――メルキア北東部。
 南ケレースに程近い場所に、リエンソと呼ばれる土地があった。
 その土地には、メルキア全土に水を供給する水源が存在している。
 そのため、王国にとって間違いなく重要な領土だろう。

 私とアイドスは今、そんなリエンソの水源を訪れていた。
 具体的な位置は、リエンソ湖に流れ込むヤロスラフ河の最上流。

 メルキア王国公爵にして、人間とドワーフのハーフ。
 名をヴェルロカ・プラダ。
 理由としては、レクシュミから受けた定時連絡により、セリカがその公爵の依頼で水源に向かうと判明したためでもある。
 しかしそれより冥き途で遭遇した魔術師の姿が、度々この地で目撃されているということがあった。

 こんな場所で何をしているのかは知らないが、どうせ碌なことではない。
 加えて、突如発生した毒物の土壌汚染はこの地より始まっているという。
 調査しないという選択はなかった。

『想像以上に汚染されているわね。それも、これはただの毒じゃない』
『ああ、まるで人の怨念が形を成し、水に溶け込んでいるようだ』

 濁った水からは、本来あるべきはずの自然の美しさが欠片も感じられない。
 レクシュミの言では、丁度百五十年前より汚染が始まったらしいが……、

「この地では、オディオの眷属を混沌生物と呼ぶらしいぞハイシェラ」

 気配を感じ、誰もいないはずの空間に呼びかける。
 ややあって……湿地帯の森の中を鬱陶しそうに掻き分けながら彼女は姿を現した。

 ――魔神ハイシェラ。

 蒼い髪に相変わらず露出の多い踊り子のような服。
 不適な笑みを顔に貼り付け、私から少し離れたところで彼女は腰に手を当て、立ち止まった。

「混沌の女神《アーライナ》の眷属とでも勘違いしているのであろうな」

 そう言って、しばらく私の体を上から下へ、そして顔を眺めていたハイシェラ。
 何か思うところがあったのか、突然すぐ傍まで近寄り私を見上げるようにして、

「……しかしルシファー、御主随分と強くなったの」
「強くなったかどうかは知らない。……セリカには負けてしまったからな」
「そういう強さではないのだがの。それに、セリカと戦ったことに関しては、我は感謝しておるぞ」

 本当にそう思っているのだろう。
 ハイシェラは笑みをいっそう強くする。

「……どういう意味だ?」
「なに、セリカは自らが神殺しであったことは忘れておったからの。
 本来であれば十全の力など出せず、仮にも熾天魔王の名を冠する御主に勝てるはずはないだの」
「……確かに、初めはやけに弱く感じたが」
「おそらくは、多少記憶に残っておったのだろうな。
 御主と戦うことで、僅かながら自分が何者であるか感じ取ったのであろう。
 戦いを見ておったが、最終局面でのあの魔術。間違いなく女神の肉体であったころの我と同等。
 もしくはそれ以上であった」
「つまり……私は、ただの人間とそう代わらぬ相手と戦っていたということか?」
「そうではないだの。いくら記憶を無くしておるとはいえ、体は覚えている。
 まあ、それでもせいぜい並みの魔神程度だろうがの」
「そうか……最初から全力でいかなかったのは、どうやら正しかったらしいな」

 セリカの置かれていた状況は分かった。
 では、なぜ感謝なのだろうか。

「それでだ。セリカは多少力の使い方を思い出した。それでも、オディオの力は強大。
 如何な女神の力とて、魔力も足りず、使いこなせなければ意味は無い。
 ……後はセリカの選択次第であろうが、御主のおかげで少しは面白い戦いができるであろう」
「ハイシェラお前は……」

 彼女の言葉“魔力も足りず、使いこなせなければ意味はない”
 セリカはハイシェラのその言葉から察すれば、まだ力を完全に使えてはいないのだろう。
 そしてハイシェラは、一度女神の肉体を手にしたことがある。
 だから、女神の力を使うことはできる。
 ただ一つ“聖なる裁きの炎”を除いて。

 だがオディオを倒すには、その炎が必要になる。
 つまり、ハイシェラの言葉が意味するところは……。

「戯け。我が最初から負けるつもりでいると思っておるのならば、それは侮辱だの」
「……そうは思っていない。しかし、お前はセリカに――」
「――どうなるかはっ! ……戦いの結末のみが決める。御主と同じだの」
「それが……結果的にお前が消えるという結末であってもか?」
「……御主が優先すべきは我ではない。いらぬ心配だの、それは」
「確かにそうだ。ならば、お前がそう決めたのならば何も言うまい」
「我を案じてくれたことには素直に礼を言っておこう。長い付き合いでもあるしな」
『……貴女、セリカに会ってから少し丸くなったのではないかしら』
「う、うるさいだの!」

