足を踏み入れた場所は、今まで通り抜けてきたどの広間よりも広漠とした空間だった。
光源が乏しく奥の壁や天井すら見通せない。
正面には段差があり、その両脇には空中に浮かぶ燭台が並んでいる。
……おそらくは謁見の間――確か“魔界王子の間”という名だったように思う。
『ねえルシファー、貴方ブレアードのやり方は気に入らなかったみたいだけど、神に挑もうという気概は認めていたわよね』
階段を上るごとに燭台に青い炎が灯る。
自然のものではない。
これは、魔力によって形を成している闇の炎。
『何故そう思う?』
『だって貴方、興味がない相手には言葉を投げ掛けようとすらしないわ。
本当にどうでもいい相手ならば、何も言わずに刃を向けていたんじゃない?』
『……お前に隠しても仕方がないか。ああ、確かに私はブレアードのその野心だけは認めている。
だが、それだけだ。だからといって奴が気に入らないのは変わらない』
『そう……ふふ、ごめんなさい。訊いておきたかったから』
『……そうか』
アイドスとそんな会話をしている間に、段差の半ば辺りまで登っていた。
長い回廊を思わせる広間を更に進む。
そこで漸く私は、玉座へ続くだろう最後の階段の手前に強い魔力と殺気を放つ者がいることに気付く。
「準備はいいか?」
「……相手はどうやら、これまで以上に手強いようですね」
「でもねイリーナ様、戦いっていうのはそうでなくっちゃ。勝てると分かっている相手に挑んでもつまらないだけよ」
「やれやれ、お前らしいというか何というか。……イリーナ、ペテレーネ、お前たちはこうは成ってくれるなよ」
「……それどういう意味よ」
リウイとカーリアンのじゃれ合いじみた会話に苦笑する二人。
だがその精神は既に戦いに向いてるのか、すぐに顔を引き締めた。
「この魔力の性質は古神由来のもののようです。深凌の楔魔とは異なるようですね」
『ルシファーよ、お主ならば何者か分かるのではないか?』
ルナ=クリアの言葉を受けて、ハイシェラが私に尋ねてきた。
魔力の質……この冥い力には確かに覚えがある。
いや、そもそもこいつは“父”の監視役だった男だ。覚えがないはずがない。
「……冥界監察軍、軍団長ネルガル」
「随分と大そうな名だな」
私の呟きを耳にしたらしいセリカが興味無さそうに言う。
彼は握っていた剣をセリーヌに渡すと、道具袋から短剣を取り出し魔力を込めた。
短剣は次第にその長さを増し、青色の柄をした片手剣――ルン・ハイシェラに変わる。
それから私の方に目を向け、心話で戦う意思を伝えてきた。
相手が何者でもやることは変わらないということだろう。私はそれに無言で頷く。
「貴方たち、よく目で会話しているわね」
「俺たち四人は心で会話できるし、目を向ければ意思疎通できているか分かる」
「だから先の戦いの様な難しい連携ができたのね。あんな飽和攻撃の併せ技、ちょっと間違えれば味方まで傷つけ大惨事よ」
「できなければ盟友とは言えないさ」
「なるほど。ならば彼は、貴方にとって得難い朋友なのかしら」
からかうようなクリアの問いには答えず、セリカは顔を背ける。
そんな仕草に、更にクリアは笑みを深くした。
◆
――冷たい風が肌を襲う。
辿り着いた宮殿の玉座――その手前に立ちはだかる強大な魔神。
その者は尋常ではない殺気をぶつけてきたかと思うと、重々しく口を開いた。
「招かれざる客よ、恥も知らずによく我が前に姿を見せたものだな。
余はベルゼブブ公より宮殿を預かりしネルガル。その命、盟約の証として奪わせてもらおう」
貴族然とした物腰の男は、自身こそが絶対者であるとでもいうかのように睥睨してくる。
