後の歴史書で『ノーザンブリア戦役』と記される戦争。
死者数は帝国が凡そ八万。ジュライが二十三万。そして、ノーザンブリアが八千。
三十二万人の死者をだすことになった戦争から三ヶ月余りが過ぎようとしていた。
最も深刻な被害を受けたのは徴兵によって多くの働き手を失ったジュライだが、帝国政府でも大きな混乱が起きていた。
先の内戦から溜まっていた政府に対する不満が一気に噴出したのだろう。
戦争によって家族を失った民衆がバルフレイム宮殿に押し寄せ、ドライケルス広場を占拠すると言った騒動が起きたのだ。
この騒ぎは瞬く間に帝国各地に波及し、四大名門が治める領地でも民衆のデモが起きる騒ぎへと発展していった。
そのため、ノーザンブリアとの停戦交渉が正式に取り交わされた後、戦争責任を追及する動きが政府内で起きたのだ。
最初に槍玉に挙げられたのは、ノーザンブリアへの侵攻を主張していたバラッド候であった。
先の侵攻でリィンに領邦軍を壊滅させられたことで求心力を失い、崖っぷちに立たされていたところで一発逆転を狙って政府に働き掛け、オルディスへ他の四大名門をけしかけると言った苦肉の策をとるも、それも失敗。そのため、これまで彼に言い寄っていた貴族たちも、こぞってバラッド候の責任を追及し始めたと言う訳だ。
皇家の責任を追及する声も当然あったが、国家の象徴である皇家に責任を取らせると言うことは身分制度の廃止を訴える革新派に口実を与え、貴族制度の廃止を促す動きへと繋がりかねない。同じ理由でオリヴァルトの責任も追及しにくいことから、貴族たちにとってバラッド候に責任を押しつけるのが一番都合が良かったのだろう。
しかし、話はそれだけでは終わらなかった。とある男が政治の世界に返り咲いたためだ。
嘗ては革新派のナンバー2にして、ギリアス・オズボーンの盟友として知られた人物。
――カール・レーグニッツ。ギリアスの失脚と共に表舞台から姿を消した元帝都知事だ。
貴族たちの度重なる失態が続いたことも、カールが政治の舞台へと返り咲く後押しとなったのだろう。
内戦から続く一連の事件に責任を感じて政治の世界から身を退いたとはいえ、罪に問われるようなことをした訳ではない。
そのため、帝都知事を辞任した後も政界への復帰を望む声が、彼の元へは多く寄せられていた。
平民出身でありながら帝都知事にまで上り詰め、民衆に寄り添った政策で数々の実績を残してきたことも理由にあるのだろう。
それでも、政治の舞台から退いた身だ。
今更また政治家に戻るなど恥知らずな真似が出来るはずもないと躊躇っていた彼を後押ししたのが、ヴァンダイク元帥であった。
ノーザンブリアとの停戦交渉から一連の騒動の収拾に努めていたヴァンダイクではあるが、彼は軍人であって政治家ではない。
国家の一大事とはいえ、軍人である彼が議会を掌握して政治を動かすことは、後に大きな問題を残すことになりかねない。
だからと言って四大名門の誰かに頼むのも一連の問題が貴族派の起こした騒動からきている以上、民衆の理解を得られないだろう。
そこで平民出身で民衆からの支持も厚く、政治家としての実績も申し分の無いカールに白羽の矢が立ったと言う訳だ。
「カール・レーグニッツ氏の議長就任が正式に決定したらしいわ」
カールが帝国政府の代表に就任したとアリサから聞き、エリィは納得した表情を見せる。
一部でカールの政界復帰を阻む動きもあったが、ヴァンダイク元帥が後ろ盾となっているのだ。
その上、民衆からの支持も高いことを考えれば、カールが帝国議会の議長に選ばれることは時間の問題だった。
停戦から三ヶ月。早いと見るか遅いと見るかは人それぞれだが、帝国は大陸で一二を争う大国だ。
国内外から非難が集まり混乱する中で、僅か三ヶ月で政府の立て直しを成し遂げた手腕はさすがと言うほかない。
これまでカールが地道に積み上げてきた功績も理由にあるのだろうが、やはりヴァンダイクの存在が大きいのだろう。
「でも、これでようやく終戦に向けて動けそうね」
停戦が成立したとはいえ、まだ賠償の話など解決していない問題は山ほどある。
この戦争が本当に終わるかどうかは、これからの帝国との交渉が鍵を握っていた。
