共和国東部の国境地帯、イシュガル山脈の麓にある温泉郷――龍來。 
 大陸東部の玄関口と称され、アルタイル市から鉄道で丸二日という距離にあるにも拘わらず、湯治に訪れる外国人旅行者も多いことで知られるカルバード有数の観光地でもあった。
 郷の至るところから立ち上る湯煙と硫黄の香りが、どことなくユミルを想起させる。
 そんな故郷の光景を頭に思い浮かべながら温泉宿の中庭に設けられたベンチに腰掛け、浴衣姿で夜風に当たるエリゼに声を掛ける人物がいた。

「お隣いいですか?」
「あ、はい。どうぞ」

 品があり貴族然として立ち居振る舞いが板に付く金髪の女性――ラクシャ・ロズウェルだ。
 エリゼと同じ浴衣を纏い、いつもは後ろで纏めている髪を下ろしているので雰囲気がどことなく艶めかしい。
 同じ女性のエリゼの目から見ても、思わず見惚れるほどの色香が湯上がりのラクシャにはあった。

「どうかされました?」
「いえ、綺麗だなと思って……」
「確かに〝良い月〟がでていますね。ここは夜風が気持ちいいですし」

 そう言う意味で言ったのではないのだが、エリゼは訂正せずに「そうですね」と一緒に月を見上げる。
 夜でも明るいクロスベルの街と違い、ここ龍來では月や星の瞬きがくっきりと見える。
 ユミルでは毎日のように見上げていた景色だが、それだけにエリゼには懐かしく思えた。
 いまの生活が嫌と言う訳ではないが、故郷に残してきた家族のことがふと頭に過ることがあるからだ。
 アルフィンの力になりたいと胸の内を打ち明けたエリゼを、両親は応援してくれている。
 それでも、帝都の女学院への進学を許してくれた両親の期待を裏切った事実に変わりは無い。
 貴族の家に生まれながらその義務を果たさず、家族に心配ばかりをかけてしまっている。
 いまはアルフィンの傍を離れるつもりはないが、このままで本当に良いのだろうかと言う葛藤がエリゼのなかにはあった。

「珍しい組み合わせだな。二人して、こんなところで月見か?」
「兄様」

 ラクシャと二人で月見をしているとリィンに声を掛けられ、どこか寂しそうな表情を覗かせていたエリゼの表情に笑みが浮かぶ。
 そんなエリゼの姿を見て、呆れたような冷たい眼差しをリィンに向けるラクシャ。
 エリゼの気持ちは分からなくもない。
 分からなくもないが、リィンに対しては思うところがあるのだろう。

「お前たちも一杯やるか?」
「未成年にお酒を勧めないでください」

 どこからか拝借してきた〝瓢箪(ひょうたん)〟を見せながら酒を勧めるリィンに、ラクシャは呆れた様子で注意する。
 ラクシャの生まれ育った国では、十五にもなれば一人前の大人として扱われる。
 国や地域によっては十二や十三歳ほどで、成人と認められる国があるのも確かだ。
 しかし、少なくともクロスベルや帝国における成人年齢は二十歳だと言うことをラクシャは知っていた。

「こっちの世界にきて、まだそれほど経っていないのによく勉強してるな」
「こんなことで褒められても嬉しくありません……あなたこそ、もう少し常識を学んだら如何ですか?」

 異世界人の自分よりも常識を欠いたリィンの発言に、ラクシャの口からは溜め息が溢れる。
 とはいえ、リィンに常識的な行動を求めたところで無駄と言うのはラクシャも十分に理解していた。
 シャーリィやフィーにも言えることだが、どこか普通の人とはズレたところがあるからだ。
 猟兵に育てられ、幼い頃から戦場を渡り歩いてきた弊害とも言えるだろう。
 前世の記憶もあってリィン本人は常識がある方だと思っている様子だが、他の者たちから見れば五十歩百歩だった。

