パンデモニウムの内部は、外観から想像したものとは全く異なる悪趣味なまでの静謐さに満ちていた。
一歩足を踏み入れると、そこは教会の大聖堂を歪に模したかのような巨大なホールが広がっていた。
床は大理石のように磨き上げられているが、その表面には血管のような赤い紋様が不規則に脈打っている。
天井は遥か高く、ステンドグラスが嵌め込まれているはずの窓は、代わりに生きた眼球のように蠢く紋様で埋め尽くされ、緋色の不気味な光をホールに投げかけていた。
「趣味が悪いね。そう言えば、帝都の宮殿もこんな風にパンデモニウム化したことあったんだよね? 煌魔城だっけ? あれも、こんな感じだったの?」
「あれも悪趣味ではあったが、ここまでではなかったな」
軽口を叩くシズナに、リィンは肩をすくめて応じる。
煌魔城も禍々しくはあったが、そこには歴史と様式美があった。
だが、この城にはそれがない。
ただ純粋な狂気と、歪んだ知識欲だけが設計思想であるかのように感じられた。
二人が軽口を交わしながらホールの中心へ進むと、床の紋様が脈動を早め、そこから粘液質の塊がいくつも隆起し始めた。
塊は瞬く間に人型をなし、歪な剣や槍を携えた怪異へと姿を変える。
「悪趣味、極まれりだな」
リィンは腰に下げた二本のブレードライフルを抜き放つ。
「シズナ、お前は右翼。俺は左翼から中央を抜ける」
「了解。どっちが多く狩れるか、競争する?」
「好きにしろ」
会話と同時に、二人の姿が掻き消えた。それはもはや疾走というより、瞬間移動に近い踏み込みだった。
シズナは風のように舞い、怪異の群れに斬り込んでいく。彼女の振るう妖刀は、怪異の肉体をバターのように容易く切り裂き、その軌跡には光の粒子だけが残った。
対するリィンは、派手さこそないが、より効率的だった。
一体一体を確実に仕留めるのではなく、全体の動きを見据え、敵の陣形が最も薄くなる一点を的確に突き崩していく。彼の動きはまるで精密機械のようで、一挙手一投足に無駄がない。
ホールの怪異を掃討し終えるのに、一分とかからなかった。
静寂が戻ったホールには、二人の静かな息遣いだけが響く。
「俺の勝ちだな」
「あちゃー、負けちゃったか。リィンの方が一体多かったな? でも、次は負けないからね」
まるで子供のような会話だが、その内容は百体近い怪異をどちらが多く屠ったかというものだ。
ホールの奥には、上階へと続く巨大な螺旋階段が待ち構えていた。
まるで、悪魔の喉笛へと誘うかのように――
階段を駆け上がり、次のフロアにたどり着いた二人を待っていたのは、より濃密な血の匂いと、二体の巨躯だった。
それは、先ほど掃討した雑魚とは明らかに格が違った。
人の形を保ってはいるが、その肉体は筋繊維が異常に肥大化し、皮膚は黒ずんだ鱗のように硬質化している。その瞳に理性の光はなく、ただ純粋な破壊衝動だけが爛々と輝いていた。
魔人化した〈ケイオス〉の幹部だ。
「うおおおおおっ!」
獣のような咆哮と共に、二体の魔人が左右から同時に襲いかかってくる。
常人を遥かに超えるスピード。コンクリートの床を容易く砕くパワー。
だが、リィンとシズナは足を止めなかった。それどころか、さらに加速する。
「シズナ」
「うん」
短い交感。それだけで十分だった。
二人は交差するように進路を変える。リィンが右の魔人へ、シズナが左の魔人へ。
魔人が振り下ろした拳を、リィンはブレードライフルの側面で受け流す。衝撃で火花が散るが、リィンの体勢は微動だにしない。そのまま流れるような動作で懐に潜り込み、もう一方のブレードライフルを逆手で首筋に突き立て、真横に引き抜いた。
シズナの動きは、さらに苛烈だった。魔人の爪撃を、身をかがめる最小限の動きで回避。すれ違いざま、抜き放った妖刀が銀色の閃光を描く。
二人が魔人とすれ違い、再び隣り合って着地した時には、全てが終わっていた。
首から血飛沫ならぬ光の粒子を噴き出し、二体の魔人はその場に崩れ落ち、塵となって消えていく。リィンとシズナは、その光景に一瞥もくれず、次の階段へと歩を進めていた。
「仇は取ってやるから、安らかに眠れ」
