夜の港湾区は、まるで忘れられた巨獣の骸のように静まり返っていた。
 海から吹き付ける湿った風が、錆びたコンテナの間を抜け、寂しげな音を立てる。
 ナトリウムランプの頼りない橙色の光が、アスファルトに溜まった水たまりを不気味に照らし、時折ぽつりと落ちてくる雨粒が、その水面に小さな波紋を広げていた。
 決戦の舞台としては、これ以上ないほど陰鬱な場所だった。

 巨大な倉庫が立ち並ぶエリアの中心。広大なコンテナヤードで、二つの集団が睨み合っていた。
 片や、炎のエンブレムを背負った黒いジャケットの集団――〈BLAZE〉。その数、およそ百。
 対するは、混沌を意味する円環の蛇をシンボルとする〈ケイオス〉。こちらも数はほぼ互角。
 両者の間に張り詰めた空気は今にも切れそうなほどで、雨粒が地面を叩く音だけが、やけに大きく響いていた。
 その光景を少し離れたコンテナの上から、二つの影が見下ろしていた。

「……アキヒロ」

 金髪を雨に濡らしながら、高幡志緒は唇を噛んだ。
 〈BLAZE〉の先頭に立つ男――戌井彰宏。かつては背中を預け合った仲間。
 その瞳は、シオの知る彼のものとは違う、非人間的な紅い光を宿していた。
 隣に立つシズナが、まるで夜の散歩にでも来たかのように軽い口調で尋ねる。

「どうするの? あれ、もうただの喧嘩じゃないよ」
「分かってる……だから、止めなきゃならないんだ。あいつを」

 シズナとの地獄の特訓は、シオに確かな力を与えていた。
 いまのシオであれば、ソウルデヴァイスを使わずとも街の不良如き、相手にもならないだろう。
 だが、目の前の光景は、力だけではどうにもならない根深い問題を孕んでいた。

(カズマさん……アンタ、なんでだよ……!)

 アキヒロの脳裏に、ボロボロになって帰ってきた仲間の報告が浮かぶ。
 ――カズマが〈ケイオス〉に寝返った。
 半死半生の状態で、仲間が口にした言葉。状況から考えても、誰がそれをやったのかなど明白だった。
 裏切られた。その絶望が、アキヒロを〈HEAT〉へと走らせた。
 力が欲しかった。全てをねじ伏せ、従える力が――
 そうすればカズマを連れ戻し、なぜ裏切ったのか、その真意を問い質すことが出来ると考えたからだ。
 それが、彼の歪んだ決意だった。

「てめえらだけで、俺たちに勝てると思ってんのか? カズマにも見捨てられた腑抜け集団が」

 〈ケイオス〉のリーダー格と思しき大柄な男が、獰猛な笑みを浮かべ挑発する。

「黙れ」

 アキヒロの声は、低く、乾いていた。

「カズマさんは……アンタらに誑かされただけだ。俺が目を覚まさせて、必ず連れ帰る。そして……てめえらみたいな連中に、この街を好きにはさせねえ!」

 自らに言い聞かせるような叫び。
 その悲痛な声を聞き、シオは今にも飛び出そうとする。
 だが、シズナが静かに彼の肩を押さえた。

「まあ、待ちなよ。なにか来る」

 シズナの視線はヤードの奥。最も高い倉庫の屋上へと向けられていた。
 彼女の野生の勘が、この場の誰よりも先に異質な気配の源を捉えていた。
 その言葉と同時だった。抗争の真っ只中、倉庫の屋上に、ふっと一人の男が姿を現したのは――
 黒衣の法衣、銀縁の眼鏡。
 そして、穏やかすぎる笑み――ヨアヒム・ギュンターだった。

「皆さん、お集まりのようですね。素晴らしい夜です。ショーを始めるには、最高の舞台だ」

 彼の声はマイクを通しているわけでもないのに、不思議とヤードの隅々まで響き渡った。
 不良たちが訝しげに空を見上げた、その刹那。
 ヨアヒムが懐から取り出した旧式のオーブメント――〈ゲネシス〉が、禍々しい光を放った。

