中層付近になってくると、流石に襲撃してくる魔族の質も上がってくる。
上級悪魔を筆頭に、かつてはそれなりの格にあったのであろう不死者。
オウスト内海を漂う悪霊の他にも、宮殿を守護している者達も現れるようになった。
戦闘に慣れている者は平気だが、セリーヌにはまだ厳しいだろう。
セリカに援護主体にするよう指示され、今は回復役に回っている。
しかし、流石にクリアの前で魔神や天使を召喚するわけにはいかない。
そこでエクリアに心話で、幻燐戦争時に使い魔にしたアイレ・メネシスを召喚するように指示する。
彼女ならばクリアとて、危険視はしないだろう。
ディアーネやベルフェゴルなぞ召喚したら、互いの立場上、信頼も何もあったものではなくなるからな。
こんな場所でそれは避けたい。
そんなことを考えながら、もう何体目になるか分からない上級悪魔を両断し、このまま先に進むように言う。
……しかし今更ながら思うに、エクリアとセリーヌがいる時点で何らかの形で私達が幻燐戦争に関わっていたのは明確だ。
けれど問題なのは、闇の国家であるメンフィルと繋がりがあるかどうかなのだから、カーリアンのことだけ理由を告げれば良かった。
後はセリカや私の性格を考えた上で、クリアはメンフィルと私たちとは無関係と判断したのだろう。
でなければ、何かしら尋ねられて……いや、セリカには聞いていたかもしれないが。
もしくは、様子見をしているだけか……。
ルナ=クリアはああ見えて一軍を率いることもある女傑だ。
後者の方が可能性としては高いかもしれない。
だとするならば、そこまでメンフィルとの繋がりについて悩む必要はなかったな。
少しはセリカを見習うべきかもしれない。
……狭間を生きるというのは面倒だ。
だからといって、どちらかの陣営に組する気もない。
それでもセリカが無関心な分、私がある程度気にしておく必要がある。
私やセリカにとっては住み難い世界。
だが彼らと共にならば、そんな生き方も悪くはない。
『……平気か?』
『大丈夫ですよ。前線に立っていない分、休ませて貰っていますから』
セリカとセリーヌの心話が耳に入る。
顔色を見るに、どうやら虚勢を張っているわけではないようだ。
彼女もメンフィルでの鍛錬からケレースに至るまで、多くの経験を積んだ。
今はまだ後衛に徹するしかないとはいえ、もう足手纏いにはならないだろう。
流石に背中を預けられるようになるのは、まだまだ先の話だろうが。
『……無茶はするな。……だが、頼りにしている』
『ふふっ、はい』
しかしそこに劣等感はない。
確かに彼女も人間だ。周囲が周囲だけに、護られる自分に多少の苛立ちも覚えるだろう。
だが元々病弱だっただけあって、自分の出来ることと出来ないことをしっかり把握。
その上で、セリカの力になるという強い決意を抱いている。
それにもう、彼女はただ守られているばかりの存在ではない。
「カーリアンさん、傷を」
「悪いわね。……それにしても、セリーヌに治癒術師としての才能があったなんてね」
その自己犠牲すら厭わない優しさが影響したのか、彼女は治癒魔術に関しては一流の素質を持っていた。
現神光陣営でありながら、古神にであろうと力を貸すイーリュンの加護を受ける。
そういう選択もあったが、その教義は決して何人も傷つけてはならないというもの。
しかしそれは“世界”に狙われる“神殺し”の使徒である以上不可能だ。
だからセリーヌは、セリカと友好関係にあるアイドスに力を借りて神聖魔術を行使している。
今となっては、貴重な回復役の一人となっていた。
「無事のようね」
多くの魔族を退け先へ進むと、長い廊下を抜けた先で再び神官衣を纏った一団と遭遇した。
その中で団長を務めているのか、それともルナ=クリアの直属の部下なのか。
若輩であるためおそらく後者だろうリーフが前に出る。
「はい、聖女様……と他の方々もご無事で何よりです」
そう労うリーフに、セリカは“生憎とな”などと皮肉で返す。
クリアはそんなセリカに苦笑しながらも、結界の準備が進んでいるか尋ねた。
おそらく外部からの侵入をこれ以上許さないようにするためのものだろう。