とはいえ、これ以上の戦争継続は帝国にとってデメリットしかない。
戦争責任の追及以上に、民衆が望んでいるのは何よりも平穏な日常だからだ。
先の内戦から続く混乱に加え、今回の戦争で心身共に疲弊している人々は少なくない。
亡くなった人は帰ってこないが、せめて心安らげる日常を送りたい。それが多くの人たちの願いだった。
そうして選ばれた新しい政府が、民衆の意に添わない決定をするとは思えない。
となれば、絶対に呑めないような条件を突きつけない限りは、交渉は上手くいくはずだとエリィは考えていた。
そう、無茶な条件でない限りは――
「本当に〝この額〟を提示するつもり?」
「ええ、ノーザンブリアやクロスベルだけでなくジュライへの補償も必要でしょ?」
なら、そのくらいの額は貰わないと――とエリィの問いに、笑みを浮かべながらアリサは答える。
終戦の条件にノーザンブリアが提示した賠償金の額が問題だった。
ジュライへの賠償金も含んでいるのだとしても、簡単に頷けるような金額ではなかったからだ。
表向きはノーザンブリアの要求となっているが、いまや〈北の猟兵〉は〈暁の旅団〉の傘下だ。
実権は〈暁の旅団〉が握っていると言ってもいい。なら、この額にも〝彼〟の思惑が含まれていると考えるのが自然だった。
「彼――リィンは何を考えているの?」
帝国と戦争を続ける意志はリィンにもないはずだ。
なのに、こんな無茶な条件を提示する理由がエリィには分からなかった。
アルフィンも黙っているところを見ると、何かしら事情があるのだと察することは出来るが――
「ここにいるのがリィンの恋人としての立場なら教えてあげられるのだけど、いまは違うでしょ?」
「……痛いところを突くわね」
エリィ自身はリィンの味方だと思っているが、それでも彼女には立場がある。
クロスベルの代表として、帝国との交渉を含めた一連の対応を任されているのだ。
そうである以上、リィンの恋人としての立場よりもクロスベルを優先する必要があった。
とはいえ、エリィが一連の対応を任されているのは、ヘンリーの孫というよりもリィンの恋人という立場が理由として大きい。現在クロスベルの独立が守られているのは〈暁の旅団〉の存在が大きく、彼等がいなければ先の帝国軍の侵攻も食い止めることが出来なかったためだ。
そのため、リィンと直接対話ができるエリィの存在はクロスベルにとって重要なものとなっていた。
役職は一政務官に過ぎないとはいえ、実権はエリィが握っていると言っても間違いではないだろう。
実際、総督のアルフィンはお飾りに過ぎず今回の一件で独立の機運が高まっていることもあって、市民の間からもエリィを市長に推す声が上がっているほどだった。
「勿論、一括で払えと言うつもりはないわ。それに賠償金の使い道を知れば、帝国政府も呑まざるを得ないでしょうね」
「それって……もしかして〝例の件〟が絡んでいるの?」
何も答えないアリサを見て、自分の読みが正しいことをエリィは確信する。
例の――と言うのは、アリサたちが裏で進めていたセイレン島の開発計画のことだ。
エタニア王国の再興を支援しつつ、異世界との交易も視野に入れた壮大な計画。
本来はもう少し先の予定だったがエタニアが表舞台に姿を見せたことで、その計画は早まったと言える。
異世界よりもたらされる知識と技術によって、この先ゼムリア大陸では新たな市場が開拓されていくことになる。
嘗ての導力革命のように、新時代の夜明けを告げる転換期となるだろう。
しかしノーザンブリアがエタニアと同盟関係にある以上、ノーザンブリアとの関係を修復しなければ帝国は時代から取り残されて行くことになる。仮にエタニアとの交易で共和国との経済格差が広がることになれば、国際的な立場においても帝国は更に厳しい状況に置かれることになるだろう。
だからこそ、帝国はノーザンブリアの提示した条件を呑まざるを得ない。
彼等の目的はそうして手に入れた莫大なミラを使って、この世界にシンギュラリティを起こそうと計画しているのだから――
発案者は恐らくベルだろう。リィンがベルの計画に乗ったのは、彼女の計画が自身の望みに沿っていたからだ。
