――ソレに残されたものは何もなかった。

 かつて苗床にしていた精神と切り離され、ただの、人間の悪意の集合体と化したそれに意思などあるはずもない。
 だから、本来であるならば動くことなどできなかったはずだった。

 だが、自然に消えるにはあまりにも存在の規模が大き過ぎた。
 一人の思念でさえ恨みが強ければ、場合によっては現世と冥界を繋ぐ場所、暗き途に行くことなく、人を死に誘う強大な悪霊となる。
 例えばオウスト内海に面する、レスペレント地方のケテ海峡。
 オウスト内海で海難事故にあった者が冥き途に行く前に、そこに捕らわれ魂が変化してしまったのか。
 真実は定かではないが、集まった悪霊は時に実体化し、人間に直接害を成すことさえある。

 ならば、苗床にしていた精神。
 慈悲の女神アイドスさえも汚染するほどの人間の思念が持つ力は、いったいどれほどのものなのだろうか。

 意思の力が影響を与える典型例は神だ。
 彼らの、ディル=リフィーナにおいてのその力の源は信者の信仰心に他ならない。
 遊星さえ呼び寄せる、その絶大な力の根源は結局のところ人間の意思の強さだ。

 そう、だからその抜け殻は自我が存在しないだけ。
 そこにもしも何者かの意思が宿ってしまえば、それは強大な力を持った怪物に変貌する。
 ――それこそ神に匹敵するほどの。

 故に、これから新たな邪神の父親となる男は、その慈悲の女神の抜け殻に目を付けた。
 二つに分かれてしまったもう一人の自分と再び一つになるために。

 今はただの思念体。

 外に及ぼせる影響など、相手の精神に干渉する程度のもの。
 だが、意思を持たない抜け殻を支配するにはそれで十分だった。

 自分がコレと融合しては、慈悲の女神と同じように変質してしまう。
 そうなればもう、一つに戻ることができなくなってしまう。
 ならば手駒として扱おう。

 与えた存在理由はただ一つ、セリカ・シルフィルを、その魂を追い続けよというもの。
 その瞬間、何もなかったはずのソレに、まだ胎児のように未熟だが、確かに自我が芽生えた。

 干渉したものにとっても、それは想定外の事態。
 命令通りに動く駒にするつもりだったというのに。

 だが、ソレに沸き起こる感情は歓喜。
 正しくウツロノウツワでしかなかった自身に、存在理由ができた。

 そして、自分を創造した父に対する感謝。
 だからソレは、父の望みを聞き入れることにした。





 全身を黒いフード付きのローブで覆った男。
 彼は忘焔の山の頂、その祭壇に自身の父親と並んで立っている。

 姿は、闇をヒトガタにしたらこうなるだろうといった様子。
 フードの中は全く見えず、二本の足で立ってはいるものの、上着の裾からは細い両腕の他に無数の触手が生えていた。

 纏う空気は相変わらず。
 ……いや、むしろ慈悲という異物がなくなったからか、よりその邪気を増している。
 常人が触れれば発狂は免れまい。

 神の社から飛び立つ一つの影の飛ぶ方向を、フードの闇の中で鈍く光る灰色の目で見つめる。
 そして捕えなければならない、赤い髪の男の姿を思い浮かべる。

 自身と苗床を分断した、あの飛び立った魔神はまず関わることはしないだろう。
 しかし、神殺しとなったセリカ・シルフィルを狙う輩はそれでも多い。

 同胞を殺した人間を敵視する古神。
 神殺しを忌避する現神と人間たち。
 闇夜の眷属のような、単純に女神の力を求める勢力も現れるかもしれない。
 だが、それでも完全な邪神となったソレは、与えられた存在理由のために行動する。

 ――マズハ、父ノ願イヲ叶エヨウ。
 ソシテ、ソノ後デ、母ノ望ミヲ、全テノ人間カラ感情ヲ奪イトロウ。

 父から与えられた名前は――オディオ。
 その名の意味は邪神の根源であり、慈悲の女神が狂ってしまった最大の要因。
 やがて、災厄を纏うものは床に吸い込まれるようにその姿を消し、

