短編『日本連邦の勃興』
(ドラえもん×多重クロス)
――日本連邦は二国間で運営する連邦国家であった。異例の事だが、軍事については、双方の組織が片方を飲み込むのではなく、共存共栄する選択肢が取られた。これは扶桑で起こった出来事が大きかった。当初、日本政府は、日本国の名の下、自衛隊に扶桑皇国三軍を取り込み、人員削減と旧式装備の一斉処分を行おうとした。これは東西ドイツの統合が参考にされており、扶桑軍若手参謀や青年将校たちのクーデター防止の為、彼らを放逐しようとしていたのだ。だが、ここで防衛省制服組、扶桑国防省からあることが指摘された。『東独やソ連崩壊時の軍の急激な解体の様に、マフィアやテロリストの重武装化の引き金になり』、自衛隊が結成された理由の一つを。
「急激に解体したら、放出された武器を手に入れて、マフィアやテロリストの重武装化は間違いなく起こる。それに終戦時のように、労働力が必要とされているわけでもないのに、1000万近い軍人の失業保険や名誉の維持はどうするのだ?」
これが提案当時の日本の最大の悩みだった。扶桑皇国は委任統治でない固有の自国領が日本列島だけでなく、太平洋に浮かぶ少大陸を一個、更にウラジオストクからウラル山脈近くまでと広大である。その時の日本の総理大臣は鳩山一郎の孫であり、吉田茂をして、『鳩山君はどういう教育をしたのだ?』と言わしめる楽天家だった。彼の提案は非現実的だった。自衛隊の防衛官僚は『陸自の兵力では、これほど広い国土は防衛は不可能です』と彼に告げたが、『なら、扶桑に外地を放棄して貰えばいい。どうせ戦争で得たのなら、いらないでしょ』と現地への無知ぶりを露呈した。これは彼の祖父に知れ渡り、鳩山一郎が出向き、叱責する事態となった。鳩山一郎は激怒し、老年期を迎えた孫に『戦争で得た土地が要らないと言うなら奈良に遷都して奈良県以外を放棄してから言え!』と叱責し、そのショックで彼の孫は内閣総辞職をし(投げ出した)、次の政権となった。次の政権も学園都市の独自行動を止められず、ロシアと戦争を起こすわ、大震災に右往左往するなどの失態を重ねた。その政権下では『三軍を時間をかけて縮小させ、自衛隊に近い規模にして統合する』というトーンを下げた案が提案された。これも当然ながらボツになったので、彼は諦めず、ウィッチ世界の連合国の圧力に考慮し、第二案に『他国の要望により、軍は縮小しつつも一定の規模で据え置き、やがて統合させる』とトーンを更に下げた。ここで当時の与党であった革新政党に、一人の女性議員が台頭し、政府案にケチをつけた。彼女が関わって直したのが『陸軍を大幅に減らし、空海を主体にした構成に改革して据え置き』である。陸軍の数を『こうすれば減せる』とし、機械化を名目に、人員を数百万減らすつもりだった。しかし、扶桑は連邦軍のテコ入れで、既に機械化は55%の進捗率であり、自衛隊より高度な装備すら存在していた。
『既に機械化進んでるし、避難誘導や陣地構築で人手は今以上減らせんよ。それに空軍や海軍だけでは浦塩の防御は出来んよ、砲兵と偵察歩兵の連携有ってこその防衛線なのだから。 他の戦線も似たような物だよ?、映像有るよ、見る?』
扶桑国防省から議論に参加していた梅津美治郎大将が言った。彼は日本の心ない議員からは『無能な戦犯!』の野次も飛んだが、彼は曾孫より下の年齢の議員らの言うことを意に介さない。彼が副官に用意させたのは、扶桑陸軍の現兵力の紹介ビデオ(ちゃんと21世紀当時の最新メディアである)だった。そのビデオには、議員たちが旧軍に持つ『日露戦争を引きずる時代遅れの軍隊』ではない様子が記録されていた。まず小銃だが、旧軍式のボルトアクション式では無く、自衛隊のそれと同じような自動小銃であった(64式小銃に旧軍式銃剣をつける独自オプションをつけたもの)。その他銃器も、旧軍が史実で使い、比較的高評価であるもの以外は自衛隊の使用品と同様の代物であった。