リーフは聖女の問いに、滞りはないと答えた。
「ところでこの先の広場には行かれましたか?」
「いや、まだだ」
リーフの言によるとこの先には広場があって、東西の合流地点になるらしい。
待ち伏せするには持って来いの場所。
そして……、
「気を付けて進んだ方がいいわね」
「ああ、そうだな。……大丈夫だとは思うが」
メンフィルと遭遇する可能性が高い。
エクリアやセリーヌは落ち着いたものだが、カーリアンは何処となく焦燥を感じているように見える。
やはりリウイと何かあったのか。
「貴方は引き続き、結界をお願いします」
「はい、お気を付けて」
薄暗い廊下の先に目を凝らす。
良く見えないが、複数の柱が立ち並んでいる。
何かの儀式を行う場所にしては、祭壇と呼べるものはなさそうだ。
ただ宮殿の中枢は上層階なので、中層と上層を繋ぐ拠点の可能性がある。
「気楽に行きましょ。構えたって仕方ないし」
そんなことを言うカーリアン自身が一番緊張しているように見える。
だが、確かに彼女の言う通りだ。
ここで躊躇していても意味が無い。
「……行くぞ」
セリカの言葉に皆が頷き、意を決して先へと進んだ。
◆
自分たちとは逆の通路から、複数の足音が聞こえてくる。
深凌の楔魔ではない。彼らならば、わざわざ行軍するとは思えない。
そしてその推測は正しかったようだ。
広場の明かりによって、その姿が照らされていく。
予想していたこちらとは違い、相手の男は驚きで足を止めたようだ。
だがこちらも驚愕しなかったわけではない。
相手の一向のうち、その一人が天使であったからだ。
「どうしました、陛下?」
「……いや」
傍らの天使の問いかけに、何と答えたものかといった様子で言い淀む男。
メンフィル国王――リウイは、他の人物など目に入っていないかのように、ただ一点を見つめている。
「お久しぶりです、メンフィル国王陛下」
「……マーズテリアの聖女殿か」
クリアの言葉ではっとしたように、リウイは呟く。
そして改めて視線をこちらに向けた。
どういうことか後で説明してもらうからなとでも言いたげだ。
……カーリアンのことと、私たちがマーズテリアと共にいることだろう。
「話は後にした方が良さそうだ」
ふと、セリカが誰にともなくそう告げた。
怪訝に思って、私はセリカの視線の先に目を向ける。
――と、装飾の施された柱の一角に腰掛け、細い足をぶらぶらさせながら、上機嫌な様子の少女がこちらを窺っていた。
……やっぱり気配察知ではセリカに負けるな。
「エヴリーヌ、やはり来ていたのか……」
リウイは正体を知っていたらしい。
名前から察するに、深凌の楔魔第五位。
改めて見れば、発する気配は確かに残忍な魔神のものだ。
「エヴリーヌに気付くなんて、お兄ちゃんたち中々だね。
でも、嫌な匂いのする神官といるし……リウイお兄ちゃんはフェミリンスなんかと一緒にいるし――」
魔神エヴリーヌが解放した魔力で、空気が張り詰める。
ラーシェナほどではないが、手加減していい相手でもなさそうだ。
「皆死んじゃっていいよ」
その言葉に、この場にいるものがそれぞれの武器を構える。
同時に召喚される彼女の配下らしい魔族たち。
「陛下、今ここで私たちが争う理由はありません」
「……だが、共闘する理由もない。特定の勢力に肩入れするのはメンフィルの国是にそぐわない」
「理解しております。ですが、取り敢えずはこの場限りで協定を」
「……いいだろう」
双方を相手にするよりも、片方のみの方が都合がいいのは向こうもこちらも同じ。
この後どうするかは分からないが、一先ずこの戦いは共闘することに決まる。
「じゃ、ばいばい」
子供のような無邪気な笑みを浮かべる、銀髪の魔神。
大胆に開いた腹の辺り、紋様の奥から溢れ出す魔力。
それ更に増し、魔族を引き連れエヴリーヌは飛翔した。
――しかし、どうやら私が戦わなければならない相手は他にいるようだ。
「リ……メンフィル王、ルナ=クリア、悪いがその魔神は任せた」
「待ってください。どういうことですか?」
「空を飛べないお前たちでは、あいつの相手まではできないだろう。……セリカ、任せた」