「…………」

 かつて嵐の神の勇者だった青年の、燃え残った黒い影だけがそこに残された。





「嬢ちゃんは随分と初心だの。先史文明期以前より生きておるくせに情けない」
「し、仕方ないじゃない……。
 私が司る権能は万人に対する慈悲なのよ。
 ルシファーに会うまで男の人とあんなことする機会なんて……」

 呆れたように言う魔神ハイシェラ。
 そして顔を真っ赤にしたまま私の隣で小さくなっている、女神の姿に戻ったアイドス。

 ハイシェラは裸のまま。
 アイドスの方は、つい先ほどまでの一糸纏わぬ姿だったが、今は脱いでいた服を着ている。

 首で吊り上げて胸元と肩を露出した上着。
 吊ってあるだけのフレア状の袖と、茶色のブーツに包まれた腕と足は、細く長く、触れれば壊れてしまいそうな美しさがある。
 下半身は――蒼色の大きな腰布をそのまま巻き付け、括れた腰にコルセットで上着と一緒に固定しているだけ。
 だから左右に分かれた布地の間から、輝くような白い脚が覗いていた。

 全体的に上半身ほど白の割合が大きく、下半身ほど濃い蒼が占めている。
 そのコントラストのせいか、余計に脚の白さが際立つ。
 姉と同じ炎のような紅い髪を伸ばし、しっとりと濡れた肌は仄かに紅く染まっていた。

 さて、どうしてこのような状況になっているかというと、原因はハイシェラにある。

 目覚めてからの、私とアイドスの一連の行動を傍で見ていたハイシェラ。
 しかし、神核を取り戻したアイドスは女神の姿に戻れることを知ると、一度会って話がしてみたいと言い出した。
 アイドスは至極嫌そうにしていたが、一応は私共々無防備な状態を守ってもらった身なので、渋々ながら了承の意を示した。
 元の姿に戻ったアイドスを、アストライアに姿がよく似ているせいか、ハイシェラはしばし見つめた後、

「少々女神と二人だけの話をする故、御主はここで待っておれ」

 有無を言わせぬ口調でハイシェラはアイドスの手を強引に引き、大広間を出て神殿の出口に繋がる通路の方へ。
 手持無沙汰になったので何をするでもなく、ぼうっと神殿の柱の一つを眺めることに。
 するとどうだろうか、柱の模様が意味もなく気になるようになってくる。

 やがてそれが、以前その触感を心行くまで味わった羊の毛に見えてきたころだった。
 どれくらい経ったのか分からないが、ハイシェラに手を引かれたアイドスが戻ってきた。
 何かを決意したような顔を、夜空に浮かぶベル―ラのように真っ赤にしているアイドスが現れる。
 そんな彼女を尻目に、ハイシェラが、

「御主、我と嬢ちゃん相手に、今すぐ性魔術を行うだの」

 突拍子もない言動も、この魔神を思えば違和感などなかったが、一体どういうつもりだろうか。

「確かに魔力は減っているが、お前が協力してくれるのか?」
「それもそうじゃが、御主らを見ておると老婆心故か、手伝いをしてやりたくなっての」
「何のだ?」
「いいから、さっさと服を脱がぬか!」

 訳も分からず呆けていると、いつの間にか少し上気した顔のハイシェラの手が私の服にかかっていた。

「あ、あの、その、よろしくね。ルシファー……」

 そして――

 真っ先に服を着終えたアイドスに続いて、私とハイシェラも着替えを終えた。
 ハイシェラは、まだ少し頬の赤いアイドスを意地の悪そうな笑みで見つめて、

「モノはセリカと同じくらいだったか」

 とか、

「戦闘はともかく、こっちは正しく悪魔王だったの」

 などと言っている。
 だが私には手伝うとは魔力以外の何のことなのか、結局さっぱり分からなかった。
 それから、ハイシェラが協力した理由も聞きたく思った。
 しかし、何故かそれらをここで口にしてはいけない気がして沈黙を守る。
 それは正しい判断だったのか分からない。
 だが別に害はないと、詳細を聞くのは止めることにした。
 頬を朱色に染めているアイドスが、何とはなしに嬉しそうにしていたという理由もある。

 それから旅を続ける分には、力を貸すことができる剣の姿のままの方がいいと、アイドスは神剣に戻った。
 ハイシェラとの会話ができなくなることを懸念したが、先ほどの性魔術で彼我の間に何かしらの繋がりができたらしい。
 どうやらセリカ同様、ハイシェラもこの状態のアイドスの心話を聞くことができるようになったようだ。

