私自身が求めたものは何だったのか。
欲しかったのは何だったのか。
慈悲の大女神と呼ばれた私。
その根幹は慈悲にある以上、人の世から争いを無くすことは使命のように思えた。
お姉様がこの世界を去ってからも、ただ只管に争いを無くす方法を模索し続けた。
ある時は人間たちの中に混じって言葉を聞き、声高に叫んでは争いの愚かしさを説いた。
またある時は自分には何も出来ない。
ならばせめて戦争で傷つく人々を、世界から消えてしまった魔術で癒そうと、世界中を回った。
私たちの世界イアス=ステリナ。
現神世界ネイ=ステリナ。
二つの世界が機工女神の手によって融合してからも、私がその行動を止めることはなかった。
何度となく現神と手を結んで、裏切られ、それでも争いを無くすために……。
だからバリハルトと手を結んだのも、そんな繰り返しの中の一つに過ぎなかった。
何をしても争いは無くならない。
ならば人の争いの根源となる感情を奪って浄化する以外にもう方法はないんだと。
結果は――失敗。
浄化するどころか、私はその悪意に耐えきれなかった。
精神と、人間でいう魂に相当する神核とに引き裂かれ、完全な邪神になってしまった。
どうしてこんな醜い姿になってまで、私だけが争いを無くすために行動しなければならないんだろう。
そう思っても、その行動が当たり前になってしまっていた私には無意味な疑問だった。
きっと半分はただそうすることしかできない概念に成り果てていたのかもしれない。
争いを無くすという行動に対する妄執。
私が慈悲の女神である存在理由のためだけに。
もはや人間が愛おしいための行動なのか、そうしなければならないという強迫観念によるものだったのかすら分からなくなっていた。
――そんな時だ。お姉様が再びこの地に降り立った気配を感じたのは。
あふれ出たのは憎悪。
逆恨みだと分かっていても、どうしても止めることができなかった。
まき散らされた私の感情で、私に関わった何人もの人間が呪いに襲われたように思う。
そのことに何の感慨も浮かばないほど、私はどうしようもなく狂っていた。
双剣の剣士。
バリハルト神殿の神官。
スティンルーラ人とセアール人のハーフの女性。名前は確か――カヤ。
そして、バリハルトの勇者になる可能性を秘めていたお姉様の恋人。
憎悪は募り、私はバリハルトと手を組み、お姉様をその手に掛けることにした。
古神を葬るためならば、バリハルトは簡単に力を貸してくれた。
何人かの神官が私のもとを訪れ、私は彼らに導かれてバリハルト神殿を訪れた。
そして、ようやく神核との融合を果たすことになる。
私が纏う邪念に触れたせいで神官たちは狂ってしまったようだ。
だが、現神と雖も身体を形成できないこの大陸では、信仰者の意思が無ければ力を扱えない。
だから、それも仕方がないことだったのだろう。
そんなことを冷静に考えられるこのときの私は、もはや慈悲の女神ではなくなっていたのだと思う。
私の神核、雨露の器の一部を基にした、真実の剣スティルヴァーレ。
お姉様の力、天秤の十字架“リブラクルース”にも匹敵する神剣を生み出させる。
その上で性魔術を用いてバリハルトの勇者――お姉様の恋人を。
セリカ・シルフィルを狂わせて、雨露の器そのものと融合させる。
そして彼の手でお姉様を――。
恨み事を吐きながら刃で貫く瞬間、お姉様は私に謝っていたように思う。
どうして、という疑問が沸き起こる。
この世界に残ることを決めたのは私自身の意思。
お姉様はただ逆恨みを受け止めただけに過ぎない。
……これでは、どちらが慈悲の女神か分からない。
バリハルトの裏切りで諸共に滅ぼされると気付く。
でもこんなところで死ねないと、無我夢中で嵐神の神力の溢れ出る真実の剣を手放そうとした。
しかしバリハルトの神格者となっていたセリカ・シルフィルを介した雷。
それによって完全に抗う力を奪われてしまったことで、叶わない。
そんな時にふと感じたお姉様の力。
まさか、恋人であるこの男ごと私を浄化しようというのか。
“聖なる裁きの炎”の発現。
乗っ取っていたはずの男に意識を奪い返され、最早私に対抗できる術などなかった。