返事を待たず私は黒翼を広げ、地を蹴って上空へ飛翔する。
上方から感じた気配は二つ。
一つはエヴリーヌのもの。そしてもう一つは――
あいつが奇襲など選ぶはずはないが、殺気を私だけにぶつけてきた以上、呼んでいるのだと思う。
宮殿のひび割れた内壁を置き去りに、天井付近までたどり着く。
それを了承と受け取ったのだろう。
彼女は何の躊躇いもなく、私に斬りかかってきた。
「いきなりだな」
「……我は貴様が許せぬ」
「どういう意味だ」
「どういう意味だ、だと? ……ふざけるな!」
激昂した彼女は神剣を弾き飛ばすと、そのまま反撃の余地を与えまいとするように黒刀を振るってきた。
衝撃波すら発生させかねない速度の剣撃。
……まさか、ここまでの実力を持っていたとはな。
「……っ」
技の鋭さが尋常ではなく、首を狙った一撃を交わし切れずに頬に傷を負う。
このままでは拉致が開かないと、私は一度急降下。
そこから一気に反転して迎え撃つことを考える。
だが、彼女の飛翔速度もまた普通ではない。
「逃がさん!」
私が距離を置こうとしてもそれを許さず、普段はあまり使わないだろう魔術を駆使して妨害してくる。
どうやら少々甘く見ていたらしい。
彼女は慢心などしていない。
それどころか激昂してなお冷静に彼我の力の差を理解し、その上で私を討とうとしている。
……理由は、大凡検討が付いている。
「何故だ! 何故貴様が光の陣営と共に行動している!」
――やはり、か。
私がただの魔神だったのならば、ここまで感情を露わにはすまい。
だが私は他でもない、彼女の古き主の“息子”だ。
「……ラーシェナ」
◆
神剣全体に神の炎を宿し、水平に一閃。
魔法剣“スティルヴァーレ”によって薙ぎ払うが、ラーシェナは辛うじてそれを刀で受け、片腕を焼かれながらも突進してきた。
……一撃が重い。
単なる技量だけでなく、破壊力が増している。
しかも怒りによって通常よりも闘気が高められており、今の彼女は砂漠で会った時とはまるで別だ。
「貴様は、あの方ではない。だから光に身を置こうと自由だ。頭ではそう理解している……」
「…………」
「だがっ! 憤らずにはおれんのだ! あの方の系譜である貴様がよりにもよってなぜ現神の下僕と共にいる!」
「私は――」
「貴様のことだ。戦神との間に歩み寄る余地があったからこそ動いたのだろう。
何の考えもなしに現神に協力するほど愚かではないことは知っている。貴様の言葉を聞いたのだから、それくらいは分かる。
……だが、それでも許せんのだ」
最後の言葉は大声で発せられたわけではない。
だが私には、悲痛な叫びに聞こえてならなかった。
怒鳴り声とは違う、静かに体に突き刺さるような言葉。
他でもない、あの方の後継者がなぜ。
彼女の慟哭が宮殿に響く。
「闇の者だからこそできることがあり、やらねばならぬことがある。我は今もそのためにここにある。
……魔神ルシファー、もはや貴様と我は相容れぬ!」
ラーシェナの構えが変わった。
彼女の得意とする十六夜剣舞。
その奥義を繰り出す気なのだろう。
『……ルシファー』
『心配するな。こうなることを予想していなかったわけではない』
意識を集中させる。
ラーシェナが奥義を出す以上、こちらもそれと同等の技でなければ対応できない。
……この技はもはや風鎌剣とは呼べないが。
「はあっ!」
それはまるで舞のように美しかった。
数多放たれる剣の衝撃波。
触れれば間違いなく切り裂かれる。
それに対して私は真正面から受けて立った。
セリカが最終奥義とでも言うべき枢孔飛燕剣を会得すると同時に、それに応じるために編み出した技。
といっても方向性はセリカのそれと変わらない。
攻撃の回数、一撃の威力、そして間合い。
全てを極めて一つに昇華した技――黒天風鎌剣。
「な……!」
自らの技を突き破って迫る闘気の刃に僅か動揺したのか、ラーシェナに一瞬の隙ができる。
それを見逃すことなく私は間合いに踏み込み、
「……見事だ。やはり我の相手など、貴様には役不足というわけか」
黒の甲冑を赤き血潮が染め上げる。
神剣が貫いたのは右の脇腹。