 自覚があるのか、顔を赤らめて彼女は怒鳴った。
 そんなやり取りをしていた時だ。

「……無駄口はどうやらここまでのようだ。あの魔術師が動きだしたらしい」

 急激な魔力の高まり。
 異常を感知し、視線を遠くの空に向ける。
 先ほどまで広がっていた蒼い空は一転、薄暗い雲の漂う鉛色に変化していた。
 次の瞬間、爆発音と共に木々の立ち並ぶ森の遥か上空まで立ち昇った水柱。
 そこで、何か思い当たることがあったのか、

『この気配は水の精霊ね。混沌生物……魔物を合成……生贄の儀式……』

 アイドスの言葉を聞きながら、高まりつつある邪悪な魔力に意識を向ける。

『生贄の儀式は主に神の力を引き出す際に用いられるもの。
 ……まさか、混沌の女神《アーライナ》の力を借りて“水の巫女”を創ろうと……』
「なるほどの。レウィニアの水の巫女はもともと水精霊であったと言われておる。
 それが力を付け、神格に至ったものが彼奴。
 ならば混沌の女神《アーライナ》の力を用いて、他の魔物共の力を取り込ませ、強制的に神格に届かせれば――」
「だが、それは不可能だ。人間の意志を尊重する神はいても、人間に意志を左右される神など存在し得ない。
 ……単なる魔物と化すか、全てを喰らって魔神に変貌するかのどちらかだ」
「そういえば、かつて似たような方法を用いて魔神を生み出した人間がおった。……確かブレアードとかいったか」
『っ! そんなことは今はどうでもいいわ! 見てルシファー!』

 アイドスの言葉に視線を水柱とは別の方向に向けると、

「……現れたな」

 見間違うはずはない。
 黒い外套で全身を覆い隠し、その下からは蠢く無数の触手。
 かつてトライスメイルで出会った分体とは似ても似つかないほど肥大化しているが、こいつは間違いなく、

「ほぅ、信じられんほどの邪気だの。オディオ――“憎しみ”という名は伊達ではないということかの」

 ハイシェラが出て来た方向とはまた別の場所。
 流れるヤロスラフ河を挟んで対面の森。
 そこに、邪神オディオは現れた――。





 立ち込める腐臭。
 数多の魔物を取り込み、もはや元の形がどんなものであったのかすら分からない、異形の怪物。

 ――オディオ。

 氷の魔術がその体を凍らせる。
 純粋魔力による攻撃が右腕と思われるものを吹き飛ばす。
 ドラゴンブレスが全身を焼き尽くし、最後にここぞとばかりに召喚された一角公が、

「見よルシファー、我が芸術的弓技を!」

 矢を射るたび、典雅なる音を奏でる弓の連続射撃を放つ。
 しかし、

「彼奴め、やはり全く利いておらぬようだの。すぐに再生して、これでは全く意味が無い」
「ルシファー、我の美技をしっかり見ておったか?」
「ええい、五月蝿いだの女狐。ルシファーが好きなのは分かるが、少し黙っておれ!」
「な、何を言っておる。我はただルシファーに貴様より強いということを教えたかっただけだ。他意はない!」
「分かったから少し黙っているだの!」

 言い合いをしているハイシェラとアムドシアスを無視し、私はアイドスと現状を考察する。

『こいつはお前を狙って現れたようだ。
 最悪の結果だが……どうやら本当にオディオとあの魔術師は繋がっていたらしい』
『……そのようね』
『しかし、このままではじり貧だな。
 あいつの攻撃を避けるのは容易いが、無作為に魔物を吸収した結果だろう。やつの魔力は尽きる気配がない』
『おそらく魔力だけなら、私に匹敵しているわね。真に邪神ということかしら』

 アイドスを私ごと取り込むつもりなのか、幾重にも伸ばされる触手。
 そして溢れ出る邪気は周囲を穢し、土壌を次々に汚染していく。
 何より厄介なのが、精神に干渉してくることだ。

