杜宮市の駅前にあるタワーマンション。
リィンとシズナが共同生活を送っている二十三階の部屋に――
「ほら、珈琲が入ったぞ」
「あ、ありがとうございます」
いつになく緊張した面持ちのアスカの姿があった。
リィンから珈琲の入ったマグカップを受け取り、挙動不審な様子を見せるアスカ。
この部屋にアスカが入るのは、今回がはじめてのことではない。幼い頃に訪れたことがあった。
しかし、その時は緊張するどころか元気一杯に噛みついてきていたと言うのに人間変わるものだなと、いまのアスカを見てリィンは懐かしく思う。
「入るぞ」
「あ、はい。どうぞ」
アスカをリビングに残し、もう一つのマグカップを持って寝室へと向かうリィン。
扉を二回ノックして、返事を待ってから部屋の中へと入る。
「まだ、目が覚めていないみたいだな」
寝室のベッドには、ツインテールの幼い顔立ちの少女が横たわっていた。
不良に絡まれていた二人の少女の片割れ、柚木若葉だ。
そして、そんな彼女をベッドの傍らで心配そうに見守る少女が如月怜香だった。
「珈琲は飲めるよな? 砂糖とミルクも置いておくから好きに使ってくれ」
「ありがとうございます」
リィンからマグカップを手渡され、まだ少し戸惑いと緊張を隠せない様子を見せるレイカ。
あんなことがあった後だから仕方がないと、リィンが様子を見守っていると、
「なにこれ……美味しい」
レイカの口から驚きの声が盛れる。
いつも口にしている事務所の珈琲とは、比べ物にならなかったからだ。
まさか、こんなところで専門店に見劣りしないレベルの珈琲がでてくるとは思っていなかったのだろう。
「こんなに美味しい珈琲を飲んだのは、はじめて。もしかして、バリスタの免許とか持っています?」
「口に合ったならよかったが、別にプロでもないからな? 実益を兼ねた趣味みたいなものだ」
「趣味? 実益?」
不良を叩きのめしていたリィンの姿が頭に浮かび、首を傾げるレイカ。
どの辺りが趣味で実益なのか、珈琲との繋がりがよく分からなかったのだろう。
しかし、そんなレイカに「お前が知る必要はない」とリィンは説明する意思がないことを示す。
ムッとした表情を見せるレイカだが、大人しく引き下がる。
助けてもらったことに感謝しているからだろう。危ないところだったと言う自覚はあるからだ。
それだけに――
「それで? あんなところで、なにをしてたんだ?」
当然そのことを訊かれるだろうと言うことは分かっていた。
不良に目を付けられたのも、この時間にあんな場所をウロウロとしていた自分たちにも問題があると自覚していた。
しかし、事情を打ち明けるべきか迷うレイカ。
助けてもらった恩はあるが、いまレイカが抱えている問題は〈SPiKA〉に関するプライベートな内容だった。
知り合って半日と経っていない相手に相談していいものか、迷うのも無理はない。
そんなレイカの葛藤を察してか、
「別に話したくないのなら話さなくてもいい」
「え……」
リィンは話したくないのであれば、話さなくてもいいと答える。
助けたのも気まぐれに過ぎないし、アスカが割って入らなければ見捨てていたかもしれない。
結局のところ二人が助かったのは、運が良かったからだ。
だからリィンとしてはレイカが事情を話そうが話すまいが、どちらでもよかった。
自分たちだけで問題を解決できないのであれば誰かを頼るのも手だが、それがリィンたちである必要もないからだ。
とはいえ、
「誰にだって知られたくないことはあるからな。ただ――」
話せないのならここまでだ、と言ってリィンはレイカに背を向ける。
レイカにその気がないなら、これ以上関わるつもりはリィンにはなかった。
尋ねてみたのは、少し気になることがあったからに過ぎない。
「待って――」
しかし、そんなリィンを引き留めるレイカ。
右手でギュッと胸元を押さえ、覚悟を決めると――
「私の話を聞いて。そして、出来たら力を貸してください」
絞り出すような声で頭を下げるのだった。
◆
SPiKA――最近、若者の間で話題になっているアイドルグループの名前だ。
レイカとワカバを入れた五人のメンバーで構成されたユニットで、結成から三年になる。
近々〈杜宮市〉のランドマークで知られるアクロスタワーで、デビュー三周年を祝う記念ライブが開かれる予定になっていた。
しかし、
「メンバーの一人が……リオンの様子がおかしくて……」
ここ最近、メンバーの一人――
玖我山璃音の様子がおかしかったのだとレイカは説明する。
「具体的には?」
「心ここにあらずと言うか、練習に身が入っていないみたいだから叱責したのだけど、本人は大丈夫だって問題ないからって言っていたのに……」
一昨日、二ヶ月後に控えた記念ライブの打ち合わせがアクロスタワーであったのだが、リオンが姿を見せなかったのだとレイカは話す。
そして――
「もしかして、連絡が取れないのか?」
「ええ……練習にも来てなくて、事務所が確認したけど家の方にも帰っていないみたいで……いまマネージャーが血眼になって捜しているわ」