その正体は私の感覚通り魔神ネルガルだった。
遥かな昔、バビロニアという国で信仰されていた病と苦痛を司る冥界の神。
後にベルゼブブと同じように貶められ、一介の魔神に堕ちた。
冥界においては監察軍の名の通り、警邏部隊の長官を務め――そして、魔界王子から我が“父”への監視役として差し向けられた魔神。
「盟約だと?」
「現神に封じられた余を、戒めから解いた者たちとの盟約だ。
貴様らごときから命を奪うことなど造作も……いや、なるほど貴様が魔神パイモンの申していた輩か」
ネルガルはその深紅の瞳に私の姿を映し、忌々しげな表情を向けてきた。
彼もまた古神に忠義を誓う者。
ラーシェナ同様、現神系神殿に協力する形の私のことが気に入らないのだろう。
侮蔑の眼差しを隠そうともせずに向けてくる。
「ベルゼブブって古神よね。ってことは深凌の楔魔の仲間じゃないの?」
「否……と言いたい所だが、貴様らを排除するために同盟を締結した。現神の封印から解かれた恩もあるからな」
「俺の目的はブレアード迷宮と繋がるこの宮殿の制御だ。邪魔をしないでくれれば戦う理由はない」
「ブレアード迷宮など余の預かり知らぬ事。貴様らを排除した後、勝手に結びつけられた楔は切り捨ててくれる」
カーリアンの問いかけにネルガルは答え、続けて告げられたリウイの意思表明には冷たい怒気を以て対した。
突き刺さるような殺気が更に高まり、今にもこちらに攻撃せんばかりだ。
「ルナ=クリア、こいつも潰していいのか?」
「宮殿に通じているようだから、できれば話を聞いてから再度封じを」
……気に入らない。
確かにネルガルは敵ではあるが、このような忠義の徒に“封印”などという恥辱を与えるなど。
もっとも武人であるラーシェナの誇りを穢し、殺さずに生かした私が言えたことではないか……。
看過できないことではあるが、結局私は何も言わずにクリアを睨んだだけだった。
それに気付いた彼女は不思議そうな顔をし、しかし理由が分かったのか僅かに困った表情になる。
だが謝罪するような真似はしない。
私はそんな彼女の態度に――だからこそ逆に満足して視線をネルガルに戻した。
辱めるような言葉も気に入らないが、だからと言って彼女の気高き信念を曲げるのも気に入らない。
何とも我ながら度し難い性格だ。
「貴様ら如きに敗れる余ではないぞ、痴れ者が。恥晒しのそこな熾天魔王共々、我が手で葬ってやろう」
「……偉そうですね」
「姫将軍だったころのお前も似たようなものだったぞ。立場的にも近いしな」
「そ、それは言わないで下さい」
『くく……だがまあ、刃を交えればどちらが痴れ者か直ぐに分かるであろう』
ハイシェラの言う通りだろう。
どう取り繕ったところで、私たちがこの宮殿を簒奪しようとしていることに変わりはない。
ネルガルからすれば王の財を狙う賊。
最初から決め付けては争うしかないとはいえ、こちらも退くわけにはいかないのだから戦う他ないのだ。
「私たちは簒奪者。お前は守護者。互いの立場故に、どう会話を交わそうが相容れるはずもない。
ならば、戦って雌雄を決するしかないだろう」
「ふん、恥晒しの割に道理は分かっているようだな。
その通りだ。下らぬおしゃべりはここまで。これ以上光の現神の僕どもをのさばらせぬ」
私の物言いに獰猛な笑みを見せる。
ネルガルはその人とはかけ離れた黒い腕を緊張させて、さっと横に振るった。
瞬間、空間を切り裂くようにして巨大な鎌が複数広間に出現する。
ネルガルの所持する得物……名前は――暗黒鎌キル・ドレパノン。
