エイオス本社ビルの最上階にある邸宅で、難しい顔で黙々と料理を口に運ぶアリサとエリィの姿があった。
「もしかして口に合わなかったか?」
二人の表情から料理の味が口に合わなかったのではないかと心配するリィン。
実のところ、この朝食を用意したのはアリサとエリィではなくリィンだった。
「逆よ。美味しすぎるのよ……文句の付け所がないくらいに」
「シャロンさんの料理を食べた時にも感動したけど、同じくらいかそれ以上の衝撃だわ……」
リィンの料理の腕は知っていたつもりでも、朝からプロ顔負けの料理がでてきたら驚きもする。
一流ホテルの朝食にも劣らない出来映え。もしかしたら、それ以上の味かもしれない。
しかも、ベッドで二人が目覚めた時には朝食ばかりか、淹れたてのコーヒーまで用意されていたのだ。
シャロン顔負けの仕事振りに驚くと同時に、どうしても負けた気持ちになるのは女として仕方のないことだった。
「料理は実益を兼ねた〝趣味〟みたいなものだしな」
「趣味の域を超えてるわよ……。そう言えば、帝都で喫茶店を開いていたこともあるのよね? かなり繁盛していたと聞いてるけど、このクオリティなら納得だわ」
「ええ、いますぐに店を構えても大繁盛間違いなしだと思うわ」
アリサとエリィに料理の味を褒められて悪い気はしないまでも、微妙な顔を見せるリィン。
リィンの本業はあくまで猟兵だ。喫茶店のマスターをしていたのは帝都に潜伏するためで、元よりそれで生計を立てるつもりなどなかった。
想定外に繁盛したことは否定しないが、料理だけでなくフィーが看板娘をしていた影響も大きいとリィンは考えていた。
実際フィー目当ての客は少なくなかったのだ。
「ムースショコラ? こんなの買ってあったかしら?」
「凄く美味しいわ。口当たりが滑らかで甘さも丁度よくて」
「昨日の夜仕込んで冷蔵庫で冷やしておいたんだ。なかなか良い出来だろ?」
『…………』
デザートまでリィンの手作りだと聞かされたアリサとエリィは、もう言葉にならないと言った表情を浮かべる。
何も知らない人に料理を食べさせて本業が猟兵だと言っても、誰にも信じてもらえないだろう。
そう思えるほどには、リィンの料理は趣味の域を遙かに超えていた。
「まあ、いいわ。母様だって昔から家のことはシャロンに任せきりだったし、女の価値は料理の腕で決まる訳ではないもの……」
「そ、そうよね。いまは女性も社会にでて活躍する時代ですものね。この際、古い価値観は捨てましょう」
どこか自分を納得させるように理由を口にする二人に、リィンはやれやれと溜め息を漏らす。
とはいえ、下手なことを言って料理を禁止にされても困るので黙っていることにする。
女の尊厳を傷つけると面倒なことになるというのは学習済みだからだ。
それなら最初から料理をしなければと思うところだろうが、リィンにとって料理は息抜きを兼ねていた。
昔は必要にかられて始めたことだが、最近は〝前世〟の味を再現することに凝っているくらいだ。
とはいえ、それも完全に再現できているとは言えないのだが――
特に〝和食〟の味については、リィンも再現に苦戦していた。
(以前、立ち寄った地球に似た世界で、米や調味料をたくさん買っておくべきだったな……)
過ぎたこととはいえ、失敗したなとリィンは後悔を募らせる。
一口に東方と言っても大陸の東側には様々な国や集落が存在し、クロスベルに入ってきている品物はその中の極一部に過ぎない。
東方の食材や調味料は帝国では手には入りにくく、古くから共和国と交易のあるクロスベルでも和食ではなく、どちらかと言えば中華寄りの品物が多い。それもそのはずで元々の共和国の食文化は西よりで帝国とそれほど変わりが無く、東方の料理や文化は移民によってもたらされたものだからだ。
餅米や炒め物に適したインディカ米のような品種は東通りでも手に入るのだが、程よい粘り気のある日本の米に近い品種は未だに見つかっていない。
味噌や醤油もあることにはあるのだが、味や風味がどうしても和食に用いるものとは異なるのだ。
それが少しばかり、リィンの不満となっていた。
しかしそんななか、リィンはアシェンから有力な情報を得る。
――龍來。