神核が破壊されない限り魔神は死なないが、それは魂の話であって肉体は違う。
これはもう、しばらくは戦えないだろう。
そんな状態でも尚、気丈にもこちらを睨みつけてくるのは、武人としての誇りのためか。
「だが、まだ我は戦える。この宮殿を現神などに奪われるわけにはいかない」
「何故だ。ベルゼブブとお前は関係ないはず」
「貴様に話すことではない。……それより早く構えろ。戦いはまだ終わってはいないぞ!」
「――っ!」
もう動けないものと油断していた。
その何とも間抜けな隙を突いて繰り出されたのは奇襲の刺突。
だがやはり傷が響いているのか、以前とは違って鋭さは無い。
認識した直後に身を捻って避け、一度距離を開ける。
「負けるわけにはいかん! 我らはもはや、後には引けぬのだ!」
流れ落ちる血を気にも止めず、彼女は内壁を蹴った反動を利用して間合いを詰める。
直線的な移動にはなるが、飛翔よりも移動速度は上がる。
迎え撃つか、再び距離を取るか。
そんなことを考える間に、ラーシェナは純粋魔力爆発を私の上空に引き起こし、
「逃げ場は無くした。さあ、来い!」
捨て身の覚悟とでもいうのだろう。
敢えて“自分の逃げ場所”も無くした理由などそれくらいしか思いつかない。
何よりあの目。
一意専心……ただ私を倒すことしか考えてはいないらしい。
――殺さずに済めばと、思っていた。
私は大馬鹿者だろう。
二度も同じ過ちを犯すとは……。
そんな甘い気持ちでラーシェナを討てるわけがないと、分かっていたはずだ。
『……本当に“知っている”というのは度し難いな』
『ルシファー、貴方は……』
高度を維持するのもやっとだろうに、それでも追い詰められた獣は最後の牙を見せた。
ならば私も、それに応えるべきなのだろう。
いや……応えたいと私自身が思ってしまっている。
次が最後の一撃。
故に――今の私が出せる最高の剣を。
魔力と闘気、その双方を神剣に集中させる。
放つ魔法剣は決まっている。
それは、私の神威の具現。
「……くっ!」
稲妻の如き光と共に、彼女が振るった黒刀“だけ”を断ち切る。
――スペルビア
破壊と浄化の力を秘めた魔剣。
その衝撃を受け、ラーシェナは内壁へ轟音と共に衝突し――
「……我の……負け、だ」
――そのまま沈黙した。
◆
瓦礫と化して崩れ落ちる内壁。
神剣を背負い直すと、私は咄嗟に落下し始めたラーシェナを急降下して受け止めた。
円柱状の広い空間であるため、セリカたちが闘っている地面は辛うじて姿が見える遥か下方。
いくら魔神と雖も、これだけの傷を負っていれば無事では済まなかっただろう。
ラーシェナを横抱きにして状態を確認する。
彼女から流れ出た鮮血が、私の衣服を染めていった。
外傷も大分ひどいが、特に神核が傷ついている。
とはいえ、今すぐ死ぬようなことはなさそうだ。
アイドスにミゼリコルディアを使って貰うほど魔力に余裕がない。
仕方なしに不得手ではあるが自身の手で治癒魔術を施した。
……本当に何をやっているのか。
『……様!……シ……! ご無……で……か!?』
『エクリアか。良く聞こえない。私は無事だ。そっちは終わったのか?』
『魔神エヴ……ヌは……した。今……これか……をは……ている。……少し……て』
そこでセリカの言葉が途切れた。
距離が大分あるせいか、心話が聞こえない。
このままというわけにもいかないだろうから、取り敢えず降りるべきか。
セリカの途切れ途切れの言葉を繋ぎ合わせれば、どうやら今後のことを話しているようだ。
しかし、相手側には風女神の使徒――天使がいる。
セリカや私は天敵だろうから、いくらマーズテリア騎士団と行動していても、話し合いは難航するだろうな……。
「ん……」
ラーシェナが身じろぐのを感じ、顔を向ける。
腕の中の彼女の瞳は未だ閉じたままだ。
しかし治癒魔術が利いたのか、青褪めていた顔色は幾分良くなってきている。
それでも動けはしないだろうが、体は大丈夫だろう。
『……それで、彼女のことはどうするの?』
『目覚める気配がまるでないな』
『貴方が全力で迎え撃ったのだもの、当然よ。“スペルビア”は“破壊”と“浄化”の概念を内包した神聖魔術。
