「ッ、行きます!」
先陣を切ったのはソラだった。
疾風のような踏み込み。郁島流の神髄である速さを活かした正拳突きが、シズナの懐へと吸い込まれる。
速い。目にも止まらぬ一撃。
だが、シズナは微笑みを崩さず、最小限の動きで上体を逸らした。
紙一重で拳を躱し、すれ違いざまにソラの背中を軽く小突く。
「きゃっ!?」
つんのめるように体勢を崩すソラ。
そこへ、間髪入れずにシオが突っ込んだ。
「らあぁぁっ!」
恵まれた体格から放つ、渾身の回し蹴り。
直撃すれば骨の一本や二本は軽くへし折れるシオ自慢の一撃を、シズナはあろうことか、手を軽く添えるだけで受け流す。
「悪くない一撃だね。でも――遅い」
シズナの手首が返る。
受け流された衝撃がそのままシオへと還り、巨体が独楽のように回転して弾き飛ばされた。
その隙を突き、コウが背後から肉薄する。
九重流の組み技。死角からの奇襲。
だが、シズナには背中にも目があるかのようだった。
振り返りもせず、コウの襟を掴むと、その勢いを利用して背負い投げる。
「うわっ!?」
天地が逆転し、コウは無様に畳へと叩きつけられた。
そして、流れるような動作で手刀が振り下ろされ――寸止め。
コウの喉元、寸毫の距離で、シズナの手がピタリと止まっていた。
「……ッ!」
冷や汗が、コウの頬を伝う。
もしこれが実戦なら、いまの一撃で首が飛んでいた。
「それじゃあ次、いってみようか」
シズナは楽しそうに手刀を納めると、再び構えを取る。
そこからは、一方的な蹂躙劇だった。
ソラの連撃は全て柳のように受け流され、シオの剛力はいとも容易く捌かれ、コウの機転も全て読まれているかのように封殺される。
三人がかりで挑んでも、彼女の衣一つにかすりもしない。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
「ば、化け物かよ……」
「つ、強すぎます……」
一時間後。
道場の床には、大の字になって動けなくなった三人の姿があった。
一方で、シズナは汗一つかいていない涼しい顔で、楽しそうに笑っている。
「うんうん、みんな良い動きだったよ。特に最後の連携、ちょっとヒヤッとしたかな?」
「嘘つけ……欠伸噛み殺してただろうが……」
シオが恨めしげに呻く。
それを見て、ソウスケが満足げに頷いた。
「ほっほ、良い経験になったじゃろう。上には上がいると知ることも、また修行じゃ」
「良い運動になったかな。誘ってくれて、ありがとね」
「なんのなんの。礼を言うのはこちらの方じゃよ」
そう言って笑うソウスケに、シズナは鋭い視線を向ける。
「お爺さんも見学だけじゃ退屈でしょ。相手してくれると嬉しいんだけど」
「遠慮しておくよ。御主の相手は疲れそうじゃからな……」
楽しく談笑しているように見えるが、どこか剣呑な雰囲気が二人の間を漂う。
ひりついた空気にコウたちが表情を強張らせていると、道場の入り口からトワが顔を覗かせた。
「あ、シズナさん来てたんだね。お疲れ様」
「あ、トワ。うん、リィンの代わりに呼ばれてね。ん……いい匂いがするね?」
鼻をひくつかせるシズナに、トワはくすりと笑う。
「ふふ、いま夕飯の支度をしてたの。よかったら、シズナさんも食べていく?」
「いくいく! この匂い、カレーだよね?」
「うん、商店街のお肉屋でおまけしてもらってね。コロッケとトンカツもあるから、好きにトッピングしていいよ」
コロッケとトンカツと聞いて、目を輝かせるシズナ。
商店街の肉屋の揚げ物は、部活帰りの学生がよく買い食いをしている人気商品だった。
特に肉屋のコロッケは、密かにシズナの好物となっていた。
先程まで、ソウスケに殺気を向けていた人物と同一人物とは思えないほど、満面の笑みを見せるシズナに微笑みを返しながら、トワは視線をシオに向ける。
「高幡くんも、どうかな?」
「いや、このあとバイトがあるんで……」
シオが壁の時計を確認し、重い身体を起こす。
バイトの時間まで、あまり余裕がないようだ。
「そう、残念。なら、せめて汗くらい流していくといいよ。お風呂、沸いてるから」