「変わった容れ物ですね」
「植物を乾燥させて作った容器だからな。ちょっと飲んでみるか?」

 そう言うと、リィンは手に持った盃に瓢箪の酒を注いでラクシャに手渡す。
 どこか癖のある甘い香りが漂う酒に少し戸惑いながらも、好奇心に負けて口にするラクシャ。
 すると――

「……美味しい」

 いままでに口にしたことのない味わいに驚いた様子を見せるラクシャ。
 好みの分かれる味と香りだとは思うが、良い酒だということは余り酒を嗜まないラクシャでも分かった。

「米があるとは聞いていたが、まさか米を使った〝日本酒〟に近い酒が手に入るとはな。嬉しい誤算だった」
「ニホンシュですか?」
「ああ、俺の〝故郷〟の酒だ」

 リィンの故郷と聞いて、その意味をエリゼは察する。
 麦や果物から作られた酒が一般的で、帝国では米を原料とした酒は作られていない。
 主食として米を食べる文化は大陸西部では珍しいからだ。
 となれば、リィンが言っているのは恐らく〝前世〟のことだと察せられる。

「なるほど……旅行に誘われて珍しく乗り気だったと聞いていましたが、これが理由ですか」

 エリゼとの会話から、リィンがアルフィンの誘いに乗った理由をラクシャは察する。
 東方の移民が多く暮らす共和国であれば、東方の食材も帝国やクロスベルよりも手に入りやすい。
 リィンの目的は、そう言った珍しい食材を手に入れることにあったのだと気付かされたからだ。

「もう猟兵なんてやめて、料理人に転職したらどうですか?」
「前にも言ったと思うが、料理はあくまで実益を兼ねた趣味ってところだ。そのつもりはねえよ」

 趣味と呼ぶには食に対する追及が素人の域を超えていると思うのだが、敢えてラクシャは口を挟まず納得した振りをする。
 何を言ったところで、リィンが考えを曲げるとは思えなかったからだ。
 それに折角の温泉旅行を仕様もないことで口論して台無しにするのも勿体ない。
 むしろ殺伐とした理由ではなく、平和な目的で安心しているくらいであった。

「……どうかしましたか?」

 そう安心していたところで、どこか険しい表情で山の方を見詰めるリィンにラクシャは気付く。
 何かあるのかとリィンの視線の先を追うも、ラクシャの目には何も捉えることが出来なかった。

「いや、なんでもない。それよりも、もう一杯どうだ? 酒のあてもあるぞ。エリゼも酒はダメでも料理なら食べられるだろ?」
「あ、兄様、手伝います」

 そう言って、どこからともなく取り出したござを地面に敷き、料理と酒を並べて月見の準備を始めるリィン。
 そんなリィンをエリゼが手伝っていると、

「リィン、ずるい。宴会するなら呼んでくれてもいいのに」
「そうですわ! それにまさか、エリゼに抜け駆けされるなんて……」
「姫様、誤解ですから!」

 料理と酒の匂いに釣られて、次々と仲間たちが集まってくる。
 そうして騒がしくも賑やかな夜が更けていくのであった。


  ◆


 人里から離れたイシュガル山脈の中腹。
 温泉街を一望できる場所に、長い銀色の髪をなびかせる女の姿があった。
 顔立ちは幼く見えるがどこか妖艶で、瞳の奥には底知れない冷厳さを感じ取ることが出来る。
 左手には三尺ほどある大太刀を持ち、時代劇に登場する忍者のような東方風の強化スーツを身に纏っていた。

「彼が今代の〝猟兵王〟か。この距離で私の視線に気付くなんて、さすがだよ。噂通り、いや噂以上かな?」
「……姫」

 隠しきれない好奇心を滲ませる女に、陰から忍ぶように現れた黒装束の男は声を掛ける。
 女を見下ろすほどの体格に、強化スーツの上からでも分かる鍛え上げられた肉体が男が只人でないこと示している。
 そんな強者と思しき男が地面に膝をつけ、まだ二十歳前後と思しき年若い女に頭を垂れる姿は二人の関係を妙実に現していた。
 姫と呼ばれた女は残念そうに、それでいて気怠そうな表情で男の呼び掛けに応える。

