北ケレース地方、その中核に位置する地の地下空間。
光すら届かぬ闇の領域に、その建造物は禍々しい魔力を纏って存在していた。
ディル=リフィーナにいくつか存在する地獄の一つ。
かつて大魔術師ブレアード・カッサレが、二度目の女神との戦から使用した古き迷宮。
そして現在は、世にヴェルニアの楼と呼ばれる深凌の楔魔の居城である。
「あはははっ! あれほど威勢よく出ていったにも関わらずその様とは、深凌の楔魔第三位の名が泣くのではないか!」
闇に覆われた広大な空間に響く哄笑。
その主の名は魔神ゼフィラであった。
マータ砂漠の粛鎖の岩塩坑よりラーシェナに同道してから、彼女はこれまで拠点防衛の任に当たっていた。
一方、そんな彼女の罵倒を受けるラーシェナ。
ヴェルニアの楼を彼女に任せてベルゼビュード宮殿に出向いたわけだが、その結果は――
「それだけぼろぼろにされた挙句、神核にまで傷を負って……無様なものだなっ!」
「くっ……!」
片膝を付くラーシェナは何とかゼフィラに言い返そうとするが、声を出すのも苦痛で返せない。
それどころか、立っているのも辛いのだ。
それでも隣に並ぶように立つパイモンの肩を借りようとしないのは、武人としての矜持故か。
少し離れた場所では、少女のような姿の魔神エヴリーヌが、心配そうにラーシェナを見ている。
天真爛漫で無邪気な彼女には珍しいことであったが、姉妹のように仲が良かった二柱だ。
どう声をかければ良いのかエヴリーヌは戸惑っている様子だったが、結局、口を開くことはなかった。
「その辺にしておけ。今は仲間内で争っている場合ではない」
厳かな声が広間に響く。
悍ましい杭で串刺しにされ、姫神化したまま石化されているフェミリンスの像。
その直ぐ傍に鎮座する、巨大な黒き魔神の言葉だった。
流石にフェミリンスほどの大きさはないが、それでもその図体は小さな山ほどもある。
「……ザハーニウ」
彼こそは深凌の楔魔、そして北ケレースに生きる全ての魔族の指導者。
楔魔の序列にして第一位にある、魔神ザハーニウであった。
安楽椅子に腰かけたザハーニウは名を呼んだパイモンに重々しく頷くと、彼に問いを投げ掛けた。
「メンフィル王は、やはり光の神殿に付いたか?」
「いえ、中立を保っているようです。光の神殿との協力も利害が一致したため。
風女神神殿に屈したとの噂もありましたが、どうも天使に協力するのではなく、協力させようとしているようでした。
……相変わらず、興味深い御仁ですよ」
「中庸的な道……であるならば、儂の見込み違いであったのかもしれぬな」
「それはどうかは分かりませんが、我々に下れと言ってきましたよ。少なくとも、剛毅な人物であることは間違いないようです」
「……宣戦布告か」
「ならば望み通り迎え撃ってやればよかろう!」
ザハーニウの呟きに、ゼフィラが言う。
本来ならば思慮のない若輩者の戯言とザハーニウは一蹴するところであったが、状況が状況だけに、ゼフィラの言う方法しか道はない。
それは他の楔魔にしても同じようで、ラーシェナは刀を支えに立ち上がり、その目に闘志を燃やす。
エヴリーヌは表情に喜悦を宿し――
「俺も同意見だ。いい加減、このような穴倉で縮こまっているのにも飽きた」
全身が炎で形成された、今まで沈黙を保っていた灼熱の魔神が口を開いた。
その姿は魔族というよりむしろ精霊に近く、実際彼は燐炎に包まれた霊体の魔神であった。
マータ砂漠の南にあるケテ海峡――そこから更に進んだ崖沿いにある、霞の祠と呼ばれる人工的な洞窟の最奥。
リウイたちがベルゼビュード宮殿に出向いている隙を突いて救出された、未だこの世に留まっている残り二柱のうちの一柱。
――序列第二位、カフラマリア。
「ザハーニウよ、まずトリアナ半島――楔の塔を抑えなければなるまい。
……あそこにはカファルーがいる。それに、メンフィルにあの地を取られては、結界を強化されかねん」
「それは儂も考えていた。しかし、軍を動かすにも時間がかかる。
それに相手はメンフィルだけではないのだ。光の神殿の動きも牽制しなければならん」
「ならば、光の陣営に対してのみ攻撃を行い、メンフィルには内部の闇夜の眷属を先導するに留めてはどうだ?
