リウイ・マーシルンにとって、カーリアンという女は姉のような存在だ。
 幼少のころ父である魔神グラザに引き取られてからは、復讐に逸る自分を抑えるのではなく受け入れ、共に剣の腕を磨いた仲。
 元々悪魔族の末裔でもある彼女は好戦的で、当初は全く勝てずに悔し涙を流した覚えもある。

 グラザが没してからは数年旅に出ていたようだが、メンフィル侵攻戦の折には帰ってきて、リウイ軍の一員として戦ってくれた。
 リウイの心を支えるのがイリーナならば、武を支えるのはカーリアン。
 ファーミシルスを初め信頼できる部下は数多くいるが、弱さを見せても良いと思えるのは、イリーナを除けば彼女くらいだった。

 ――そんな女剣士が、自分のところに戻ってきた。

 あの躊躇するような反応を見るに、カーリアンがルシファーに頼んだわけではないだろう。
 魔神ルシファーが無理やり引き渡したと考えるのが妥当だ。

 だが、あれであの魔神は、自分のことには鈍感だが存外人を見る目がある。
 カーリアンの本心を見抜いていてもおかしくはない。
 それは古神だからなのか、それとも経験からなのか。

「……まあ、経験なんだろうが」
「何がですか?」

 思わず口に出していたかとリウイは苦笑して、隣を進むモナルカに何でもないと答えた。
 ルシファーはいくら古神とはいえ、聖女や本人の言葉から推測すれば、そう古い神ではない。
 姿が確認されたとされるのはここ数百年のことだから、下手をすればグラザより若いのかもしれない。
 それでも自分よりは長く生きていることに違いはない。
 ならば、リウイよりもヒトを知っているのは当然といえた。

 しかし、あの変な魔神のことは今はいい。それよりカーリアンだ。
 リウイは眉間に寄った皺をより深くし、難しい顔で思考の海に沈む。

 何故ルシファーたちと行動していたかなど、訊きはしたが正直どうでも良い。
 あの気まぐれな姉君に問うたとしても、答えは何となくとしか返ってこないだろう。
 或いは、あの風使いの少年に気を遣わせたか……。
 気にはなるが、それでもやはり彼女をどうするのかの方が重要だった。

 以前の自分ならば、彼女の辛さを知って尚、あの気さくな女に側に居て欲しいと思っただろう。

 けれども今はそうはいかない。

 彼女を仮に側室に迎えるとして、世継ぎをどうするか。
 子を作らないという選択肢もあるが、他の貴族連中を如何に黙らせるかという問題が出てくる。

 それに、カーリアンは自分の元に来てくれるだろうかという不安もある。
 彼女はそもそも、イリーナを気遣って身を引いたのだ。それを戻すとなると……。
 イリーナは任せろと言っていたが――さて。

 そう考えてふとリウイは、モナルカが訝しげに見ていることに気付いた。
 首を小さく傾げた姿は、何か邪な考えを抱いているのではという疑念ではなく、純粋に不思議に思っているように見える。
 数多の攻撃に晒されて、戦帰りの勇者が着ているような汚れた鎧を纏っているというのに、妙に可愛らしい。

 本人は自覚してそんな仕草をしているわけではないだろう。
 戦いの場での優雅さとはまた違っていて、ついついリウイは笑みを浮かべそうになった。
 誤魔化す様に別の話を持ち掛ける。

「魔神ルシファーのことだがな、お前の目にはどう映った?」

 内心で悪いなと思いつつ、まあいいかと続けて思う。
 あいつが古神で、女神の宿る剣を持っていることだけ黙っていれば平気だろう。
 流石にそこまで話す気は彼にはない。
 仮にもあいつは信頼して話してくれたのだから、それを破るわけにはいかない――王を名乗る者として。
 ただ、ルシファーがうっかり話しただけという疑念がないわけでもない。

「……典型的な魔神ですわね。
 他の方々はあの者を魔神とは思えないと口にしていらしたようですが、私からすれば魔神以外の何物でも御座いません」
「そうか? 人間に礼を言うし、手際は別にして一通り家事もできるらしい。
 味は保証できないようだが、料理までこなすそうだが」
「それは別におかしなことではありませんわ。
 何故なら彼は堕天使ですから、ネイ=ステリナ出身の者たちよりは人間族の習慣に詳しいでしょう。
 それに人を愛したために自ら堕天使した者もいますから、人間族の行動に興味を持つ者がいても不思議はありません。
 ……確かに珍しくはありますけれど」