「クロガネか……分かってる。これでも〝斑鳩〟の副長だよ? 目的を見失ったりしないから安心しなよ」
「それならばよいのですが……」

 好奇心を滲ませながら言われても説得力は薄いが、クロガネと呼ばれた男には姫の言葉を信じる他なかった。
 彼女自身が口にしたように『斑鳩』の副長という肩書きは軽いものではないからだ。
 本人に自覚があるかどうかは別として、副長に相応しい実力を備えていることだけは間違いない。
 大陸東部では知らぬ者はいないとまで噂される大太刀の達人。
 ――白銀の剣聖、シズナ・レム・ミスルギ。それが彼女の名前であった。

「でも、降りかかる火の粉は払わないといけないよね?」
「まさか……」

 シズナの言葉で、クロガネは何かに気付いた様子を見せる。
 眼下に広がる山林に真っ直ぐ近付いてくる何者かの気配を感じ取ったからだ。
 シズナが気にしていた猟兵王ではない。
 しかし、

「私たちの視線に気付いていたのは、彼だけではないようだ」
「――まさか、紅の鬼神」

 猟兵王の次に警戒すべき――いや、ある意味でそれ以上に危険な人物の接近に戸惑いの声を漏らすクロガネ。
 仮面で顔を隠しているため表情は窺えないが、焦っている様子が見て取れる。
 普段は滅多に見ないクロガネの反応を楽しみながらも、シズナの興味は別の方へ向いていた。

「もう一人、近付いてくる人物がいるね。この気配は……」

 紅の鬼神――シャーリィ・オルランドの後を追うように迫る別の気配を察知したからだ。
 隠す気も無いシャーリィの荒々しい気配と違い、森に溶け込むかのように静かで隠形に長けた達人の気配を感じる。
 少なくとも武に通じているものでなければ、絶対に出来ない気配の断ち方であった。
 そうなると候補は限られる。

「風の剣聖か。彼も動くとはね。いや、彼女を止めにきたのか」

 もう一つの気配の正体がアリオスだと、シズナは察しを付ける。
 大方、宿を飛び出したシャーリィを止めるため、後を追って山へと入ったのだろう。
 面倒なことになった。そう口にしながらも、シズナの口元は緩む。

「……姫」
「前言を翻すつもりはないよ。ただ、この先に彼等を進ませる訳にはいかない。それに〝彼女〟の目的は〝わたし〟だろうしね」

 それが方便だと言うことはクロガネも気付いていた。
 しかし、間違っているとも言えない。彼等がこの地にいるのは理由があってのことだ。
 そして、それは何者にも悟られる訳にはいかない。
 だとすればシズナの言うように、山へと入った者たちを放置するという選択肢はなかった。
 それに相手の目的がはっきりとしている以上、対処も容易い。

「風の剣聖の足止めは我等が――」
「なら、私は〝鬼神〟のお嬢さんを陽動するよ。クロガネなら大丈夫だと思うけど、相手は〝剣聖〟だ。深追いはせず、程々のところで引き上げるように」
「はっ! 姫もご武運を……」

 クロガネと隠れていた配下の者たちの気配が遠ざかっていくのを確認して、シズナも行動を開始する。
 クロガネに言ったように、これはあくまで本来の目的を隠すための陽動。
 いまから〝戦争〟をする訳ではない。
 とはいえ、自ら網に飛び込んできた〝獣〟を前に――

「いずれ〝本命〟と事を構える前に、実力を見定めておきたいしね」

 またとない機会だと、シズナは笑みを漏らすのであった。



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