――人間には誰しも一つは忘れられない光景というものがある。

 セリカにとってそれは、女神アストライアとの出会いだった。
 青き月の下――記憶の彼方に消えてしまった何処かの湖畔での運命の邂逅。
 その色褪せることのない鮮烈な記憶と同じ感覚を、今セリカは感じていた。

 底に溜まった海水に浸ったまま、腕に抱えている一人の女性――ルナ=クリアの顔を覗き込む。
 身を挺して庇ったせいか痛がる素振りは無く、幸いにして彼女は無事だったようだ。

「セリカ……ありがとう」
「大丈夫か?」
「ええ、御蔭様で……少し休まないと魔力は戻りそうにないけれどね」
「無茶をするな。冷静なお前らしくない」
「……怒った?」
「怒ってなどいない」
「ふふ……ごめんなさい」

 悪びれずにルナ=クリアは小さく笑う。
 セリカはそんな彼女に何を言ったものかと思案していたが、奔った痛みに顔を歪めた。
 随分な距離を落下したらしく、何度も跳ね飛んだ結果全身に傷を負ったようだ。
 爆発による傷ももちろんあるだろうが、それ以上に墜落の衝撃が大きかったらしい。
 結局、無茶は自分も同じかと口を閉じた。

「あの時はあれが最善だと思ったし、それに……貴方に私の良いところを見せたかったのね、きっと」
「お前の良いところなど何度も見てきている。だから自分の命を粗末にするな」
「……」

 立ち上がる。底は浅くてせいぜい膝下くらいだ。
 セリカは、何か考えを纏めるかのように沈黙したままのルナ=クリアに手を差し出す。
 彼女はそれを認めると、少し嬉しそうにしながら取った。

 セリカはそんなルナ=クリアから一度視線を外すと、改めて周囲に目を向けた。
 落ちた先の空洞は、上のベルゼビュード宮殿とは異なる風景を作り出していた。
 魔法による灯りが付いた数十本の柱によって、ぼんやりとした魔法の光に満たされている。

 ふと気配に横に顔を向けると、ルナ=クリアが側により、同じように辺りを確認していた。
 立ち上がった彼女は髪や服から水を滴らせ、宝石をちりばめたように輝いている。
 それが影響しているかは分からないが、セリカの目に宮殿の光景は、禍々しいところのあった上層部と違って幻想的に見えていた。

「この柱を見て」

 水を掻き分けてルナ=クリアが近寄った柱には、セリカが目にしたことの無い文字と、鍬や麦穂を象った細工が施されている。
 おそらく古神ベルゼブブを讃えたものだろう。
 そういえばとセリカは、ルシファーがこの宮殿の主は豊穣の神であったと言っていたことを思い出す。
 堕とされた神か――。

「……このままここでじっとしていても仕方がない。取り合えず皆と合流しよう」
「そうね。……階段か通路を探しましょうか」

 彼女の言に、セリカは天井を見上げた。
 落ちてきた穴は背丈で五人分くらい。
 転移や飛翔できない二人に戻る術はない。

 ルシファーならば或いはなどと一瞬セリカは思ったが、ルシファーが翼を出すということは全力を出すということ。
 つまりそれだけ魔力消費が多い形態でもあり、ここに落下する前の彼の状態を思えば不可能だろう。
 天使モナルカもいるにはいるが、あの重装備で人を抱えて飛ぶなどできるとは思えない。

「ちょっと待ってくれ」

 しかしルシファーやモナルカが駄目でも、セリーヌに連絡を取ることはできる。
 そう思い至ったセリカは心話で呼び掛けた。

『……セ……様…無事……』

 強い念で以て、途切れ途切れに語りかけられた言葉。
 セリカは安否の確認であることに気付き、無事を伝えた。

 セリーヌから返ってきた返答は、しばらく待てというもの。
 どうやら爆発の影響を彼らも受けているらしく、やはり飛翔による救出は難しいということだった。

「こちらに助けに来てくれるのを待とう。向こうも動いてくれている」
「ルシファーや天使モナルカ殿は?」
「動くなとのことだったんでな。おそらく抱えて飛ぶのは難しいのだろう」
「そう。……服を乾かしながら待ってましょうか」

 水のない場所はないかと周囲を見ると、奥の方に祭壇らしきものが水面から顔を出していた。
 セリカがざぶざぶと水を掻き分けて近づくと、祭壇は段差になっていて、一番下の段だけが水に没していた。
 これならば、服を乾かすのに丁度いいだろう。

 火を起こそうにも、燃やすようなものは何もない。
 仕方なくセリカとルナ=クリアは着ていた服や靴を脱ぐと、絞ってそのまま祭壇に並べて置いた。
 これで少しでも乾けばいいがと思っていると、

『セリカ、悪いが我も並べてくれるか。……塩水は我の天敵だの』

 言われるままに、セリカはハイシェラを服や装備と一緒に置いた。

 ルン・ハイシェラは魔神が融合している魔剣。
 錆びるなどということがあるのだろうかとふとセリカは疑問に思った。
 しかし、単にハイシェラがずっと塩水に浸かっていることを気持ち悪く思ったのかもしれない。
 ただの剣ではなく魔神剣なのだからそんなこともあるだろうと、彼はそれ以上考えることはなかった。

「……ふぅ」

 長いため息が聞こえた方に、セリカは顔を向ける。
 どうやらルナ=クリアも脱げるものは脱いだようで、そのシミ一つない身体を外気に晒していた。
 ほぼ裸も同然の、纏っているのは下着だけという扇情的な姿だというのに、彼女からはその清楚さが欠片も失われていない。
 かといって女性的でないわけではなく、多くの女性の中でも際立っているように感じられる。