「……ああ、恩に着る」
さすがにこのままバイトに行くのは憚られたのか、シオは礼を言って立ち上がった。
タオルを肩にかけ、よろよろと風呂場へ向かうシオを見送り、コウとソラも起き上がろうとする。
だが、その前にソウスケが立ちはだかった。
「待て待て。夕飯までは、まだ少し時間があるじゃろう?」
「え……」
「御主たちは、稽古の続きじゃ。次は、儂とシズナ嬢の二人を相手にな」
「「はあぁっ!?」」
コウとソラの絶叫が、夕暮れの空に響き渡った。
鬼教官二人の特訓は、夕飯のいい匂いが漂ってくるまで、延々と続くことになるのだった。
◆
その日の夜。
風呂に入り、トワの手料理を胃に詰め込んだコウは、客間に敷かれた布団に倒れ込んでいた。
「身体が……動かねぇ……」
指一本動かすのも億劫だ。
シズナと祖父、二人掛かりのしごきは想像を絶するものだった。
だが、不思議と心地よい疲労感でもある。
意識が急速にまどろみへと沈んでいく中、ふと、昨夜のソラの言葉が脳裏をよぎった。
――なんだか、チアキ先輩らしくないっていうか。
あの時のソラの表情。
負けたことを悔しがっているというよりは、どこか心配しているような、得体の知れない不安を感じ取っているような顔だった。
あの真面目な相沢が、何かよからぬことに巻き込まれているのだろうか。
それとも、ただの考えすぎなのか。
最近、杜宮市では奇妙な出来事が絶えない。
平和に見える日常の裏側で、何かが進行しているような不気味な気配。
(学校が始まったら……相沢と話をしてみるか……)
そんなことを考えながら、コウの意識は深い闇の中へと落ちていった。
◆
翌朝。
「――くん! コーくん!」
「ん……?」
遠くで誰かが呼んでいる気がする。
ドタバタという足音と共に、スパーンと勢いよく襖が開いた。
「コーくん、いつまで寝てるの!」
飛び込んできたのは、スーツ姿のトワだった。
柳眉を逆立て、腰に手を当てて仁王立ちしている。
「ん……ここは……?」
「まだ、寝ぼけてるの? もう、朝だよ! 早く準備しないと、今日から学校でしょ!」
学校。その単語が、コウの脳内で反響する。
コウは重い瞼を擦りながら、半身を起こす。
寝ぼけた頭が状況を理解できずにいると、トワが腰に手を当てて言った。
「私は先に学校いくけど、ご飯の用意できてるし、ちゃんと食べてくるんだよ! 遅刻しちゃダメだからね!」
そう言い残すと、トワは嵐のように去っていった。
残されたコウは、ぼんやりとした頭で枕元のサイフォンを手に取る。
画面に表示された時刻を見て、彼の目は限界まで見開かれた。
「げ……もう、こんな時間!?」
夏休みは終わり、今日から新学期だ。
余裕なんて欠片もない。あと三十分で家を出なければ遅刻確定だった。
コウはバネ仕掛けのように布団から飛び起きた。
「トワ姉、なんでもっと早く起こしてくれなかったんだよ!」
文句を垂れながらジャージを脱ごうとして、コウの動きが凍りついた。
血の気が引いていく。
重大な、あまりに致命的な事実に気付いてしまったからだ。
「そういえば……あれから一度も家に帰ってないから……」
ここには、着替えのジャージと下着しかない。
制服も、教科書が入った鞄も、すべて自宅に置きっぱなしだ。
「鞄どころか、制服もねえ!!」
絶叫し、コウはジャージ姿のまま廊下へと飛び出した。
トワも急いでいたせいで、そのことを失念していたのだろう。
玄関へ向かって疾走するコウに、台所から顔を出したソラが声を掛ける。
彼女は既に制服に着替えていた。
「あ、コウ先輩? そんなに慌てて、どうかしたんですか?」
「制服と鞄を取りに一旦、家に帰る! 俺の分の朝食は食べといてくれ!」
「え……ええ!? ちょっと、コウ先輩!?」
ソラの制止も聞かず、コウは急いで靴を履き、境内を駆け抜ける。
長い石段を転げ落ちるような勢いで駆け下りながら、コウは空を仰いだ。
雲ひとつない青空が、波乱含みの新学期の始まりを告げていた。
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