いまから十年前。空が緋色に染まった日のことは、はっきりと覚えている。
街を襲った巨大地震。その後、どこからともなく現れた怪異の群れ。
鷹羽組の若頭に助けられたところまで、コウは正確に記憶していた。
しかしコウには、どうしても思い出せないことが一つだけあった。
「お前は誰なんだ?」
助けだされる前に、誰かと一緒にいた記憶がコウには残っていた。
なのに顔も、名前も思い出すことが出来ない。だから最初は自分の記憶違いかと思っていたのだ。
しかし、日を追う毎にコウのなかでその違和感は大きくなっていった。
友達と一緒に遊んだ公園。学校の登下校で、毎日のように通っていた商店街。
幼い頃から暮らしてきた街並みを目にする度に、なにかが足りていないような違和感を覚える。
まるで、大切な何かを失ってしまったかのように――
十年前のあの日から、ぽっかりとコウの心には穴が空いたままだった。
だから、
「俺は……ただ、知りたいだけなんだけどな」
コウは周囲の反対を押し切って裏の世界へと足を踏み入れた。
何故かは自分でも分からないが、それが顔も名前も思い出せない少女に繋がる唯一の手掛かりのように思えてならなかったからだ。
手掛かりを求めてユキノの店でアルバイトをするようになったが、代わり映えのしない毎日をコウは送っていた。
裏の世界に足を踏み入れたと言っても、コウに出来ることは少ない。
祖父のもとで武術を習い、幼い頃から身体を鍛えてはいるが、コウにはアスカのような特殊な力がない。
霊力を使えなければ、ソウルデヴァイスに覚醒している訳でもない。
適格者でない人間では、怪異を倒すことは出来ないと言うのが裏の世界の常識だ。
だから、やっていることと言えば、ただの雑用だ。
ほとんどは掃除や店番で、たまにユキノの指示で他の店の助っ人に出向くくらい。
異界関連の仕事が回ってくることは、ほとんどない。
「なにやってるんだろうな」
この調子では、本当に手掛かりを得られるかも分からない。
そうと分かっていても他にあてもなく、週二回のアルバイトを続けていると言う訳だ。
このままではダメだと思っていても、具体的にどうすればいいのか自分でも分からない。
アスカのような力が自分にもあればと考えるが、ないもの強請りであることはコウ自身が一番よく分かっていた。
「帰るか。遅くなったし、明日も学校があるしな」
すっかり辺りが暗くなった道を重い足取りで、自宅へと向かうコウ。
その時。
「なんだ?」
商店街に差し掛かったところで視線のようなものを感じ、コウは振り返る。
誰の姿も見当たらず気の所為かと思い、再び歩き始めるコウ。
しかし、
「気の所為なんかじゃない? なんだ。なにが起きて――」
逃げるようにコウは走り出す。
なにかが迫っている。そんな嫌な気配を感じ取ったからだ。
とにかく逃げて、ユキノさんに連絡をしないと――と路地を曲がり、サイフォンを手に取った、その時だった。
「な――」
目の前に赤いゲートが現れたのは――
◆
日の暮れた駅前の広場に、リィンとアスカの姿があった。
「エルダーグリード程度では相手にならないな」
「そう言って頂けるのは嬉しいのですが、目標には程遠いと実感しています」
そう言って、じっとリィンを見詰めるアスカ。
そんなアスカの視線に気付き、
「ママの仇は私が討つだったか?」
懐かしそうに十年前のことを思い出しながら、そう話すリィン。
「うっ……よく覚えていますね」
「まあな」
アスカからすれば十年も前の話かもしれないが、リィンには二年ほど前のことだ。
はっきりと当時のことを覚えていた。
とはいえ、
(俺が誰かの目標になるなんてな)
ずっと父親の背中を追ってきた自分が、誰かの目標になる。
悪い気はしないが、不思議な気分だった。
しかも、がらにもなく教官の真似事しているのだから――
「人生なにがあるか分からないな」
「リィンさん?」
「こっちの話だ。この後、うちに寄ってメシを食っていくか?」
「え……リィンさんのお宅にですか?」
「ああ、これでも料理は得意でね。マスターの料理にも引けを取らないはずだ」
「知っています。あの時のカレーの味は忘れられませんから……」
そう言えば、そんなことがあったなとリィンは思い出す。
九重神社に避難してきた人たちに手作りのカレーを振る舞ったことがあったのだ。
「なら、今日はカレーにするか。それでいいか?」
「は、はい……まさか、本当にリィンさんの家にお邪魔することになるなんて……」
「シズナも腹を空かせてる頃だろうしな。手早く買い物を済ませて帰るか」
「……そう言えば、シズナさんもいたんだった」
コロコロと表情を変えるアスカを見て、アリサのことが頭に過るリィン。
出会った当時の彼女も、こんな感じだったなと懐かしく思ったからだ。
「あの……リィンさん。前からお聞きしたかったのですが、シズナさんとは――」
どういう関係なのかとアスカが尋ねようとした、その時だった。
女性の悲鳴のような声が聞こえてきたのは――
「いまの声は? リィンさん、先に行きます」
「あ、おい」
声のした方に走っていくアスカを見て、やれやれと頭を掻きながらリィンも後を追うのだった。