謂わば神威の具現――禁呪“遊星召喚”の威力と範囲を抑えた大魔術。
彼女が無事なのはそれだけ力のある魔神だからよ。本来なら消滅しているわ』
『……あの気迫。そうでもしなければ私が敗北していた。何より手加減などしたら、こいつは敗北など認めなかっただろうからな』
受け継いだ記憶だけではない。
私自身がこうして刃を交えることで受けた印象。
借り物などではなく、実感として私はラーシェナを知った。
……無論、全てを知ったとまでは言わない。
それでも、彼女が忠義厚き魔神であることは十分理解できたと思う。
そして私が彼女を気に入り、敵だからといって殺せそうにないことも……。
そんなことを考えていた私の眼前の空間が、突如として歪み始めた。
といっても、上級の貴族悪魔である歪魔の能力のそれとは違う。
徐々に闇に場が支配されていくような現象。
これは――転移魔術の一種か。
「ラーシェナさんにも困ったものです」
「……パイモン」
溢れ出た闇の中から、すうっと炙り出しのように現れたのは魔神パイモンだった。
“飛翔の腕輪”でも使っているのか、その体が私と同じように空中に浮かぶ。
やがて彼は恭しく一礼した。
「ご壮健そうで何よりです。……できれば、同じ陣営でお会いしたかったのですが」
「……それはないな。少なくともお前の考えと、私の望みが一致することは今のところあり得ない」
「そうですね。今の貴方様は、魔王になることに興味を持っておられない。むしろ、王の肩書など邪魔と思っている」
「分かっているのなら、ラーシェナを連れてこの宮殿から去れ。
……私には、お前たちを止めることはできても、殺せそうにはない」
「……それは喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、判断に迷いますね。
こちらとしては有難いですが、ラーシェナさんを見逃すのですか?」
「クリアとは、魔神を宮殿から退けるという約しか結んでいない。それ以上のことは知らん」
「闇の王ならば――」
「――己の敵は躊躇いなく殺すだろう。しかしな、生憎私は闇の王などではないし、お前たちを敵とは思っていない。
盟友の身に危険が及ばない限りにおいては、だが」
「それは、メンフィル王やエクリア殿も含めてですか?」
「あの男が協力を望むのならば。……だが、それはないだろう。私たちが公に手を貸す意味が分からないわけがない。
それに、お前はエクリアには手を出さないだろう?」
私がそう言うと、パイモンはふっと笑って、何事か考えるように目を閉じた。
一見無防備に見えるが、周囲に障壁を展開している。
まあこちらの性格を読んだのか、非常に簡易なものだが。
「以前お前は私に質問したな、何を求めているのかと。
今でも私の思いは変わらない。ただアイドスと共に生きること。それが私の唯一の欲望だ」
運命を切り開く人の姿。
それを見続けるのも悪くはない。
しかしそれは所詮、アイドスと共に生きる上での“ついでのこと”でしかない。
「高尚な使命でもあれば良かったのだろうがな。生憎私にはそんなものはない。
闇の者を導くという在り方も、窮屈過ぎて私には向いていない」
「……私にも、ラーシェナさんの憤りが分からないわけではありません。
ですがそれ以上にやはり貴方様は興味深い。そこまで我を通されるお方は、私が知る中では古き主くらいのものです」
「……だが、私はあいつではない。どれほど似ていようと、私が“魔王《サタン》”になることはない」
「いえ、貴方は必ず魔王になります。私が確信しましたから。
その魂に刻まれた呪縛は簡単に消えるものではありません。今の貴方を留めているのは――」
パイモンの視線が私から少しだけずれる。
……違うな。私の背にある神剣に向けられているのか。
その意味するところは――
「魔王に慈悲などない。かつてそんなことを言った人間がいました。私はその通りだと思います」
「……アイドスに手を出すつもりか?」
「いいえ、そんなことは。それでは貴方を敵に回してしまうだけで、意味が無い。
