昏い黒炎が宙を舞い、鮮やかな紅蓮が大気を焦がす。
星の大河が空を奔り、輝く聖光が大地を照らした。
――そんな、苛烈に過ぎる光景の中、
切り結ぶ、二つの影がある。
片や、六枚の禍々しい翼を大きく広げ、黒炎をその身に纏う――ヒトガタをした闇竜。
片や、紅蓮の炎を操り、万物を屠る光の剣を掲げる――光輝の翼持つ者。
……ああ、これは――夢だ。
夢と知ってもなお、何度となく繰り返した――戦の情景。
いつの出来事なのか、夢の中の存在が何者なのかも分からない。
過去の記憶なのか、それとも未来予知なのかも分からない。
何れにせよ、私にとっては意味のないものだ。
例えどちらであったとしても、それをどうこうする力は私にはないのだから。
そして……。
「……」
ゆっくりと重い瞼を開ければ、いつもと変わらない光景が広がっていた。
定かでない私の記憶を投影したかのような、辺り一面の……闇。
光も音も、時間ですら存在しない。
そう、ここでは例え無という概念ですら存在を許されない。
観測者である私がそう認識しているだけで、本当は光どころか闇すらない。
そして“何もないこと”だけが存在を許されたこの世界では、何かが欠けるようなことはない。
だから――この世界では、ただ“ある”だけで全てが満たされていた。
そんな世界の中で、私だけが異物だった。
全てがないこの世界で、私だけが色と形を持っていた。
ただ一度だけ訪れた異邦人の言によると、私の容姿は耳が少し隠れる程度の黒髪に、赤い瞳。
特徴といえば、その異邦人――遥か昔に受け入れた強大な光の塊の影響で、背中に生じてしまった黒の十二枚の翼がそう。
私に性があるならば、それは男で、背は平均か少し高めらしい。
いつからこの世界にあり続けているのかは覚えていない。
ただ、こうして確たる自我を持っている以上、ここにある前、私はまた別の何かだったのだろう。
だが、そんな疑問はここでは無意味だ。
他者が存在しないこの世界では、そんなことは気にするようなことではない。
名称を付けるなら“名も無き世界”――或いは“0”とでもいうのであろうこの場所。
私は何をするでもなく、ただ流れにまかせて在り続ける。
その滑稽さを気にすることもなく、それ故に、私は己の存在意義にさえ疑問を持つことはなかった。
ただ、およそ死を形にしたかのようなこんな場所でも、死者が訪れる場所とは違う。
そんな印象を常に私は受けていた。
永遠に続く虚ろの世界。
そうして、私はまた瞼を閉じた。
◆
あれから何度繰り返したか分からない目覚め。
だが、今回は少し違う。
――唐突に響いた焔のような女の声に、私は瞼を開けた。
初めに浮かんだのは疑問。
何もないはずのここに、私以外の声が響くはずはない。
「私ハ見捨テナカッタ。オマエガ天界ニ帰ッテカラモ、ズットコノ地ニ残リ続ケタ。
タトエ現神ト手ヲ組ンデモ争イヲナクソウトシタ」
続いて感じたのは、憐れみ。
激情を孕んだその声はひどく痛々しいものだった。
何が彼女をそうさせたのかは分からない。
ただ、前と同じように、その声に惹かれていることだけは理解できた。
そして最後に感じたのは驚愕。
私というモノの中に憐れみなどという感情が存在していることが不思議でならなかった。
しかし、同時に納得できる部分もあった。
この世界には全てがない。
ならばその中にあって異物でしかない私の内側。
そこには、それが誰のものであれ何かがあるには違いないだろうと。
そんなことを考えることができる程度には冷静である自分。
そして、声の主に惹かれて冷静ではない自分。
今の私は目覚める前の私と同じようでいて、やはりどこか違う。
「アストライアァァァァァァアアアア!!」
叫び声と同時に、何もないはずの世界に光が溢れる。
ずっと闇の中にいた私にはひどく眩しくて、しかしそこまでだった。
文字通り闇を裂いた光に飲み込まれ――私はそこで意識を無くした……。
