後に『東亰冥災』と呼ばれることになる事件から三日。
異界に関する記憶は人々から消え、表向きは東亰を中心に起きた局地的な地震ということで報道されていた。
しかし記憶は書き換えられても、実際に起きた街の被害≠竍犠牲者≠フ数まで隠しきれるものではない。
連日テレビでは東亰で発生した地震≠フことが報道され、まだ大勢の人たちが今も避難生活を強いられている。
被災した人々が元通りの生活を送れるようになるには、数年の歳月が必要だろうと言うのが北都の見解だった。
「最後にもう一度、御礼を言わせて頂戴。あなたたちがいなかったら、もっと多くの犠牲者がでていたかもしれない。私たちの街を守ってくれて、ありがとう」
「気にするな。そういう契約≠セしな」
最後まで態度を変えないリィンに、苦笑を浮かべるレイラ。
確かにリィンたちは北都から、一生遊んで暮らせるだけの莫大な報酬を受け取った。しかし、そもそも彼等はこの世界の金≠必要としていない。ただ落とし物を探しに立ち寄っただけで、帰るべき自分たちの世界があるからだ。そこでリィンは受け取った金のすべてを、身寄りのない子供たちのために遣ってくれとエイジ≠ノ預けた。一般人からは恐れられる鷹羽組だが孤児院への援助や炊き出しなど、密かに慈善事業を行なっていることを知っていて頼んだのだろう。
だが、本来それは異界に関わる自分たちの為すべき責任だとレイラは感じていた。
勿論、ゾディアックやネメシスも異界化に巻き込まれ、被害者となった人々に何も支援を行なっていない訳ではない。
しかし、その救済の手が行き届いているかと言うと、そうとも言えないのが現実だ。
どうしても社会の枠から外れ、必要とする支援を受けられない人たちが存在する。
恐らくリィンも、同じような経験を幼少期に送っているのではないかとレイラは考えていた。
「変な勘ぐりはやめておけ。それに打算がない訳じゃない」
レイラが何を考えているか察して、呆れるリィン。
確かに真っ当な暮らしを送っている人たちから見れば、かなり過酷な幼少期を送った自覚はあるが、自分を不幸だと思ったことはない。
どちらかと言えば、エイジに資金の協力を持ち掛けたのは打算の方が大きかった。
「もしかしたら、異界化に巻き込まれた子供の中から適格者≠ェ現れるかもしれないだろ?」
異変のことを覚えていなくとも、何かの切っ掛けで思い出すこともあるかもしれない。
そうなれば、今回の事件に巻き込まれた子供の中から適格者≠ェ現れる可能性はゼロではないだろう。
なら、どうせ使い道のない金だ。唾をつけておくのも悪くないとリィンは話す。
「適格者がどれだけ貴重な存在だと思ってるのよ。そんなゼロに近い確率……」
「だが、ゼロじゃないだろ? それに、俺はそう分の悪い賭けじゃないと思ってる」
杜宮市。この街には、まだ何かあるとリィンは感じていた。
何があるのかまでは分からないが、そう言った場所には因果が巡るものだ。
それに――
「お前だって、アメリカに戻らずこの街に残ることを決めたのは、薄々と気付いているんだろ?」
まだ聖杯が何処へ消えたのかも分っていないことを考えると、再び異変≠ェ起きる可能性は高い。
レイラもそのことが分っているからこそ、この街を活動拠点に選んだのだとリィンは考えていた。
「……それもないとは言わないけど、誰かさんの所為であっちの知り合いと顔を合わせるのは避けたかったのよ」
非難するような視線でリィンを睨み付けながら、そう話すレイラ。
そこからレイラがアメリカに帰らなかったもう一つの理由≠リィンは察する。
神話級グリムグリードを討ち取ったことで、いまやレイラは組織の中でも英雄扱いだ。
アメリカに帰れば当然歓迎されるだろうが、そのためには周囲を騙し、仮面を被り続ける必要がある。
どうしても嘘を吐いているという罪悪感が拭えない以上、これは精神的な負担が重い。
その点で言うと、この杜宮であれば事情を知っている者はそれなりにいるし、まだ少しはマシと考えたのだろう。
とはいえ、
「まったく嘘って訳でもないだろ。堂々としてればいいのに、意外と繊細なんだな」
本人は後ろめたさを感じているようだが、リィンたちと共に戦ったことは事実だ。
実際、レイラの助けがなかったら、オルトロスにトドメを刺せていたか分からない。
恐らく、その前に力が尽きていただろうとリィンは考えていた。
それに比較対象が悪いだけで、レイラが執行者の中でもトップクラスの実力者であることは間違いない。
そのことを考慮すれば――
