杜宮市の郊外――午後の陽が柔らかく差し込む丘のふもとに、白石の小さな教会が佇んでいる。
 戦後の混乱期に建てられたというその建物は、年月を経た風格こそあれ、古びた様子はなく、隅々まで手入れが行き届いていた。
 敷地の片隅には小さな花壇があり、春先でもないのに、薄紫の草花が静かに風に揺れている。

「きれいな教会ですね……」

 アスカが呟いた。
 ほんのわずかに聖油の香りが漂ってくる。誰かがちゃんと、この場所を守っている証だ。
 リィンは懐から取り出した携帯端末(ARCUS)をちらと見やり、時間を確認する。

「さて……そろそろかな」

 重い木製の扉に手をかける前に、リィンは軽く息を吐いた。
 教会まで足を運んだ目的は、半年ほど前に消息を絶ったカズマの捜索だ。
 ここに不良たちが出入りしていたという情報を得てのことだが、真の目的は別にあった。
 軋む音もなく扉が開く。中から現れたのは一人の男性だった。
 黒衣の法衣に身を包み、透明感のある水色の短髪に光が差していた。
 銀縁の眼鏡の奥の眼差しは穏やかで、年の頃は三十代半ばか。
 血色のよい頬と、柔らかな微笑み。整っている。いや、整いすぎていた。

「お待ちしておりました。時間ぴったりですね」

 その言葉に、リィンは静かに頷いた。

「リィン・クラウゼルだ。探偵をしている。こっちの二人は助手だ」
「伺っております。捜している方がいるとのお話でしたが……」
「ああ……少し、話を聞かせてもらえるか?」

 後ろで軽く会釈するアスカとレイカをリィンが紹介すると、司祭と思しき男性が柔らかな笑みで応える。

「ご丁寧に。僕は当教会の司祭を務めております。ヨアヒム・ギュンターと申します」

 実のところ、リィンはヨアヒムと面識があるわけではなかった。
 ヨアヒムのことを知っていたのは、前世の知識――ゼムリア大陸が創作の世界だという“原作知識”によるものだ。
 だが、転生した世界でも、ヨアヒムはロイドたちに敗れて命を落としていた。その顛末については、エリィから話を聞いている。
 だからこそ、いま目の前にいる“この人物”が、あのヨアヒムと同一人物かを確かめる必要があった。
 それが、リィンがこの教会に足を運んだ真の目的だ。

「カズマという男を知っているか?」
「ええ。僕が赴任してきたのは半年ほど前なので直接の面識はありませんが、子どもたちがよく話してくれるので。以前、孤児院にいた青年ですよね?」

 ヨアヒムは目元をわずかに細める。

「“お兄ちゃん”と呼ばれて、子供たちから慕われていたと聞いています」

 温かな声色。嫌味のない笑み。けれど、ほんの僅かな違和感をリィンは覚える。
 まるで作り物のような――感情の籠もっていない薄っぺらさをヨアヒムから感じたからだ。

「その彼が姿を見せなくなったのは……?」

 アスカが控えめに問うと、ヨアヒムはゆっくり頷いた。

「半年ほど前になります。僕が着任する少し前に、ふいに来なくなったと聞いています。それ以来、連絡もないそうです」

 ぴたりと、〈ケイオス〉との抗争と重なる時期だった。
 カズマが囮となって姿を消し、この街で再び異変(・・)が始まったタイミングでもある。

「ふむ……なにか事情がありそうですね。よろしければ、奥で話を聞かせてください。彼のことをよく知るシスターもいますから、僕よりも彼女から話を聞いた方がいいでしょうしね」

 丁寧な口ぶりだった。感情にも乱れはない。
 だが、リィンはどこか“場の進行”をコントロールされているような感覚を覚える。

「ああ、安心してください。今日は孤児院の子どもたちもレクリエーションで出掛けていまして、やることがなく釣りにでも出かけようかと思っていたところです。時間なら、たっぷりとありますよ」

 ふっと笑ったその表情に、リィンは微かに瞬きをした。
 原作でも、ヨアヒムは釣り好きで知られていた。
 この言葉だけで、警戒がひとつ深まる。これは、偶然か、それとも――

「……それじゃあ、案内を頼めるか?」
「ええ、喜んで」

 リィンは短く応じ、ヨアヒムの誘いに乗るのだった。


  ◆


 礼拝堂は、驚くほど静かだった。
 白木の床に整然と並んだ長椅子。高窓から差し込む斜陽が、空気の粒を淡く照らしている。
 壁に掛けられた布飾り、祭壇の燭台、磨き上げられた床板――整えられた祈りの空間が、吸い込むように沈黙を湛えていた。
 歩みを進めたリィンの前に、一人のシスターが現れる。
 淡いグレーのヴェールをまとい、年輪の刻まれた手に小さな聖典を抱えていた。
 その動きには威圧も装飾もなく、けれど確かに、ここで長く祈りと共に生きてきた者の気配があった。

「ようこそ、お越しくださいました。……カズマ君のことをお調べと、ヨアヒム様から伺っております」

 声は静かで、芯があった。
 シスターの名は、椎名静流。杜宮の聖霊教会で十五年以上子どもたちを見守ってきた女性だという。

「彼のことは、よく知っています。……もともとは別の養護施設の出身でしてね。東亰震災の影響で施設が取り壊しになって……」

 シズルは一息置く。

「カズマくんとシオくんの二人が、こちらの教会で引き取られることになりました」

 その声に、アスカがそっと息をのむ。
 語り口はあくまで穏やかで、誰かを責めるものではなかった。
 けれど、震災と孤児という言葉の並びは、それだけで言葉以上のものを運んでくる。