……ですが、お気を付け下さい。私が何もせずとも、貴方様が魔王になる可能性は十分ある。
特に人間は多くの可能性を持つが故に、最も愚かな種でもありますから」
「……お前の言いたいことは分かった。かつて“父”の忠臣であった者の言葉として、在り難く受け取っておく」
「お役に立てたのならば幸いです。さて、ではまた後ほどお会いしましょう。まだメンフィル王への挨拶が残っていますので」
「……あいつもお前の望むような王になるとは思えないが」
「ですがその才は放ってはおけませんし、何よりザハーニウ――楔魔を束ねる者の命ですからね。勧誘はしておかないと」
「……ご苦労なことだな」
「そう思われるのでしたら、ぜひ我々と――」
「――断る」
「残念です。……ではラーシェナさんはお預かりします。ですが、本当に宜しいのですか?」
「光の神殿の目の前で魔神をメンフィルが引き入れるわけにもいくまい。マーズテリアなど論外だ」
「いえ、そうではなく」
「使徒にか? それこそあり得ない。こいつが、簡単に主を裏切る性格だと思うか?」
「ないですね」
苦笑しつつも即答するパイモン。
私はそんな彼の言葉を聞きながら、ラーシェナの様子を窺う。
戦時においては凛々しい彼女も、今はただ穏やかな顔を晒していた。
……さっきまで敵対していたというのにと、何とも言えない感情を抱きながらパイモンに預ける。
「ラーシェナさんはきっと怒ると思いますよ」
「だろうな。だが私にはラーシェナを殺すことはできない」
「……本当に“厳しい”お方だ」
「文句があるのならば、また殺しに来いとでも言っておけ。かつて“父”がそうしたようにな」
「あははは……承りました。そのように伝えておきましょう」
「それとこの際だから言っておくが、以前はお前たちの望む王になるべきではないかと思ったこともあったんだ。
だがやはり私には、そういうのは向いていないらしい。誰かに誘導され、それに従って魔王になるなど御免だ。
だいたい私を王と仰ぎたいなら、細かいことなど言わずお前たちが私の元に来い」
唖然とした顔のパイモンなど、滅多に見られないのではないだろうか。
アイドスが呆れたように溜息を吐いたが、これが私なのだ。
この性だけは、私がルシファーである限り、永劫変わることはない。
◆
パイモンが私の言葉に考えておきますと困ったように告げて去ってから、アイドスが重々しく口を開いた。
『ルシファー、ちゃんと分かってる?』
問いかけの意図を違えることはない。
彼女が言いたいのは、ラーシェナを助けたことによる影響だ。
『神核の治癒のために五年は戦えないとはいえ、将が生き残ったのは大きい。レスペレント地方との争いは長期化するだろうな』
『そこまで分かっていて、貴方はラーシェナを見逃したの?』
『ああ、そうだ』
『……そう。なら私は“慈悲の女神”として、今回の貴方の行動を支持するわけにはいかない』
『ラーシェナを滅するべきだったと?』
『そうね。それで少しでも争いが減るのならば、私は選ぶべきだったと思う』
『……そうか……そうだな。お前の選択は間違いではない。だが、私も譲るわけにはいかない』
『ふふ、意見が分かれたわね。でも、それでいいんだと思います』
『……同じ意見ばかりでは、間違っていても気付かないかもしれない……か』
『ええ。……それに、本当に正しい答えは無いのだと思う。……裁きの女神であるお姉様も迷っていたから』
最後は懐かしい思い出を語るかのように告げたアイドス。
パイモンとの会話の中で口出ししなかったのは、彼女もまた迷っていたのだと思う。
万物を愛すること――“慈悲”を運命付けられた彼女だからこそ、ラーシェナを優先する選択はできない。
そんな彼女の意思を尊重するとすれば、私は個であるラーシェナを取るべきではなかったのだろう。
だが、後悔する気はない。
私は名も知らぬ人間や魔族より、ラーシェナの方を選んだ。
他の神々から云わせれば、在ってはならない判断。
――しかし、それでもいい。
例えあの場で、ラーシェナの神核を破壊することこそ正しかったのだとしても、私にとってはそうではなかった。