俺たちがメンフィルに攻撃を行わなければ、光の神殿にも猜疑心が生まれよう。
メンフィルは魔神の味方……故に楔魔は攻撃を神殿にのみ集中しているのだとな。
幸いにしてメンフィルは中庸なのだろう? ならば、こちらから謀略をしかけてやれば、奴らはその鎮圧に手間取るはず。
しばらくは光の神殿に満足な加勢もできまい。それに……」
カフラマリアはラーシェナを一瞥する。
意図するところを察し、ラーシェナは悔しげに顔を歪めた。
「将を一柱、欠いた状況ではな……」
「……ふむ」
魔神カフラマリア――その力は、実のところ楔魔の中で最上位に位置している。
ザハーニウが第一位にあるのは、厭くまで彼の特殊な出生故のことでしかなかった。
それは、ザハーニウが神の墓場で生まれた魔神であること。
魔術師ブレアード・カッサレは自身を閂としてザハーニウをラウルバーシュ大陸に留め、その力を利用。
三神戦争で敗れて神の墓場に落とされたラーシェナやパイモンを復活させた。
そして彼ら配下の魔獣は、その際に智将パイモンの知識を得たブレアードの魔術によって創り出された生物。
結局のところザハーニウの力無しでは実現できなかったことなのだ。
故に彼は二位のカフラマリアに実力で劣りながら、第一位の座にある。
無論、実力がなければ魔族には認められないため、劣るといってもほとんど差はない。
そして、そんなザハーニウに並ぶ力を有するカフラマリアは、軍略の面でも秀でていた。
流石に専門であるパイモンには劣るが、子供のようなエヴリーヌや、策を用いることが苦手なゼフィラとは違い、将の器を持っている。
ただ、戦闘時にはその本質故にか熱くなり過ぎる癖がある。
それ故ブレアードに女神との三戦目にて、女神以外を抑える囮に使われてしまう。
そしてヴェルニアの楼の封鎖後に、そのままフェミリンス側に封印されてしまったのだった。
だからブレアードに対する恨みは深く、逆にフェミリンスには好敵手という印象を持っている。
ラーシェナの高潔なそれではなく、もっと獣の本能のような闘争心からくる感情であったが。
「……パイモン、どう思う?」
「良いのではないでしょうか。誘導に関しては、私の方で手を打っておきます」
「……任せる」
結局、こちらから打って出ることは見送りとなった。
ゼフィラはその方針に不満を示すが、エヴリーヌはラーシェナを気にしているということもあり、特に文句を言うことも無い。
「……してパイモン、お前やラーシェナが執心していた魔神ルシファーとやら、見込みはありそうなのか」
「いいえ、私の目も曇ったようです。かの御仁には、闇の王になる資質はありませんでした」
「そうか……? ラーシェナに負わせた手傷、大したもののようだが」
「ラーシェナさんも油断していましたからね。そのせいでしょう」
「……そうか。お前が言い出したことだから、期待しておったのだが……仕方あるまい」
それきり、魔神ルシファーについての話題が出ることはなかった。
ただ一柱、ラーシェナだけがパイモンの言い様に戸惑っていたが、気付く者はいない。
ルシファーは確かに光の陣営としてベルゼビュード制圧に参加していた。
結果として敵対したが……だからといって、パイモンが興味を失うなどあり得ない。
なぜなら、魔神ルシファーはあの方の正当な後継者。
命を選別した傲慢さは、間違いなく闇の王の器のはずだ。
にも関わらずパイモンはなぜ――。
◆
深凌の楔魔――その布陣は完璧だった。
ブレアードの二度の消滅によって閂を失ったとはいえ、ザハーニウの実力は並みの魔神を寄せ付けない。
それに匹敵、或いは凌駕する灼熱の魔神カフラマリア。
他の魔神たちも彼らに並ぶ実力の持ち主だ。
