神々の許可無くしては踏み入ることを許されないとされる、神の処刑場――狭間の宮殿。
そこから流れ落ちる水によって、周囲は霧に覆われている。
ニース山脈の中ほどにあるためか、時折冷たい風が吹き抜ける。
外郭は、目視できるほど強固な結界に覆われていた。
ハイシェラの言では、彼女ですらここに入り込むことはできなかったそうだ。
かつてアムドシアスの結界を一撃で破壊したことを考えれば、その強度の凄まじさが理解できる。
内部に入ると遥か古に建立されただけあって、一部崩壊しているところがあった。
白亜の壁が続く迷路のような通路。
水の流れる音が聞こえるが、おそらく宮殿を外部と隔離するためのものなのだろう。
次から次へと堕ちていく大量の水。
下方に見える異界の大地は、神々の墓場と呼ばれる場所だ。
「一度、俺はここを見たことがある。確か、お前と出会う前だったか」
「リブリィール山脈に入るにはここの近辺を通る場合があるが……」
……何だったか。
思い出せそうで思い出せない、引っかかりのようなものがある。
リブリィール山脈……。
そういえばそもそも、セリカはバリハルトの神官に何処かへ――。
そう思って、なぜあの時セリカがリブリィールにいたのかという疑問は、結局口にしなかった。
当時は分からなかったが、今なら理解できる。
あの時のバリハルトの神官は、己が使命に殉じたのだろう。
古神の肉体を得たセリカ――邪神を滅ぼすという使命に。
あの時、アイドスが悲しみの感情を抱いたのはつまりそれを察したからだったのだ。
「……先を急ごう。オディオにはもはや、お前に対する執念しか残っていないだろうからな」
「ああ、いつ追いつかれるか分からない。
あいつが俺を狙う理由までは分からなかったが、魔術師の件もある」
そう、結局オディオがセリカを狙う理由までは分からなかった。
――腐海の大魔術師。
記憶を取り戻したセリカの言で思い出したが――アビルース・カッサレは狂ってしまっている。
そこには以前、強い動機があったはずだ。
しかし、オディオという邪気の塊に触れ過ぎたせいだろう。
もはや自分が何のために女神の体を手にしようとしているかも、分かってはいまい。
ただ、記憶の中の女神を手に入れようとしている妄執の具現。
それが、今のアビルースの正体。
それとは別に、オディオの動機が存在しているはずだ。
あいつ自身がセリカを狙う理由。
気になるのは、オディオが口にした“父”という言葉。
母はアイドスのことだと分かる。
しかし、父とはいったい誰のことを意味している……?
もっとも、それが何者であろうとも、私とセリカがやるべきことに変わりはない。
宿命という言葉はあまり好きではないが、存在するとすれば、まさにこの状況がそうなのだろう。
『力を貸して欲しいアイドス。これから先も、共に生きていくために』
『ええ、背負わなければならないものは多いけど、貴方とならばきっと……』
◆
狭間の宮殿の内部に入ってしばらく進んだところで待っていたのは、レクシュミだった。
「漸く来たな。すでに白銀公殿もルナ=クリア様も、オディオを滅ぼす準備を始めておられる」
「……俺は詳しく聞いていないのだが、準備とはどういったものなのだ?」
宮殿外郭の通路に立つレクシュミに、セリカが問いかけた。
レクシュミはやや言葉を選ぶようにして、
「狭間の宮殿が神々の処刑場と呼ばれる所以は、決して脱出できないほどの堅牢さからだと言われている。
無論、下方に見える大地――神の墓場では、神の名を持つ者の力を発揮できないという理由もあるのだが」
そこにはおそらく、現神も古神も、果ては魔神や邪神の類でさえ含まれるのだろう。
オディオを滅ぼすには最適の土地。
万が一、私たちが敗れることがあったとしても、諸共に神の墓場に落としてしまえばいい。
二度とディル=リフィーナに戻ることは適わないのだからな。
「そして、この宮殿を起動させるには神々に祈りを捧げる必要がある。
……時間はあまり残されてはいない。オディオは間も無くこの地に達するのだろう?」
『そのようね。かつては一つであったためか、私は彼を感じ易いみたい』
「……アイドスがオディオを感じている。もう間も無くといったところだろう」
『ならば、我が威圧して行動を鈍らせておくだの。といっても、効果があるか微妙なところではあるが』