 ただハイシェラによると、やはり性魔術を行ったとして誰もが聞こえるようになるわけではないのだそうだ。
 セリカの場合はその肉体が直接の姉のものということがあるが、ハイシェラの場合はそれもない。
 考えても答えは出そうになく、だがハイシェラは、聞こえるだけならば別に問題あるまいと豪快に笑うだけだった。





「それで、私が意識を無くしている間に、そのオディオと名乗ったよく分からないものと戦ったのか」
「うむ、薄気味悪い輩であったぞ。
 空の勇士が囮になり、我が諸共に石化させたがあれで終わりとは思えん。
 纏う邪気の量も尋常ではなかったが、魔法も斬撃も我の攻撃の一切がまるで効果がなかった。
 あれは怨霊の類……否、あれほどまでの邪気を纏っておれば、もはや邪神と呼称しても良いであろうな。
 並みの魔神ならば軽く凌駕するような輩ぞ。
 ……悔しいが、空の勇士が来なかったら果たして我でもどうなっていたか」
『魔神ハイシェラにそこまで言わせる存在……ルシファー、もしかして』
「おそらくな」

「何ぞ心当たりでもあるのか?」

 情事が終わり、セリカの後を追うことを私とアイドスに知らせたハイシェラ。
 彼女はそういえばと、まさに今思い出したといった様子で、アイドスが神核を取り戻した後のことを私に語ってみせた。

 私と戦った後に、どうやらハイシェラは黒いフード付きのローブを着た、得体の知れない存在と交戦していたらしい。
 話す言葉から受ける印象は、間違いなくアイドスから切り離した抜け殻。
 だとすれば、元は古神の一部でもあったのだから、強ち神という呼称も間違いではない。
 そのことを含め、私自身のこと以外の全てをハイシェラに話した。

「……御主、我の時もそうであったが本当に詰めが甘いの」

 言葉もない。

「だが、御主らこれからどうするつもりだの?
 我はセリカとの約束がある故、セリカを追うつもりだが……。
 邪神オディオは我が石に変えてしまったぞ」
「……だが、復活する可能性はあるのだろう?」
「石になったとはいえ、まき散らす邪気は消えておらぬ故な。何れ何者かが解呪する可能性はある」

 ならば、するべきことは一つだ。
 自身の失態が招いた結果ならば、最低限の後始末としてどうにかするしかないだろう。
 あるいはその過程で、私が欲するものも見つかるかもしれない。
 その意思を私はアイドスに伝え、了承を得る。

「今の私では、基になる力はあってもあまりに無力だ。
 そんなものが番人をしたところで意味はない。
 だから、しばらくはこの世界を巡り、戦闘の経験を積み、魔神として生きる術を得ようと思う。
 お前も、そうして強くなったのだろう?」
「……過去のことは覚えておらぬ。
 だが、この力は確かに多くの魔神や魔物を倒して手に入れたものというのは間違いないの」
「なら、そうするだけだ。
 最低でもお前に打ち勝てるだけの力を手に入れたと思ったときに、約束通りお前に会いに来る」
「……ふはははっ! そうか、そうか。
 では我も力を落とさぬよう研鑽を積まねばの!」

 嬉しさを隠そうともしなかったハイシェラと、それから他愛無い会話を数時間ほどした私とアイドス。
 夜が開けると共に彼女に別れを告げ、紅き月神殿を後にした。

 次に魔神ハイシェラと会うのはいつになるだろうか。
 そして――セリカ・シルフィル。

 オディオの狙いが何なのか、どうやって自我に目覚めたのか不明である以上分からない。
 だが誰かを追って山脈にいたというのなら、おそらく標的はあの場にいたアイドスかセリカ、もしくは私だろう。
 ハイシェラの攻撃の一切が通じなかったという邪神オディオが復活するまで、どの程度の猶予があるか分からない。しかし、

『ご飯にする? お風呂する? それとも……。これはやはり定番よね……』

 魔神に何やら吹き込まれたらしい、このよく分からない女神を見ていると、それもどうにかなってしまうような、そんな気もするのだ。
 ……まあ、多少馬鹿になってしまった気がしないでもないが。



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