「カズマくんは、とても落ち着いた子でした。下の子たちの面倒をよく見て……“お兄ちゃん”と呼ばれて、ずいぶん懐かれていたものです」

 言葉を選ぶように、シズルは一度だけ短く息を吸った。
 声に濁りはなかったが、想いの重みは微かに滲んでいた。

「自分のことは後回しにして、人のことばかり気にかけるような……大人びた子でしたね。中学を卒業してすぐ、『もう十分です』と言って、自分から出ていったんです」

 リィンは、黙って耳を傾け続けていた。
 差し出された視線の先、長椅子の一つ――中央の列にだけ、少し色の褪せたクッションが置かれていた。
 その脇に、小さな紙片が貼られている。
 子どもの字で、こう書かれていた。

『おにいちゃんへ』

 恐らくはカズマに宛てた子供たちの手紙だろう。
 拙い字で、感謝を告げる言葉が並べられていた。
 紡がれるシズルの声には、どこか懐かしさが混じっていた。

「最後に訪ねてきた時も、その席で子供たちに絵本を読み聞かせてくれていました。ですが……それ以来、一度も姿を見せていないのです。子供たちも、心配していて……」

 リィンは紙片をそっと見つめ、目を伏せる。
 カズマのことを心配するシスターや子供たちの不安を、言葉より先に感じ取っていた。
 ヨアヒムは怪しい。刻印騎士の件もあり、聖霊教会に対する猜疑心が消えたわけではない。
 それでも――教会の関係者全員が、黒だとは考えていなかった。
 これが演技ならたいしたものだが、少なくともリィンの勘は、彼女は“白”だと告げていた。
 一拍おいて、シスターはリィンに声を掛ける。

「ヨアヒム司祭のもとへご案内しますね。話が終わったら、ご案内するようにと申し使っておりますので」

 シズルが、礼儀正しく頭を下げる。

「……よろしくお願いします」

 短くそう答えて、リィンたちはシズルの案内でヨアヒムの待つ執務室へ向かうのだった。


  ◆


 一階の奥、礼拝堂とは別棟へ続く廊下の先に、司祭の執務室はあった。
 白木の机と静かな書棚。棚には神学書と郷土史、釣り雑誌が並ぶ。
 壁には小ぶりな魚拓が二枚。窓際には手入れの行き届いた渓流竿が立てかけられていた。
 趣味としては目立たず、けれど確かに“暮らしの一部”のように馴染んでいる。

「釣りは心が落ち着くんです。……祈りと、少し似ていますから」

 ヨアヒムが柔らかに微笑み、手前の椅子へと手を差し伸べる。
 リィンたちが腰を下ろすと、温かい茶と素朴な菓子がすでに用意されていた。

「カズマくんのことでしたね。……残念ながら、直接の面識はありません。僕が赴任してきたのは、彼が姿を見せなくなってしばらく経った頃でしたから」

 そう語る口調に揺れはなかった。机の引き出しから取り出された一冊の記録帳をヨアヒムがめくる。
 児童の日誌らしい。細い文字でこう綴られていた。
 ──カズマおにいちゃんがきて、おかしをくれた。

「これが最後の記録です。五か月と少し前ですね。……その後は、来訪の記録も、接触もありません」

 リィンは小さく頷き、卓上の湯呑みに手を伸ばす。
 湯気は穏やかに立ちのぼり、香のような甘さを帯びた匂いが、ほのかに鼻先をかすめた。
 その奥で、ふと――何かが引っかかった。
 香炉は部屋の隅に置かれていた。白い陶器に黄金の縁取り。教会らしい落ち着いた香だった。
 だが、その煙の底に――ごくわずかに混じる、別の“匂い”があった。
 どことなく甘ったるい匂い。空気の層を僅かに“重くする”なにか。

(……この匂いは、やはり……)

 鼻を通る香りに記憶が刺激され、リィンの脳裏に過去の記憶が過る。
 アスカとレイカは気づいていないようだが、お香に隠れたこの甘い匂いは、間違いなく――あの薬のものだった。

「彼は随分と子供たちに慕われていたようですね。そんな心優しい青年が行方不明とは……なにか事件に巻き込まれたのでしょうか? 他にも協力できることがあれば、遠慮なく言ってください。僕に出来ることであれば、なんでも協力しますよ」

 本当に心配しているようにも見える。説明にも矛盾はない。
 だが、確かな違和感をリィンは嗅ぎ取っていた。


  ◆


 教会を出て、日が傾くなか、三人は車へと戻っていた。
 リィンが運転席に乗り込み、アスカとレイカが後部座席に収まる。
 静かにドアが閉まる音。キーが回り、エンジンがかかった。
 しばらく沈黙が続いた。
 アスカがルームミラー越しにリィンを見る。

「……何か、気づいたんですか?」

 問いは、静かだった。
 リィンは前を向いたまま、小さく息を吐く。

「礼拝用のお香の匂いに……ほんの微かだが、混ざっていた。前にも似た匂いを嗅いだことがある」

 レイカの表情がわずかに動く。
 説明を開くまでもなく、リィンの確信に気づいたからだ。

「つまり……あそこで、作ってるの?」
「間違いない。あの香りは、誤魔化しきれるものじゃなかった……あそこで〈HEAT(ヒート)〉――いや、グノーシスが製造されている」

 エアコンの風が静かに流れ、車内に沈黙が戻る。
 冷たい風が、夏の日差しで火照った頬をそっと撫でるのだった。



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