「あの切り札≠ネらオルトロスにも通用したと思うしな」
レイラが見せた切り札。
あの力を使えば、オルトロスにも通用しただろうとリィンは話す。
実際、レイラの放った魔剣の一撃は、リィンの集束砲をも凌ぐ破壊力を秘めていたからだ。
「魔王そのものではなかったと言う話だけど……それでもグリムグリードよりは強かったのよね?」
「あれを神話級≠ニ言っていいものかは、微妙なところだけどな」
どうにか倒すことが出来たのは、相手がオルトロスだったからと言う点が大きいとリィンは考えていた。
仮に〈緋の騎神〉を依り代とされていたら、恐らくは倒し切れなかっただろう。
逆に言えば、あの程度の相手ならレイラでもやりようによっては倒せたはずだとリィンは答える。
「確かにそれなら……ううん、ダメね」
リィンの話が本当なら、自分でも倒せていた可能性は確かにあるとレイラは思う。
しかし、グリムグリードよりも強力な怪異と言うだけで、人間にとっては十分過ぎる脅威だ。
そして、リィンに見せた〈終焉の魔剣〉は文字通りの奥の手。一度しか使えない最終手段だ。
まだまだ調整不足で使った後は身動き一つ取れなくなる。そんなものは実戦で使えないのと同じだとレイラは考えていた。
「私じゃ仮に倒せても、大怪我を負うか命を落としていた可能性が高いはずよ」
勿論、戦いの中で死ぬ覚悟は出来ている。他に手がないのであれば、後先を考えずに使っていただろう。
だからと言って、死ぬのが怖くない訳ではなかった。
何より怖いのは、アスカを置いて逝くことだ。
ナオフミなら納得は出来なくても理解はしてくれると思う。しかし、アスカはまだ幼い。
せめてアスカが一人前の執行者となるまでは、母親として傍で成長を見守りたいとレイラは考えていた。
だから――
「素直に感謝を受け取りなさい。余り捻ねた性格してると、いつか愛想を尽かされるわよ?」
嘘偽りなく本心からリィンに感謝していた。
腰に手を当て、半目で睨み付けてくるレイラに、面倒臭そうにリィンは肩をすくめる。
リィンは鈍い訳ではない。シャーリィやエマのことを言われているのだと察したからだ。
「リィン! お待たせ!」
「……噂をすればなんとやらか」
タイミング良くやってきたシャーリィとエマを見て、そろそろ時間かと手を空に掲げるリィン。
そして、
「来い――ヴァリマール!」
リィンの呼び掛けに応じ、空間の裂け目から姿を現す灰色の騎神。
一度は目にしたことのある光景とはいえ、その存在感に圧倒され、レイラは息を呑む。
霊力を扱うことに長けた適格者だからこそ、騎神の秘めた力を正確に感じ取っているのだろう。
これまでに遭遇したことのあるどんな怪異と比較しても、目の前の存在は別格だとレイラは感じていた。
「それじゃあ、シャーリィも呼ぶね。おいで、〈緋の騎神〉!」
リィンに続き、シャーリィも自身の相棒を召喚する。
灰の騎神と同じように、空間の裂け目から姿を見せる緋の騎神。
ヴァリマールとは違った荒々しい霊力が、杜宮の郊外にある森に吹き荒れる。
並び立つ二体の騎神を前にして、思わず溜め息が溢れるレイラ。
「こうして改めて見ると、やっぱり〈機動殻〉とは比較にならないわね……」
「その言い方から察するに〈機動殻〉を見たことがあるのか?」
「ええ、アメリカにいた頃、軍の基地でね。でも言っておくけど、あくまで〈機動殻〉は霊力を持たない普通の機械よ。怪異に通用する代物ではないわ。ゾディアックとネメシスが共同開発中の霊子兵器が完成すれば、話は別なのだろうけど……」
と、そこまで言って、思わず口が滑ったことを自覚するレイラ。
普段ならこんなポカはしないが、それほどに動揺していたのだろう。
それにうっかり本音が漏れるほど、リィンたちのことを信頼しているというのも理由にあった。
とはいえ――
「えっと……」
「安心しろ。誰にも言うつもりないし、そもそも俺たちは今日この世界を去るんだぞ?」
「そ、それもそうよね」
さすがに組織の人間として、まだ表にでていない機密情報を漏らすのはまずいという自覚はあるのだろう。
こんな調子で本当に大丈夫かと不安を覚えながらも、リィンはエマと共にヴァリマールへ乗り込む。
光に包まれ、騎神の胸に吸い込まれるように転位するリィンとエマ。
二人の後を追うように、シャーリィも〈緋の騎神〉に乗り込む。
「それじゃあ、他の連中にもよろしく伝えてといてくれ」
「本当に会っていかないの? あの子、黙って帰ったと知ったら怒るわよ」
「これ以上、長居をすると面倒なことになりそうだしな」
「はあ……やっぱり、気付いてたのね」
