夏休みが明け、杜宮学園には久しぶりに生徒たちの活気が戻っていた。
杜宮学園は進学校とあって、始業式から通常どおりの授業が行われている。
昔は、ゆとり教育だなんだと言われていたが、最近は授業時間を少しでも確保するために、始業式だけでなく登校日などを設けて大型連休にも授業を行う中学や高校が増えている影響もあった。
教室の窓から差し込む日差しはまだ夏の余韻を残して暑いが、吹き抜ける風には微かに秋の気配が混じっている。
そんな穏やかな空気とは裏腹に時坂洸は自席の机に突っ伏し、魂が抜けたようにぐったりとしていた。
「よ、随分とこってり絞られたみたいだな。トワちゃん、怒らせると怖いからな」
その背中に、ニヤニヤとした笑みを浮かべた伊吹遼太が声をかける。
隣の席から顔を出した小日向純も、苦笑交じりに溜め息をついた。
「また、そんな呼び方していると呼び出しを食らうよ。この前も授業中にちゃん付けで呼んで注意されたばかりでしょ」
「ぐ……どうしても癖が抜けないんだよ。それに、俺だけじゃないぞ。トワちゃ……九重先生のことをトワちゃんって呼んでるのは……」
「まあ、言いたいことは分かるけどね……」
リョウタの苦しい言い訳に、ジュンも半ば同意するように肩をすくめる。
彼らの担任であり、コウの従姉でもある九重永遠。二十三歳とは思えないほど小柄で中学生にしか見えないその容姿から、親しみを込めて「ちゃん」付けで呼ぶ生徒が後を絶たないのだ。
しかし、新任でありながら二年生の担任を任され、委員会の顧問や学年主任の補佐まで務めるその手腕は極めて優秀であり、学内での信頼も厚い。だからこそ、怒らせた時の怖さもまた格別だった。
「にしても、コウが遅刻とか珍しいな。どうしたんだ? 目覚ましでもかけ忘れたか?」
話を逸らすように、リョウタが話題をコウに戻す。
コウは机に顔を埋めたまま、くぐもった声で答えた。
「ああ、いろいろとあってな……鞄と制服を取りに家に戻ってたら遅くなって……」
その言葉を聞いた瞬間、リョウタの動きがピタリと止まった。
一瞬の沈黙の後、彼の肩がプルプルと震え始める。
「制服を取りに家に……? まさか、朝帰り……コウ、お前もしかして……」
リョウタの表情が驚愕と疑惑に染まる。
親友がついに大人の階段を登ってしまったのではないか。
そんな下世話な勘繰りと共に、リョウタがコウに詰め寄ろうとした、その時だった。
ガララッ!
教室の扉が勢いよく開け放たれる。
「コウくん。よかったら一緒に、お昼食べない?」
鈴を転がすような明るい声と共に現れたのは、玖我山璃音だった。
手には購買で買った惣菜パンと紙パックのジュースを持っている。
学園のアイドルである彼女の登場に、教室内の空気が一瞬で華やいだ。
そして、そんなリオンの背後から、ひょこりと小柄な影が顔を出す。
「コウ先輩はいらっしゃいますか……あ、よかった。まだ、教室にいたんですね」
郁島空だ。
彼女はどこか安堵した表情でコウのもとへ歩み寄ると、包みにくるまれた弁当箱を差し出した。
「これ、お弁当です。朝、持っていくのを忘れていたみたいなので届けにきました」
それは、トワが朝食と一緒に用意してくれていた手作り弁当だった。
今朝、鞄と制服がないことに気付き、慌てて神社を飛び出したコウは弁当に気付かずに出てきてしまっていたのだ。
それをソラが、わざわざ届けてくれたというわけだ。
しかし、事情を知らないリョウタにとって、その光景は決定的な証拠以外の何物でもなかった。
「お、お弁当……手作り……しかも、朝? こ、この会話は……」
リョウタの顔面から血の気が引いていく。
制服を取りに家に帰ったコウ。そして、朝の忘れ物を届けに来たソラ。
その二つの事実が、リョウタの脳内で最悪の形……いや、彼にとっては羨ましすぎる現実として結合される。
「……リョウタ?」
ジュンが心配そうに声をかけるが、リョウタには届かない。
わなわなと震えていた彼は、突如として机を叩き、天を仰いで絶叫した。
「ちくしょう! この裏切り者め――ッ!」
悲痛な叫びを残し、リョウタは脱兎のごとく教室を飛び出していく。
