――静寂。
終末の世に全てを焼き尽くす劫火のような色に染まった荒野の空。
神々の黄昏の地より帰還した者たちは、そんな光景を前にしても沈黙するしかなかった。
アイドス、エクリア、そしてセリーヌ。
各々唐突に起こった喪失によって心が千々に乱れ、何も言うことができない。
自分を庇って大切な人が命を落としたかもしれない。
そんな不安から、中でもアイドスは崩れるように地に倒れ、呆然自失の状態にあった。
そんな中、つんつんと頬を突く感触に、俯いていたエクリアが顔を上げた。
目を向けた先には宙に浮いた守護妖精アイレ・メネシスの気遣わしげな表情。
彼女が今ここにいる理由――それに気付いてようやく、エクリアの意識は現実を認識し始める。
「……ルシファー様」
呟いた言葉に、アイドスの肩がびくっと震えた。
――無理もない。
アイドスの心中を察することは、エクリアには容易なことだった。
自分もまた、彼女ほどではないにしろ同じ感情を抱えている。
いや、女神がいなければエクリアもまた、彼女のようになっていたことだろう。
体内の血液の流れすら感じられるのではないかと思うほどに、異常に鋭くなった感覚。
すっと背中を駆けあがる、冷却系の秘印術を得意とする彼女をして、未だ曾て感じたことのないほどの悪寒。
端的に表すならば――“恐怖”という感情に二人共が支配されつつあった。
信じたくない! 信じられるわけがない!
どうして信じられようか、魔神ルシファーが膝を屈するなどと……!
だが、事実として魔神ルシファーは神核を砕かれるという致命傷を負ったまま、神々の黄昏の地に残った。
今――エクリアの手の内にある神剣アイドスと、彼に仕えていた使い魔の魔石によって、そのことが避けようのない現実として彼女に襲い掛かる。
“あの方は死んでしまったの?”
“私たちを置いて?”
“どうして?”
「お姉様……セリカ様たちは……?」
「……っ!」
青褪めた表情で訪ねてくる実妹の言葉が耳に入り、エクリアの暴走しかけた思考が停止する。
絶望に黒く塗り潰される寸前だったエクリアの意思は、その心細げな声に辛うじて強さを取り戻した。
それは姉としての意地であったのだろう。
根本的には何一つ解決してはいないが、無理やり心を殺し、エクリアは務めて冷静に答える。
「……セリカ様はおそらくご無事でしょう」
そう言いつつ神剣アイドスを地面に突き刺すと、その側に転がっていた魔神剣ハイシェラを拾い上げた。
一番最後までセリカと共にあった彼女であれば、その状態を把握しているはずだった。
『満身創痍ではあったが、生きてはおるだろう。かつてのあやつならば断言できぬが、今のあやつは自分の命が自分だけのものではないと分かっておる。……しかし、ルシファーは……』
ハイシェラが躊躇するかのようにそこで念話を止めてしまう。
確かに、こちらの世界に戻る方法があるかは別にして、セリカの身は無事だろう。
それは短期間とはいえ彼らの力を見てきたエクリアですら信じられるのだから、長きに渡って共に生きたハイシェラには確定事項だ。
しかし、エクリアやアイドスにとって、その言葉は残酷な現実を突きつけるだけのものだった。
ハイシェラが躊躇ったその先――残ったもう一人の超越者の安否は、この中で最も戦闘経験を持つハイシェラをして絶望的と断定するしかない。
そう、宣告されたようなものなのだから。
「ルシファー……っ」
エクリアの耳に届いたのは悲鳴にも似た声だった。
つい先日まで、明朗快活にエクリアたちを支えていた女神とは思えないほどに小さいもの。
顔を伏せ、寒さに耐えるようにその身を固くかき抱く彼女に――しかし今は言葉をかけるだけの余裕がない。
『兎も角も、一度この場を離れるだの。女神がその状態では危険に過ぎる』
そんなハイシェラの提案に反論する者はいない。
異界と化していた空間が消失した以上、すぐにここにはマーズテリアの騎士たちも現れることだろう。
そうなれば、相手は軍神の騎士たちだ。古神の眷属であるエクリアたちが見逃される可能性は極めて低い。
返り討ちにしようにも、妹と女神を守りながらでは、たとえ“姫神化”という最終手段を用いても難しい。
故にその意思に関係なく、エクリアたちは魔神の導きに従い、その場を離れざるを得なかった。
実際、エクリアの判断は間違っていなかったといえる。
彼女たちが去ってすぐ後、マーズテリア騎士団がその近辺に聖女捜索のため集りだしたのだから。
しかして、エクリアとハイシェラの見解に相違がなかったわけではない。
中でも極めて大きな違いは、その場を急ぎ離れようとした理由だろう。
エクリアはアイドスと妹の身を案じて、騎士団の迫るその場から離れようとした。
しかし、ハイシェラはそうではなかった。
――女神がその状態では危険に過ぎる。
特別な意味などないように語られたその言葉――が、実際は極めて重要なことだった。
不安定な状態の古神の姿は、一つの懸念をハイシェラに抱かせていた。
それは表裏の反転――即ち、邪神化の可能性である。
◆