レイラが元凶を倒し、異変を解決したと言うことになってはいるが、あれだけ派手に戦っていれば当然目撃者だって大勢いる。騎神に関しても、既に何人もの人間から目撃情報が上がっていた。
これがネメシスの構成員なら箝口令を敷くことも可能だが、東亰は世界でも名の知れた大都市だ。
当然、ネメシスやゾディアック以外の組織の人間も大勢潜伏している。
そのため、ここ杜宮にも探りを入れるため、世界各国から諜報員が集まりつつあった。
人の口に戸は立てられぬ。となれば、リィンたちの元に辿り着くのも時間の問題だろう。
「まあ、頑張ってくれ」
「他人事だと思って……まあ、いいわ。でも、お別れは言わないわよ。さっきの話が本当なら、いつか戻ってくる気ではいるんでしょ?」
エイジに金を預けたのは打算があってのことだとリィンは言った。
と言うことは、いつかは投資した分を回収しに戻ってくると言うことだ。
それが何年後かは分からない。それでも、レイラはリィンたちは必ず戻ってくると信じていた。
「ああ、またな」
そんなレイラの想いを察してか、リィンはそう言って空を見上げる。
杜宮の上空に展開された巨大な魔法陣から、二体の騎神に降り注ぐ光の柱。
その光に包まれ、天へと吸い込まれるかのようにリィンたちはレイラの前から姿を消すのだった。
◆
「……行ったようだな」
現実世界とは異なる空間。
杜宮の何処かにある聖域から、空へと向かって立ち上る光を眺める怪異≠フ姿があった。
いや、怪異と呼ぶのは正確ではない。
思わず頭を垂れそうになるほどの圧倒的な霊力を身に秘めた巨大な獣。
神の如きではなく、文字通り人々から神≠ニ崇められた存在。
境界の守護者たる九尾ノ白獣。それが、この聖獣だった。
「まさか、あの者たちが此の時≠ノ此の地≠ノ顕れようとは……」
この杜宮の地から世界を見守り続けてきた九尾にとって、今回のことは想定外のことだった。
少なくとも九尾の知る歴史≠フ流れにおいて、このタイミングでリィンたちが現れることは想像もしていなかったからだ。
そして、東亰冥災を引き起こした怪異≠フ存在も、九尾の知る歴史とは大きく異なっていた。
後の世で〈夕闇ノ使徒〉と名付けられるはずだった怪異。
しかし、それは真の元凶≠ノよって存在を歪められ、魔王の眷族と成り下がった。
「星の終わり……選択の時が近付いていると言うことか」
本来、九尾は現世に干渉したりはしない。
人の営みも、怪異がもたらす災厄も、悠久の時を生きる九尾にとっては些細な出来事に過ぎないからだ。
しかし境界の守護者として、為すべき使命が近いことを悟った今なら話は別だ。
「我が巫女≠諱Bそなたにも今一度、選択の機会を与える」
そう言って眠るように空を漂う少女に、九尾は聖杯から奪った力≠注ぎ込む。
この力≠ヘ、少女に再び酷な運命を強いることになるだろう。
しかし、この先に待ち受ける運命に抗うためには、必要な力だと九尾は考えていた。
九尾の手を離れた光が少女を包み込むと、艶やかな黒髪から色が抜け落ち、少しずつ青みを帯びていく。
「力は授けた。因果の紡ぎ手たる巫女よ。汝の意志を示すが良い」
◆
死者一万人。行方不明三千人という被害を生んだ未曾有の災害。
東亰震災と名付けられた地震から、十年の歳月が流れようとしていた。
「コウ! 聞いたか! 今日、このクラスに転校生がくるんだってよ!」
「……転校生? こんな時期にか?」
高校二年生へと進学した時坂洸は、クラスメイトの伊吹遼太に声を掛けられ、首を傾げる。
新学期が始まってから、既に二週間が経過しようとしている。
ゴールデンウィークを目前に控えたこの時期に転校生と言うのが気になったのだろう。
「ああ、なんか手続きの関係で編入が遅れたらしい。で、職員室に入って行くところを見た奴の話だと、すげえ美少女だって話でな。もう、その噂で朝から大騒ぎよ! なんでもアメリカからの帰国子女らしい!」
「アメリカ? 帰国子女?」
まさかな、と何処か心当たりのある様子を見せながらも、コウは頭を振る。
一瞬、幼い頃を共に過した少女の顔が、コウの頭を過ったからだ。
でも、彼女はアメリカに留学中のはずだ。日本へ帰ってくるなんて連絡は受けていない。
ただの偶然だろうと考えていると、ガラガラと扉を開ける音が教室に響いて、クラス担任が姿を見せる。
コウにとってはよく見知った顔。今年から、ここ杜宮学園で教鞭を執ることになった九重永遠だ。
(すっかり教師が板についてきたな)