故に、もしも彼ら自身にメンフィルとの戦の敗因があったとするならば、魔神パイモンの思惑を見抜けなったことだろう。
パイモンの目的はたった一つ――魔王の復活のみ。
そのためならば、どれほど犠牲を払おうと知ったことではない。
ならば最終的に楔魔が敗北することになったとしても、パイモンは新たな王さえ現れればそれで良いと考えていた。
――いや、後々の行動の為に、ゼフィラさんやエヴリーヌさんの心象は良くしておいた方がいい。
ラーシェナさんは……あの人も自分とやり方の方向性は違うが、同じ主を求めているはず。
――魔神パイモンは一人思う。
自身の想像が確かならば、ルシファー様ほどあの方の後継者に相応しいものはいない。
例外は確かにあるかもしれないし、事実当初はそうだと思っていた。
しかし、如何に力を有していたとしても、個として完成された魔神が別の魔神の記憶。
それだけならまだしも、その“特性”までを継承できるなどあり得ないのだ。
それに古き主はいったいどうやって、無限に存在する異空間。
その一つからルシファー様の居場所を見つけ出したのか――そして、興味を持ったきっかけは何なのか。
だがたった一つだけ、その問いの答えに至る道理が存在する。
それは――
「パイモン、それで光の神殿への対応だがな――」
ザハーニウの呼びかけに、パイモンは考えを振り払った。
どのみち、ルシファー様が魔王になるきっかけを作るには“人間の手”でアイドス様を討ってもらわなければならない。
そう、きっかけだ。
あの最後の邂逅で見せたあの方の目を見る限り、もうそれだけでは魔王にはなるまい。
ならば……
機会があるとすれば、マーズテリアの教皇が代替わりしたその時。
それまでは、何とか生き延びなければならないだろう――流石に同朋を囮する気はないが。
魔神ゼフィラと魔神エヴリーヌに協力を求めつつ、この戦に生き残る。
常と変らぬ微笑の中にそんな思惑を押し隠し、パイモンは今後の方針を話し続ける魔神たちの会話に入っていった。
◆
ベルゼビュード宮殿を巡る争いより、幾年かの歳月が流れようとしている。
かの地の支配権争い――それはレスペレント諸国家とマーズテリアの協力により、メンフィルの勝利で終わった。
そこに、魔神とメンフィルの協調を良く思わない光の神殿側の思惑があったことは否めない。
しかし幻燐戦争期での大封鎖などの経緯もあり、光の神殿とメンフィルの連携は、衝撃を持ってレスペレント全域に伝わった。
各国上層部は、決して予想できなかった結果というわけではないだろう。
メンフィルが掲げる思想は光と闇の共存。
故に、王国にとって利があれば、メンフィルは神殿との共闘もあり得る。
その逆――楔魔との共闘もまた然り。
何れにせよレスペレントの平穏を第一に国王は考えるだろうというのが、諸国家の見解だった。
しかし、そんな思惑など知らない民草はそうはいかない。
光の神々の信仰者である人や国の中には、闇夜の眷属をも国民とするメンフィルに嫌悪感を持つ者もいる。
同様に、闇夜の眷属はかつてフェミリンスに虐げられたという前例もあるため、光の神殿への憎悪は捨てられない。
闇の者は当然国王に不信感を持つだろうし、光の者はメンフィルとの連携などできるのだろうかと不安に思う。
そういった問題を抱えながらも、メンフィルと光の神殿の連携は、表面上は大きな問題もないように進められていた。
一方、メンフィルより東方――深凌の楔魔が支配する北ケレースの魔族らも動きを見せる。
先のベルゼビュードでの問答を宣戦布告と受け取った魔神ら。
彼らはメンフィルを光の神殿に組した裏切り者と罵倒し、露骨な敵対行動を取り始めた。