「くっ! 私はお前の姿を百七十年前に一度見ている。しかし、あれはただの抜け殻。そこに意志はなかったはずだ!
 答えろ! お前はいったい――」
「……私ハ、オディオ。兄上、ナゼ私ノ邪魔ヲスルノカ」
「やはり、お前は……」
「……欲シイ、神ノ力。父ノ願イヲ叶エルタメニ。母ヨ、私ニ力ヲ」
「母に……父だと……?」
「母ヨ、父ノ願イノタメニハ、同ジ女神ノ力ガ必要ナノダ。
 ソシテ私ニ与エラレタ存在理由ハ、貴女ノ願イヲ叶エるトイうコト」

 オディオの視線を辿る。
 その先にあるのは間違いなく――、

「お、おぉぉお、怨、怨、怨怨怨、怨ぉぉん……」

 怨嗟の叫びとも、歓喜の咆哮とも取れる唸り声を上げ、オディオは尚も触手で絡めとろうとしてくる。
 ハイシェラや、アムドシアス、空の勇士も果敢に迎撃してはいるが、

「きりが無い。このままでは儂とていつまで持つか」
「何を弱気なことを……と言いたいところだが、これは流石に我も厳しいぞ」
「戯け共め。この程度で根をあげるでないだの!」

 物量戦。
 一つ一つの力は弱い。
 しかし無尽蔵とも思われる魔力で以て、どれほど触手を吹き飛ばしても再生してくる。

「母ヨ、ナゼ私ヲ拒ム。私ハ、貴女ニ集メラレテ生マレタ。
 ワタ、ワタシ、私ハ、貴女ノ願イニヨッテ貴方の願イヲ叶エルタメダケニ――」
『わ、私は……』
「自分が世界にある理由を、他者のせいにするのは止めろ!」

 襲い掛かる鋼のような触手の一つを掴み取る。
 性魔術や戦意系の魔術の原点。
 肉体の一部接触による、単純な精神戦。
 瞬間、想定していた以上の悪意が私に襲いかかってきた。

「馬鹿者! いくら御主でもそれはっ!」
「……くっ、ハイシェラ、少し黙っていてくれ」

 私の言葉に彼女は口を閉じる。
 代わりに、私に襲い掛かる触手を手当たり次第に迎撃に出た。
 ……後で礼を言わねばならないな。

「うぁ……くっ……存在、理由は、他者から与えられる、ものではないっ!
 じ、自身の経験から見つけ、そして……その上で己が信念とすべきものだっ!」
「……ナラバ、最初カラソンナ機会ヲ与エラレなカッタもノハドうスル。
 私ハ、生マレなガラニ“憎しみ”トイう運命ヲ与エラレテイタ。ソモ私ニは、選ブベキ選択肢ナド存在しなカッタ」
「それでも、運命に逆らうことはできたはずだ……。
 人間に……私たちより弱き者にできて……私たちに出来ないはずは、ないっ!」

 そう、神殺しとなり世界の全てを敵にした男は、今もその死すべき運命に抗っている。
 そしてこれからも、その強き心が折れることはなく、永遠に抗い続けるのだろう。
 もう一度、あいつが愛する者と出会うことができるその日まで。

「選択ノ権利ヲ与エらレた者が、戯言ヲ。自由意志ダト?
 フハハッ! 流石ハ絶対神ニ反逆シタ者ノ魂を継グダケノコトハアル。愚カシイ思想ダ。
 コノ世界ヲ見ヨ。人間ハ神ノ加護ナシでハ生キテイケヌ。争ウコトヲヤメヌ。ヒトハ神ノ呪縛カラ逃レルコトハデキヌ」
「……そんなことはない。私は……私は神々の加護などなくとも生きている人間を見てきた。
 戦を回避しようとする者だっていたんだ!」
「ソレコソ間違イダ。アノ女ノ背後ニハ、現神ニ仕エル夫ガイタ。
 ……人ハ不自由トイウ名ノ自由ニ憧レル。加護ガ無クテモ生キテイケル?
 クダラナイ。ドウシテ人間ガ神ノヨウニナレヨウカ」
「まる、で……全て見てきたような……物言い、だな……」
「ミテキタ、全テ。私ハ分体ヲ通ジテ、魔力ヲ……力ヲ得ル傍ラニ、人間ヲ見テキタ。
 ソシテ達シタ結論ダ。人ハ神ノ加護無クシテ生キラレナイ。
 ナラバ、神トナッタ私ガ、人間カラ感情ヲ奪ッテ管理スルコトデ、争イを無くシテヤろウ!
 ソれコソガ、母ノ望ミナノダカラ!」

