雑居ビルの一角――さんさんロード裏通りにある事務所は、入り口から一歩踏み入れるだけで空気ががらりと変わる。
 古びた換気扇がゆっくりと回り、中華鍋を振る音がリズムのように響いていた。
 厨房から立ちのぼる湯気には醤油と五香粉が混じり、どこか旅先の屋台を思わせる風情さえある。
 事務所の片隅には簡素なテーブルがあり、三人はその中華の香りに包まれて腰を下ろしていた。

「それで、今晩当たり襲撃を仕掛けるの?」

 そう言いながらレイカは唐揚げに箸を伸ばし、まるで天気の話でもしているような自然さだった。
 その物騒なセリフに、アスカは小さく肩をすくめ、思わず身を引いた。
 すっかりとリィンに毒されてきたと言うか、アイドルらしからぬ言葉に驚いたのだ。
 リィンは中華鍋の火を落としながら、深くため息をつく。

「お前、俺のことをなんだと思ってるんだ?」

 鍋から離れたリィンがテーブルに向かい、湯気の向こうから顔をしかめる。
 その言葉に対して、レイカは悪びれることなく言い切った。

「傭兵でしょ? あ、猟兵だっけ? 軍隊が相手でも負けないくらい強い、理不尽の権化みたいな」

 アスカは「あ、ちょっと分かるかも……」と言いかけて、慌ててリィンから目線をそらす。
 レイカは小籠包を口に運びながら、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
 そんな二人にリィンは呆れながら今後の方針を告げる。

「しばらくは様子見だ」

 その一言に、場の空気が一瞬ぴたりと止まる。
 驚いたレイカが唐揚げの箸を止め、アスカも視線を上げた。
 教会でグノーシスの痕跡を見つけたのに、リィンが動かないと言う――それは、二人にとって意外な判断だったからだ。
 シズナならともかく、本当に俺のことをなんだと思っているんだ……と呆れながら、リィンは二人の疑問に答える。

「あそこでグノーシスが研究されているのは間違いない。だが、薬を生産しているのが、あそこだけとは限らないだろう?」

 一拍おき、レイカとアスカが「あっ」と同時に声を出した。
 ようやく意図に気づいた彼女たちに、リィンは話を続ける。

「生産から流通まで、全部を一人で取り仕切れるとは思えないからな。それに、あそこは孤児院が併設されている。外部の人間が頻繁に出入りしていれば、嫌でも目立つ。なら、他にも拠点があると考える方が自然だろう」

 納得の行く理由に感心する二人。
 言われみれば、確かにその通りだった。
 だが、次の言葉でアスカとレイカは目を瞠ることになる。

「そして俺は、そのドラッグの生産に〈BLAZE〉が関わっていると考えている」

 テーブルに沈む空気が、じわじわと緊張に包まれていく。
 アスカが言葉を選びながら問いかける。

「ケイオスではなく、ですか?」

 シオの話では、最初に〈HEAT〉を使用したのは〈ケイオス〉だったはずだ。
 だとすれば、真っ先に疑うのは〈ケイオス〉の方ではないかと考えたのだろう。
 確かにアスカの考えは間違っていない。しかし、

「なら、どうやって〈BLAZE〉の連中は薬を手に入れたんだ?」
「それは……」

 敵対しているチームに〈ケイオス〉が薬を融通するとは思えない。
 だが、アキヒロたちは鷹羽組に目を付けられるくらい派手に動いている。
 それだけの数の薬を、どこから手に入れているのかと言った疑問が浮上する。
 だからこそ、リィンは〈ケイオス〉ではなくアキヒロたちを疑ったのだ。
 もしかしたら〈ケイオス〉も薬の生産や流通に関わっている可能性は高いが、そこは北都とエイジの調査待ちと言ったところだろう。
 だからリィンは、〝いまは動かない〟ことを決めた。
 決着をつけるのであれば、一気に片を付ける必要があると考えたからだ。
 リィンの考えを聞き、アスカは悔しげに唇を噛む。

「理解したか?」
「……はい」

 素直に考えが足りていなかったことを認めるアスカ。
 落ち込んだ声色に、レイカがちらりとリィンに視線を向ける。
 ちょっとはフォローしなさいよ、と言いたげだったが、リィンは表情を変えない。
 洞察力を養うには、経験を重ねるしかない。これも経験の内だと思っているからだ。
 沈黙と共に重い空気が流れるが、その場の空気を破ったのは軽快な足音だった。

「良い匂い。丁度、お腹減ってたんだよね。今日の晩ご飯はなに?」

 事務所の扉を開けて、シズナが声を弾ませながら入ってくる。
 椅子に自然と腰を下ろし、当たり前のように料理へと視線を向けた。
 リィンはちらりと彼女を見て、あることに気づく。