お姉様は裁きを司る強大な女神。
この分だと神力の行使のために、セリカ・シルフィルの肉体を通じて介入してきた嵐神。
彼もまた、文字通り癒えぬ手傷を負ったことだろう。
熱さを感じさせない炎によって浄化される神核。
そこから離れていく私の意識。
それをただ、これで良かったのかもしれないと思いながら受け止めていた。
意識が戻ると、私はまた醜い精神体だけの体に戻っていた。
困惑したのは僅かな時間。
諦観すると共に、生きているのならば私の願いは変わらないと切り替える。
……どうやらお姉様はその優しさ故に、愛する者を殺すことはできなかったらしい。
しかし精神は無事とはいえ、聖なる裁きの炎による浄化が行われてしまった。
元は同じはずなのに、今は違う精神と神核。
果たしてこの変質した精神は再び元に戻ることができるのだろうか。
そんなことを漠然と考えていたそのとき――私は彼に出会った。
この勅封の斜宮に彼のような存在はいなかったはずだ。
深い闇を思わせる黒い髪と真紅の瞳。
黒を基調とした厚手の服と下衣。
それからその上に羽織っただけの朱色の上着。
ブーツの色も黒で、でも覗いた横顔……精悍な顔つきのためか、陰鬱さは感じさせない。
背中には、かつて君臨した古の魔王を思わせる十二枚の漆黒の翼。
そして、白銀に輝く両刃の大剣を背負っている。
私は彼の魔王と会ったことはないが、目の前の存在がそうだと言われれば信じてしまいそうになる。
そんな異質な空気を彼は纏っていた。
彼は瓦礫と化した広間を進み、聖なる裁きの炎の跡――大穴を確認しているようだ。
やがて彼が私に気づき、その瞳を正面から見て……殊更に興味を持った。
弱い感情の波。
彼は私と同じ虚ろでありながら確かな感情を持っている。
「イイエ。ソレハ貴方ノナカノ別ノナニカノ感情。貴方自身カラ生マレタモノジャナイ」
あるいは、そんな挑発にも取れるような言葉を言ったのは、どうにか彼の興味を惹くことができないかと思ったからかもしれない。
……私は、彼の在り様を知って、叶うならば彼と共に世界を巡ってみたいと思った。
他のモノとは違う、異質な彼と共に行く。
そうすれば、この妄執に取りつかれたための、永劫の呪縛から抜け出せるきっかけになるかもしれない。
いいえ、そんな打算的な思考からだけじゃない。
彼がどんな軌跡をこの世界に残すのか、ただそれを見てみたいと思ったから。
……お姉様が言っていた運命というものがあるのなら、今なら私は少しだけ信じられる気がする。
「――ならば私とともに来るか?」
そんな告げられた言葉に戸惑い、でも結局悩んだ末、私は結論を出した。
お姉様には悪いけど私は彼についていく。
そして、どんなことを言えばいいのか分からないけれど、いつかまた会いたい。そう思う。
浄化された後感じたのは生まれ変わった爽快感とでもいうべきもの。
すぐにとはいかないけれど、これならいずれは神核との再融合もできそうな気がする。
そのためにも現神より早くセリカ・シルフィルに接触しないといけない。
想定外だったのは剣の契約に性魔術が必要なこと。
そういうことはもっと早く言ってほしい。
よくわからないという表情をした彼に、ひどく腹が立った。
……ま、まあ、優しくはあったけれど。
◆
勅封の斜宮を離れ、私とアイドスはディジェネールの農村地帯を歩いていた。
亜人や悪魔が支配するこの地にあって、人が住む場所はかなり珍しい。
『神殿を離れてどこぞの陸地にたどり着いたのはいいが、抜け殻の所在は相変わらず不明か』
……もはや動けないはずだが、それでもアレは動いた。
『またそれを持ち出すの? いい加減、そう何度も言わなくても覚えているわよ。
でも、あれはそもそも貴方が予め言っていれば……。
それに嵐の中を飛ぶなんて、おかげで刀身が錆つくところ――』
肥大化した動く邪念。厄介だが、今はどうしようもない。
やはり当面の目的はアイドスの神核を取り戻すというのが妥当だな。
関わるのは危険だが仕方がない。
『ルシファー、人の話を聞いてる?』
セリカ・シルフィルはどこを目指している……?