 ……そういうことか。
 つまりこいつは選択肢が無かったと言いながら、

「ならば、お前は選んでいるではないか。自分の存在理由を」
「……ナニ?」
「自ら神と成り、人間を管理しようとする。その望みこそがお前の意志だ。ならば……」

 全身に魔力と闘気を行渡らせる。
 アイドスは私の言葉から何か受け取ってくれたのだろうか。
 オディオの言葉によって見せた動揺。
 それは今はもうほとんどない。

「お前が自分の意思で選んだことならば……。
 選んだ上で間違えたというのならば、私に迷う理由はないっ!
 ……アイドス、大丈夫だな?」
『……ええ!』

 黒翼を展開し力を解放。
 オディオが怯んでいる間に、触手を引き千切った。
 そして蒼き月の神《リューシオン》の浄化の力が宿った神剣アイドスに、更なる魔力と闘気を集中させる。

 時間的にはほんの僅かな間だろう。
 その間の守りはハイシェラたちが引き受けてくれていた。

 神剣アイドスに宿るのは、聖なる裁きの炎とまではいかずとも、浄化の力であることには変わりはない。
 完全に滅することは出力不足でできないが、それでも攻撃は通る。
 神剣アイドスの刀身が青白く輝き、神聖属性を宿した私の権能の具現。
 傲慢なる破壊の力を今――オディオに叩き込む!

 その名を“傲慢”《スペルビア》。

 炸裂した稲妻のような光。
 それは天より堕ちた古神の姿を思い起こさせるもの。
 古神ルシファーが司る大罪の名を冠する一撃。

「っはあ!」

 神罰によって焼かれ、絶叫を上げて苦しむオディオ。
 私たちを襲っていた無数の触手は力を無くし、次々に消滅していく。

「ナ、ナゼ、ナゼ私ヲ拒否スル母ヨ……」
『……人に神は必要ない。私はルシファーのようにそうはっきりとは断言できない。
 なぜなら、神が人の拠り所になっているのは事実だもの』
「ナラバ……」
『でも、だからといって神が人の意志をどうこうしていい理由にはならない。
 そういう意味では、人に神は必要ないの。……過ちを犯し、彼と旅をして私は気付くことができた』
「ワ、ワタシ、ハ、ナラバイッタイ、ナ、ナンノタメニ……。
 アア、父ヨ。モハヤ私ニハ貴方ノ望ミヲ叶エルシカ……お、怨、怨、怨、おぉぉん、怨怨……」

 そう呟きながら、オディオは地中へと消えていく。
 私はそれを、悲しみの感情を発する慈悲深き女神を按じながら、見つめていた。





 オディオが何処かへ去って直ぐ、私たちはリエンソ湖を発った。
 異変を察知し、慌てたように駆けつけたレクシュミに寄れば、どうやら腐海の魔術師の儀式魔術にセリカが遭遇したらしい。

 生贄の儀式によって召喚された水精霊の暴走。
 周囲のオディオの分体や、岩や木々を取り込みながら腐海に向かって進み続けている。
 あれを止めなければ、何れはメルキアどころかアヴァタール一帯。
 果ては中原が危険に晒されることになる。

 そこで空の勇士の言により、狂った水精霊を遺絃の渓谷に誘い込んではどうかという話になった。
 レクシュミもその提案に賛同し、どうやらセリカもその方向で行動したらしく、すでに竜族の元に向かったということだった。

「ところでルシファー、なぜここに魔神ハイシェラがいるのだ」
「……成り行きだ」
「貴方という人が自分の立場を理解しているのは分かる。しかし、それを行動で示さずしてどうするというのだ」
「うるさい嬢ちゃんだの。別に我が誰と一緒にいようと関係なかろう」
「ルシファーには巫女様の客人という立場がある。暴虐な魔神と密会していたなどということになれば……」
「ほう、暴虐な魔神とは我のことかの?」
「貴女を措いて他に誰がいるというのだ?」
「ふはははは! そうであろう、そうであろう。この者は美を解せぬ愚か者であるからな」
「……貴女も口数が多く、うるさい愚か者だと思うが」
「何だと、貴様。我を愚弄する気か」
「……いい加減にしろお前たち」