……パイモンの言葉も強ち間違っていないようだ。
魂の呪縛はそう簡単に消えない。
万物に対して平等に不干渉なのが古神ならば、それに反逆する私は“神の敵対者”に他ならない。
そして、私の持つ“傲慢さ”は、欲望のままに行動する魔族の王に相応しいものではないか。
ならば確かに、アイドスがいなければ私は魔王になるのかもしれないな……。
『それにね、もしもラーシェナを討っていた場合を考えると……。
逆に彼女の配下や彼女を慕う者が奮起して、余計にひどいことになっていたかもしれない』
『お前は私の行動を支持しないのではなかったのか?』
『慈悲の女神としてはね。でも貴方を愛する者としては、貴方の行動を支持したいという気持ちもあります。
……まあ、先に言った理由があったからでもあるのだけれどね』
『……何れにしても、ここから先はレスペレントと深凌の楔魔の戦争になる。
光の神殿も関わってくるだろうから、後はリウイに任せるしかないだろうな』
『ラーシェナのことはいいの?』
『殺しに来いと言ったんだ。そう簡単に死にはしないだろう。……何だ?』
『いいえ、何でも。……心配なくせに』
それから数刻、こうしていても仕方がないと、私はゆっくりと地面に降下した。
降りる間に、汚れてしまった上着を脱ぐ。
幸い肌衣にまで血は滲んではいなかったようだ。
かつてのサタンのような天使の体ならば、霊的光子を変換することで新たな軽鎧にもできたのだがな。
魔神である私の体は、翼以外は物質化しているから着替えるしかない。
……多分上着だけならいくつか替えがあったから、大丈夫なはず。
やがてセリカたちの姿をはっきりと視界に捉える。
どうやら、全員無事だったらしい。
◆
地に降り立つと同時に、気付いたセリカたちが近づいて来た。
緊迫した様子はないところから、取り敢えずメンフィルと敵対ということはないようだ。
そんなことを考えていると、私が血染めの上着を抱えているのを見て取ったエクリアが、傷の有無を尋ねてきた。
「御怪我を!?」
『それは私の血ではない。ラーシェナのものだ』
『……だいたいの事情は分かりました。私の時と同じということですね』
じと目で見つめてくるエクリア。
衣服に付いた血は、返り血というほど飛び散ってはいない。
ところどころで擦れていて、血の浸みた布地を押し付けた結果できたような跡だ。
まあ、実際その通りなのだが。
「……取り敢えず替えの服です。セリーヌ、頬を怪我していらっしゃるようだから、治癒をお願い」
「え? あ、はい」
エクリアに促されて、セリカの隣に居たセリーヌが治癒魔術を行使する。
セリカと友好関係にあるアイドスの力を借りて発動。
ラーシェナの刺突によって付けられた傷が、すうっと消えていく。
それにしても、セリーヌも随分手慣れたものだ。
初めのころは血を見るだけで動けなくなっていたというのに。
「助かった」
「いえ、私にできることなどこれくらいですから」
謙遜して言うセリーヌに礼を言い、エクリアから受け取った新しい上着を纏う。
そこで漸くリウイから声がかかる。
どうやら、一連のエクリアの行動に唖然としていたようだ。
「……どうやって手懐けたんだ」
「エクリアを狂犬かのように言うな」
「……いや、すまん。あまりにもアレな光景だったのでな」
突然何を言い出すかと思えば……。
確かに元姫将軍が甲斐甲斐しく世話を焼く姿を見えれば、無理もないと思わないでもない。
しかし手懐けたはないだろう。
『……ルシファー様。私とセリーヌは兎も角、セリカ様とルシファー様はリウイ陛下とは初見ということで話を進めました。
私が使徒であることは伝えてあります』
『分かった。それに合わせればいいのだな』
憤慨したような雰囲気のエクリアの心話を聞き、私は改めてリウイに目を向ける。
彼の傍に控えているのは、一柱の天使と淡い桃色の髪の神官。
そしてメンフィル王妃――イリーナ。
随分行動的になったもの……いや、そう言えば幻燐戦争当時から戦場に出ていたか。
……人間族の他の国家がどういうものか知らないが、異色過ぎる気がしないでもない。
自己紹介などは済んでいるようで、後は私の挨拶だけだった。