『ルシファーッ!』
バリハルトの神官に連れられて行ったのだから、単純に考えればこの付近のバリハルト神殿になる……。
『ルシファー……無視しなくてもいいでしょ?』
アイドスの記憶通りならやつの出身はディジェネールの北。
セアール地方のキート村。バリハルト神殿の近郊。
『ルシファー……気づいてよ」
この嵐では迂回するしかないな。取りあえずリブリィール山脈まで飛んで、そこから――
『……』
「なんだ? どうかしたか?」
『……もしかして本当に気づいてなかったの?」
「何をだ?」
『いいえ、もういいわ。貴方がボケボケなのは理解できた――って、そう言っている間にまた自分の世界に入らないで!』
◆
契約を終え、剣に宿ったアイドスが最初に訪ねたのは今後の方針ではなかった。
かといっていつの間にか無くなっていた分離した邪念の行方でもない。
……意外なことに、私の名前だった。
――名前。
私には名前などない。
なぜなら、そんなものは必要がなかったからだ。
他者が存在せず、もし何者かが訪れても、あの場所ではお前と私という呼称で事足りる。
名前を持つ理由が“名も無き世界”の中にいた私にはなかった。
しかし、アイドスに言わせればそうではないらしい。
名前はそのものの本質を表し、個を確立するためのもの。
名前が無ければこれから先、何の変化も享受できない。
だからこそ、呼称は必要なのだ、と。
悩んだ末、結局私は“父”の名前を自分の名にすることにした。
それは、他に思いつかなかったという単純な理由から。
それ以上に、私自身がそうしたいという強い衝動を抱いたからだ。
かつて十二枚の翼を有し、創生のころよりその御業の手助けを行っていた者。
全ての天使の軍を動かす権限を神より与えられた大いなる存在。
しかし、主神によって定められた運命を歩むしかない理を変えよう。
そんな野望を抱き、人間に忠誠を誓うようにという神の命令を拒否して、自ら堕天し天界に戦争を仕掛けた魔王。
――古神ルシファー。
その名は古き言葉で曙の明星。
または光を掲げる者という意味を持つ。
熾天魔王と呼ばれた彼の力は、創生のころより存在していただけあって原初の神々に列せられるほど。
並みの魔神程度では、相手にすらなるまい。
私は、そのルシファーの秩序の精神と神核を“名も無き世界”の中で吸収した。
対話の末に至った結論。
半ば押し売りのようなものだったが、最終的には双方合意の上だった。
……その時の会話はいずれ語る時もあるだろう。
それが何の因果か、私が神核を得るにいたった理由。
二つの魂が重なることで、何者でもなかった私自身の霊的な格が、一級神と同格に上昇したために形成された……のだと思う。
つまるところ、元は天使であったルシファーと同級の存在になったことになる。
しかしルシファーの――私と同じ名前になるので彼の魔王としての名、サタンと呼ぶことにするが――全てを取り込んだわけでは、どうやらない。
サタンの片割れ……混沌と狂気を司る肉体は何処か別の場所にある。
だが、その場所までは私には分からない。
サタンの記憶を受け継いではいても、全てというわけではないらしい。
おぼろげで、曖昧な知識しかなく、これはあまり役には立たないだろう。
まあ、それは今は関係ない。
後で聞いた話だが、サタンのことを語る私の表情は緩んでいたらしい。
それは、感覚共有しているアイドスにしか分からない程度だったようだが。
何もない世界で“父”と会話した時間は、とても貴重だったように思える。
あるいは、それが“父”の名を名乗ろうとした理由なのかもしれない。
◆
行き先は決まった。ニース地方のリブリィール山脈へ。
そこからは徒歩でバリハルト神殿を目指す。
だがその前に――
「アイドス、お前も触ってみろ。何か感慨深いものがある」
『ルシファー、私には肉体がないんだけど?
いえ、まあ貴方と感覚を共有してるから感触はあるけど』
「……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『……そろそろ羊をつつくのも止めて、行かない?』
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