「あ、ちょっとリョウタ!」
慌ててジュンが後を追う。
嵐のように去っていった二人を見送り、コウは呆気にとられたまま呟いた。
「……あいつ、何だったんだ?」
その横で、リオンだけが面白くなさそうに目を細めていたことに、鈍感なコウが気付く由もなかった。
◆
教室では目立ちすぎるということもあり、コウたちは〈X.R.C〉が部活動で使用している空き教室へと移動していた。
鍵を開けて中に入り、誰もいないことを確認して席に着く。
「コウ先輩、これお弁当です」
「ああ、サンキュー。悪いな、わざわざ届けてもらって」
コウはソラから弁当箱を受け取る。
ずっしりとした重みのある二段式の弁当箱だ。
蓋を開けると、上段には梅干しの乗った白米、下段には唐揚げや卵焼きといったおかずがぎっしりと詰まっている。
男子高校生の食欲を満たすには十分なボリュームだ。
ソラも自分の弁当箱を広げる。当然のことながら、中身はコウのものと全く同じだった。
「うん、美味いな」
一口食べ、コウは満足げに頷く。
「はい、九重先生には感謝しないといけませんね」
嬉しそうに微笑むソラ。
そんな二人の様子を眺めながら、リオンは無言で惣菜パンを齧っていた。
だが、その視線は鋭く、明らかに不機嫌なオーラを放っている。
二人が同じ弁当を食べているという事実が、彼女の心をざわつかせているのだ。
「ん? どうしたリオン。そんなに見て」
「……別に」
リオンは不機嫌そうに視線を逸らし、ストローでジュースを音が出るほど強く吸い込む。
「もしかして、足りなかったのか?」
コウは少し考え、箸で卵焼きをつまみ上げると、それをリオンの前に差し出した。
「ほら、食べるか? 一個やるよ」
リオンが弁当をじっと見ているのは、おかずが欲しいからだと思ったのだ。
しかし、その気遣いは完全に逆効果だった。
リオンは肩を震わせ、バンッと机を叩いて立ち上がる。
「そうじゃないわよ! それ、どういうことなの!?」
突然の剣幕に、コウは目を白黒させる。
「……それって?」
コウはキョトンとして首を傾げる。
その反応に、リオンの怒りのボルテージがさらに上がる。
「お弁当よ! なんで弁当が同じなのよ!」
「そりゃ……トワ姉が作ってくれたからだけど……」
「だから、そういうことじゃなくて、なんで二人揃って同じ弁当を食べてるのかって聞いてるの!」
リオンの声が裏返る。
彼女が聞きたいのは、なぜ二人の弁当がまったく同じなのかということだ。
しかも、ソラが弁当を届けにきたということは――状況を容易に察せられる。
だが、恋愛事に関して絶望的に鈍いコウは、心底わかっていない様子で首を傾げた。
しばらく逡巡し、何かを納得したようにポンと手を打つ。
「ああ、それはあれだ。ここ数日、祖父さんのところに泊まってたからな。ソラも一緒に」
「泊まってた……! 一緒に!?」
リオンの顔が真っ赤に染まる。
若い男女が一つ屋根の下で寝食を共にし、しかも家族公認。
そんなことが脳内をぐるぐると駆け巡り、思考回路が焼き切れる。
「おい、どうしたんだ、リオン――」
コウが心配して身を乗り出した、その瞬間だった。
「コウくんのバカ!」
ドゴッ!
鈍い音と共に、リオンの拳が油断していたコウの顔面にクリーンヒットする。
綺麗に入った右ストレートにコウが仰け反る中、リオンは瞳に涙を溜め、教室を飛び出そうと駆け出した。
ガララッ。
しかし、タイミング悪く、教室の扉が開く。
「きゃっ!?」
勢いよく飛び出したリオンは、入ってきた人物の胸に飛び込む形で衝突した。
しっかりと彼女を受け止めたのは、黒いジャケットを羽織った男――リィン・クラウゼルだった。
「おっと……危ないな」
リィンは泣きそうな顔をしているリオンを見下ろし、次に鼻を押さえて呻いているコウに視線を向ける。
「なんだ? 痴話喧嘩か?」
呆れたようなリィンの声。
その後ろからは、ミツキとレイカが何事かと顔を覗かせていた。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m