石の崩れる音に目覚めると、まず私を襲ったのは強烈な光の奔流だった。
どれほど長い間あの闇の中にいたのかは分からない。
ただ、知識としては知っていても、実際に体験する光は私にとっては害悪でしかなかった。
数刻ほど経って、ようやく光というものに慣れ始めた私の目が捉えたのは、瓦礫と化した祭壇だった。
どこかの山頂に建てられているらしい祭壇は、しかし他に誰の気配もなくただ悠然とそこにある。
ふと山の麓、この祭壇の設置された神殿の入口付近。
そこに何者かの気配を感じ――少し迷って知識の中から引き出した魔術で視力を強化、その姿を窺う。
……長く赤い髪をした男だった。
一目見て、それが人間族のようでいて、本質は違うと感じた。
傍らの、干からびた人だったモノを視界に捉え、感覚での認識が確信に変わる。
燃え盛る炎のような赤い髪に、汚れ一つない白雪に似た綺麗な肌。
他に形容する言葉が見つからないほどに美しい相貌は、しかし困惑に歪んでいた。
まるで自分が誰か分かっていないような。
いや、分かっていても認めたくないような、そんな表情。
外見と中身が別人。
何となくだが私にはそう感じられた。
しばらくして、また別の男が現れた。
神官服を着た茶色の髪の男。
初め二人は言い争っていたようだった。
やがて神官服の男がうろたえ出し、赤い髪の男を連れて神殿の外に出て行った。
会話の内容は聞き取れない。
ただ赤い髪の男が口にしたサティアという言葉だけが、不思議と耳に残った。
それから彼らの気配が完全に無くなったのを見計らい、私は長い階段を一歩一歩踏みしめ、階下を目指した。
一つ下の階に降りると、遥か下まで続いているだろう巨大な穴が開いていた。
恐ろしく高温の炎で焼かれたように、穴の周囲は溶けた跡が残っていて、まだ熱を持っているようだ。
「――――」
しゃがみ込んで穴を眺めていると、何処かからか声が聞こえた。
「――――」
恨みの声か、あるいは嘆きの声か。
ただ、ここに堕ちる前に聞いた、あの悲しい声に何処か似ている。
「――――」
ソレは、得体の知れないものだった。
黒いフード付きのコートのようなものを羽織り、コートの下からは無数の触手が伸びて蠢いている。
その上から纏っているのは強烈な邪念。
顔と思われる部分からは青く光る眼だけがのぞいていて――。
「――――」
ソレは何をするでもなく、ただ唸り声をあげながらじっとしている。まるで私を待っているかのように。
一歩、また一歩と私は“彼女”に近づく。
恐ろしいという感情はなかった。
もっと恐ろしい闇の中でさえ平気だった私にこの程度の邪念は意味がない。
ただ“彼女”が何者なのか知りたいと、それだけを思っていた。
相手はおぞましい怪物だというのに、不思議と私に忌避感はない。
最後の一歩を踏み出し、そして私は“彼女"の体に触れた――。
◆
アイドス、という女神がいた。
慈悲をその権能として司る彼女は、きっと他の神の誰よりも人間を愛していたのだろう。
争いなど全くなかった黄金の時代。
その後の白銀の時代が終わりを告げ、争い始めた人間たちを見て、悲嘆にくれた神々は地上を去ってしまう。
しかしアイドスは、正義と裁きを司る女神――実の姉アストライアと共に、人間の世界に残り続けた。
人間たちが武器を取り、争うようになった青銅の時代。
やがて訪れた英雄の時代を経て、あらゆる悪行の蔓延る鉄の時代に至る。
そしてついに、最後まで残り続けた女神アストライアまでもが絶望し、人間界を去る。
それでも争いを無くそうと、アイドスだけは地上に残り続けた。
ディル=リフィーナに生きる人間の代になっても、彼女は決して諦めなかった。
その思いは、人間世界の神々が別世界の神々との争いに負け、古神と呼ばれるようになっても、決して変わらなかった――。
――だが、その方法だけが大きく変化してしまった。
なぜ彼らは争うのか。
父たる神が創造した彼らが不完全な存在であったため?