茶番にしか思えないが、建前上はやっておく必要がある。
といっても、名前を告げて今後の方針を確認するだけだが。
どうやら既に話し合いは終わっていたようだ。
セリカの提案で私たちは幻燐戦争と同じく、メンフィルに傭兵として雇われることになったらしい。
私としては、特に異論はない。
これもまた建前に過ぎないが、国家間の思惑を考えればその建前こそが重要になってくる。
不思議なもので“メンフィルはマーズテリアと協力した”と聞かされた場合。
そして“メンフィルはマーズテリアと仕方なく協力した”と聞かされた場合では印象がまるで違う。
事実は全く同じであるにも関わらず、だ。
「ところで雇われるのはいいのだが、そっちの天使は納得したのか」
明らかに不満そうな顔をしているヘルテ種の天使。
名前は分からないが、彼女がおそらく風女神の使徒とやらだろう。
「……マーズテリアと我が神は友好ですから、その巫女の提案ならば従いましょう。
ですが、決して“神殺し”や貴方のような堕天使を受け入れたわけではありませんので、お間違えの無きよう」
「戦いの場に余計な感情を持ち出さないのなら、私が言うべきことは何もない」
「そのようなこと無論ですわ。貴方に指摘されるまでもありません」
「そうか。……ならば一時の間だろうが、宜しく頼む」
「堕天使などに宜しくされる謂われはないのですけれど。……メンフィル国王陛下の御意志でもありますから、今は目を瞑りましょう」
握手などはしない。
どうやら彼女はニル・デュナミスとは違い、筋金入りの“天使”のようだ。
いや、ニルがおかしいのであって、本来主を捨てた堕天使と、神に従う天使は相容れない。
その考え方が根本から違うのだから。
一つ言わせて貰えば私は元天使というわけではないのだが、古神である以上現神の使徒にとっては些細な違いだろう。
等しく彼女の前では敵でしかない。
「では改めて宜しく頼む、メンフィル王」
「……リウイでいい。……ところで何か報酬はいるか? 神殺しの方はいらんと言ったが」
実にセリカらしい答えだ。
リウイの問いに少し考え……ふむ。
先ほどから話に入ってきていない一人の女剣士に目をやる。
彼女は私が見ていることに気付いて笑みを浮かべようとしたが、ぎこちないものにしかなっていない。
……やれやれ。
「? ……ちょ、ちょっとルシファー!?」
無言のまま女剣士――カーリアンに近づくと、その腕を掴んでリウイの前に引っ張り出した。
荒療治だが、この女の悩みを解決できるのはリウイを置いていないだろう。
「こいつを引き取ってくれないか。何やらお前に話したいことがあるらしいのでな」
「な、何言って……リウイ、そんなのないからね!?」
「いや、俺も丁度話して置きたいと思っていた。……引き取らせて貰おう」
「リウイ!?」
困惑するカーリアンを尻目に、私は後ろで控えているイリーナとペテレーネに顔を向ける。
ペテレーネの方は嬉しさと寂しさが混ざり合ったような表情。
イリーナはというと、こちらもまた複雑な表情をしている。
嫉妬……というわけではなさそうだが。
兎も角、一先ずこれで宮殿攻略に当たっての問題だったメンフィルとの関係は悪いものではなくなった。
今後はブレアード迷宮への動力供給源となっている宮殿中枢がある上階を目指すらしい。
最後にクリアが、魔神との戦いがあったために離れていたリーフを呼んだ。
……どうやら彼は、私との戦いを無駄にはしなったようだ。
「貴方はこの場に残り、メンフィル軍との橋渡しをお願いします」
「分かりました。皆さん、どうぞお気を付けください」
そしてマーズテリアの加護を祈るなどと付け加えられたが、そう思うのならば私たちを狙うのを止めて欲しい。
セリカとリウイはそれに素気ない態度で返し、そのまま上階へ繋がっているだろう転移陣に向かう。
……しかし何はともあれ、これでメンフィルと争わずには済む。
そしてここに再び、幻燐戦争当時と同じ契約が結ばれたのだった。
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