それを見て取った私たちは、誰一人として油断することなく身構えた。
「冥界監察軍団長ネルガル、貴様らを冥府の深淵へと送ってくれる!」
◆
キル・ドレパノン――それは確かに大鎌の形をしてはいるが、その実態は魔神ネルガルの能力。
ディアーネの扱う暗黒槍同様、ネルガルを倒さない限り無限に出現する厄介な代物だ。
無論それだけではない。
「な――これは……」
エクリアの驚きも無理はない。
魔神ネルガルの左右を漂うように浮いていた魔鎌が、ネルガルが指を鳴らしたかと思った瞬間、激しく回転しながら迫ってきた。
当然これを避けたところで、ネルガルの側に新たな魔鎌が出現するだけ。
しかしそんなことはディアーネの戦いぶりを知っていれば分かることだ。
エクリアの驚愕の原因は、その魔鎌の破壊力にこそあった。
標的を外した魔鎌はそのまま宮殿の床に着弾。
木端微塵に砕け散った堅い鉱物が、粉塵となって視野を覆い隠した。
やがてその粉塵が晴れ、魔鎌の生み出した惨状が現れる。
円環状にごっそりと抉られた床に、しばし言葉を失った。
直撃を受ければ無事ではすまないどころではない。――確実に命を失う。
――が、当然ながら弱点も存在する。
どうやらこの魔鎌、ディアーネの魔槍よりも威力は高いが連射力はないらしい。
一度に出すことができる数は最大で二本まで。
次の射出には多少時間がかかるようだ。
ただし、そう思わせる策かもしれないが。
「どうした。よもやその程度ではあるまいな」
人間の顔から皮を剥いだような容貌に嘲笑を浮かべ、ネルガルは三本目の魔鎌を今度は自身の手に取り一閃。
衝撃波を生み出し、攻撃に晒されていなかったリウイとイリーナを狙ってきた。
「……くっ!」
キル・ドレパノン事態に、ディアーネの暗黒槍のような特殊効果はない。
しかしその圧倒的な破壊力故に、特殊効果などなくとも十分脅威に成り得る。
……力の出し惜しみなどしている場合ではないか。
「やれやれ、よりにもよってマーズテリアと我が共闘する羽目になろうとはな」
「そう不貞腐れるな。代わりに思う存分力を振るって構わない」
「……まあ良かろう。貴様の中で傍観するというのも、いい加減飽きてきたところだった故な」
黒翼を展開し、魔力を解放すると同時に魔神ディアーネを召喚した。
モナルカ辺りが五月蠅そうだが、仕方がない。
おそらく単独で戦っても負けはないだろう。
しかし完全に力を使い果たし、マーズテリアにネルガル諸共封印される可能性もある。
生憎、私はセリカほどルナ=クリアを信用してはいない。
「む、お主何処かで見たような気がするが、誰だったか……なんぞ分からんがイライラするぞ」
「えっと、よ、よろしくお願いします。ディアーネ、さん」
性魔術でフェミリンスに連なる者の記憶を封じてあるため、ディアーネにエクリアに関する記憶はない。
少し術式を間違ったせいか、リウイの記憶まで飛んでしまったようだが……まあいいか。
喚び出されたディアーネは、対峙する相手を認識すると同時にややその身を強張らせた。
しかしすぐさま状況を把握すると、暗黒槍を無数に出現させ、ネルガル目掛けて射出する。
「我が助力してやるのだ。敗北など許さぬぞルシファー」
「ああ、頼りにしている」
「ふん、任せておけ。我が魔槍、受けてみよ!」
ディアーネの号令を以て、虚空に浮いた暗黒槍が先を競うように魔神ネルガルに殺到する。
――が、当然ネルガルとて黙ってそれを傍観しているはずもない。
新たに出現させた魔鎌の一投を以てその全てを迎撃してしまう。
しかし隙を作るにはそれで十分だ。