(九九式軽機や一〇〇式機関短銃などの比較的高評価かつ当時の新鋭銃は使用が継続されていた)機甲戦力も、二線級戦力として『四式中戦車』、『五式中戦車』が、五式の改良型として『61式戦車』が一線級戦力として紹介され、防衛大臣経験者などを中心に驚かれた。彼ら日本側の出席者はほぼ例外なく、旧軍機甲戦力は『ヘボい時代遅れの代物』と認識していたので、二線級ですら四式中戦車(史実では切り札扱い)であったのに驚天動地だった。陸軍関連の協議のために呼ばれていた当時の陸上幕僚長は『ロクイチをどうやって!?』と驚いていた。ただし、実質的に駆逐戦車であった『61式』と異なり、砲塔と正面装甲が強化されているのがわかる。ここで宮菱重工業の戦車設計陣の代表者が言った。『23世紀の地球連邦軍のデータベースの開示を受けて、我々が作ったものであります。現在は74式に取り掛かっております』と。
『馬鹿な!ナナヨンに必要なベトロニクスやサスペンションの技術はあなた方の時代からすれば、製造難易度は高いはず!』
これは陸上幕僚長の言葉だ。74式に必要な技術は史実では戦後の技術発展を経なければ得られないはずの理論も多い。それを踏まえての言葉だ。
『先程申し上げたように、我々はあなた方の遠い子孫たちから情報を得ています。製造設備をそれに見合うモノに変えている途中でもあります。JIS準拠のFISも浸透してそろそろLSIなら安定供給出来る目処がたったところですね』
「な!?LSIが!?」
「あなた方の思っている以上に、我々は技術革新を驚異的な速さで成し遂げている。その証拠に、空軍の装備の紹介に移ろう。空軍の事は井上大将に紹介を譲ろう」
梅津に促され、井上成美が紹介役を引き受ける。彼は海軍の空軍化を推進していた事を批判された場の勢いが、空軍に移籍する動機であるが、軍令の最高責任者となった源田実は、40代とまだ若く、日本との協議には、高官と言える年齢層を必要としていた事もあり、井上成美や大西瀧治郎などは空軍に移籍していた。井上は空軍の紹介と解説に入る。
『わが空軍は、1946年に発足いたしました新参者であります。元々の陸軍飛行戦隊と、海軍基地航空隊と言った組織を統合し、発足いたしました。発足から半年も経っておりませんので、旧組織の装備もそのまま使用しております…』
映し出されるは、空軍の装備。97式戦闘機、一式戦闘機と言った大戦前期型の戦闘機、二式以降の新鋭レシプロ機(二式三型というレアな形式も写った)が次々と映る。二式三型以降は排気タービン装備機の姿もあった。元海軍機では雷電、紫電改と言った局地戦闘機、更に烈風の姿もあった。
『レシプロ戦闘機は以上です。次に第一線機になっているジェット戦闘機をご覧に入れましょう』
レシプロ戦闘機は一線機から外れ始めた事を示す言葉だった。航空幕僚長などは感心したりだった。旧軍機の動く映像をカラーで見られた。それも、この時代では失われたはずの幻の機体も含まれているからだ。更に驚きなのが、ジェット戦闘機だ。まず、メーカーの要望により、一番初めに流れたのが、現時点唯一の国産機『震電改二』である。ベースは震電だが、改良が重ねられて、名前と胴体の日の丸以外は原型機との共通点を見出すのは困難であった。これは原型機のプロペラを取っ払うだけでは、ジェットエンジンが載らないと判明したので、全面的に再設計がされたからだ。武装は新式のリボルバーカノンが二門、空対空ミサイルか、爆弾を4発携行するという、戦後第一世代機から第二世代への過渡期のような機体だった。速度は米軍のF-86と同水準で、改良型ではマッハ1.7を見込む、純粋な戦前日本の戦闘機の系譜の究極と言える。
「我が国の独自開発機であります。震電を再設計して生み出した『戦前の系譜』最後の機体です。わが空軍は50年代までの使用を想定しております」
井上はそう紹介した。映像の機は47F所属機であり、今回においては同機のテスト運用を行っているためである。