リィンが、誰に言うでもなく呟く。
シズナは刀の血糊を払う仕草をしながら、愉しげに口の端を上げた。
「まあ、元は人間でも、ああなっちゃったらもう助からないしね。楽にしてあげるのが情けってものでしょう」
それが、幾多の死線を越えてきた彼らの流儀。戦場における絶対の真理だった。
◆
一方、リィンたちとは別のルートから人質救出を目指すアスカたちの部隊は、苦戦を強いられていた。
「くそっ、手加減ができねえ!」
シオが叫ぶ。
彼の振るう大剣型ソウルデヴァイスが、魔人化した〈ケイオス〉のメンバーの腕を弾く。
しかし、相手は痛みを感じていないかのように、更に凶悪な笑みを浮かべて殴りかかってきた。
「く……! このままじゃ――」
アスカが叫ぶ。彼女のソウルデヴァイス〈エクセリオン=ハーツ〉が放つ冷気が魔人の足元を凍らせ動きを鈍らせるが、それも束の間、力任せに氷を砕いて前進してくる。
執行者になるために幼い頃から訓練に励んできた彼女でも躊躇するのだ。
シオやユウキ。この前まで一般人に過ぎなかった彼等が敵とはいえ、人間を殺すことに躊躇するのは自然なことだった。
怪異を殺すことと、人間を殺すことでは心理的なハードルに大きな差があるからだ。
たとえ相手が魔人化していようと元が人間である以上、命を奪うことには強い抵抗があった。
「とにかく動きを止めることが出来れば――ミツキさん、援護を!」
「はい!」
アスカの声に呼応し、ミツキの杖から放たれた光の矢が魔人の肩を撃ち抜く。
だが、怯む様子はない。その優しさと躊躇いが、命取りになろうとしていた。
「危ねえ!」
シオが大剣を構え、アスカを庇うように前に出る。
魔人の渾身の一撃を大剣で受け止めるが、その衝撃に耐えきれず、壁際まで吹き飛ばされた。
「ぐっ……! こいつら、タフすぎる……!」
シオが呻く。
ユウキが展開した霊子殻が周囲を飛び回り、敵の弱点を探すが、全身が異様なオーラに包まれており、有効な情報が得られない。
「ダメだ! 全身が霊力の塊みたいな反応で、弱点らしい弱点が見当たらない!」
ユウキの報告に、全員の顔に絶望の色が浮かぶ。
彼らはまだ知らなかった。〈HEAT〉――グノーシスの真の恐ろしさを。
赤いグノーシス。それは、人間を単に〝怪異〟へと変える薬ではない。
肉体や精神。そう言ったものの壁を破り、人を人ならざる領域へと押し上げる薬。
代償に記憶や自我を奪い、心までもを異形の怪物へと変容させる。
最後には、力の代償として魂そのものを糧とし、存在そのものを燃やし尽くす。
救いのない悪魔の薬なのだということを――
「このままじゃ……!」
ミツキが唇を噛む。この膠着状態を破らなければ、ジリ貧になるだけだ。
その時、吹き飛ばされたシオに、もう一体の魔人がとどめを刺そうと爪を振り上げた。
「――させない!」
アスカの思考が、極限まで加速する。
仲間が殺される。その光景が、彼女の中の最後の枷を破壊した。
躊躇いを捨て、彼女はソウルデヴァイスにありったけの霊力を込める。
「凍てつけ――ブリザードピアス!」
放たれたのは、これまでとは比較にならないほど鋭く、凝縮された冷気の奔流。
それは魔人の動きを止めるためではなく、その存在そのものを凍結させるための一撃だった。
魔人の振り上げた腕が、心臓が、そして絶叫を上げようとした口元までもが、瞬時に純白の氷像と化す。
パリン、と軽い音を立てて氷像が砕け散り、光の粒子となって消えていった。
「……はぁ……はぁ……」
アスカは肩で息をしながら、自分の手を見つめた。
仲間を守った。だが、その手で、元は人間だったものを殺してしまった。
その重い事実が、彼女の心にずしりと圧し掛かる。
「……これが、リィンさんたちの戦っている世界……」
アスカの呟きは、誰の耳に届くこともなく、禍々しい城の静寂に吸い込まれていった。
リィンとシズナが見せた圧倒的なまでの強さと、自分たちが今味わった苦い勝利。
その間にある、あまりにも大きな隔絶を、彼らは痛感させられるのだった。
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