その先に彼等が何を見据えているのかも、エリィには予想が付いていた。
「リィンは本気で、この世界を救うつもりなのよね。でも、それだけ急ぐということは、もしかして……」
「ええ、もう余り時間が残されていないと、リィンとベルは考えているみたいね」
世界が滅びに向かっているという話はエリィもベルから聞いていた。
しかし、早くとも数十年……百年くらいは余裕があるものと考えていたのだ。
なのに計画の進行速度から考えて、リィンとベルはもっと早くに深刻な事態が訪れると予想していることが分かる。
当初の計画を前倒しにした理由が何かあるのだろう。
恐らく、それは――
「ゾア=ギルスティンの起動者……別の世界のリィンが残した記憶」
三ヶ月前。戦いが終結した日の夜にリィンから聞かされた話をエリィは思い出す。
消えゆくオルタを取り込むことで、リィンが得たという並行世界の記憶。
同化が完全ではなかったからか、断片的な記憶しか確認できないという話だったが――
「世界の終焉を見た。そう、リィンは言っていたわね」
「ええ、いつ訪れるものかまでは分からないと言っていたけど」
正確な日時までは分からなくとも、それが近いうちに起きることだとリィンには予感があるのだろう。
だから、計画を早める決意をした。そのために〝覚悟〟を決めたのだと、エリィは察する。
「帝国政府にこのことを……いえ、ダメね。この世界があと数年で滅びるかも知れないなんて話、信じて貰えるとは思えないわ」
余計な混乱を招くだけで、誰もそんな話を本気で信じようとは思わないだろう。
賠償金をつり上げようとしていると勘違いされるのがオチで、交渉が上手く進まない可能性の方が高い。
だからこそ、帝国が納得できる理由付けにエタニアの存在を利用したのだと想像が付く。
異世界の技術。この世界の人々は大陸の外からやってきたと信じているみたいだが、それでも未知の技術がもたらす変化は感じ取ることが出来るはずだ。
自分たちが戦争で負けた理由も未知の技術によるものだと考えた方が、猟兵に屈したと言われるよりも面目が保てる。
「もう少し条件を詰める必要はあるでしょうけど、最終的に帝国はこの条件を呑むでしょうね」
いや、呑むしかないとエリィは考える。
国家の信頼が揺らぎ、皇家の求心力が低下している現状で、これ以上の失態は避けたいはずだ。
法外な賠償金と言っても、帝国ほどの経済力を持つ大国であれば払えないほどの額ではないのだ。
それにこれだけの額の賠償金を帝国が支払えば、国際社会に対しても強いメッセージとなる。
帝国の支払った賠償金はジュライやノーザンブリアの復興を助けるだけでなく新たな市場を生み、大陸の経済を大きく動かすことになる。
帝国を非難する声は完全にはなくならないだろうが、時間の経過と共に徐々に減っていくだろう。
「これを足掛かりに新会社をラインフォルト以上の大企業に成長させてみせるわ」
「ああ……そこに繋がる訳ね」
アリサが妙に張り切っている理由をエリィは察する。
ラインフォルトから独立した新会社の社長に、アリサが就任したことをエリィも知っていた。
企業名はエイオス(AEOS)。暁の女神アウロラと同一視される女神から名前を取ったものだ。
自ら設立した会社をラインフォルトを超える企業に成長させる。
それがアリサの目標であり、母親への対抗心と決意の顕れでもあるのだろう。
とはいえ、それがクロスベルの利益にも繋がるのならと、エリィは黙っていた。
エイオスが本拠地としているのはクロスベルなのだ。アリサの会社が上手く行けば、それだけクロスベルの経済が潤うことになる。
なのにアリサのやる気を削ぐようなことを、敢えて口にする必要はないと考えてのことだった。
「そう言えば、蒼の騎神の起動者をスカウトしたと聞いたけど、上手くいったの?」
「ええ、警備部のリーダーを務めてもらうことになったわ。〈赤い星座〉にも声を掛けたのだけど、そっちは断られたから正直クロウだけでも引き受けてくれて助かったわ」
「赤い星座にも声をかけていたの? クロスベルの人間としては複雑なのだけど……」
昔のこともあって少しばかり思うところがあるのか?