 カーリアンから訊いたとでも思ったらしいモナルカは、リウイの語る言葉に問い返すことなく答えた。

 ――そう言われるとそうかもしれない。

 リウイの父グラザも、分類上はブレアードに創り出されたのだから本質は魔族。
 にも関わらず人間族の生活習慣を一通り知っていた。
 彼の場合は人であるリウイの母――アリア・マーシルンを愛したというのもあるだろうが、それならば前例がないわけではない。

「私が許せないのはあの者の目です」
「……目だと?」
「ええ、お気付きか分かりませんが、魔神ルシファーは敵を討つ時、僅かですが雰囲気が変わる。
 あれは超越者の――全てを見下す者の眼差しでしたわ」
「超越者……神か」
「それは多分に不遜な例えですわ。……まあ強ち間違いでもないでしょうし、今は目を瞑りましょう」

 リウイはモナルカの物言いが気になったが、敢えてそれを訊きはしなかった。

「そうです、わね……聖女の話を聞く限りですと、あの者は無益な争いは望まない。
 必要でないのならば人間を殺さないということらしいですが、それはあの者の本心とは思えません」
「……それは何故だ?」
「あの者は確かに人の形をした相手には躊躇いを見せることがあります。
 ですがそれは相手のことを考えてではない。
 何か別の――言うなれば我ら天使が抱える制約のようなものに従った結果、躊躇いが生じている。
 それが、一見しただけでは情けをかける、他に類を見ない魔神のように思わせていると考えられます」

 ――女神アイドス。

 リウイの脳裏に過った魔神ルシファーの半身の名前。

「ですから、おそらく“あの者自身”は人間の生き死に然程興味は持っていません。
 眼前で数十万の無辜の民が死ぬ。
 あの男はそれを成した者を不愉快には思っても、亡くなった人間を悼むことはきっと御座いません」
「それをエクリアは?」
「姫将軍ですわね? 分かっていると思いますわ。仮にも一国の将軍を務めた者が、あれほど側にいて見抜けないはずはない。
 それでも使徒としてあるというのならば、彼女はその全てを受け入れたということでしょう。あの魔神……いえ――古神の全てを」
「モナルカ、お前は……」

 気付いていたのか。

「リウイは私を過小評価しております。あのような目をする者は魔神の域ではありません。
 魔神は厭くまで魔族の延長。対して古神は邪神とはいえ、神に相違ない。
 遥かな高みより全てを睥睨し、人の営みを見ながら一喜一憂して己が軌跡を残す。
 まさに、かの魔神と呼ばれる者の有様そのものではありませんか?」
「では奴は、人の生き死に関してはどうでもいいと思っていると?」
「……姫将軍のような例外もいるようですので、言い切ることはできません。
 ただ、感覚的には我らが魔物を殺すことと同じと思いますわ。
 おそらく本人は意識していないでしょうけれど、彼の人間族への認識は個別名を呼ぶ希少種。
 そしてその他の有象無象というものなのでしょう――それがあの目の正体です」

 そういえばと、リウイは思う。
 魔神ルシファーが関わった人間には共通点がある。
 シルフィア、エクリア、ラピス、イリーナ、そして自分。
 皆、与えられたのではなく、自分で決めた信念を持つ者。
 一方で、苦手としていたリンのことなどは結局最後まで名前で呼ぶことはなかった。

「ですがそのような目をして良いのは我らが神のみ。……ならばあの者は、やはり私が良く知る傲岸不遜を旨とする魔神ですわ」
「それは俺も同じだと思うが」
「貴方は然るべき場においては礼節をお取りになるでしょう。しかしあの者は違う。あの者の盟友である“神殺し”もそれは同じ」

 確かに連中が敬語を使った覚えもなければ、想像もできない。
 魔神ディアーネもそうだった。
 だがそれは彼らの生き方であって、批難すべきことではない。
 要するに、神を第一とするモナルカは気に入らないのだろう――その傲慢な生き方が。