その発言の直後、魔力を感じ取ったのか、剣に封印されたハイシェラに気付いたレクシュミが目を丸くした。
セリカに封印された経緯から、アイドスとハイシェラの封印のされ方の違いなどを話す。
そうしてやや時間を使ってしまったが、私たちは更に先へと歩を進めた。
ハイシェラとアイドスの違いというのは何のことはない。
アイドスは大剣に封じられる形だが、ハイシェラはその特性上、剣と同化しているということだ。
剣という器に遮られるアイドスは、私を通じてしか外部の感覚を得ることはできない。
しかしハイシェラは自身が剣であるため、魔力を使えば勝手に動くこともできるし、外部の感覚を得ることもできる。
その上、外部に放出する魔力が大きく、結界鎧として防具の効果も発揮しているらしい。
とはいえ、別に剣としてアイドス・グノーシスが劣っているわけではない。
引き出せる魔力の量ならば神剣の方が上。
肉を引き裂く感覚を感じることがないなど、アイドス自身に対する利点もある。
だから、別に優劣などは存在しないのだ。
◆
通路を封じている魔石をいくつか破壊し、更に奥へと進むと、何かの装置の前にたどり着く。
「ここで、間違いないようだな」
レクシュミが意志を固めたように呟き、後ろに続いていた私とセリカに声をかけた。
一度だけ、何かを伝えるように私を見た後、彼女はセリカと向き合う。
「神の処刑場へ向かうための通路を開くには、水門を閉じなければならない。
……そのためには、水の巫女様のお力をお借りする必要がある。
だが、神格位無き私では宮殿の結界が持つ魔力拡散の作用に対抗できず、巫女様のお力を扱うことはできない。
――神殺しセリカよ。これは女神の力を持つ貴方にしかできないことだ」
「何だ? 俺は何をすればいい?」
「無粋ではるが時間が無いため許せ。鎧姿で失礼する。性魔術を用いて、私を触媒として巫女様の力を引き出してくれ」
毅然とした態度でそう告げるレクシュミ。
『なるほど、どういう意図で分散しているのか疑問だったけど、白銀公たちがいないのはそういうわけね』
『おそらくは、この宮殿に入る時点で覚悟しておったのであろうな』
アイドスとハイシェラが会話を交わす中、告げたレクシュミに、セリカは沈黙した。
ややあって何かを察したのか、徐に口を開く。
「……それは、本当に俺でなければだめなのか? 例えば、ルシファーに任せることはできないのか?」
セリカの言葉に、レクシュミは驚いたような顔になる。
僅かに憂うような顔つきで、視線を私の方に向けた。
何かを問いたげにしている様子を見て、
「結論から言えば可能だろう。熾天魔王《サタン》の力は星乙女《アストライア》と同等だ」
「ならば、ここはお前に任せる。俺は少し離れていよう」
そう告げると、セリカは踵を返して通路の奥の方に姿を消した。
ハイシェラが何やらセリカに言っていた気がするが、それが耳に入ることはなかった。
「……巫女様どころか、セリカにまで見抜かれてしまうとはな」
自嘲するように言うレクシュミ。
アイドスは終始無言。
ただ、任せるという意思だけが伝わってくる。
……そういうことか。
「ルシファー、このようなことはこれが最初で最後だろう。時間もそれほどあるわけではない」
それでいいのか、などと無粋なことは訊かなかった。
ここまで気持ちを真っ直ぐに伝えられて、そんな言葉はあり得ないだろう。
しかし、どう伝えればいいのか……。
「分かった。だが、お前の使命など私は知らない。お前を抱きたいから抱く」
「なっ! 貴方は……もう少しこう、遠回しにだな……」
「そういうのは苦手なんだ」
「まったく、ふふっ……仕方のない男だな」
そう言ってレクシュミは性魔術を行う中、私に微笑と共に語りかけてきた。
かつて屋敷で私がした質問。
なぜ、彼女がその器を持ちながら、騎士団を率いることがないのかということに対する答え。
曰く、若輩を理由に断ってきたが、本当は怖かったのだという。
戦場に出て戦うということは、先ほどまで寝食を共にしてきた仲間を失う可能性があること。
それを実際に一度、彼女は経験した。
それ以来私は一人で行動するようになったのだと。
だが、彼女はどうやら決意したらしい。
部下を死なせるのが怖いのならば、できる限り死なせない努力をし、不死の騎士団を作ればいい。