北ケレースとメンフィルの間には、イウーロ連峰という天然の城塞がある。
故に実際に被害が出ているのは、連携を打診してきた光の神殿側のみ。
しかしながら、逆にそれがメンフィルに対する不信感を抱かせることになった。
メンフィルは魔神らと密約を結んでおり、神殿側が弱るのを待って裏切るつもりなのではないか。
公の場で言われたわけではないが、前例として光のカルッシャを裏切り、闇のメンフィルに嫁いだ王妃の存在もある。
レスペレント諸国家へのカルッシャ王国からの、イリーナ王女奪還を大義名分とした対メンフィル同盟締結の申し出。
その後、イリーナ王女がメンフィルの妃となり、大義名分を消失し国政が混乱した経緯は、その人柄がどのようなものであれ事実。
幻燐戦争の勃発で有耶無耶になっていたが、ここに来てその猜疑心が再び生まれ始めていた。
それを見逃すほど、深凌の楔魔は愚かではない。
戦争の気運の高まりにより、警戒を強化したメンフィルを嘲笑うかのように多発する内乱未遂。
魔神らの甘言に踊らされ、他国に軍の視察に出向いた国王の暗殺未遂、もしくは貴族や将軍の暗殺などが起きていた。
無論、それを黙って見ているメンフィル王ではない。
カルッシャ王国のかつての宰相サイモフの旅に同道していた、ティファーナを幻燐戦争時代の英雄として呼び寄せる。
またマーズテリア軍を率いる聖女と士気を高めるために共同作戦を決行する。
取り得る限りの手を尽くし、神殿と辛抱強く手を取り合い、魔神らを封じ込めるべく作戦を継続していた。
そしてついに、西カルッシャの支配権を譲渡する方向で話を進めていたこと。
その甲斐もあってか、西方諸国との関係を改善したメンフィルは、魔神領に攻め込む足がかりを得るための準備に入るに至る。
◆
――楔の塔。
水平線に沈む夕日に照らされて赤く染まる、元は灰色のその建造物。
それは光の神殿がケレース地方に打ち込んだその名の通り“楔”であった。
メンフィル王国から内海を挟んでほぼ南のトリアナ半島。
北ケレース地方の監視と、内海への魔物の流入を防ぐためにその半島に建造。
これまでその役割を担ってきたその塔は――しかし、ここ最近になってじわりじわりと半島全域に魔物の進出を許し始めていた。
理由は結界が弱まったことが挙げられるが、その原因は不明。
しかし塔のケレース側には城壁も建設されており、簡単に侵略できるような場所ではない。
メンフィル王国を発ったリウイの軍勢は現在、内海を経由。
そんなこれまで得た情報から深凌の楔魔たち自らが動いたことを懸念し、その楔の塔を目指していた。
掲げる目的は二つ。
一つは魔物が増加し、平穏が脅かされ始めたトリアナ半島の安定化。
ここを落とされるとオウスト内海への悪影響は確実であり、海上貿易や海軍の運用に支障を来たす。
そうなれば、今後の作戦行動も難しくなるだろう。
二つ目は、塔そのものの調査であった。
これまで魔物を退けていた結界が、その効力を失いつつある原因を探り、再び機能するよう計らう。
リウイは、光の神殿側からも兵を派遣したという連絡を受けて、この作戦を少数精鋭で行うことを決めた。
◆
海路を用い、半島北東部に上陸したメンフィル軍は、今は使われていない砦を占拠。
その日のうちに補給拠点を確保して、塔への進行に備えた。
「このようなところに、いらっしゃったのですね」
「……ああ、お前か。……すまないな。文官であるお前を、戦場に連れてくるのはどうかと思ったのだが」
「いえ、それで少しでも元カルッシャ兵の指揮が上がるのならば安いものです。
それに……ふふ、王妃様も従軍していらっしゃいますし」
「笑い事ではないのだがな……まったく困ったものだ」