如何に強力な魔神と雖も、一方向からの攻撃ならば受け流す手段もあるだろうが、多方向から同時に襲撃されれば打つ手などない。
リウイとセリカが走り込み、魔法剣“エクステンケニヒ”と“雷光地烈斬”を叩き込む。
フェミリンスの力を宿すリウイの魔法剣がネルガルの腕を貫き、雷の秘印術を纏ったセリカの剣技が身体を引き裂く。
続け様エクリアが冷却、イリーナが神聖、セリーヌが火炎の秘印術で追撃。
「痴れ者どもがっ!」
反撃を許さない猛攻に、ついに怒りが臨界を迎えたようだ。
深紅の瞳に紅蓮の炎が燃えるかのような憤怒を宿しネルガルが吼える。
だが戦慣れした魔神ともあろう者が情けない。
心を乱した時点で敗北は必定となることなど承知だろうに。
長きに渡り封印されていたせいでそんなことすら忘れたのか、ネルガルは手当たり次第に魔鎌を召喚して投擲を始めた。
「……興ざめだな」
ディアーネの言葉も分からなくはない。
感情に任せて放たれる攻撃に戦術性など皆無。
避けることなど容易く、もはや恐れる必要もない。
振るわれる鎌の猛撃の合間を縫うようにモナルカが突き進む。
大剣の一撃を振り下ろしたかと思うと、怯んだネルガルにカーリアンが高速の三連撃を放った。
ネルガルの巨躯がゆっくりと傾いでいく。
だが、未だ彼の戦意は失われていない。
ベルゼブブへの忠義は本物というわけか。ならば……。
『アイドス、力を借りるぞ』
『残りの魔力量から考えて、最大出力の二割くらいが限度よ……』
『十分だ』
行動を開始する前に、私はエクリアに声をかけた。
私の一撃で決まらなかった場合の保険。
他の者でも構わなかったのだが、セリカやその使徒であるセリーヌにはあまり魔力を使わせたくはない。
クリアは先の魔神の自爆を防いだ結界が響いているのか、ほとんど魔力が残っていない。
リウイ達はネルガルの迎撃に専念し、大技を出せるような状況にはないため、エクリアが適任だった。
「“原罪の覚醒”……いけそうか?」
「あれはフェミリンスを起源としてますので……魔力収束に多少時間がかかりますが大丈夫です」
「分かった、時間は私が稼ぐ。攻撃後、続け様に放ってくれ」
「承りました」
エクリアの返答に一度だけ頷くと、私は時折繰り出されるネルガルの暗黒魔術を避けながら左手に魔術印を組んだ。
構築した術式は、私が最も得意とする超重力を発生させる神聖魔術“闇の牢獄”
同じ重力を操作する秘印術“ケール=ファセト”よりも、相手の精気を吸収する効果が無い分威力は落ちる。
しかし代わりに範囲が広く、消費魔力も少ないため使い勝手がいい。
解き放たれた重力魔術は、狙い違わずネルガルを拘束する。
彼を地に縛り付け、その床さえも崩壊させていく。
しかし、甘く見ていたのは私も同じだったらしい。
予想以上にネルガルの抵抗が強い。
「大した奴だ。あれほどの攻撃を受けてなお余力があるとは」
「……ほざけ裏切り者めがっ!」
「何とでも言え。私が選んだ道だ。……だが、そのベルゼブブへの忠義心には敬意を表そう」
「貴様は……」
「その証をお前に見せよう」
神剣に新たに、神聖魔術を宿す。
集う光の奔流の凄まじさにか、今の今まで闘争を続けていた者たちの動きが止まった。
エクリアだけが私の指示に従い、彼女の誇る最大魔術の準備を行っている。
――今までにこの魔法剣を、アイドスの力を合わせた完全な形で放ったのは、ただ一度しかない。
アイドスと私の、絶対の絆の証。これは浄化の力を宿す神聖魔術。
その苛烈なる輝きが、魔界王子の間の全域を照らし出した。
しかしそれも一瞬のこと。
瞬時にその光の全てが神剣に宿り、女神アイドスの魔力と融合することで、更なる輝光となっていく。