教壇に立ち「静かに!」と生徒たちを注意するトワを眺めながら、そんな感想を心の中で口にするコウ。
従姉のトワが自分のクラスの担任だと知った時は随分と驚かされたものだと、コウは二週間前を振り返る。
まだクラスメイトからは時々冷やかされたりもするが、これもトワが生徒たちに慕われている証拠だとコウは諦めていた。
それに生徒たちから注目を浴びているのはトワであって自分ではない。
時間が経てば、自分への関心や噂など自然と薄れるはずだと考えたのだろう。
しかし――
「ささ、入って」
「はい」
トワに促され、教室へと姿を見せた亜麻色の髪の美少女を見て、コウは固まる。
無理もない。
「はじめまして、皆さん。柊明日香と言います」
それは絶対にありえないと思っていた幼馴染み≠ニの再会だったからだ。
突然のことに頭が突いていかず、席を立ち上がるコウ。
そして、
「ア――」
思わずアスカの名前を叫ぼうとするも、咄嗟に両手で口を押さえる。
トワが従姉だとバレた時の――二週間前の騒動を思い出したからだ。
目の前の美少女が幼馴染みだとバレたら、きっとあの時よりも面倒なことになると危険を察知したのだろう。
しかし、しっかりと目が合う二人。どうにか分かって貰おうと、コウはアイコンタクトをアスカに向ける。
そんなコウの願いは届くことなく――
「ただいま。コウ≠ュん」
アスカがコウの名前を呼んだ瞬間、教室の空気が凍り付く。
絶句するリョウタ。困惑するコウ。
そして――
『えええええええッ!?』
ようやく正気に戻ったクラスメイトの絶叫が教室に響くのだった。
◆
本来、そこにいたはずの少女≠ヘいない。
歪められた歴史。変わってしまった関係。
そして、忘れられた少女――
「ねえ、キミは本当にこれでよかったのかい?」
だから異界の子――レムは、本来あの教室にいるはずの少女に尋ねる。
どこか寂しげな瞳で、クラスメイトに囲まれたコウを見守る少女。
そう、彼女は嘗て倉敷栞≠ニいう名で呼ばれていたコウの幼馴染み≠セった。
しかし、この世界に彼女のことを覚えている人間はいない。
あの災厄の日。倉敷栞という名の少女は死に、九尾の巫女として生まれ変わったからだ。
「これが、私の望んだ未来≠セから。もう、コウちゃんには……」
――誰かのために傷ついて欲しくない。
そう言い残して、シオリは景色に溶け込むようにレムの前から姿を消す。
嘗て〈夕闇ノ使徒〉と呼ばれた怪異は十年前、リィン・クラウゼルによって完全に消滅した。
そして、十年後に異変の元凶≠ニなるはずだった倉敷栞は、時坂洸の身代わりとなって死亡。
いや、最初から存在しなかったものとして、誰も彼女のことを覚えている者はいない。
もはや、この世界はレムの知る未来≠ニも大きく外れた道を歩み始めていた。
シオリの望むようにあの事件≠ェ起きなければ、コウが適格者の力に目覚めることはないだろう。
しかし、
「世界は歪み≠正そうとする。因果の紡ぎ手であるキミは、そのことを誰よりも分っているはずなんだけどね」
シオリが自分の行動の矛盾に気付いていないはずがないとレムは思う。
だからこそ、
「これだから、人間っていうのは面白い。どんな結末が待っているにせよ。ボクは見守らせてもらうよ」
この結末は見届ける価値があると、レムは笑みを漏らす。
恐らくは誰もが想像もしなかった結末が、この先には待っている。
そんな確信めいた予感をレムは感じていた。
そして、その鍵を握るのは――
「黒の王。キミなら終わらせてくれるのかもしれないね。この閉じた世界≠――」
リィン・クラウゼル。彼なら、もしかしたら――
そんな期待を抱きながらレムは踵を返し、シオリの後を追うように姿を消すのだった。
後書き
途中、何度か休載を挟みましたが無事に完結することが出来て、ほっとしております。
かなり思わせぶりな終わり方となりましたが、この断章は最終章へと続くフラグが散りばめられている物語なので。
謂わば、最終章へと続くプロローグ的な位置付けの作品になります。
そう言う意味では以前に書いた番外編も、まったくの無関係と言う訳ではありません。
恐らくお気付きの方々もいらっしゃると思いますが……答え合わせは追々と言うことで。
軌跡シリーズの新作の発売日も決まりましたし、まずはノーザンブリア編を終わらせるべく頑張って行きたいと思います。
完結を目指して頑張ってまいりますので、これからもどうぞ応援のほどよろしくお願いします。
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