「次に、外国からの輸入機ですが、拠点防衛用局地戦闘機として、『ドラケン』を使用しております」
これに空自は驚いた。ドラケンは日本向きの戦闘機ではない(航続距離が短い)とされていたので、扶桑皇国が採用していた事が空自の現場レベルより上には、この段階で知られた事になる。迎撃戦闘も担当するので、64は当然ながらドラケンを有しており、映像も64F所属機であった。地上駐機中の様子が主だったが、大規模基地のハンガーに駐機されている同機は衝撃だった。
「次に米国からの有償援助で得た機体群です。まずは『F-8』戦闘機。海軍と共同で購入したライセンスで製造しております」
「すると、艦上戦闘機としても?」
「左様。海軍にも大受けでして。機銃周りは変えておりますが」
F-8は、空軍では64Fのみが使用している。これは海軍向けが主であったからで、空軍はGウィッチ達の特権で使用しているのみだ。これはF-4Eの搭乗経験がある者達の不満解消のためでもあった。
「次に、貴方方と共通のF-4E。EJ改型を基本にしておりますので、貴方方の機体と部品の融通が効きます」
「ファントムをもう配備しているのですか」
「精鋭部隊での運用に留めてますが、生産は始まっております。64Fが初の受領で、244Fにも配備を開始しております」
井上は淡々と述べた。F-4EJ改は当然ながら空軍が先に配備を開始している。64Fや244Fの二つに優先配備されていると。
「次に、海軍向けの機体のテストも兼ねて、F-14の改良型を配備しております」
「と、トムキャット!?」
「そうです。これは海軍が主契約先だったのですが、現場から複座機への反発がありましたので、米国の許可を得て、単座型へ改良したのです。共同でテストの段階ですが」
アメリカでもこの要請は驚きを以て迎えられ、データ収集も兼ねて、当時の第一線艦上機『F/A-18E』と同様のアビオニクスにした単座型の機体の監修を共同で行っていた。テストは良好で、その正式生産機は最精鋭たる64Fへ回されていた。(海軍は空母航空団である601空の訓練途上であるため、64が先に受領した)
「最後に、F-15J。これもこの時代の貴方方と同様のものです。黒江大佐をそちらに潜り込ませたのは、この機体の操縦技術を得るためもあったのです」
「F-2はまだですね?」
「部内からは声が上がっているので、いずれと思ってはおります。これが空軍の戦力の一部です。爆撃機などについては、いずれまた」
「やはり閣下はマスコミの憶測の記事を気にしておられているのですね?」
「ええ。現場からはかなり不満が上がっているのでね。ブンヤ連中は『日本軍』の史実をもとにした憶測で書いておるから、厄介でして」
日本マスコミは扶桑皇国の航空戦力を小馬鹿にした記事を連発している。彼らの手には、日本軍の記録が参照できるので、『1945年次の米軍航空機』との比較で貶めるような体裁の記事を書き立てていた。実際に相対するリベリオン軍は1945年当時の新鋭機よりも、当時の既存機を稼働率から好んでおり、実際は海軍で、F6F/F4Uへの機種転換が70%の状況だった。つまり実際は、史実より数年単位で遅れているのだ。リベリオン海軍でさえ、この状況なのは『ウィッチ派閥の通常兵器増産反対論』が暗い影を落としていたからで、扶桑が既にジェット戦闘機を主力にし始めているのに遅れをとっており、ティターンズすらも『何やっとるんだ、こいつら』と嘆息なのだ。ティターンズがダイ・アナザー・デイ作戦時(ティターンズ側呼称、ゴールドフィンガー作戦)に投入した新鋭機は残存数が少なかったのと、現場からの不評で作戦後は降ろされたりしたので、世代的には1942年世代に逆行する有様だったのだ。