「暁闇の明星……その赫奕、確と仰げ」
――スペルビア・ヒュブリス。
渾身の力を込めて両手で振り抜いた、神剣アイドスによる斬撃魔術。
閃光へと変換された大魔力が、稲妻の如き速度と熱を以て標的を薙ぎ払う。
その斬撃より逃れようにも、重力魔術によって拘束されたネルガルは動くことができない。
――直撃。
全てを焼き尽くす殲滅の光。
しかしそれで終わりではない。
そう、まだエクリアの攻撃が残っている。
「最高の位置!」
エクリアの魔術――原罪の覚醒。
純粋魔力の始祖を凝縮し、擬似的に小型の星の核を創りだす大魔法。
その高純粋の魔力球が内包する破壊力を真面に受ければ、たとえ神ですらも無事ではすまない。
当然それは魔神であるネルガルにも云えることだ。
「これで決める――っ!」
目も眩むほどの白光に呑み込まれていくネルガル。
やがて、その輝きが幻であったかのように消えていく。
後に残ったのは完膚なきまでに破壊された謁見の間と、
「……おのれ……」
もはや身体を維持することが精一杯といった風体の、満身創痍の魔神。
――そして、その男は現れた。
「御身の輝き、確かに拝見させて頂きました。しかし、困りましたね」
「……パイモン」
◆
玉座の間に響いた声に振り返る。
その場にいる誰もが注目する中、線の細い男――魔神パイモンが悠然と高台となっている玉座の側から見下ろしていた。
さも面白いものでも見たとでもいうように、顔には愉悦混じりの笑み。
「ご無沙汰しております。そしてルシファー様、先ほどはどうも」
パイモンの物言いに私は眉を顰めた。
なるほど、この男は私の性格を把握しつつあるらしい。
パイモンの言葉を聞いたルナ=クリアやリウイが、不審げな視線を向けてくる。
……それも当然だろう。
私はラーシェナと戦ったことは別にして、パイモンに会ったことまでは彼らに言っていないのだから。
「……何のようだ?」
取り合えず疑念は棚上げする気になったのか、リウイがパイモンにこの場に現れた理由を問い質した。
パイモンは私に意味有り気な眼差しを一度向けると、リウイに向き直って問いに答えた。
「折り入ってご相談に上がりました。陛下、今からでも私たちと組み、光の神殿とは手を切りませんか?」
「以前も言ったはずだ。俺はお前たちの力を借りる気はない」
「しかし、光の神殿は所詮貴方を利用しているだけ。本当に信頼に値するでしょうか」
「……少なくとも、聖女は信用できると考えている」
リウイとて、パイモンの言葉が正しいことくらい分かっている。
敢えてこの場で言わないのは、余計な不信感を与える必要はないからだ。
一応は協力関係にある聖女の眼前で、マーズテリアは信用していないなどと言う為政者はいまい。
「そうですか、残念です。まあ、予想はしていましたが」
「……ならば何故出てきた?」
「いえ、貴方ほどの人物と手を組めるのであればそれに越したことはないですから、一応の確認ですよ」
「……逆に俺からも確認していいか?」
「何でしょう?」
「我が傘下に降る気はないか。こちらは戦いを望んでいるわけではない。お前たちが恭順するのならば――」
「――私たちと陛下の思想が合致しない以上、それはできない相談ですね」
「そうか、残念だ」
言葉とは裏腹に、リウイはその覇気をより高め、パイモンを睨む。
事実上の宣戦布告ということになるのだろう。
先の問いは、最後の確認といったところか。
「宮殿は一時預けておきましょう。またいずれお目に掛かる機会を楽しみに……。それからルシファー様」
「……何だ?」
