雑な感情を表情に滲ませながら呟くアリサに、クロウは苦笑する。
自分もアルフィンのことを言えないと、自覚があるのだと察せられたからだ。
「そんなことよりも、クロウの方こそしっかりやりなさいよ」
仮に帝国軍を撤退させることが出来たとしても、巨神を倒せなければ意味がない。
周辺地域に被害をもたらすだけでなく、この国を危険に晒すことになる。
最悪の場合、他国にも影響を及ぼす恐れすらあった。
しかし、巨神と互角に戦えるのは騎神だけだ。
通常の兵器が通用しないことは、ノルド高原での戦いで証明されている。
リィンと連絡が取れれば話は早いのだろうが――
『まあ、どうにかするさ。それより、アイツとはまだ連絡がつかないのか?』
「ええ、どういう訳かシャーリィとも連絡がつかないわ」
ユグドラシルを使っても連絡が付かず、アリサの口からは溜め息が漏れる。
とはいえ、リィンにはゾア=ギルスティンとの戦いに集中してもらうため、トワのことは自分たちでどうにかすると啖呵を切ったのはアリサたちだ。
それにこれから先のことを考えると、リィンにばかり頼るのはよくない。
リィン一人に頼り切ってしまえば、仮にリィンが身動きを取れない状況に陥った時、自分たちだけで問題に対応できなくなるからだ。
現状クロスベルが〈暁の旅団〉に頼らなければ独立を保てないように、力を付けることが重要だとアリサは考えていた。
リィンもそのことに気が付いているのだろう。
だから素質のある者を見つけたら勧誘をしたり、団の戦力強化に余念がないのだと察せられる。
「クロウ。この件が終わったら、うちで働くつもりはない?」
『……それは〈暁の旅団〉に入れってことか?』
「猟兵になれとは言わないわ。私が誘ってるのはRFグループから独立した〝新会社〟の社員にならないかって話よ」
団に誘ったところで、クロウがリィンの下で働くとアリサは思っていなかった。
しかし、自由に動けるようにとの配慮からシュヴァリエの称号を与えられているとはいえ、このままクロウが帝国に戻るのは難しいだろう。
騎神がアーティファクトであることに変わりは無い以上、今後も教会が干渉してくる可能性はゼロではないからだ。
盟約を盾に迫られれば、帝国も教会の要請を完全に拒むことは難しい。かと言って、教会との関係を断つことも難しいだろう。
『まあ、考えておくさ』
そう言って、船との通信を切るクロウ。彼も内心では分かっているのだろう。
このままどこにも所属せずに一人で逃げ回るのは得策とは言えないことが――
クロウがオルディーネの起動者である以上、絶対に避けては通れない問題だからだ。
「あの様子だと〝脈〟はありそうだけど」
どう転んだとしても自分に損はないと、打算的な考えをアリサは口にする。
クロウにこんな提案をしたのは、彼のためと言うだけではない。
可能限り現存する騎神は管理下に置いておきたかったのと、これからやろうとしていることには独自の戦力が必要だと考えているからだ。
新しく設立する会社のPMC部門にクロウを引き抜くことが出来れば、この二つの問題が同時に解決することになる。
「お嬢様……立派になられて」
いつから、そこに控えていたのか?
背後からかけられた声に驚いてアリサが振り返ると、そこにはシャロンの姿があった。
いつものメイド服を身に纏い、何やら感極まった様子で目元をハンカチで拭っている様子が見て取れる。
そんな態とらしいシャロンの反応に呆れながらも、どういう意味かとアリサが尋ねると――
「いえ、やり口がイリーナ会長によく似てこられたと思いまして」
「はいっ……!?」
相手の弱味を見抜き、的確なタイミングで断り難い条件を突きつける。
これは敏腕経営者として知られるアリサの母、イリーナ・ラインフォルトが得意としてきたことだった。
そんなイリーナの仕事を傍で見てきたシャロンが言うのだから間違いはないのだろう。
しかし、
「あとは恋愛方面も、このくらい積極的に策を講じられると良いのですが……」
「余計なお世話よ!」
母親と比較されるだけでも不満だと言うのにリィンとの関係まで茶化されて――
アリサは顔を真っ赤にしながら納得が行かないと言った様子で叫ぶのであった。
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