アリサから〈赤い星座〉にも声を掛けたと聞かされて、エリィは表情に複雑な感情を滲ませる。
とはいえ、イリーナも〈西風の旅団〉と密かに関係を持っていたことを考えると、アリサの行動も腑に落ちる。
利用できるものは利用する経営者ならではの合理性。
アリサは否定するであろうが、やはり蛙の子は蛙と言うことなのだろう。
いや、この場合は――
「私も人のことは言えない、か……」
良くも悪くもリィンの影響を自分もアリサも受けているのだと、エリィは再確認することになるのだった。
◆
同じ頃、クロスベルの裏通りにある高級クラブ〈ノイエ・ブラン〉にリィンの姿があった。
「よう、ガルシアはいるか?」
「――クラウゼル団長!?」
予期せぬリィンの訪問に驚きの声を上げるルバーチェ商会の構成員たち。
いまのルバーチェ商会の位置付けは、暁の旅団のフロント企業という扱いだ。
こうして彼等がクロスベルで堂々と商売できるのも、暁の旅団の庇護下にあるからという側面が大きい。
その猟兵団の団長が何の前触れもなく店に現れれば、下っ端に過ぎない彼等が驚くのも無理はなかった。
「いらっしゃいますが、いまは取り込み中でして……」
「取り込み中?」
「おい、バカ! 余計なことを言うな!」
商談中なら邪魔しては悪いかと考えるリィンだったが、男たちの様子がおかしいことに気付く。
「他の者に若頭を呼びに行かせましたので、その間よかったら一杯如何ですか? レミフェリア産の上物の酒が入っていまして――」
「おい、何を隠していやがる?」
リィンに睨まれ、ビクリと肩を震わせる男たち。
力の差を理解しているからビビっているとも取れるが、それだけでないことは察することが出来た。
ガルシアに会わせたくないのか?
奥に行かせまいと不自然に行く手を遮る行動が気になったからだ。
「そこをどけ」
「い、いえ……ですが……」
「二度は言わない」
蛇に睨まれた蛙のように動かなくなった男たちを置いて、リィンは奥の部屋へと向かう。
本当に商談中なら謝れば済むことだが、ガルシアの部下たちが何を必死に隠そうとしているのかが気になったからだ。
ルバーチェ商会には前科がある。非合法なビジネスを否定する気はないが、暁の旅団の傘下にいる以上は面倒事を起こされても困る。
特にドラッグの扱いは厳しく禁止しており、リィンは同じ過ちを彼等に犯させるつもりはなかった。
とはいえ、本気で心配している訳ではない。ガルシアがそんな真似を許すとは思えないからだ。
なら、別の〝厄介事〟に巻き込まれていると考える方が自然だった。
「おい、ガルシアはいるか?」
扉を開け、リィンが店の奥にある応接室に入ると、そこにはガルシアの姿があった。
予想だにしなかったタイミングでのリィンの登場に、珍しく呆けた姿を見せるガルシア。
そんな彼の前には、テーブルを挟んで一人の少女が座っていた。
東方の民族衣装と思しき群青のドレスに身を包んだ黒髪の少女が――
「あなた、まさか……」
「……誰だ?」
何か言いたげな顔で天井を仰ぎながら、右手で額を押さえるガルシア。
振り返ってリィンの顔を見るなり、ワナワナと肩を震わせる少女。
状況がまったく掴めず、首を傾げるリィン。
「私はあなたとの結婚なんて認めないんだから!」
これが王の名を継ぎし猟兵リィンと、黒月の姫アシェンとの最初の出会いになるのであった。
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