転位の光が収束した瞬間、アスカたちが目にしたのは、信じがたい光景だった。
広間を白く染め上げる破邪の光。その奔流の中心で一体の魔人のシルエットが、悲鳴を上げる間もなく掻き消えていく。
「カズマ……!」
シオが親友の名を叫ぶ。
自分でもどうしてかは分からないが、その魔人がカズマだと一目で見抜いたからだ。
もつれるように駆け出していた。ただ、事実を確かめたいという一心で。
「あの光は……まさか……」
アスカは息を呑んだ。この光景には見覚えがあったからだ。
リオンが天使化した際、リィンが放った光と同じ。
だとすれば、リィンの目的は魔人を殺すことではなく、恐らく――
やがて光が消えると、そこに立っていたのはリィンだけだった。
魔人の姿は、影も形もなかった。
「……嘘、だろ……」
シオが、その場に膝から崩れ落ちる。
間に合わなかった。また、守れなかった。
絶望が彼の心を塗りつぶそうとした、その時だった。
「……ん……」
微かな呻き声が響いた。全員の視線が、リィンの足下に集中する。
ゆっくりと、何もない空間から人の輪郭が浮かび上がるように、一人の男が姿を現した。
黒いジャケットは所々が焼け焦げているが、その身体は禍々しい魔人のものではなく、紛れもない人間のものだった。
気を失ってはいるが、穏やかな寝息を立てている。
「カズマ……!」
シオは信じられないといった表情で、親友のもとへ駆け寄った。
アスカとミツキも、安堵に胸をなでおろす。
リィンは、カズマの傍に寄り添うシオを見て、淡々と告げる。
「殺してはいない。助かるかどうかは、こいつ次第だがな」
それ以上の説明はなかった。だが、シオにはそれで十分だった。
どうやったのか、なにをしたのかも分からない。
だが、カズマが無事なら、それ以上のことを望むつもりはないからだ。
むしろ、カズマを助ける。その約束をリィンが守ってくれたことに、カズマは感謝していた。
「感謝する。この恩は、絶対に返すつもりだ」
「期待しないで待っておく。それと、油断するな? 完全に元に戻った訳じゃない。おそらく、まだ魔人の因子は残ったままだ」
「それって、もしかしてリオンさんの時と同じ?」
アスカの疑問に、リィンは頷くことで答える。
リオンの天使化も一時的に抑えることは出来たが、完全に治すことは出来なかった。
それは彼女の魂に、天使の力が融合してしまっていたからだ。
カズマの身体にも、同じことが起きていた。長くグノーシスの影響下にあったことで、異界の力が混ざり合ってしまったのだ。
いまのカズマは半人半魔と言った状態で、そのことにリィンは気付いていた。
自分自身が混ざりものだと言うのもあるが、マクバーンと同じ気配をカズマから感じ取ったからだ。
「病院に運んだ方が良さそうですね。はやく、ここから――」
脱出するための手立てをミツキが相談しようとした、その時だった。
「素晴らしい! 実に素晴らしいデータが取れました!」
広間に、甲高い拍手の音と、狂気に満ちた声が響き渡ったのは――
カズマが守っていた扉がゆっくりと開き、周囲の景色が一変する。
「これは……転位?」
「いや、違う。迷宮そのものを造り変えたんだ」
緋色の空の下、どこまで続く荒れ果てた大地に彼等は立っていた。
アスカが転位させられたものと疑うが、それをジュンは否定する。
転位ではなく、異界の再構築。迷宮そのものを造り変えたのだと――
そんなことが可能なのは、迷宮の主――それも、災厄級の力を持ったグリムグリードだけだ。
だとすれば――
「ヨアヒム・ギュンター! そうか、もうあなたは……」
人間ではなく怪異そのものに――グリードに変異したのだと、ジュンは察する。
リィンに助けられなければ、リオンもそうなっていたかもしれない未来。
パンデモニウム化を行った時点で気付くべきだったのかもしれない。
ヨアヒムはグノーシスによって、怪異の力を手に入れたのだと。
それも、この圧迫感。普通の怪異でないことは、一目で見て取れた。
「神話級……まさか、ここまでの力をつけているなんて……」
十年前、東亰を襲った災厄。その元凶となったグリムグリード。
それと同等か、それ以上の力をヨアヒムが秘めていることにジュンは気付く。
ヨアヒムの力に気付いたのは、ジュンだけではなかった。
アスカも、ミツキも、そしてシオとユウキさえも、絶望に満ちた表情を浮かべている。
「ですが、折角の実験体を壊されては困りますね」
そんななか、ヨアヒムはどこか愉しげな、それでいて不満げな声を漏らす。
白衣に身を包んだ青い髪の男――ヨアヒムが、彼等の前に姿を現す。
そして、その傍らには、禍々しいオーラを放つ魔人が佇んでいた。
その数、二十。いずれも、アスカたちが苦戦の末に倒したケイオスのリーダーと同じ禍々しい気配を放っている。
「まだ、こんなに……」
「一体、どれだけの人間を犠牲にしたっていうの……」
ミツキが絶句し、アスカが悲痛な声を上げる。
その光景を前に、リィンは深々と、心底呆れた様子で溜め息を吐いた。