「私は“アレ”を復活させることのできる者が現れるまでは、動かないつもりです。どうぞご安心を」
「……そのような者が、本気で現れると?」
「ええ、私は思っています。例えば貴方も、そしてメンフィル陛下もその可能性を持っている。……ふふ、では失礼致します」
僅かに訝しげな表情をしたパイモンの姿が、闇の中に消えていく。
私はそれを、ただじっと見つめていた。
◆
魔神パイモンが去ってからほどなくして、メンフィルと同盟軍の部隊。
そして、マーズテリアの騎士と天使などの主部隊が宮殿の中庭に目立ち始めた。
ディアーネはそれを嫌ってか、悪態を吐きながら召喚石に戻った。
その直前、天使モナルカと一触即発の事態になったのだが、モナルカの方はリウイが、ディアーネの方は私が諌めることで落ち着いた。
……まったく、血の気の多いのも考えものだな。
それから、宮殿を制圧したマーズテリアの一団は魔神ネルガルの封印に取り掛かった。
彼らの神聖魔術によって形成された聖域。
拘束具を掛けられ、膝を屈したままの魔神は完全にその機能を停止している。
その際、彼らを白眼視する私が余程気に入らなかったのか、天使の部隊などは露骨に私に敵意を向けてきた。
ルナ=クリアの命があるため、流石に斬りかかってくるようなことはなかったが、あまりこの場にいるのは好ましくないだろう。
いい加減鬱陶しくもあったので、私はその場から離れ宮殿の外郭に出た。
宮殿から離れると喧騒は遠退き、静寂と厳かな宮殿の趣深い光景が広がっていた。
この場にいると不思議と心が落ち着いてくるのは、この身がサタンの精神を受け継いでいるからなのか。
背中の神剣に宿るアイドスも、何処となく心地良さそうにしている気がする。
「……エクリア、イリーナとは話せたか?」
「ええ、女の子が生まれたそうで、嬉しそうに話してくれました」
『本当に!? それは喜ばしいわね』
何とはなしに訊いたことに、思いもよらない答えが返ってきた。
女児ということは後継者ではないのだろうが、これでメンフィルは安泰というわけか。
「……ただ、シルフィア様やラピス様、ティナさんたちとの間にも御子がいらっしゃるとのことでしたけど」
『それは……』
あいつも王族だから分からなくもない。
近衛騎士のシルフィアや、セルノ王国王女のラピスを妾にするのは、将来的に帝政への移行を考えているのならば寧ろ政略的に正しい。
しかし、ティナというのは確かイーリュン神殿の神官で、メンフィルの臣下というわけでもなかったはずだ。
……聊か節操が無さ過ぎではないか?
「それで散々愚痴を言われてしまいました」
「私も覚えがある。メンフィルで厄介になっていたころは、度々私の部屋を訪れて愚痴を言っていた。
……セリカはいつの間にかいなくなっていたがな」
「あの子は……」
呆れたような顔でエクリアが呟いた。
『でも、子供か……』
「……無理だからな」
『分かってるわよ。……でも、エクリアだって欲しいわよね?』
「ッ!?……ッ??!?」
赤色プテテットのような顔色をしながら、エクリアが声にならない叫びを上げた。
アイドスにも言えることだが、やはりこの女は見ていて飽きないな。
「ここにいたか」
……噂をすれば何とやらだな。
難しい顔をしたリウイが宮殿の中から姿を現した。
「部隊への指示はもういいのか?」
「いや……一応お前たちにもこの宮殿の扱いを伝えておくべきだと思ってな。神殺しには聖女が伝えている」
「あいつは興味などないと思うぞ」
「ふっ……違いない。だが、世界の敵であるお前たちとマーズテリアが協力していたんだ。何か約定でも結んでいたのではないか?