 そうして一悶着あった後、万が一に備えるために、白銀の君、メルキアの公爵にも事実を伝えると告げて去っていった。
 空の勇士に寄れば、竜族の許可に関しては、

「雲居も告げている。この事態、放っておけば更なる災いが生まれると。否と答えることはできぬじゃろう」

 そういうことで、然程問題はないようだ。

 おそらく待ち構えているのは、水精霊と術を行使した魔術師だけではない。
 力を取り戻し今度はセリカを狙おうとするだろう邪神オディオもまた、必ず現れるだろう。
 
 ……私がやつに言った言葉に偽りはない。
 そしてこれ以上、悲しみを増やすわけにはいかない。

 だから決着をつけよう、オディオ。
 アイドスを救ったことから始まった、この長きに渡る因縁に。





 ニース地方、霊峰リブリィールよりやや北西。
 かつてフノーロという地下都市が存在していた腐海の地に程近いその場所に、遺絃の渓谷と呼ばれる谷はある。

 空の勇士に訊いたところ、永き時の中で心を失うことなく、最後まで戦い抜いた竜族の英霊を祭る土地らしい。
 そのような場所を戦場にして良いものかと思ったが、寧ろここは強き戦士のみが立ち入ることを許される場所。
 決死の覚悟を持って水精霊を止めようという私たちならば、聖地を騒がすことも許されるだろうとのことだった。

 リエンソの水源から三日ほど。
 私とアイドス、ハイシェラ、召喚石に戻った空の勇士とアムドシアスが谷に着いて数刻。
 白銀公とレクシュミ、シャマーラを連れたセリカが到着する。
 他に、ヴァリエルフと思われる者数人と、カラータで出会ったドワーフがいた。

「さて、我らの役目は水精霊の狂気に晒されて溢れ出た魔物どもの討伐だの」
「……セリカに会わなくてもいいのか?」
「ここでの戦が終れば、嫌でも会うことになるだの。
 ……おそらく、もう猶予はないであろうからな」
「……そうだな」

 ハイシェラの言葉に従い、黒翼を広げてアイドスと共に渓谷に群がる魔物を駆逐していく。
 程無くしてセリカたちが水精霊を逃がさないようにするための、光精霊を用いた結界を完成させた。
 そして、そこに現れたものは、

「図体ばかり大きくなって、中身が伴っておらぬようだの」
『……当然ね。無理やり神を創ろうとするなんて、三神戦争を再現することになるわ』
「機工女神か……そういえば……」

 ケレースで再会した折、サタンがハイシェラを機工女神と呼んでいた気がする。
 あれはどういう意味だったのか。
 苛立った様な表情をしている、ハイシェラの横顔を見る。

 ……彼女が豊穣の女神だったら、世界は崩壊しているのではないだろうか。
 いや、実際に崩壊したのだったか。

「ん? どうかしたのかの?」
「……お前のことを考えていた。お前のあの他人の肉体を奪う力。どうも他の魔神と違う気がしてな」
「ふむ……我もほとんど覚えてはおらぬが、元々我は精神のような形がない存在だったようだ。分類上は機工女神に類するだの」
「……そうなのか?」
「ケレースで先史文明期の遺産に触れた際に、僅かに思い出した程度故、何処でいつ生まれたのかは分からぬ。
 まあ、我にはどうでもいいことだの」
「お前らしいな……」
「……御主、今笑ったのか?」
「どうだろうな。お前が笑ったと感じたのならば、私は笑ったのではないか」
「ふふ、そうか」

 ハイシェラの生まれは私に似ている気がする。
 私もサタンを取り込む以前は、確かに意思はあったが単なる精神――エーテル体でしかなかった。
 存在していたのも何処とも知れぬような異界。
 その辺りの共通点が、ハイシェラがアイドスの言葉を聞くことができる理由なのかもしれない。

 そんな会話を交わしている間も、私とハイシェラは魔術行使を止めてはいない。
 神剣を用いた魔法剣でなぎ払い、狂える魔物の数を減らしていく。

 そうして幾許かしたころ、ふと視線をセリカたちに向ける。
 丁度、結界の圧力によって分裂した水精霊を全て倒し終わったところだったようだ。
 しかし、ここで油断するわけにはいかない。

「来るぞ……」

 無意識に私が言ったのか、あるいはハイシェラが言ったのか。
 それを理解するより早く、人を狂わせる邪気を纏って、水精霊の倒された結界の中にやつは現れた。
 傍らには、不気味に瞳を赤く光らせた腐海の大魔術師。

「あやつめ、水精霊の残骸を喰らっておるのか」
「どうやらそうらしいな……」

 邪神オディオ。私の弟に当たる存在であり、世界の敵となる運命を与えられたもの。
 だが、同情するつもりはない。
 私は私の欲望と願い故に、あいつをこの手にかけるのだから。
 そんなことを考えていると、セリカがオディオの触手によって囚われた光景が視界に飛び込む。