――日本マスコミのせいで、自分達の報道支局前で暴動寸前のデモに発展したため、井上成美は日本マスコミを『短絡な連中』と考えていた。自分達の知る記録からの先入観で大衆を扇動するため、扶桑皇国は少なからずの不利益を強いられている。特に、扶桑は既に連邦の協力で大規模なテコ入れを経ているので、日本側の感情的な批判は的外れである事が多い。特に航空戦力については、『二流機』と批判したところで、扶桑は同盟関係も工業力も大日本帝国とは根底からレベルが違うため、同一の機体であっても、スペックが遥かに優れる。紫電改を例に取っても、日本では、試作時の良好な個体で時速630キロほど、量産機で594キロの速度だったが、扶桑では680キロ(初期型)、ハ43搭載の最多生産型で698キロ前後を誇っている。更に、高空性能も排気タービンなどがあるおかげで良好である。B-29に充分に立ち向かえる性能だ。米軍から見ても、当時としては充分な性能なのに、『どうせB-29とP-51には勝てない』と書き立てたので、憤慨した扶桑国民が『馬鹿にするな!!』と暴動を起こしたのだ。実際、日本側の認識と違い、B-29は日本軍機が手も足も出ない強敵ではなく、日本軍の屠龍、紫電改、五式戦、飛燕によって少なからず撃墜されていた。日本は既に元・軍人の大半が死に絶えた時代を迎え、『資料の中でしか、旧軍を知らない』者が大多数であったが、親や祖父が戦争経験者であるのには変化はない時代故の独善だった――
「貴方方の国のマスコミは『自分たちがそうだったから、そうのはずだ』という憶測で記事を書く。ウチの現場から不満が上がっておりますぞ。特にパイロット連中の練度について」
「お恥ずかしい話です。『45年には燃料の枯渇で、まともな航空戦を行える部隊は殆ど無かった』という先入観が奴等は強く…」
「だから、64を貴方方に見せたのです。加藤隼戦闘隊と343航空隊、いや、剣部隊の統合した最高の部隊を」
井上はここで『加藤隼戦闘隊』という単語を使った。日本でも有名な部隊で、軍歌も残っているほどの知名度。それを強調する。更に剣部隊の名をも出す。
「あれら部隊の武功を、貴方方はご存知だろう。その絶頂期の人員をそっくりそのまま統合したのです。源田君の肝いりでね」
「そっくりそのまま?」
「加藤武子隊長は、君らの知る軍神『加藤建夫』少将の同位体なのだよ」
「加藤少将の……同位体!?」
「黒江君の時点で気がついていたと思っていたが?」
――武子が軍神の同位体である事が知れ渡り、航空自衛隊関係者をどよつかせる。黒江も黒江保彦空将補(最終階級)の同位体であるが、武子が加藤少将との共通点が多々あるのに対し、黒江は空将補との共通点は少ない。共通点は空戦技能と周囲への気配りと現実主義者であるところだけだ。この事は言動が『現代っ子』であるのもあり、殆ど見過ごされていた点である。
「つまり、絶頂期の加藤隼戦闘隊の人員に、剣部隊の人員を丸ごと加えた最精鋭と思ってくれていいよ、64は。絶対的な切り札。君らには理解しがたいと思うが」
軍事に詳しくない者でも、実戦で用いるエース部隊というのは、負ける側の軍隊の苦し紛れの手段という認識がある日本側。だが、扶桑海事変で試験的に、エース部隊を作ったら大成功だったのを鑑みたウィッチ世界では、それを多国籍にした統合戦闘航空団が作られていった。しかしながら、501も初期はそうだったように、寄り合い所帯感の強いものであった。506のように一国の政治的暗闘のせいで事実上の解散となったもの、505のように隊長の裏切りで崩壊したもの、音信不通となった503の例もある。選んだのは各個撃破されるよりも一箇所に集めるという案で、それが真・501の誕生の理由の一つだ。扶桑海事変でも、そのような思考が旧64を産んだ。扶桑はGウィッチを最も多く有するのもあり、64は最精鋭部隊の番号とし、書類上は活動再開という形で編成を復活させたのだ。軍事的には不可解なようだが、彼らにとっては『当然の理』なのだ。最も、黒江らは全員、教官・部隊長として類稀な才覚を持つため、一箇所に集中させるのは、前史での坂本がそうであったように反対も多い。