◆
「おいおい、嬢ちゃん。つれねえじゃねえか」
駅の高架下に男の声が響く。
黒いジャケットを羽織った如何にも不良と言った装いの男たちに、高校生と思しき少女が二人絡まれていた。
「変装してるから気付かなかったが、この子ら〈SPiKA〉じゃね?」
「なんだ、そりゃ?」
「アイドルだよ。知らねえの? ダメだよ。こんなところをウロウロしてたら。怖いお兄さんに捕まっちゃうからね」
「ククッ、お前が言うかよ。しかし、アイドルね。納得の上玉だ」
複数の男に絡まれ、脅えるように震える少女。
髪を左右で結ったツインテールのあどけなさの残る少女が柚木若葉。
そして、ワカバを庇うように前に立ち、男たちを睨み付ける勝ち気な少女が如月怜香だった。
二人とも最近、巷で話題のアイドルグループ〈SPiKA〉のメンバーだ。
「あなたたち、こんなことしてタダで済むと思っているの?」
「タダで済むと思っているの? だってさ。ククッ、俺たちを誰か知らないのか?」
「呼びたければ助けを呼べば? まあ、誰も助けてなんてくれないだろうけど」
ケラケラと笑う男たちに苛立ちを募らせるレイカ。
しかし、多勢に無勢なことは彼女も理解していた。
男たちを怒らせれば、自分だけでなくワカバも危険に晒すことになる。
それだけは絶対に避けなければならない。せめて、ワカバだけでも逃がすことが出来ればと――
「そこまでよ」
ワカバを逃がす算段をレイカが考えていた、その時だった。
凛とした女性の声が響いたのは――
「あ? なんだ。一体――ぐはッ!」
一瞬の隙を突き、男との距離を詰める人影。
流れるような動作で懐に飛び込むと掌底を放ち、少女たちの前に立つ男を弾き飛ばす。
「な――てめえ!」
「遅いわ」
黒い影の正体はアスカだった。
仲間がやられて激昂した男が殴りかかってくるが、それも軽く手を腕に添えて拳をいなすことで投げ飛ばす。
幼い頃、コウと共に通っていた道場で学んだ格闘技術だ。
怪異を素手で殴り倒すリィンのような真似はできないが、人間が相手であれば、これで十分だった。
「よくも二人をやりやがったな!」
激昂し、警棒のような武器を抜く男たち。
それを見て、レイカとワカバを庇うようにアスカは二人の前に立つ。
残りは三人。倒すだけならたいしたことはないが、後ろの二人に怪我をさせる訳にもいかない。
前の三人にアスカが意識を集中させた、その時だった。
「このアマ!」
投げ飛ばされた男が起き上がり、ナイフを抜いてアスカに迫ったのは――
それを見て、悲鳴を上げるワカバ。
だが、
「子供の喧嘩で使う玩具じゃないな」
男のナイフがアスカに届くことはなかった。
間に割って入ったリィンが、男の腕を掴んでいたからだ。
「があああッ! う、腕が――」
ミシミシと骨の砕ける音が響き、リィンは男を仲間たちの方に片手で放り投げる。
大の男が宙を舞うと言うありえない光景に目を丸くし、呆気に取られるレイカ。
「いまなら見逃してやるから、そのバカを連れて消えろ」
「てめえ! なにを言っ……て……」
仲間をやられ、怒りを顕わにする不良たちだが、その口から次の言葉がでてくることはなかった。
まるで蛇に睨まれた蛙のように立ちすくむ不良たち。
呼吸すらままならず、息が荒くなり、だらだと冷や汗がこぼれ落ちる。
そして、
「聞こえなかったのか? いますぐに消えろ」
理解の及ばない状況に恐怖し、逃げるように不良たちは走り去るのだった。
◆
「たくっ、仲間をおいていきやがった。エイジに連絡して回収させるか」
地面に転がったままの二人の男を見て、面倒臭そうに携帯端末を操作するリィン。
連絡用にと〈鷹羽組〉の若頭、梧桐英二から渡されたサイフォンだ。
「二人とも大丈夫?」
「あ、はい。ありがとうございました」
まだ震えて動けない様子のワカバに代わって、頭を下げるレイカ。
とはいえ、レイカからも困惑を隠せない様子が見て取れる。
突然、現れた二人組があっと言う間に不良たちを撃退してしまったのだから、理解が追いつかないのも無理はない。
それにリィンが見せた力は、現実のものとは思えなかった。
まだ夢でも見ているかのような感覚の中にいるのだろう。
「すぐに回収にくるそうだ。このまま放って置いて問題ないだろう」
「そうですか……って、リィンさん。さすがにやり過ぎでは?」
「死んでなければ、別に良いだろう。お前こそ、手を抜きすぎだ」
油断をしていたことは事実なだけに、バツの悪そうな顔で「すみません」と頭を下げるアスカ。
内心では分かっているのだろう。
リィンが間に割って入らなければ、後ろの二人に怪我を負わせていたかもしれないと――
(怪異との戦いには慣れていても、人間が相手ならこんなものか)
人を傷つけることに抵抗があるのは分かるが、それでは足元をすくわれかねない。
敵が怪異だけとは限らないからだ。
その辺りの心構えも教える必要がありそうだと、リィンが考えていると――
「ワカバ!?」
緊張の糸が切れたかのように、レイカの腕の中でワカバは意識を失うのだった。
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