おそらく、その確認も含めてということだろう」
私の予想が正しければ、それだけでもないだろう。
……まあいい。
「それで――本当は何を訊きに来たんだ?」
「……率直だな。まあ、お前らしいか」
苦笑して――しかしすぐに真剣な表情でリウイは私を睨む。
さり気無く腰のレイピアに手を置いているところを見ると、虚偽は許さない。
最悪、敵対するのも厭わないといったところか。
「お前には命を救ってもらったという恩がある。だが、それとこれはまた別の話だ」
「前置きはいい。パイモンの言葉なのだろう?」
「……そうだ。お前とパイモンの関係を教えて貰えるか?」
「いいだろう」
あっさりとそう返した私にリウイは拍子抜けしたのか、当惑したような顔になった。
大方話し辛いことだとでも思っていたのだと思う。
まあ、実際その通りなのだが、マーズテリアの連中がいないこの場ならば問題ない。
「私とあいつの関係は、謂わばお前と……そう、ケルヴァンの関係に似てる」
「……ケルヴァン、だと?」
「ああ。あいつは私の“父”とでもいうべき存在――サタンの忠臣だった男だ」
「なるほど。……では、やつの望みもケルヴァンと同じということなのか」
「そう思っていいだろう。もちろん、お前もその候補になっているようだぞ」
人類への恨み故に我が父と共に戦に臨み、唯一神との休戦後、ある事件がきっかけで人間の女を愛してしまった天使。
そしてそんな自分の過去を――人への恨みから反乱を起こし、イリーナと出会うことで考え方を変えたリウイに重ねている。
リウイにも“我が父”の面影を見ながら、自分のかつての姿も見出している。
だからこそ、あいつはリウイもまた闇の王候補と考えているのだろうな。
「それは皮肉のつもりか? ……いや、まあいい。それで、お前は奴の思惑に乗る気はあるのか」
「ないな。闇の王などに興味はない」
「……そうか」
私の即答を聞いて彼はどう判断したのか。
覇王である彼は断じてお人好しや考え無しではない。
いくら妻の姉が使徒になっているとはいえ、多少の警戒はするだろう。
それは決して悪いことではない。
人を知ろうとすれば、疑問を持つのはむしろ当然のことだ。
とはいえ、それを向けられる当人ともなれば、良い気分などするはずもないわけだが。
「……ベルゼビュード宮殿だが、一先ずブレアードと魔神を排除したことで連中は満足したらしい。
メンフィルがこの地を管理することで合意した。尤も、連絡役は残すそうだが」
「監視役の間違いではないのか」
「否定はしない。俺もそう簡単に信用されるとは思っていないし、できるとも思っていない」
リウイは歩を進めると私に背を向けた。
頭を上げ遥か遠くを眺めるその姿は、届かぬ高みを望む愚者。
しかし――
「だが俺は、イリーナと共にこれからも理想を追い求める。
例え俺一人では無理でも、あいつが――俺を慕う者たちがいるならば迷うこと無く進んで行ける」
「険しい道だぞ。お前のその考えに賛同するものばかりがいるわけではない」
「それでもだ。相容れぬものがいるのならば、俺は己が覇道を以て退ける。邪魔する者は誰であっても赦しはしない」
――例えそれがお前であっても。
リウイはそう言うとこちらに振り返った。
「そういえば報酬だがな、カーリアンは引き取っていいんだな?」
「……居辛いだろう、一人身では」
『まあ……確かにそうよね』
私がそういうと、リウイはふと私の隣にいるエクリアに視線を移した。
口元を僅かに歪め、妙に納得したように頷いた。
「あいつは睡魔の血統でもあるからな。確かにそうかもしれん」
「……メンフィル国王陛下、何を想像なさったのですか?」
「さて、何だろうな。義姉さんの想像に任せよう」
そんな戯言をリウイは言って、指示があるからとその場を辞した。
◆
「お疲れ様。メンフィル王と話をしていたようだったけれど」
「ああ、魔神パイモンの事で少しな」
「そう……」
宮殿の庭――私とエクリアがいた場所から少し歩いた場所。
私たちが来たことに気付いたルナ=クリアが、セリカたちとの会話を中断して声をかけてきた。
崩れ落ちた柱に座るセリカが立ち上がり、セリーヌがすっと控えるように側に寄った。