今回においては、圭子が『多国籍部隊への出向のマザースコードロンになる部隊なので、集中させている』という言い訳を捻り出し、それを大義名分としている。(黒江達は叙爵後、ペリーヌの頼みで、連合国軍での書類上はノーブルウィッチーズ(二代)の所属となっている。これは再建に奔走しながら、貴族そのものが衰退している時代、ノーブルウィッチーズは無理難題が多い事の矛盾に気がついたペリーヌの嘆きに同情したという面が大きい)公設の多国籍部隊が501と508以外に存在意義を見いだせなくなった時代の流れもあり、扶桑は自前で統合戦闘航空団を実質的に用意する事になる。それが64Fの内部にできる魔弾隊であったのかもしれない。
「閣下、お教えください。なぜ、そこまで人材を集中的に運用するのですか?」
「君らは不可解に思うかも知れんが、ノモンハン事件相当の事変の際、当時に10代半ばだった黒江、加東、穴拭を始めとした若手将校らが戦争終結に尽力した。その時の人材がちょうど今、充分な経験を積み、育っている。彼女達のような逸材はそう易々とは出ないし、力を持っていても、軍に入るのを周囲は強制はしないような社会だ。だからこそ、ああいう人材は至宝なのだ。そして力有る者が率い教える事で、次世代に技術を継承する目的も有る」
井上は黒江達など、事変後も職業軍人であり続けるウィッチを至宝と評した。扶桑は様々な意識の変革や考えの流入も重なり、若いウィッチの確保は困難となったし、反発もあって、一時は派閥すら形成していた軍ウィッチは衰退している。井上自身、道を示し、拓いた黒江達の後に続く者達が、坂本の最後の愛弟子である芳佳を最後に出ていない事を危惧している。芳佳/静夏が『ウィッチの矜持』を持つ者として最後になりかねない。それが米内光政のウィッチたちへの遺言でもある。(米内は未来世界との交流開始時には既に、長年の持病が手の施しようがないレベルになっており、45年には余命宣告を受けていた)米内光政亡き後、派閥は山本五十六が引き継いだが、その山本五十六も自身の死期を意識始め、小沢や山口ら後輩に後事を託す行動を見せ始めていた。ただし、山本当人も驚きの長命を保つ事となる)。
「さて、海軍だが、ここは小沢に任せるとするよ。俺は空軍に行った身だ」
「うむ。諸君らも知っての通り、儂は連合艦隊司令長官としては最後を飾った。今は統合幕僚会議の議長に抜擢されておる」
「小沢長官、海軍はどういう状況なのです?」
「今は議長だよ。君らの子孫らのテコ入れを最も受けた軍になるな」
ビデオは海軍の状況の説明に入る。海軍は地球連邦軍のテコ入れが細部にまで行われたため、軍備の近代化度も高い。戦艦はテコ入れ前の段階で加賀型、紀伊型、大和型を有していたが、テコ入れが行われたため、超大和型戦艦を実現させたと。また、超甲巡も量産されている(甲巡の代替も含めた措置)のが驚きを持って迎えられた。
「何故、紀伊型の直後に大和型を?30年代に紀伊型が出来たなら、大和型を急ぐ理由がない」
「紀伊型はあくまで戦間期型の戦艦だ。建造が30年代に伸びたので、砲塔式の副砲に設計を変える案が出たが、扶桑型、伊勢型、金剛型にガタが来始めたのもあって、当初の設計通りに作ったのだと聞いておる」
「それ以前の超弩級戦艦が老朽化を?」
「そうだ。大日本帝国海軍と違った形で酷使しておったから、老朽化が激しく、代替がどうしても必要となったのだ。一部は空母が宛てられたが」
いくら扶桑皇国と言えど、扶桑、伊勢、金剛のすべてを新戦艦で置き換えるほどの余裕はない。そこが問題であった。一部は天城型の代替も兼ねて、空母の大鳳型の建造(大鳳型は開戦で二番艦が中止となり、雲龍型に切り替わった)で代替された。大和型はそのうちの金剛型の代替枠で計画・建造されていた。(艦娘・大和の登場で世界には『竣工は1938年』と認識されていたりするが、実艦は41年の完成である。表向きは事変終結前に就役も、機関の故障とレーダー設置などでドック入りし、41年に復帰とされている。)