高台に立って、眼下の自軍を眺めるリウイは、申し訳ありませんと軽く謝罪してきた女性に顔を向ける。
彼女とリウイが会話を交わすのは、ベルゼビュード侵攻の前の軍事会議以来になる。
私的な場においては、最初にイリーナに紹介した時の、僅かな時間だけであった。
背が高くすらりとした女はその様子に苦笑すると、腰まで切れ込みの入ったスカートを揺らし、リウイの側に寄る。
既に三十を過ぎているはずだが、娼婦のような色気がありながらも貴族然とした品の良い美貌。
その美しさは、最後に顔を合わせたときと変わらないようだ。
彼女の名をルクレッティア・ローバント。元カルッシャ王国の姫将軍派であった貴族の女性だ。
「軍議の準備が整ったと、イリーナ様がお呼びです。ファーミシルス大将軍初め、重鎮の方々も皆揃っておられます」
「……カーリアンは?」
「既にお席に」
――カーリアン。
ベルゼビュード宮殿での再会から、リウイと彼女の間にはしばらくは気まずい状態が続いていた。
リウイとしては、イリーナのこともあって身を引いたと知っている手前、なかなかいて欲しいとは言えない。
カーリアンはカーリアンで自分からメンフィルを出たため、どうすればいいか戸惑っていたのが原因であった。
しかしルシファーと共に行動していた際に聞いた、エクリアやセリーヌの内心。
そして決定的だったのは、イリーナ王妃との間以外にも、リウイに子が出来たということだろう。
その事実を知った瞬間のカーリアンの心境は、何とも云えないものであった。
あれだけイリーナ様のことを考え、悩んで国を出たのに、これはいったいどういうことなのか。
散々に喧嘩した後――気付けば太陽が昇り、二人ともベッドの中で目覚めた。
以来カーリアンは、それからも何度となくぶつかることはあったが、リウイの側近として行動している。
イリーナ王妃との仲も決して悪いものでは無く、時々リウイを甘やかし過ぎるイリーナを注意する、良き姉のような立場となっていた。
「そうか……では、俺も向かうとしよう」
「承知しました……」
「……何だ? 何か訊きたいことでもあるのか」
「その……差支えなければ……」
「よい……軍議にはもう少し遅れても平気だろう。俺の話に付き合って貰っていたことにする」
「……ありがとうございます」
珍しいことだとリウイは思う。
ルクレッティアはエクリアの推薦でカルッシャ――今は西側は神殿に任せるという話になっているため、東側のみだが――の統治を任せていた。
その手腕は大したものであったし、確かに姫将軍が推すだけのことはあると思っていたが、今迄これといった繋がりはなかった。
それはいくら姫将軍の推薦といっても、もともと敵国の貴族。
側に置くには当時はまだ信頼するに値しなかったことが理由だ。
だがその仕事振りを観察し、態度を翻し政略結婚を申し出てきた国王派や宰相派の貴族に彼女が嫌悪感を持っていること。
更にはカルッシャ王国にその身命を捧げるつもりである。
そのことに気付いたリウイは、その才を惜しいと感じ、彼女を王妃付きの女官に任命する。
サイモフからリウイが聞いたところによると、イリーナやエクリアの母――リメルダとは浅からぬ縁があったらしい。
そのため、イリーナには心を開いているようでもある。
しかしリウイとは仲が良いとも悪いともいえない。
だから彼女が問いかけてくるなど、リウイは思ってもいなかった。
「その、私的なことで大変恐縮なのですが、陛下はベルゼビュード宮殿でエクリア様にお会いしたと聞いております。
……その、どのようなご様子でしたでしょうか?」
なるほど、とリウイは内心で納得した。
元姫将軍派としては、やはりエクリアのことは気になるのだろう。