否、そうではない。神々の中にさえ争いはある。
人間が不完全であることが理由なのではない。
では、何故か。
そして、慈悲の女神は結論に至る。
つまり、争いの根源とは憎しみである。
他者が妬ましい。何故私だけがつらい思いを。どうして私だけが愛されない。
――他人が憎い。
ならば、その感情を奪ってしまえばいい。
争いの根源が憎しみだと、それを生む人の持つ感情が原因だというのなら、それを奪えば争いはなくなる。
そう考えたアイドスは、現神の一柱、嵐の神バリハルトと手を組んで実行に移した
――自分が利用されているだけとも知らないで。
人の悪意は想像以上に強大であったためか、人の心を奪い、吸収し続けた彼女は、やがて耐えられなくなった。
結果、彼女は本物の邪神に成り果てる。
ただ誰よりも人を愛しただけなのに、その権能から大きく逸脱してしまったために。
……憎しみという感情は確かに争いを生む原因だ。
だが、果たして何の感情も持っていない者たちが生きる世界に意味はあるのだろうか。
日がな一日、ただ虚ろのまま何も考えず生きているだけの人間。
そこに価値は?
しかし、私が彼女に惹かれた理由はきっとそんなことに興味を持ったからではない。
ただ、届かぬ理想に必死で手を伸ばす彼女の在り方そのものこそを、私は貴いものと感じた。
確かに彼女は途を違え、狂ってしまったかもしれない。
しかしそれでも、己の器を越えた願いを叶えようとするその傲慢なる生き様は、私に強い衝撃を与えた。
――強く惹かれる眩さと、それ故の痛々しさ。
……気に入らないことがあるとするならば、決して報われないという"運命"だ。
だからだろう。
――彼女はここで滅んではならない。
気まぐれにも、そんなことを思ってしまったのは――。
◆
アイドスの状態はひどい。
彼女に触れることで、おおよその経緯を知ることはできた。
だが吸収し続けた人の悪意があまりに強大過ぎて、アイドス自身さえ呪われてしまっている。
それに、今ここにある存在はアイドスの精神だけだ。
肉体はおそらく別の場所にあって、そして変質したこの精神体ではもうもとに戻ることもできないだろう。
唯一の可能性は、この悪意とアイドスの精神を切り離した場合だ。
……私は幸いにして、切り離すための方法を知っている。
ただし、問題がないわけではない。
「何故、私に記憶を見せた」
手を彼女の体に当てたまま尋ねる。
言葉を口にすることはできなくても手を介して意思を伝えることはできるようで、
「貴方ニハ、何モナカッタカラ。奪エルダケノ感情ガナカッタカラ、興味ヲモッタ」
感情。確かに私の感情は希薄だろう。
外からの刺激がないのだから、感情が生まれるはずもない。
それでも、
「それは違う。私はお前の慟哭に惹かれてこの地に迷い込んだ。私にも感情はある」
「イイエ。ソレハ貴方ノナカノ別ノナニカノ感情。
貴方自身カラ生マレタモノジャナイ」
言われて、ああそうかもしれないと思ってしまう。
あの時に感じた憐憫の感情は私ではない融合した二つの魂の片割れ。
“父”のものとすれば納得できる。
しかし、それも融合した私の中から出てきたものなのだ。
ならばそれは、やはり私の感情なのではないだろうか。
それ以上考えるのがなぜか嫌になって、振り払うように私は言葉を紡ぐ。
「お前の望みはなんだ?」
「人間カラ争イヲ無クシタイ。ケレド、私ノ体ト一ツニナレナイト争イヲ無クセナイ」
――体。
先ほどまでいた赤い髪の男の――アストライアの肉体のことでは、おそらくない。
だが、アイドスから受け取った記憶。