「大和と武蔵は当初、移動司令部と予備として作られた。大和が出るような事は想定しておらんかったからな。が、君らも知ってるティターンズのリベリオンの占領で大和の運命は変わった」
「モンタナ級戦艦、ですね?」
「そうだ。前線でバリバリ戦う船として使うつもりの紀伊の重要部をモンタナはあっさり貫き、轟沈させた。その時の軍令部や艦政本部の喧々諤々ぶりは伝説になったよ」
「それで信濃と甲斐の空母改装が?」
「没になったよ。連邦から、ジェット戦闘機用の空母を一から作ったほうが費用対効果も高いと言われたのもあって、そのまま戦艦として完成させた」
紀伊があっさり戦没し、モンタナ級戦艦の脅威が新聞に書き立てられ、窮した扶桑海軍は決まりかけていた大和型三番艦と四番艦の空母改装を撤回、そのまま改大和型として作り、FRAMのテストケースとした。それが信濃と甲斐の生まれた理由だ。扶桑は砲弾の進歩が想定外で、リベリオン最新鋭艦の主砲弾が想定砲戦距離で紀伊の最重要部を一撃で貫くなど、考えもしなかったのだ。そのため、設計当時は過剰と言われた大和の防御すら『まだ不味い!』と今度は日本から言われる羽目となったのが実情だ。地球連邦軍に泣きついたのは、その『防御をもっと上げろ!飛行機に片舷を攻撃されてあっさりボカチンしたぞ!!』という野次が大きく関係している。扶桑の艦政本部としては、大和以上の重防御など考えつかず、そこで宇宙戦艦を作る地球連邦軍に助けを求めた。
「それで、マスコミがゴチャゴチャ五月蝿いと泣きついたら、こんな戦艦を作ってくれたよ」
「は!?」
「三笠型戦艦。宇宙戦艦の技術で作られた超弩級戦艦だ。君達の記録の50万トン戦艦を具現化してくれたよ」
「そりゃ宇宙戦艦はキロ単位のがありますが、水上艦でこの大きさは…」
「扱いにくいと言ったら、ダウンサイジング型も作ってくれたよ。韓国に軍事制裁を加えるのに使った播磨だ」
「これに比べればダウンサイジングでしょうな…」
播磨は51cm砲と350m級と、確かにダウンサイジング化しているサイズだ。マスコミがデカブツと騒ぎ立ててる播磨が、である。海上幕僚長は完全に茫然自失である。突き抜けた大きさの三笠は日本側に衝撃を与えた。全力のフルスイングハンマーの一撃を。三笠型は日本のどこにも入れる港がないので、播磨型が日本に置ける限度だと言う小沢。当たり前である。
「戦艦はここまでだが、どうだね?」
「はっきり言って、23世紀の未来に泣きつくとは……。我々の立場がありませんよ」
「仕方があるまい。君達の時代の技術では、大和や武蔵のスペックを引き上げる事は出来なかっただろう?あちらのほうが先に接触して来たのだ。君たちはその後になるからな」
21世紀当時の技術では、機関はいじれても、主砲周りには全く手はつけられないし、装甲厚の増加などには困難が伴っただろう。23世紀の技術であれば、主砲周りにも近代化の波が及ぶし、自動追尾機能も加わる。その為、扶桑は主砲周りには23世紀の技術を入れているのだ。核兵器を持ち出しても無効にする装甲。ある意味では、三笠型と播磨型は核兵器の軍事的意義を薄めさせる代物であり、日本にはうってつけの軍艦である。(それを恐れた欧米諸国が反応弾に繋がる研究を残すという皮肉もあるが。)
「しかし、23世紀と21世紀で時間軸が違う我々とそれぞれ接触を?」
「23世紀の兵器は、我々が作るには高度過ぎる。彼らからの勧めで、20世紀終わりの君らと接触し、今日まで来たのだよ」
「つまり23世紀の勧めで、我々と?」
「うむ。23世紀の技術水準はマジンガーやゲッターロボ、ガンダム、バルキリーが普通に跳梁跋扈するほどのものだ。我々には高度過ぎる。そこで同じ世界の過去に当たる君達だ。丁度、接続しやすい時空座標だったという事もあったしな」
「なるほど……。確かにあれらが実現しているのなら」