「くそっ! 結界と邪気が邪魔で入り込めない。このままではセリカが……」
「精神に干渉を受けている可能性はあるの。だが、少し待て。これがきっかけで、あやつの記憶が戻るやも知れぬ」
「その前にセリカが完全に吸収されたらどうする! あいつは私を盟友だと言った。放って置くなどできない!」
『落ち着いて、ルシファー。いくら水精霊を吸収したとしても、今のオディオにあの時ほどの力はないわ』

 ……確かにそうだ。
 スペルビアの一撃を受けたためなのか、リエンソで遭遇した時ほどの邪気は感じられない。
 あの時のあいつは、本来そういった類のものが一切通用しない私にさえ影響を及ぼしてきた。
 だが、今のあいつからはそれ程脅威を感じない。

「……すまない」
「いや。……だが御主の言葉も間違いではない。このまま放っておくわけにも行かぬか」

 そう言うとハイシェラは、

「目覚めるだの、セリカ・シルフィル――ッ!」

 叫ぶと同時に、結界を破壊。
 オディオに囚われたセリカを救出してみせた。





 遺絃の渓谷でオディオに遭遇し、ハイシェラが囚われたセリカを救出して間も無くのことだ。
 私の姿を灰色の瞳に納めたらしいオディオは、突如混乱したようにのたうち、何処かへと消えていった。
 傍らに控えていた腐海の大魔術師も、風の魔術に紛れるように姿を消す。

 それから、白銀公との視線で挨拶を交わすだけの再会を含め、いくつかの出来事があった。
 オディオとの接触により吸収されかけたことで、私やハイシェラのこと、一部人間だったころの記憶が戻ったセリカ。
 記憶を取り戻したセリカは、私の姿を認めると、

「お前に記憶を取り戻させてもらうつもりが、勝手に戻ってしまった」
「いや、私が取ろうと思っていた方法も、大してオディオと変わらない。
 できればもう少し、穏便な方法であれば良かったのだが」
「構わない。……俺が勅封の斜宮で消えていれば、そもそもここまでの悲劇は起こらなかった。
 だから、俺は決着をつけなければならない。どこまでも生き続けるという、サティアとの約束を守るためにも」
「そうか……。だが、これだけは覚えておいてほしい。
 お前が生きていなければ、私はアイドスにも、お前にも、そもそもこの世界にすら存在し得なかった。
 私は、お前に出会えたことを嬉しく思っているし、アイドスに出会わせてくれたことを感謝している」

 そう告げると、彼の思いつめたような表情は、幾分柔らかくなった気がした。
 記憶は兎も角、感情は戻っておらず、それは私やハイシェラにしか感じられない程度だったが、それでも――。

 そして、セリカの記憶が戻ったことに伴うシャマーラとの別れ。
 
 その内容を、私は多く語るつもりはない。
 これから先の戦いはただの人間では辛いものがあると、別離を決めたセリカ。
 もしもが存在するならば、これから先も共に生きられたかもしれない二人。
 それを破壊したのは、百七十年前にオディオを滅することができなかった、他ならぬ私だ。
 あの二人の、神聖な儀式のような別れを語る資格は、私にはない。
 ただ、私にはどうしてもあの二人の縁がここで終るとは思えない。
 長い年月の先に、違う形で二人は出会う。
 そんな気を起こさせる別れだったように思う。

「初めまして、というべきでしょうね。魔神ルシファー。
 こうしてゆっくり話ができる機会を得られるとは思っていませんでした」

 オディオの強襲から一夜明けた遺絃の渓谷。
 これまでのことを振り返りながら目を閉じ、石造りの祭壇の柱――その一つに寄りかかる私に声をかけてきた女性。
 右目が隠れるように伸びた、黒真珠のように美しい、腰まである長い髪。
 透き通った青の瞳は、私の本質を見極めようとしているようで、どこか普通の人間とは違う印象を受けた。

「……セリカならば、昨夜の話し通り、ハイシェラと共にすでにここを発ったぞ。
 あいつ、一角公を私に預けていったが、いったいどうしろというのか」
「ふふ……いえ、私が用があるのは貴方です、黒翼の魔神よ」
「マーズテリアの聖女が一介の魔神に用か。……まあいい。場所を変えよう。
 私は平気だが、人間のお前には山の早朝の寒さは堪えるだろう」
「……貴方はセリカ同様不思議な人ね。その申し出、有難く受けることにするわ」