その中に出てきた男、セリカ・シルフィルとアイドスの神核、雨露の器は融合していた。
ならばその神核もまだセリカ・シルフィルの中にあるということになる。
「デモ……」
僅かに躊躇うような口調で、アイドスは続ける。
「本当ハ気ヅイテイル。私ハキット私ノ体ニ戻ルコトハデキナイ。ソレニ――」
そこで何かをいいかけ、彼女は口を閉じた。
その姿がなぜか泣いているように感じたのはきっと気のせいではないのだろう。
「――ならば私とともに来るか?」
驚いたのは果たしてアイドスだけだったか。私の口からはそんな言葉が出ていた。
「私ならば、お前の精神とその邪念を切り離せる。
今は無理でもその変質してしまった体ももとに戻るかもしれない。
代わりにお前は私にこの世界のことを教えてくれ。
私が生まれた場所にはもう戻れない。だがこの世界で生きる意味が私にはない。
それを見つけるためにも案内人は必要だ」
「私ハ、体ガ無ケレバ、コノセカイニ存在デキナイ」
「ならば見つかるまで、剣にでも宿っていればいい」
そういって、この階に下りる前に見つけていた両手持ちの大剣を見せる。
幅が広い白銀の刀身に、黄金に螺旋状の青の模様の柄。
全長は、地に突き刺せば私の胸の辺りまで届くくらいで、重量もそれほど重くは無い。
実用と鑑賞、その両方を兼ね備えた一品だ。
おそらくは女神の眷属が、アストライアに捧げた宝剣だろう。
しかし、争いを止めるために人間界に残った神が、武器に宿るという皮肉。
受け入れるだろうか、この優しい女神は……。
「当然問題もある。お前の姉が邪念と精神の切り離しを行えなかったのは、司る権能が正義と裁きであったためだろう」
正義の神では騒乱を起こしたものは救えない。
だが、私の場合はそれは問題ではない。
懸念は、切り離しにアイドスの精神が耐えられるかどうか。
邪念とはいえ、一度同化したものを切り離す以上、それは身を引き裂くことと同義。
その痛みはどれほどのものか私にも分からない。
アストライアの名前が出た瞬間、僅かにアイドスの体が震えた気がした。
それは妹を見捨てた姉に対する憎悪ゆえか、それとも、姉を刃で貫いた罪悪感からか。
「……貴方ニマカセテミル」
それが彼女の出した答えだった。
十二枚の黒い翼を広げる。
そして、私の身の内から解き放たれる古き神の力。
儀式自体は単純なものだ。
長い呪文など必要ない。文字通り、ただ斬るだけ。
刃に魔力を乗せ、振るう。
けれど、この方法はきっと私にしかできない。
“父”から膨大な魔力を受け取り、何故かモノの本質を捉え易い私だからできること。
怪物の肉体を縦に割る。
響くのは絶叫。
現れたのは、一瞬だけ見たアストライア――セリカ・シルフィルと同じ顔の裸の女。
しかし、どこかセリカ・シルフィルよりも儚い印象を受ける。
私よりも背が低いので、必然、彼女を見下ろす形になる。
こちらを見上げる、姉とは違う琥珀色の瞳には、深い悲しみが感じられた。
結論をいえば、彼女は耐えきった。
アイドスの精神と邪念は見事に分かれた。
誤算だったのは、抜け殻となった得体の知れないものがいつの間にか消えていたことだ。
その事実に僅かな懸念を抱きながらも、私はアイドスと共に神殿から飛び立った。
久しぶりに会う他人に、少し戸惑いを覚える。
ただ、不思議と悪い気はしない。
ならばきっと、この出会いもまた必然だったのかもしれない――。
あとがき
少し冒頭を修正しました。
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