「なっ――!?」

 港湾区一帯の空間が、ぐにゃりと歪む。
 地面から禍々しい紋様が浮かび上がり、倉庫やコンテナが粘土のように形を変え、天を突く巨大な塔――悪魔の城へと変貌していく。

異界化(イクリプス)……!?」

 シオが叫ぶ。だが、ただの異界化ではなかった。
 現実世界そのものが、異界に上書きされていく。
 不良たちの間から悲鳴が上がり、一部は出現した怪異に呑み込まれていった。
 シズナはシオの首根っこを掴んで後方へ跳び、迫りくる空間の歪みから逃れる。

汎魔化(パンデモニウム)……リィンに連絡した方が良さそうだね」

 シズナは短く呟くと、紅い霧の中に聳え立つ悪魔の城を静かに見据えた。


  ◆


 ビルの窓から、遠く港湾区の空が不気味な緋色に染まっているのが見える。
 レイカは、祈るように窓ガラスに額を押し付けていた。

「心配?」

 背後から、そっとかけられた優しい声。
 振り返ると、ハルナが温かい紅茶の入ったカップを手に立っていた。

「……本当は、ついていきたかったんじゃない?」
「……馬鹿言わないでよ」

 レイカは強がるように言って、ハルナからカップを受け取った。
 だが、その指先は微かに震えている。

「これでいいのよ。あいつを困らせたい訳じゃないし……自分に、戦う力がないことくらいは分かってるから」

 唇を噛むレイカの横顔は、悔しさと、それ以上の深い想いに満ちていた。
 無理を言って付いて行ったところで、足手纏いでしかならないことは理解しているからだ。

「それに……」

 彼女は窓の外を見詰めながら、微かに微笑んだ。

「帰ってきたときに『おかえりなさい』って言う役も、必要でしょ?」

 その言葉にハルナは何も言わず、ただ静かに頷いた。
 それが、如月怜香という少女の覚悟のカタチだった。


  ◆


 黒いSUVが、常軌を逸したスピードで夜のハイウェイを疾走していた。

「見えました! あれは……!」

 助手席のアスカが叫ぶ。
 その視線の先には、天を突く巨大な城のシルエットが浮かび上がっていた。

異界化(イクリプス)……」

 後部座席でミツキが絶望的な声で呟く。
 その時、リィンの〈ARCUS〉にシズナからの通信が入る。

『――リィン。たぶんこれ、共和国の首都で見たのと同じだと思う』
「……やっぱりか」

 異界化(イクリプス)ではなく汎魔化(パンデモニウム)
 だが、これで確信を得た。ヨアヒム・ギュンターには、あちらの世界の記憶がある。 
 リィンはハンドルを握る手に力を込める。
 アクセルが床まで踏み込まれ、エンジンが悲鳴のような咆哮を上げた。


  ◆


 現場に到着したリィンたちが目にしたのは、地獄のような光景だった。
 聳え立つ悪魔の城。そこから溢れ出し、不良たちに襲いかかる怪異の群れ。
 そして、その中心で不良たちを守るように戦うシオとシズナの姿があった。

「無事か? まあ、シズナがいるなら問題はないだろうが……」

 リィンが車から飛び降りながら尋ねる。
 それほど心配していないのは、シズナが一緒だからだ。

「来てくれたのか!」

 シオが安堵の声を上げる。
 シズナは刀を振るい、一体の怪異を斬り伏せながらリィンに告げた。

「あの神父さん、城の中に消えたよ。他にも何人か、城の中に連れ去られたみたい」

 その言葉に薬の効果が切れかけていたアキヒロが、よろめきながらシオに詰め寄った。

「カズマさんは……カズマさんは、どこにいるんだ!」
「アキヒロ……落ち着け! って、ここにカズマがいるのか?」

 カズマが行方知れずになって半年。
 アキヒロが動いたのなら、もしかしてという考えはあった。
 しかし、本当にカズマがここにいるとは思ってもいなかったのだろう。
 いや、正確には心の何処かで、もう生きていないのではないかと思っていたのだ。
 その時、空に巨大なスクリーンが現れ、ヨアヒムの顔が映し出された。