一週間後に向かう予定となっている共和国の地方都市だが、ここには温泉文化と共に和の食文化が根付いているという情報を得たのだ。
それを知ったリィンは、今回の温泉旅行を密かに楽しみにしていた。
その抑えきれない気持ちが、この手の込んだ朝食にも現れていると言う訳だ。
「そう言えば、フィーから〝例の件〟でメールがきてたわよ」
「例の件って言うと、共和国にスパイを送り込むって話か」
共和国に潜入させる人材を確保する件は、実のところアリサとエリィの発案だった。
リィンとしては上手く行くとは思えないことから、この件には余り乗り気ではなかったのだ。
というのも、帝国に情報局があるように共和国にも中央情報省――通称CIDと呼ばれる組織が存在する。
政府直轄の機関で活動範囲は多岐に渡り、諸外国における情報収集や分析。そして国内における防諜任務も彼等の仕事であった。
日夜、帝国と情報戦を繰り広げている組織だ。スパイに気付かないとは思えない。
しかし、
「リィンが何を懸念しているかは分かっているつもりよ。恐らくCIDには気付かれるでしょうしね」
「……気付かれたら意味がなくないか?」
「逆よ。気付かせることに意味があると、私たちは考えているの」
エリィの考えは違っていた。
リィンが懸念するとおり、CIDは間違いなくスパイの存在に気付くだろう。
そして、どこのスパイかを調べるために動く。そして、彼等は気付くはずだ。
暁の旅団との関係に――
「情報を探らせるというのは建て前で、共和国をけん制するのが狙いか」
「得られる情報は探ってもらうつもりだけど、多くは望んでいないわ。ただ、共和国にも〝足場〟を作っておくべきだと思ったのよ」
それはクロスベルで長い間、帝国と共和国のやり取りを見てきたエリィならではの考えであった。
情報戦という意味では、いまもクロスベルには帝国や共和国のスパイが数多く潜伏している。
その大半はルバーチェ商会の協力もあって把握しているが、敢えて泳がせているというのが実情だった。
捕まえたところで別の人間が送られてくるだけだし、逆に利用すれば相手の情報を得ることも誘導することも出来る。
しかし、そこで大きな問題が生じたのだ。
帝国が相手であれば、ノイエ・ブランの支店や〈西風〉時代のツテを使った情報屋との繋がりなど、多角的に情報を精査するための手段が幾つもある。
しかし情報の真偽を確かめようにも、共和国には足場となる組織や協力者を十分に確保できていない。
唯一あるのは黒月との関係だけだ。しかしそれは黒月に依存し、弱味を見せるということにも繋がる。
だからこそ、時間を掛けても共和国にしっかりとした足場を作るべきだとエリィは考えていた。
「本当なら政府主導でやるべきだとは理解しているのだけど……」
「いまのクロスベルにそんな余裕はないか。警察や警備隊の仕事とも言えないしな」
もっともロイドは捜査と称して他国で情報収集を行っているみたいだが、とリィンは付け加える。
黒の工房の件に関わらせないため、エリィが態と警察に手を回してロイドを国外に追いやったのだが、その立場を利用してロイドは国外での捜査を行っていた。
ある意味で諜報活動に近い行為と言えるのだが、持ち前の行動力で着実に協力者を増やしているらしい。
「表向きは、二年前の事件の捜査が目的だったか?」
「ええ、ルバーチェ商会がばらまいた〝麻薬〟が原因として片付けられた集団催眠事件――その再捜査」
グノーシスの存在が明るみになったことで、八年前の殲滅作戦を逃れた教団の生き残りが今も密かに活動を続けているのではないかという疑惑が浮上したのだ。
D∴G教団はゼムリア大陸で暮らす人々にとって悪夢の象徴であり、史上最悪の事件を引き起こした忌むべき存在だ。
その残党が今も活動を続けているとなれば、それはゼムリア大陸の人々にとって到底看過できる話ではなかった。
そのため、二年前の事件の再捜査が行われることとなり、ロイドが事件を担当する捜査官としてレミフェリアに派遣されたのだが――
「ロイドの行動力を甘く見ていたわ……」
エリィにとって誤算だったのは、ロイドを遠ざけるために手を回したことが、逆に彼に大義名分を与えることになってしまったことだった。