 ――ふと、セリカとルナ=クリアの目が合った。

「……どうかしたの?」
「……いや……おかしなことを聞くかも知れないが、以前もこんな水の溢れる神殿。
 そんな場所で、お前を抱きしめたことはなかったか?」

 場所など疾うに忘れてしまった。
 だが、セリカはその時抱きしめた女のことを忘れたわけではない。

 ――初めて愛した女。

 セリカがルナ=クリアから感じたものは、他でもない彼女と何処か似た雰囲気だった。
 だから彼は、思わずそんなことを言ってしまったのだろう。

 ルナ=クリアはセリカの言葉に驚いたような表情になり、しかし訝しむわけでもなく、静かにセリカの眼差しを受け止めていた。
 セリカはそんなルナ=クリアの態度に再び既視感を覚える。
 この居心地のいい沈黙の空間は、あの人と一緒にいた時にも感じたものではなかったか。
 しばらくそうやって見つめ合っていた二人であったが、何を思ったのかルナ=クリアがそっとセリカの側に身体を寄せて微笑んだ。

「ふふ……面白い人ね」
「……変なことを言ってすまない」
「いいえ……実は私もね、貴方と同じような感覚を持ったの。ここではないけれど似たようなどこかで、貴方と……どうしてかしら」

 ルナ=クリアの思いも寄らない言葉に、セリカの鼓動が高鳴る。

 ――ルナ=クリアはアストライアの転生体かもしれない。

 ルシファーが口にした、机上の空論が脳裏を過る。

「ルナ=クリア、俺は……」

 今自分が見ているのはルナ=クリアなのか、それとも“彼女”なのか。
 身体に触れるルナ=クリアの掌に自分の手を重ねる。
 溢れ出る寂寥感と、耐え難い喪失感。
 しかし、ルナ=クリアは確かにここにいる。
 そう思うと不思議とセリカの中にあった悪感は和らいでいく。

「貴方はこの感覚が何なのか、心当たりがあるのね?」
「ああ……だが、確信は持てないし、違うかもしれない。
 ……俺がそれを言えば、俺はお前を悩ませてしまうかもしれない」
「……そう」

 少しだけ寂しそうに微笑んで、ルナ=クリアはセリカの頬に触れた。
 そしてその端正な顔をセリカに近付けると、そのまま不意に彼の唇を奪った。

 瑞々しい感触……水で冷たくなった身体に、ルナ=クリアの身体の温かさを感じる。
 瞬間、セリカの脳裏に浮かんだ幻想。

 ――紅い髪の女。

 見間違えるはずもなく“彼女”の姿だ。
 
 ――青き月の光。

 それはいったい何処で見た光景だろうか。
 ……分からない。
 確かなのは、自身の胸に溢れる愛しさだけ。
 例え全てを忘れても、それだけは忘れないと誓った思い。

 唇の感触が無くなりセリカが目を開けると、ルナ=クリアは少しだけ距離を取ったようだった。
 自分の大胆な行動が恥ずかしかったのか、ほんのりと頬が薔薇色に染まっている。

「……貴方にも見えたわよね」
「……ああ、俺は彼女を知っている。彼女は――」
「――待って」

 静止の声はひどく穏やかで、ルナ=クリアはそっと手を伸ばしたかと思うと、セリカの頭を抱えるようにして髪を撫でる。
 セリカはそんな彼女の行為を訝しんだが、ふと自分の手を見て呆然となった。

 震えていた――自分の意思とは無関係に。
 掌には嫌な汗が滲み、動かそうと思っても動かせない。
 やがて大丈夫、大丈夫と、ルナ=クリアの声が耳に届く。
 それで漸く、セリカは落ち着くことができたのだった。

「……すまない」
「いいえ……きっと“彼女”は貴方にとって特別な人――だったのね」
「……ありがとう、もう平気だ」

 ルナ=クリアの言葉には答えず、セリカは礼を述べると立ち上がった。
 不快感はもうない。あるのは当初の疑問だけだ。

「ねえ、セリカ。貴方が見ているのは“誰か”ではなく“私”よ。それは間違いない。
 でなければ“私”を気付かうなんてことしないはずだもの」
「それは――?」
「ふふ、やっぱり自分では気付いていないのね。でも、今はそれでいい。いつか自分で気付いて欲しいから」
「……そういうものか?」
「そういうものよ」

 どこかで聞いたことのあるやり取り。
 確か……そう、あれはルシファーとアイドスの……。

「それにしても、ちょっと恥ずかしいわね。こんな恰好で抱き合っていたなんて」
「セリーヌには秘密にしてくれ。こんな情けない姿は使徒に見せたくない。
 ……それとルシファーにも。あれであいつ、誰かをからかうのが好きだからな」
「あら、そうなの? 私は別に構わないけど……二人の隠し事?」
「……いや、もう一人だけ聞き耳を立てているのがいたな」
『……む、誰のことだ?』

 記憶があるというのは、それはそれで厄介なものだ。
 ここ最近ルシファーが口にしていた言葉をセリカは思い出す。

 だが――彼女を、サティアを忘れることに比べれば大したことではない。

 もう一度セリカはルナ=クリアに顔を向ける。
 この胸が張り裂けそうになる感情は、単に彼女の中のサティアを見ているからだけなのか、それとも――。
 いや、もう既に答えは出ているのかもしれない。



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