 現神最高の力を持つ軍神。
 その支配域において、教皇に次いで権威ある地位にいる女性。
 傍には控えるように、大剣を手にした騎士。

 ――マーズテリアの聖女、ルナ=クリア。

 昨夜セリカに、人間族の代表として光の神殿の意思を告げにきた彼女が、目の前にいた。





 場所を変えるといっても、渓谷には英霊たちを鎮めるための宮が建立されているだけ。
 だから家屋と呼べるようなものは存在しない。
 レクシュミに頼もうにも、腐海の地に結界石を設置するため、昨夜のうちにここを発ち今はいない。
 仕方なしに私は、駐留していたレウィニアの騎士に依頼して、野営のためのテントを一つ借り受けることにした。

「突然の申し出にも関わらず悪いな」
「いいえ、レクシュミ様から頼まれていましたので」

 言わずもがな、駐留しているのは神殿派の騎士。
 貴族派の騎士など駐留させては、私と一戦交えかねないということらしい。

「……野営のテントで悪いが、寒さくらいは凌げるだろう」

 一言礼をいい、彼女は先にテントに入っていく。
 私を一瞥した護衛の騎士がそれに続き、最後に私とアイドスが中に入る。
 用意されていたテーブルの椅子に腰掛けた聖女を確認すると、向かい合うように私も座った。

「さて、それで私に用とはいったいなんだ?
 まさか、この状況で“戦争”を仕掛けに来たわけではないのだろう?」
「レウィニアの客人である貴方に対して、その選択肢は存在し得ないわね」

 つまり、私がレウィニアを離れればその限りではないということか。
 しかし、なぜだろう。
 彼女からは、私に対する敵意というべきものが感じられない。
 水の巫女の騎士たちが例外なのであって、普通人間は魔神に敵意を持つものだが。
 僅かに笑みを浮かべながら、こちらを見つめる姿はどこかアイドスに似ている。

「……神々の墓場――狭間の宮殿を決戦の地に選ぶ、か。
 確かに今のオディオはセリカだけを狙ってくるだろうが、随分と周りくどい方法を選んだな」
「昨夜も言ったけど腐海の大魔術師の暗躍のせいか、神殺しを抹殺しようとする動きが諸国に蔓延っている。
 だから、あれがマーズテリアに仕える者として最大限の譲歩だった」
「それは分かっている。現神に仕えるものとして、その選択はむしろ異常とさえ思えるからな」

 マーズテリアの提案。
 正確にはルナ=クリアの意思をマーズテリアが追認した形になるのだろう。
 神々の墓場にてオディオとの最終決戦に臨むことになった。

 狭間の宮殿――そこは、神々の処刑場という伝説が残されている場所。
 神と名のつくものであれば脱出は不可能とされている。
 つまりマーズテリアの思惑は、セリカにオディオを抹殺させ、諸共に異界に落とそうということだろう。

 それでも軍神は直接手を下すのではなく、世界の敵であるセリカに対し可能性を提示した。
 脱出して生き残れるかもしれないという、僅かな可能性を。

 セリカがその途を選んだ以上、私もまたその可能性に賭けてみようと考えている。
 共に行かないという選択肢はない。
 決着を付けるために、そして――アイドスを真の意味で呪縛から開放するために。
 過去の清算。否、過去を受け入れ、私とアイドスが先に進むためにも――。

 レクシュミや白銀公、セリカがこの場にいない理由はその決戦に備えてだ。
 混乱したせいでこの世界と異界の狭間に落ちてしまったらしいオディオ。
 奴は今、聖女の言に寄ればディル=リフィーナに戻るための次元の亀裂を探しているらしい。

 セリカが魔力を使わない限りは、三日ほどの猶予はある。
 だからその間に、水精霊の時に取った方法をオディオにも施すということになった。
 つまり、結界を用いてオディオの逃げ場所を無くすということだ。

 結界の基点にするのは、紅き月神殿より南にある狭間の宮殿を取り囲む三箇所。
 レクシュミが向かった腐海の地。
 ニース紅河上流には白銀の君……白銀公が。
 そして、最後にリブリィール山脈東端。
 ここにはルナ=クリアが向かうことになっていた。

 セリカがこの場にいないのはまた別の理由。
 あいつは――

「それにしても、魔神ハイシェラがまさかあのような行動に出るとは思わなかったわ」
「……決戦を前にセリカと決闘。勝った方が相手の力を奪う。実にあいつらしいと思うがな」
「紅き月神殿での決闘。確かあの地は魔神ハイシェラの……」
「彼女は卑怯なことはしない。罠だと思うのは勝手だが、それはハイシェラに対する侮辱だぞ」
「ふふ、貴方はハイシェラのことも気にかけているのね」
「この世界に生れ落ちて百数十年。あいつは、二人ほど除けば最も付き合いの長い相手だからな」