「こちらもいろいろと話をさせてもらったわ。盟約のこと、それとセリカは使徒を大事にしていることもね」
「えっと……」
「ふふ、私は貴女が羨ましいのかもね。使徒でいるならば、ずっとセリカの側にいられるもの」
「それはマーズテリアの聖女としていいのか?」
セリカの疑問も最もだ。クリアも随分と大胆な発言をする。
エクリアやセリーヌなど、信じられないとでもいうように目を見開いている。
「神に仕える私でも、一人の男(ひと)と添い遂げたいと思ったこともあるわ」
冗談なのか、そうではないのか、クリアの表情からは真意を掴みかねる。
「きっと神殿が知ったら破門ものね。
……最近、自分の選んだ途に殉ずることを決めた女(ひと)に出会ったから、感化されてしまったのかしら」
……シルフィア・ルーハンスのことだろう。
確か子も生まれたという話だから、神格位剥奪はそう遠くないのだと思う。
「ならお前も俺の使徒になってみるか?」
「せっかく貴方の側にいるのなら……いいえ、そういう生き方もいいのかもね」
セリカの戯言に、今度こそ冗談めかしてルナ=クリアは答え、エクリアとセリーヌに視線を向けた。
「でも知ってる? マーズテリア様は異端に属する女神を娶っているのよ」
『……ただの女好きじゃないの?』
アイドスの辛辣な言葉が聞こえたわけではないだろうが、クリアは私の方に顔を向け少し困ったように微笑んだ。
「古神の前でこんなこというのもあれだけど、もしも私と貴方が結ばれてもマーズテリア神は褒めてくれるかもね。
その時はセリーヌさんとセリカを支えることになるだろうから、今のうちに仲良くなっておこうかしら」
「……ルナ=クリア様って、結構お茶目だったりします?」
「どうかしらね。騎士たちにはそんなこと言われたことはないけど」
……それはそうだろう。
驚くように言うセリーヌに、ルナ=クリアは微笑む。
あれはまた何か言う気だな。
「いっそマーズテリアに嫁いでいいか訊いてみたらどうだ?」
「機会があればそうするわ。……でもその前に、セリーヌさんの許可が必要かしらね」
「ル、ルナ=クリア様っ!?」
そんな他愛無い会話をセリカたちが続けていると、リーフがクリアを呼びに来た。
メンフィルとの連携について質問があるらしい。
セリカはそれを見て、これ以上ここにいても仕方がないと判断したらしく、この場を立ち去ることを提案してきた。
特に異論はなかったので、エクリア共々同意する。
――と、
『……』
『どうかしたかアイドス?』
『……』
『アイドス?』
『え? ……ごめんなさい、何かしら?』
『いや、何か様子がおかしかったから』
『そう? もしかして心配してくれたのかしら?』
『……ああ』
『ありがとう。でも大丈夫。何でもないわ』
『……ならいいんだが』
アイドスから伝わった感情に、常とは違う印象を受けた。
それでも本人は何でもないと言う。
……しかしこれは直感だが、少し気にしておいた方がいいかもしれない。
ベルゼビュード宮殿でのリウイたちや深凌の楔魔との邂逅。
それがどれほどの影響を私たちに与えたのかは――各々に去来する思いは、例え神であっても分からない。
だが三百年来の古き知人、そしてレスペレントを動かした時代が選んだ英雄との再会。
それは何か大きな事件が起こる前触れ――嵐の前の静けさなのではないかと、私は感じていた。
だとするならば、聖女との三度目の再会はそう遠くはあるまい。
私は怪訝そうにしているエクリアの肩を軽く叩き、先に歩を進めたセリカの後を追う。
メンフィルはこれから、深凌の楔魔との全面戦争に入るだろう。
協力関係にある光神殿の動きも活発化する。
ならば、敵はマーズテリアだけではないのだから、ケレースの奥地に身を隠した方がいいかもしれない。
ふと立ち止まり、私はベルゼビュード宮殿の内装に目を向けた。
この地で再び共に戦ったあの男――リウイ・マーシルンとの次の再会は果たしていつになるのか。
その時、あの強壮の賢王が敵ではないことを祈るばかりだな……。
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