「だろう。我々も戸惑ったものだよ。これは秘中の秘にすべき事柄だ。野党連中に知れれば、歴史を変えようとするからね」
「23世紀地球と1940年代扶桑から近い時空座標に有った中間的時代の時間軸が2000年前後だった、という訳です。23世紀の技術で接続したのですが、いきなり来ても騒動になるので、我が軍切っての英雄であり、俊英である黒江大佐を先行して送り込み、自衛隊へ潜り込ませたのです」
小沢の副官の矢野志加三中将が言う。それが黒江が防大に入った理由の一つだ。それを知っていたのは、黒江が防大在籍〜任官までの期間に総理大臣だった『ジュンイチロー』(小泉又次郎の孫)のみであった。それを聞いた防衛省背広組トップの事務次官は冷や汗をかき始めた。
「どうかしたのかね?」
「は、は、はぁ。この場で言うべき事かと迷いましたが……。実は、革新政権の時代に防衛省へ『扶桑皇国軍人である者は中枢に入れるな』という極秘通達が出ていたのです」
「ほう」
「革新政権の首相達は、旧軍人とほぼ同一の存在である貴方方に組織風土を侵食される事を異常に恐れておりまして、まさか、黒江大佐が空将にあの若さで登り詰めるなど……」
「組織防衛としては納得だな」
「それでは」
「我々は元は別の組織だ。問題にはせんよ。ただし、埋め合わせはしてもらうよ?」
「分かりました…」
黒江が若くして、空将に登り詰めた事自体が想定外だった防衛省。航空幕僚長にするわけにもいかず、かと言って、将官にポストを何も与えないと、今度は現場の士気を保てない。それに窮していた防衛事務次官は、防衛大臣や総理大臣と協議し、日本連邦の発足時に『対外任務統括官』という新ポストに任ずる事で埋め合わせをする事を選んだ。扶桑への派遣部隊の指揮権を持つ強大な権限を持つポストである。これは黒江の叙爵が通達されたため、権限を強くする必要が出たからとも噂された。実際のほどは分からないが、のび太が28歳を迎えた2016年、黒江はそのポストに若くして任じられ、『抜擢人事』と報道された。(実際は黒江の叙爵と若くしての将への昇進が大きく判断に関わっていた。末席とは言え、華族になった事は日本防衛省には思い切り予定外過ぎた)これで強大な権限を得た黒江は、デザリアム戦役では留学生達をパルチザンに加えつつ、公式な派遣が決定した後は配下にし、太平洋戦争では派遣された三自衛隊の責任者として、実質的に64Fとの統合運用を行ってゆくのだった。
――樹立と同時に結成された軍である、『日本連邦軍』は実質的に二つの組織の共同軍だが、当初、日本の憲法9条に触れると、野党から反発が大きかったため、『日本連邦軍は憲法九条2項の禁止する「国の戦力」には当たりません。連邦軍は『日本国』の戦力ではなく、日本が参加する連邦の戦力、日本が提案して実際に動かすのは『連邦』なので、日本が国権の発動として軍事行動する訳ではありません』とする日本政府の見解が発表され、憲法改正まではこの解釈で難局を乗り切ったという。これは統合による自衛隊の拡充という道が当初から閉ざされていたからこその光景だが、実質的に『日本軍』が自衛隊と共存する状況に納得しない政治家や市民運動が問題視したが、災害救助がさらに迅速になったり、基地祭で張り切る艦娘達が人気を博したり、黒江がコスプレと称して、シュルシャガナを纏って(変身して)、ライブを行うと言ったフレンドリーさに、やがて打ち解けていったという。(わざわざ変身して歌ったため、後で調に大目玉を食らったとか。黒田撮影のそのライブ動画が出回ると、ネットが大盛り上がりとなり、瞬く間に大人気となったとか。ちなみに、連邦軍としての階級章は星の階級章が基本となったので、扶桑海軍軍人達は新しい軍服を支給されたという。空軍は空自のそれ風になり、前史で揉めた事は事前に解決した事になる。)
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