 そう、ハイシェラとの付き合いも、もはや腐れ縁の域に達してきた。
 最初に出会ったのはリブリィール山脈。
 次は、ケレースで騒乱を起こしているときに。
 それから百二十年、旅を続ける中で幾度となく顔を合わせることがあった。
 流石に関わりではアイドスや水の巫女には及ばないが、それでも縁が深いということは間違いない。
 ……例えるのならば、あいつは私の姉といったところか。

「――ところで、貴方の持つその大剣。ただの剣とは思えない魔力を内包しているようだけど」

 声色がそれまでと変わり、やや低いものになった。
 いよいよ本題に入ったというわけか。
 テーブルの傍の床に置いていた神剣を手に取る。

「ただの剣だ。魔力が多いのは私とは別の……魔神が封じられているためだろう」
「……そう。それでは、その魔神に伝えて欲しいのだけれど」
「……なんだ?」
「マーズテリアは無暗に争いを起こそうとは思わない。だから、貴女が敵対しなければ不干渉を守りましょう」
「……伝えておこう」

 そうして強張っていた顔に柔らかさを取り戻し、彼女は結界石を設置するためだろう。
 騎士を連れてテントから出て行った。

「ああそれと、私のことはクリアで構いません」

 そんなことを最後に告げて……。





『あれはお前のことを知っていたな。知っていて見逃したということか』
『セリカのことを探っていけば、自ずとバリハルトに行き着く。そこから過去の伝承を調べて……』
『マーズテリアという、巨大組織だからこそできることだな』

 聖女――クリアは想像以上にヒトを逸脱した人物だった。
 如何に神より力を分け与えられた者――神格者だとしても、魔神を前にしてあの堂々とした態度。
 加えてその雰囲気は、彼女が神の一柱だと言われても違和感を覚えないほどであった。

「あのような人間もいるのだな」

 思わず口にした呟き。
 私自身何を以て出た言葉だったのか分からない。

『でも、やっぱり何となくだけれど、クリアさんからお姉様を感じたの。
 全く同じものというわけではないから、別人なのは間違いないのだけど』
『アストライアの妹であるお前がいうのならば、その感覚に意味はあるのだろう』

 ハイシェラの時もそう思ったが、彼女とはこの先何度となく関わるような気がする。
 もちろんそれはアイドスの言葉通り、彼女からアストライアの気配がしたという理由だけではない。

『彼女はああ言ったが、マーズテリアが熾天魔王を放っておくはずはない、か』

 何れはその事実にも気付かれるだろう。
 あるいは既に気付いているかもしれない。
 だが……

『本質が読めないと思ったのは初めてだ。彼女は本当にお前の姉の、人としての転生体かもしれないな』





 三日後、私たちは狭間の宮殿へと続く山道に集結していた。
 狭間の宮殿を起動させるにはいくつかの手順が必要らしい。
 その準備のために白銀公、レクシュミ、クリアはすでに宮殿内部に入り込んでいる。
 ここに集ったのは、私とアイドス、使い魔となった空の勇士にアムドシアス。
 セリカとその使い魔となった、リタ、ペルル、リ・クティナ、ナベリウス、パズモ。
 そして――

「結局アイドスの様に剣に封じられたわけか」
『なんだの……。別にセリカが望んだのだからよいではないか』
「いや、あれだけのことを言っておいてと思ってな。……そんなところまで似ていると、本当に姉なのではないかと思えてくるぞ」
『御主の姉か? それはそれで面白そうじゃがな。体があったら足でも舐めさせているところだ』
「……それは下僕だろう。やっぱりお前のような姉はいらん」
『あ、おい! 冗談だの!』

 セリカとハイシェラの一騎打ちでの決闘。
 結果はセリカが勝ったらしい。
 だが、詳細は分からないが、どうやらセリカはハイシェラを自身の剣に封じるという形に留めたようだった。
 セリカらしいと思わないでもないが。

 兎も角これで、集うべき者たちが揃った。
 ……別の形であれば、あるいは共に歩む道もあったかもしれない。
 だが、今となってはそれも適わないだろう。

 後方から近づいてくる邪悪な気配を感じる。
 多くの混沌生物を連れ、セリカを目指して、やつはすぐ近くまで迫っていた。



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