ロイドがレミフェリアに派遣されたのは、グノーシスの解毒薬を開発したセイランド社の協力を得るためだ。
そして、嘗ては教団の拠点に利用され、数多くのロッジが点在するレミフェリアに過去の捜査資料を提供してもらうことにあった。
それだけであれば、半年から一年ほどの出張で話が済んでいた。
しかし、ロイドはセイランド社だけでなく、大公アルバート・フォン・バルトロメウスの協力まで取り付けてしまったのだ。
教団の悪夢を再び引き起こさせないためにも可能な限り協力したいと正式にレミフェリアから申し出があれば、クロスベルとしても断る理由がない。
そうして開かれた政府間の協議の末、ロイドを教団事件の担当捜査官に任命することが正式に決定したと言う訳だ。
政府のお墨付きを得たロイドは〝協力者〟と共に、教団のロッジ跡を調査して回っているとのことだった。
完全にしてやられたと言った表情で悔しがるエリィを見て、リィンは思わず笑いが込み上げてくる。
「……ちょっと何を笑ってるのよ」
「いや、珍しいものが見れたと思ってな。この点はロイドに感謝しないといけないか」
「もう、呑気なことを言って……」
いまは教団の痕跡を追っている様子だが、エリィには嫌な予感がしてならなかった。
この先、再びリィンとロイドの道が交わる未来が訪れるのはでないかと、そんな予感があったからだ。
手を取り合って協力できるならいいが、猟兵のリィンと警察官のロイドでは水と油だ。進む道も考え方も違う。
せめて表と裏――両方の視点を持ち、架け橋となれるような人物がいれば別だが、そんな都合の良い人物が簡単に見つかるはずもない。
(出来ることならリィンとロイドには争って欲しくないけど……)
リィンとロイドが対立する――そんな未来が訪れないことをエリィは祈るのだった。
◆
「それじゃあ、悪いけど先にでるわね。キーアのことよろしくお願いします」
「シャロンが一緒だし、アルティナやレンとも仲良くやっているみたいだから気にするな。夕方、船の方に寄るんだろう?」
「ええ、今日の交渉で話も纏まるはずだから、詳しい話はその時に――」
そう言って口付け交わし、一足先に家をでたエリィを見送ってから朝食の後片付けをしていると――
「そう言えば、フィーと何かあったの?」
「……どうしたんだ? 急に」
ふと思い出したかのようにフィーとのことをアリサに尋ねられ、リィンは警戒する様子を見せる。
二人きりになったタイミングでフィーの話を振ってきたことから嫌な予感がしたためだ。
「この前、あの子の誕生日だったじゃない? 何かあったんじゃないかと思って。以前と少し雰囲気が変わった気がするのよね。接し方とか、距離感みたいなのが――」
「……よく見てるな」
アリサの鋭い指摘に、やはりそういう話かと皿を洗いながらリィンは溜め息を吐く。
アルフィンから温泉旅行に誘われた日、八月三十一日がフィーの誕生日だった。
その日の夜は仕事を終えたら、フィーに手料理を振る舞うつもりでいたのだが――
「あげたというか、奪われたというか……」
「なによ、それ……どういうこと?」
唇を重ね合わせたあの日から、リィンとフィーの関係は少し変わった。
周囲に分かるほどあからさまに態度を変えた覚えはないのだが、アリサには分かるのだろう。
いや、アリサに分かること言うことは――
(アリサと違って態度や言葉にでる性格じゃないが、出掛ける前に自分からキスを求めてきたのはそういうことか……)
エリィも当然気が付いていると言うことだ。
今朝はいつもより積極的だと感じていたが、これが理由かとリィンは納得する。
「やっぱり何かあったのね。まあ、いずれそうなるとは思っていたけど」
リィンの態度からフィーとの間に何があったのかを察して、アリサは納得した様子を見せる。
実際、二人の関係を考えると遅すぎるくらいだとアリサは考えていた。
そのため、自分の方が先にリィンとそう言う関係になったことについて、少し後ろめたさのようなものもあったのだ。
「嫌な訳じゃないでしょ?」
「それはない。ただ、ずっと兄妹として過ごしてきたからな……」
そう話すリィンの気持ちは、アリサも理解できた。