「シオは一緒じゃないのか?」
「うん、迷宮に置いてきた」
「え?」
「え?」

 リィンの問いにあっけらかんと答えるシズナ。
 アスカとレイカの声が揃う。

「実戦に勝る修行はないし、丁度良い()があったからね」

 さらりと言うシズナに、アスカが立ち上がって叫んだ。

「ちょ、ちょっと待ってください! 彼は〈適格者〉じゃないんですよ!?」

 怪異と戦えるのは、ソウルデヴァイスに覚醒した〈適格者〉だけだ。
 聖別された武器や、霊装を使えば戦えなくないが、それでも命懸けの危険が伴う。
 昨日まではただの一般人だったシオには荷が重すぎると、アスカが心配するのは当然のことだった。
 しかし、シズナはとんでもないことを口にする。

「ああ、ソウルデヴァイスって奴? 使えるようになったよ」
「……え?」
「怪異の群れに放り込んで死なない程度に鍛えてたら、いつの間にか使えるようになっててね。やっぱり実戦に勝る訓練はないよね」

 当然のように言い放つシズナに、アスカは言葉を失った。
 呆然と立ち尽くすアスカを見て、リィンは眉間を軽く押さえながら静かに嘆息する。

「……やっぱりこうなったか」

 その呟きが落ちると同時に――再び扉が開く。
 夕飯時。においに釣られたのは、シズナだけではなかったようだ。

「レイカ! アンタまた……電話に出ないと思ったら、こんなところで……!」
「良い匂い……小籠包に餃子。スープに麺類まで……今日は中華のフルコースですか?」
「レイカ先輩、ずるいですよ……」

 SPiKAのメンバーが、次々に事務所へ顔を出す。
 リオン、ワカバ、アキラが順に言葉をつなぎ、最後に現れたハルナが、ごめんなさいと言った表情で手を合わせていた。
 中華の匂いと、女の子たちの姦しい喧騒。だけどリィンの表情だけは、ふと沈んでいた。
 平穏な日常の裏で蠢く不穏な気配を、彼だけが感じ取っていた。


  ◆


 リィンとワカバがキッチンに並び、静かに後片付けをしていた。
 空の食器が水音と一緒にシンクへ落ちる。
 室内にはまだ炒め油と香辛料の香りが漂っていて、ワカバが開けた窓から涼しい風が入り込んできた。

「悪いな。手伝わせて」

 水を切る手を止め、リィンがワカバの方を向いて声をかける。
 ワカバがいなければ、ひとりで片付けをさせられていたかもしれないと感謝してのことだった。

「いえ! ご馳走になったので、これくらいは手伝わせてください!」

 頬を赤く染め、誤魔化すように皿を拭くワカバにリィンは苦笑を返す。
 事務所の応接間では、他のメンバーがソファに集まり、食後の談笑をしていた。
 姦しい声が聞こえる中、リィンはふと部屋を見渡し、あることに気がつく。

「シズナはどうしたんだ?」

 先程までシズナと並んで座っていたアスカが、リィンの声に振り返る。
 皿を食器棚に片付けながら、淡々と答えた。

「高幡くんの様子を見に戻りました」

 リィンは少し驚いたように目を細める。
 かなり無茶をさせているようだったが、一応は気に掛けているのかと思ったからだ。
 しかし、続くアスカの言葉で考えを改めることになる。

「そろそろ攻略できている頃だろうから、新しい迷宮を探しに行くと言ってました……」

 鍋を拭いていたリィンは、手の動きを止めることなく目線を落とした。
 少しだけ深いため息が混じり、「シズナはシズナだな」と諦めに似た境地で呟く。
 そんな時だった。レイカのサイフォンが鳴り響いたのは――
 誰からだろうとサイフォンの画面を見るも、知らない番号に首を傾げるレイカ。
 しかし、マネージャーからの電話かもしれないと思って電話にでると――

「はい、こちらレイ――」
『遅い! そこにリィンがいるだろ! はやく代わってくれ――』

 強い怒鳴り声がサイフォンから飛び出し、レイカは驚いて耳を離す。
 生意気なパーカー姿の少年の顔が頭を過り、眉を顰めながらサイフォンをリィンに手渡すレイカ。

「リィンに電話よ。あのクソ生意気なお子様から」

 リィンはサイフォンを受け取り、苦笑しながら通話にでる。
 レイカの反応から、すぐに電話の相手がユウキだと察したからだ。
 サイフォンに耳を当てた次の瞬間――

『大変なんだ! 姉さんが――』

 切迫したユウキの声が、悲痛な音をリィンの耳に響かせる。
 いつになく険しい表情を見せるリィンに事務所の空気が静まり返り、少女たちの笑い声も自然と止まる。
 嫌な予感の正体はこれだったかと、リィンは溜め息を交えながらユウキに説明を求めるのだった。



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