ベルゼビュード侵攻はもう数年前のことになるが、リウイはその時のことを鮮明に覚えていた。
少しくらいならばいいだろうと、リウイはルクレッティアに話し始める。
「昔……と言っても、俺よりお前の方が知っているだろうが、感情を露わにするようになった気がする」
「感情を……?」
「ああ……義姉さんの最初の印象は、氷のような冷たい女だったのだがな。
ルシファーのやつにからかわれて顔を真っ赤にしたり……そう、人間らしくなった気がする。
……ああ、ルシファーというのは――」
「――知っております」
何故知っているのか不思議に思い――そう言えばルシファーの名は魔族には“腰抜けの魔神”として。
人間にはレウィニアの“黒翼”として割と有名だったと思い出す。
だからこそ、わざわざカムリなどという偽名を使っていたのだ。
「その、ルシファー……殿は、エクリア様とどのような様子でしたか?」
「どのような? いや……負った傷を治してやってもいたようだし、義姉さんとの仲は悪くはないのではないか?」
というより、そもそも仲が悪ければ使徒の契約など結べないだろう。
しかしルクレッティアはルシファーが魔神ということは知っていても、古神に分類されるとまでは知らない。
だがここに来てリウイは、ルクレッティアの質問に僅か怪訝な表情をした。
今のは一見エクリアを気遣ったように聞こえるが、ルシファーの様子を知りたがっているようにも思える。
そこでリウイは一考し――
「……そういえばお前は、戦後にエクリアの説得を受け入れた時、ルシファーに一度会っていたな。……あいつのことをどう思った?」
「え? あ、いえ、それは……少し、強引なところがあるかな、とは……」
頬が朱色に染まっているのは、断じて夕日のせいだけではない。
……決まりだ。
今にして思い出すと、確か義姉がルクレッティアを説得しに行った日。
何故かルシファーだけ丸一日カルッシャに滞在して飛竜で帰ってきた覚えがある。
義姉に聞けば、カルッシャ方面で傭兵として仕事を受けてくるらしいなどと言っていたので気にも止めなかったが。
そういえば、帰ってきたルシファーにルクレッティアについて訊いたときは、感受性は高いようだなどと言っていた。
当時は意味不明な評価に首を傾げたものだが、今なら分かる。
つまり遠回しに……。
そこまで思ってリウイは、今ルシファーがこの場にいたら殴ってやりたい衝動に駆られた。
散々節操無しだのなんだの言っていたが、あいつも大概ではないか。
というか、あの男は熟女趣味でもあるのか?
ルクレッティアもそうだが、義姉ですら幻燐戦争後で既に三十路間近――
「……っ!」
突然殺気を感じ、リウイは咄嗟に辺りを窺った。
しかし、周囲にはルクレッティアしか居らず、露骨に殺気を見せているため、暗殺者の類とも思えない。
「……陛下、そろそろ軍議に向かいましょうか」
「あ、ああ、そうだな」
満面の笑みを浮かべるルクレッティア。
その姿にリウイは自分の妻を重ね、かき消すように首を大きく横に振った。
「後ほど、またお訊きしたいことがありますので、イリーナ様と天幕に伺いますね」
「……分かった」
それ以外の言葉を返すことは、リウイには出来なかった。
ただ思うのは、女性というのは本当に勘が鋭いらしい。
今回は流石に非があるのは自分だし、甘んじて追及を受けることにしよう。
最後にもう一度自軍の様子を窺う。
次にルシファーに会ったら本当に一発殴ってやろうと決意しながら、リウイは会議を行う天幕へと向かった。
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