「……話が逸れてしまいましたわね。兎に角、私にとってはあの者はただの魔神以外の何物でもありません」
「なるほどな。……やはり歩み寄れないか?」
 
 モナルカはきょとんとしたかと思うと、リウイに微笑んでみせた。

「魔神ルシファーとは無理でしょうね。我ら使徒たる天使は神を第一とする。彼ら堕天使は自らを由とする。故に相容れない。
 しかし、リウイの行動には聊か興味が御座います」
「……俺に?」
「ええ……魔族ばかりでなく、人間や獣人、果ては精霊にまで好かれるそのあり方。非常に興味深い」
「……まるで実験動物かのようなもの言いだな」
「お気に障ったのならば謝罪致しますわ。ですが、少しだけマーズテリアの聖騎士の言葉を信じてみたくなりましたの。
 人と魔の共存……果たして成し得るか否か」

 モナルカからの試すような眼差しに、リウイは毅然として相対した。
 届かぬ青臭い理想かもしれない。
 いや、未だかつて誰も成したことがないのだから、事実そうなのだろう。
 だがだからこそ挑む価値がある。
 イリーナと共に志した夢――その覇道。

「そのためにお前の協力が必要なんだ、モナルカ。……手を貸してくれないか?」

 その言葉を予想していたかのように、モナルカは正面に向き直った。
 兜の奥に覗く凛々しい顔を見れば、決して激怒したわけではないことが分かる。
 ただ穏やかに前方を見つめていた。
 リウイもそれに倣って前に視線を向けると、丁度メンフィルの兵がマーズテリアの兵と協力して物資を運んでいるところだった。
 当然その中には獣人の兵もいるし、翼持つ大将軍直属の空戦部隊の姿もある。

「あの光景を見ていると、私もついついその夢物語を叶えてみたいと思ってしまいます。
 ……少し、お時間を頂けるでしょうか。我が神リィ・バルナシアの言葉に耳を傾ける時間を」
「無論だ。何も今直ぐ答えをとは言わないさ。急な変化は決断するにも対応するにも難しいからな」
「ふふっ……まさか私がこのようなことを言う日が来るとは思ってもいませんでしたわね」

 天の使者の名に恥じぬ麗しさ。
 光の化身と言われても思わず頷いてしまうような眩い笑みを浮かべ、モナルカはリウイより前に出る。
 リウイはその姿にしばし見惚れ、今後のメンフィルの在り方について思考を巡らせた。

 メンフィルの中立は日和見ではなく、闇にも光にも支配域に侵攻してくるのならば躊躇いなく剣を振るうことで保たれている。
 ならば当然、光の陣営の影響力は少ない方がいい。
 しかし、深凌の楔魔との対決は決定的に成ってきている。
 とすれば、将来的には緩やかに神殿の影響を排除するにしても、今は連携を取った方がいいだろう。

 だがモナルカには、光の陣営と距離を置いた際の窓口になって貰いたいとリウイは思っていた。
 メンフィルに属する必要はないが、緊張を緩和させるための緩衝剤。
 強気な姿勢ばかりでは敵を作り過ぎてしまう。

 となると問題は闇陣営の方だが、これはいずれエディカーヌとは同盟解消もあり得ると考えていた。
 ベルガラートの方はペテレーネという闇側の神官長がいれば、話し合いでどうとでもなるだろうが……。
 ならば国力が回復した後は最悪、中原諸国との貿易のため、他の国との同盟も考えなければならないか。

 だが――

「今はベルゼビュード宮殿と、あのじゃじゃ馬のことだな」

 今のところは問題なく同盟は結ばれている。
 先を見据えて考える必要はあるが、そればかり気にしていても仕方がない。
 ならば目下の問題である宮殿制圧と、放浪癖のある女剣士のことを考えた方が建設的だ。
 先ほども思った結論に再び至り、リウイは苦笑する。

 リウイは幾分歩く速度を速め、モナルカに追いつく。
 宮殿の中心部までもうそれほど距離は無い。
 備えを万全にして臨もうと、兵士を呼びつけ指示を出すのだった。



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