「ここにいる魔人たちは、カズマくんの研究データを元に造られた実験体です。言ってみれば、魔人化の最終形態と呼べる個体。すべての個体が、彼と同等。いえ、それ以上の力を有しています」
それは、彼等にとって絶望的な宣告だった。
一体でも倒すのに苦労したというのに、それが二十体も――
とてもではないが、いまの戦力で敵う相手ではない。それどころか、これだけの戦力があれば、東亰冥災を再び引き起こすことも可能だろう。
「それでは、最終実験を始めましょう。精々、足掻いてください。そうでなければ、良いデータは取れませんからね」
ヨアヒムが高らかな宣言と共に、指を鳴らす。
覚醒した魔人たちが一斉にリィンたちに襲いかかろうとした――その瞬間。
「――零月一閃」
凛とした、しかしどこか面倒臭そうなシズナの声が響いた。
銀色の閃光が、世界を両断するように、一度だけ横切る。
ただ、それだけだった。
魔人たちは、自分が斬られたことすら認識できないまま、その場に立ち尽くし、次の瞬間には全員が光の粒子となって静かに消えていった。
「は……?」
ヨアヒムの口から、理解できないといった呆けた声が漏れる。
彼の練り上げた最強の駒が、瞬きする間に全滅させられたのだ。
その現実を受け入れられないのも、無理は無い。
だが、彼にとっての絶望は、まだはじまったばかりだった。
「もう、茶番は見飽きた」
気づいた時には、リィンが目の前に立っていた。
驚愕に見開かれたヨアヒムの顔面に、リィンの拳がめり込む。
一切の闘気が込められていない、ただ腕力だけで叩き付けた一撃。
派手な音を立てて吹き飛んだヨアヒムは、地面をバウンドするように弾き飛ばされる。
「ぐ……あ……」
リィンは、倒れたヨアヒムを冷たい目で見下ろしながら、告げた。
「さっきの言葉をそのまま返してやる。死にたくなければ、精々足掻いて見せろ」
緋色に染まる暁の荒野で、最後の戦いの火蓋が切られようとしていた。
◆
「……くくっ」
ゆっくりと起き上がりながら、ヨアヒムは押し殺したような笑い声が漏らす。
「く、くく……あはははははははははっ!」
それは、もはや人の笑い声ではなかった。
理性のタガが外れ、狂気だけが溢れ出すような、甲高い哄笑。
そして、ヨアヒムの手には、禍々しい紅い錠剤で満たされたガラスの小瓶が握られていた。
「素晴らしい! 実に素晴らしい力です!」
彼は狂喜に顔を歪めながら小瓶の蓋を抜き、その中身を躊躇なく一気に煽った。
「なっ……やめなさい!」
アスカが叫ぶ。
それが、全ての元凶となった薬――グノーシスだと、すぐに察したからだ。
どう考えても、あれほどの量を服用して無事に済むはずがない。
幾ら、ヨアヒムが既に人間ではないといっても、何が起きるか分からない。
だからこその制止だったのだが、それを聞くヨアヒムではなかった。
「ぐ……ぎ……あああああああああああああああああっ!」
ヨアヒムの身体が、ありえない角度に折れ曲がる。
骨が軋み、皮膚の下で筋肉が蠢き、黒い血管が全身に蛇のように浮き上がった。
彼の肉体は、もはや人としての形を保てず、内側から溢れ出す膨大な力によって再構築されていく。
黒い光が彼の身体から噴き出し、空間を闇に染め上げた。
そして、闇の中心から、神々しくも冒涜的な、新たな存在が姿を現す。
それは、もはやヨアヒムではなかった。
七つの瞳を持つ顔、光と闇の粒子で編まれた翼。そして、人の形を留めながらも、その存在そのものが世界の理から逸脱した存在。
――虚ろなる神。新たな神話級グリムグリードの誕生だった。
だが、その瞳には狂気だけでなく、奇妙なまでの理知の光が宿っていた。
ヨアヒムは、ただ一体の男――リィンだけを、その七つの瞳で見据えていた。
「黒の王……そうか、そうだったのですね。だから、あなたは――」
ヨアヒムは、まるで長年の謎が解けたかのように、意味深な言葉を呟いた。
世界の理、因果の特異点。そして、それに抗う存在。
グノーシスによって世界と繋がったことで、リィンという存在の本質を垣間見たのだ。
「――偶然ではなかった。ああ、この時を、どれほど待ち望んだことか――」
その言葉と同時に、虚神の背後から絶大な霊力の奔流が放たれる。
リィンとシズナは即座に左右へ跳び、それを回避した。
だが、ヨアヒムの悪意は、それだけでは終わらなかった。
「う……ぁ……」
後方で、微かな呻き声が響いた。
全員が息を呑んで振り返る。そこには、リィンの〈必滅の大槍〉で元に戻ったはずのカズマが、ゆっくりと身を起こす姿があった。
シズナが斬り伏せた魔人たちの力が、渦を巻いてカズマの元に集まり、身体に吸い込まれていく。
「カズマ!」
シオの悲痛な叫びも虚しく、カズマの瞳に再び、紅い光が灯る。
その身体からは、以前とは比較にならないほど、濃密で禍々しいオーラが立ち上っていた。
「さあ、始めましょうか。最後の実験を!」
ヨアヒムが両腕を広げ、高らかに宣言する。
その言葉を合図に、二つの戦いの火蓋が切られた。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m