それでいてもたってもいられなくなり、自分たちも捜索していたと言う話だった。
レイカの話を聞き、呆れた様子を見せるリィン。
「無茶をする。そう言うのは警察に任せておけばいいものを……」
「じっとしていられなかったのよ。あの子の調子が悪いことは分かっていたはずなのに、私が追い込んでしまったんじゃないかって、そう思ったら……。でも、ワカバを巻き込んでしまったことは後悔しているわ……」
変装してホテルを抜け出すところを、ワカバに見られたのだとレイカは説明する。
臆病なのに頑固なところがあって、どうしても自分もついていくと譲らなかったのだと話す。
「だから、お願い。リオンの捜索を手伝って……報酬もだすわ。少しだけど貯金もあるし、それで足りないなら――」
身体で払うと口にしかけたところで、そこまでだとリィンが止めに入る。
「そう言うのは間に合ってる」
「……助手は足りてるってこと? 確かにあの子みたいに強くはないけど……」
「うん?」
「え?」
話が噛み合っていないことに気付く二人。
ああ、そういうことかとレイカが何を勘違いしているのかを察するリィン。
大方、探偵か何かと間違えて、アスカが助手だとでも思ったのだろう。
だから足りない分は働いて返すと伝えるつもりだったのだと――
「ち、違うから! そう言う意味で言ったんじゃなくて――」
「ああ、はいはい」
レイカも自分の発言を振り返り、リィンが何を勘違いしたのかを察したのだろう。
顔を真っ赤にして狼狽えるレイカを、適当に受け流すリィン。
普段の彼女を知る〈SPiKA〉のメンバーが、レイカのこんな姿を見れば驚くに違いない。
如月怜香と言えば、十七歳とは思えない抜群のルックスでモデルとしても活躍していて、男性ファンのみならず若い女性からの支持も集めているカリスマ的存在だからだ。
実際、アイドルの後輩――ワカバからも尊敬を集めていた。
しかし、顔を真っ赤にして必死に誤解を解こうとする姿は――
「本当に違うんだから!」
カリスマとは程遠い普通の少女だった。
◆
「アスカ、聞いていたな?」
「はい。リィンさん、ああいう子が好みなんですね」
的外れなアスカの答えに、そこじゃないとリィンは疲れた表情で溜め息を吐く。
そんなリィンを見て、悪戯が成功したと言った顔を浮かべるアスカ。
「冗談です。この件、異界が絡んでいると思います」
最初から分かっていて、リィンをからかったのだろう。
昔話を持ちだした件に対するアスカなりの意趣返しなのだと、リィンも察する。
根に持つタイプなんだなと思いながらも余計なことは言わず、リィンは本題に戻る。
「俺も同感だ。確証はないが、嫌な予感がする」
この件には、異界が関与している可能性が高いとリィンとアスカは睨んでいた。
確証はないが、そう考えるに至る理由があるからだ。
レイカに最近変わったことがなかったかと話を聞くと、リハーサル中に音響機材が妙な音を立てて突然壊れたり、ライブ中にファンが奇声を発して倒れたりと、不可思議な出来事がここ最近起きていたという話だった。
一度や二度ではなく、何度も――
行方不明になっている〈SPiKA〉のメンバー。玖我山璃音の調子が悪くなった時期も、丁度その不可思議な現象が起きた時期と重なっていた。
「ここ最近起きていたという不可思議な現象。怪異の仕業と考えるのが自然でしょうね」
一連の出来事は、怪異の仕業である可能性が高いとアスカは考えていた。
リィンも確証がある訳ではないが、猟兵としての勘が何かあると訴えているのだろう。
嫌な――いや、危険な気配をレイカの話から感じ取っていた。
「仮に怪異だとすれば、どう見る?」
「……グリムグリードの仕業かもしれません。現実世界に影響を及ぼすほどの怪異となると、他に考えられませんから」
普通の怪異に出来ることは、ターゲットにした人間を迷宮に引きずり込むことくらいだ。
現実世界に直接影響を及ぼすほどの力は、通常の怪異にはない。
それほどの力を持つ怪異がいるとすれば、それはグリムグリード以外に考えられなかった。
とはいえ、
「規模から言って、〈神話級〉には程問いな」
「はい。恐らくは〈魔女〉クラスのグリムグリードではないかと……」
グリムグリードと一言に言っても階級が存在する。
今回のは東亰冥災を引き起こした災厄と比べれば、現実に与えている影響が小さいことから、恐らく〈魔女〉クラスのグリムグリードだとアスカは推察したのだろう。
しかし、最低クラスの〈魔女〉が相手だとしても、相手はグリムグリードだ。
危険な存在であることに変わりは無い。
被害が大きくなる前に対処する必要があると、アスカが考えていた、その時。
「……シズナからだ」
まるでタイミングを図っていたかのように――
胸元に潜ませていたリィンの〈ARCUS〉が、シズナからの着信を報せるのだった。
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