同じ養父に育てられ、ずっと兄妹として過ごしてきたのだ。
フィーの気持ちを察していても、簡単に切り替えられるものではないのだろう。
「しかし、随分とお節介を焼くじゃないか。昨日は自重しろとか言ってなかったか?」
「リィンって察しが良いように見えて、自分のことには鈍感よね。いえ、敢えて目を背けてるの?」
「……なんのことだ?」
リィンの反応から予想が当たっていたことを確信して、アリサの口からは溜め息が溢れる。
「やっぱり、リィンにとってフィーは〝特別〟なんじゃない」
恋人の自分たちでも割って入れないほどの固い絆が、二人の間にあることをアリサは気付いていた。
リィンはフィーとの関係を兄妹だと言っているが、傍から見ればどう考えてもそれ以上のものに思えてならないからだ。
例えるなら恋人を通り越して、長年連れ添った夫婦のように互いのことを深く理解していることが見て取れる。
一方でリィンと男女の関係になったと言っても、フィーほどリィンのことを理解しているかと言われるとアリサは自信がなかった。
「もしかして、妬いているのか?」
「恋人が二人もいるのに他の女の話をされて良い気分はしないわよ」
「フィーの話を振ってきたのは、そっちが先だろうに……」
理不尽な返しをされて呆れるも、アリサにはそれを言う権利があるとリィンも内心では認めていた。
実際、恋人がいるというのに他に特別な女がいると認めているようなものだ。喧嘩で済めばいいが、普通であれば別れ話を切り出されても文句は言えないからだ。
しかし、こちらの世界も基本的には一夫一妻と言っても地球の倫理観とは大きく異なる。
魔獣が徘徊し、野盗や山賊が出没する地域も未だに少なくない中、国家間の戦争など人間同士でさえ争いの絶えないこの世界において命の価値は想像以上に軽く、死を身近に感じる機会も少なくない。先の帝国とノーザンブリアの戦争からも分かるように、大きな戦争が起これば真っ先に徴兵されるのは若い男たちだ。そのためか、女性の遊撃士や猟兵がここ最近特に増えている背景には、各国の男女比の割合が著しく女性に傾いているというのも理由の一つにあった。
だからこそ、この世界の人々は逞しく積極的な女性が多い傾向にある。
ハーレムと言えば羨ましく聞こえるが、実際のところは女たちの共有財産としてリィンが囲われていると言った方が現実的だろう。
「リィンが迷ってるのって、もしかして亡くなった団長さんが関係してる?」
「……さすがに察しがいいな」
「否定はしないのね」
「俺が〝最強〟を目指す理由――猟兵をしている原点とも言えることだからな」
それを否定してしまったら俺じゃない、と言われればアリサも納得するしかなかった。
「そういうことなら、もうこれ以上は聞かないわ。でも、私たちを蔑ろにしたら許さないから」
「それだけは絶対にないから安心しろ」
それならよしと胸を張るアリサを見て、敵わないなとリィンは頬を掻く。
アリサだけではない。エリィだって何とも思っていないはずがないのだ。
それでも反対しないのは、二人が何よりもリィンの幸せを優先しているからだと分かる。
それが分からないほど、リィンは鈍感ではなかった。
だからこそ、
「ただまあ、誤解は訂正しておくか」
「……誤解?」
昨日アリサが言っていたように、恋人を不安にさせないのも自分の責任だとリィンは考える。
それに――
「フィーが〝特別〟なのは否定しないが、特別なものが一つだけとは限らないだろ?」
「え……リィン、それって……」
そもそもの話、フィーだけが〝特別〟などとリィンは一度として言っていないのだ。
確かにフィーはリィンにとって大切な家族だ。特別な存在であることは間違いない。
しかし、同じことはアリサやエリィにだって言える。
「ちょっと、そこまで口にしたなら最後まで言いなさいよ!」
話はここまでだとばかりに背中を向けて何も答えないリィンに、アリサは不満を口にしながらも――
「ほら、お前も仕事があるんだろ? 早く準備しないと遅れるぞ」
「むう……」
どこか嬉しそうな表情を覗かせるのであった。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m