『ようこそ、皆さん。僕の研究の集大成〈パンデモニウム〉へ』

 その声は、悪魔の誘いのように響き渡った。

『人質は、この城のどこかにいます。ユウキくんのお姉さんも、孤児院の子供たちもね。ああ、カズマくんもキミたちとの再会を心待ちにしていますよ。助け出せるのなら、助け出してみるといいでしょう。もっとも、あなた方にそれが出来るとは思えませんが』

 嘲笑を残し、スクリーンが消える。
 ゴウ、と音を立てて城の入り口が開き、内部から更に多くの怪異が溢れ出してくる。
 その群れの中に、明らかに他の怪異とは違う、悪魔のような姿をした異形が数体混じっているのをリィンは見逃さなかった。

魔人化(デモナイズ)……ケイオスの連中か」
「なんてこと……」

 ミツキが絶望に唇を噛む。
 彼女も気付いたのだろう。それが、元人間(・・・)。ケイオスのメンバーだと。
 その時、彼女のサイフォンが震えた。秘書のキョウカからだった。

『お嬢様。周囲の封鎖が完了しました。これより〈アングレカム〉を突入させます。それと、対零号特戦部隊(タスクフォース・ゼロ)が協力を持ち掛けてきていますが――』
「通してあげなさい。いまは人質の安全確保が最優先です」

 ミツキは即座に決断する。

『畏まりました』

 通話を切り、ミツキはリィンに向き直った。

「リィンさん、お願いします。どうか、力を貸してください」
「元より、そのつもりだ」

 リィンは仲間たちに向き直る。

「さて、聞こえた通りだ。戦力を集中させたいところだが、人質の救出もあるからな。ここからは二組に分かれる。シズナと俺はヨアヒムを追う。アスカ、ミツキ、お前たちは人質の捜索を頼む。それと、そこの連中。お前等は邪魔だ。死にたくなければ下がっていろ」

 リィンが「そこの連中」と顎で示したのは、アキヒロとまだ意識のある〈BLAZE〉のメンバーだった。
 アキヒロは悔しさに顔を歪める。

「俺は……カズマさんを……!」
「足手纏いだ。戦えない奴のお守りをしていられる状況じゃないんでな」

 バッサリと切り捨てられ、リィンを睨み付けるアキヒロ。
 しかし、なにも言い返せない。内心では分かっているのだ。
 このままついていっても、足手纏いになるだけだと言うことは――
 その時、シオが彼の肩に手を置いた。

「ここは、俺に任せろ。カズマは……必ず連れて帰る」
「……シオ」

 シオの真っ直ぐな瞳を見て、アキヒロは力なく頷いた。
 そのシオの手には、いつの間にか闘気が凝縮したかのような巨大な剣――
 大剣型のソウルデヴァイスが握られていた。

「決まりだな」

 リィンがパンデモニウムへと向き直った、その時だった。

「待ってくれよ。僕も行く」

 車から降りてきたのは、パーカー姿の少年――四宮祐騎だった。

「危険よ! あなたも、ここに残って――」

 ユウキの身を案じて、止めに入るアスカ。
 しかし、ユウキは不敵に笑い――

「なに、ぼーっとしてんだよ。ほら、いくよ」

 アスカは驚愕に目を見開いた。
 ユウキが右手を掲げると、光と共にメイス型のソウルデヴァイスと、その周囲を浮遊する数機の霊子殻(ビット)が出現したのだ。

「ソウルデヴァイス!? あなた、いつの間に……」
「いろいろとあったんだよ。姉さんを助けるのに、僕の力も必要だろ?」

 リィンはユウキを一瞥すると、口の端を上げた。
 彼が適格者であることは、とっくに知っていたからだ。

「ユウキ、お前はアスカたちと行け。人質の捜索には打って付けの能力だしな」
「了解。任せてよ」

 リィンとシズナの二人が、悪魔の城――パンデモニウムの入り口へと疾駆した。
 その後にアスカとミツキが続き、シオとユウキが追いかける。
 リィンの視線が、聳え立つ城を鋭く見据える。

(お前はやり過ぎた。ケジメはつけさせてもらうぞ)

 瞳に揺るぎない決意の光が宿し、リィンは地獄の門を潜るのだった。



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