彼女がその決断に至った理由は、私には分からない。
ただ、一言だけ感謝の言葉と共に告げられた。
貴方の何に代えても慈悲の女神を守ろうとする姿は、正しく伝説に云われる“黒翼公”だったと。
彼女がそんな言葉を口にしたのは、私がこの戦いが終ればレウィニアを離れるだろうことを、感じ取ったからなのかもしれない。
そうして、無事に儀式は成り、狭間の宮殿から地に流れ落ちていた水が止まり始める。
着替えを終えた私たちにセリカが合流し、先を急ぐことを告げた。
そんな彼にレクシュミが、ほんのりと朱に染まった顔を誤魔化すように頷き、
「この先で白銀公とルナ=クリア様も待っておられる。急ぐぞ!」
◆
処刑台に向かう神を取り逃さないようにするためだろうか。
迷宮のように入り組んだ造りになっている路を進んでいくと、白銀公と再会した。
彼女は驚きに目を開き、
「神と魔神。古神と現神。相反する存在が協力して事にあたるというこの光景もまた、女神の力故なのでしょうか」
「……女神の力かどうかは分からない。
たが存在してはならないはずの俺がここにいる以上、この光景にも意味はあるのだろう」
そんなセリカの言葉に微笑み、共に向かうことを申し出た。
――更に奥へ奥へと宮殿の外郭を進む。
やがて視界に入ったのは、水門が閉じられたことにより姿を顕にした、白き宮殿。
その宮殿へと続く通路の手前の広場には、黒髪の聖女が待っていた。
マーズテリアに祈りを捧げているのだろう。
瞳を閉じ、悠然とそこに起立している。
やがて彼女は目を開き、この場にいる全員を視界に収めた後、最後にセリカに顔を向けた。
「無事たどり着いたわね。ここより先は、神の意思さえ届かない混沌の領域。
進めば戻ることは適わないでしょう」
「……それでも、俺は進む」
クリアはその返答に僅かに微笑み、すぐに厳かな顔つきになってセリカに相対する。
彼女の心情がどのようなものかは分からない。
だがそれでも、彼女がマーズテリアの聖女であることに変わりは無い。
すなわち、何れはセリカの敵となる可能性の方が……。
否、彼女たちは邪神を倒すという一点においてのみ、セリカや私の存在を許容している。
マーズテリアとしてはセリカが抹殺の対象であることに変わりは無い。
「人にはそれぞれ役割があると私は思っています。
私がここで結界を維持する役目を担うように、邪神オディオを倒してなお、貴方がこの世界に留まることができたのならば……。
きっと神殺しである貴方が存在する理由はあるのでしょう」
「……くだらないな。存在理由など自分で決めるべきものだ。そんなもの、誰かに委ねるべきものでは……ない」
思わず口にしてしまった言葉に、僅か顔を顰める。
しかしルナ=クリアは私の言葉に動じた様子もなく、
「貴方がなぜ、セリカ同様に不思議な存在だと感じたのか分かった気がするわ」
視線を私の方に向け、穏やかに彼女は言葉を紡ぐ。
「……そうね。ならば、マーズテリアの聖女、ルナ=クリアとして告げます。
神殺しセリカ・シルフィル。己の存在理由を証明して見せなさい」
「その言葉、確かに聞き届けた。……結界は任せる」
神に仕えるものとして、運命を委ねるべきではないという発言はできない。
なぜなら、信仰心とはそうして生まれるものであり、それを糧に神は権勢を振るうのだから。
逆に言えば、ルナ=クリア個人としては――。
「畏れながらルナ=クリア様。私も神殺しに同行し、その行末をマーズテリア神にお伝えしたく思います」
宮殿へ向かおうとしたセリカを遮るようにそう言ったのは、クリアの傍に常に控えていた一人の騎士だった。
神剣アイドスを上回る大きさを持つ大剣を背負い、顎鬚と頬の二本傷が特徴的な男。
「分かりました」
そう言うとクリアは、両の手を頭上で掲げるようにして何事が呟く。
瞬間、魔力光が溢れ、それが騎士の体に吸い込まれていった。
「これで、貴方の視界と私の視界が繋がりました。マーズテリア様に一部始終をお見せできるでしょう。
ゾノ・ジよ。その使命、果たして参りなさい」
「仰せのままに」
そして、私たちは狭間の宮殿に足を踏み入れる。
後方に感じるオディオの気配は徐々にその密度を増している。
――決戦のときは近い。
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