トリアナ半島南部、嘆きの渓谷から南に下った名も無き集落――つい先日までルシファーらと穏やかな日を過ごしていたその集落に、アイドスたちは流れ着いた。
初めて見るアイドスの姿に、村人たちから様々な意味の込められた視線が集まったが、セリーヌの姿を認めると、彼らは何事もなかったかのように立ち去っていく。
おそらくはアイドスをセリカと誤認したためだろう。
そんな事態になっていてもアイドスは、エクリアから受け取った鞘に収まった神剣アイドスを両手で抱いたまま、外界の出来事を完全に遮断してしまったかのように虚ろな表情であった。
それは決して魔力不足によるものではない。
常は魔力消費を抑えるために神剣にその身を封じていた彼女だったが、なお現界していてもその存在を維持し続けることは可能だった。
無論、制約はある。
今の彼女は神としての力は行使できない。
――正確にはもしそれを行使したならば、信仰力が得られない以上、魔力を回復するためにセリカのように性魔術を必要とする事態になってしまう。
だが神として振る舞うつもりがなければ、十分活動できる状態にはあった。
ではなぜ――と問うのも無粋だろう。
理由などルシファーの喪失ということ以外あり得ないのだから。
「セリカさんっ!」
突然の大声に振り向くと、ぼんやりとした焦点が合ってきて見覚えのある騎士の姿を捉えた。
丘の上からアイドスたちがいる広場にかけてくるのは、以前ルシファーが気まぐれに剣の相手をしていた若者だった。
確か名前は……
「リーフ……」
珍しくあの傲慢な魔神が名前を訊きだした人間だったので、アイドスもよく覚えていた。
「大変お久しぶりです。後姿が見えたものですから声をかけたのですが、どうしてここに……っと訊くようなことではなかったですね。……しかし、どこか雰囲気が……」
リーフの視線が徐々に下がり、ある一点で止まる。
すると今度は急に顔を赤らめ、驚愕した様子で勢いよく後ずさった。
「リーフ様、そちらの方は確かにセリカ様で間違いございません。今は……理由があって女神の肉体に近付いているのです」
真剣な顔で答えるエクリアに、アイドスはようやく自分がセリカと間違われていたことを認識する。
確かに容姿で違うのは目の色だけで、髪型も長さくらいしか違いはないのだから、遠目での後姿で間違えるのは仕方がない。
しかし、なぜその勘違いを正そうとしないのかと思い――自分が何者であるのかに漸く考えが至る。
自失するにも程がある、あり得ない失態だった。
「そ、そうでしたか。大変失礼しました。しかし……それにしても……」
「それで、リーフ様はなぜここに?」
まだ何か問いた気なリーフの言葉を遮るように強く、今度はセリーヌが逆に訊き返した。
短剣の姿となった魔神剣ハイシェラを握りしめ、それ以上は語らせまいとするように。
そんな二人の行動に、自身が庇われているとアイドスが察するのにそう時間はかからなかった。
だがだからといって、アイドスに何かできたわけではない。
未だ目の前に立ち塞がる現実は重く、二人の配慮に礼を述べるだけの余裕すら持つことができない。
それどころか、このまま二人が余計なことをせず正体が割れてしまえば、軍神マーズテリアの元に裁かれ、その先で再び彼に会える――それこそが唯一の救いの揺籃なのではないか。
そんな自暴自棄な思考に至ってしまう。
古神アイドスにとって魔神ルシファーの喪失とは、それほどまでのことだった。
「……えっ。ああ、いえ……ここより北方の渓谷で騎士団が怪異に巻き込まれてしまい、私は斥候部隊として先行していたのですが……」
そこでリーフは悔いるように拳を握りしめた。
「渓谷を抜けた先で聖女様率いる本体と合流する予定でしたが、いつまで待ってもルナ=クリア様が来られることはなく……来た道を引き返してみたのですが、そこには本体の影すら見えずどうしたものかと……」
「その怪異ならば、我々も遭遇いたしました」
「エクリアさんたちも!? ……そういえば、ルシファーさんの姿が見えないようですが……」
ルシファーの名前が出たことで、思わずアイドスはより固く神剣を抱き締めていた。
それこそ白刃のままであったならば、そのまま両腕が切断されていてもおかしくないほどに。
「はい……ルシファー様は異空間に残られました。その際に、ルナ=クリア様のお声も訊きましたので、おそらく……」
「……まさかそのような事態になっていたとは……。なにか聖女様方を救う方法はあるのでしょうか?」
「ここでは難しいかと思います。……手は尽くすつもりですが……」
「何ということだ……」
絶句するリーフの中に、アイドスは聖女の身を案じる心以外のものを感じ取った。
それはかつて長年に渡り人の感情を採取してきたアイドスだからこそ分かる、本当に小さなものでしかなかったが。
その僅かな感情を捉えて、アイドスは穏やかに微笑んだ。本当に貴方は、多くのモノを変えていくのだなと。
そんなアイドスの様子には気付かず、気を持ち直したリーフ・テルカはアイドスたちに一つの提案を持ちかけた。
「これから皆さんはどうされるおつもりですか?」
沈黙がそれに対する三人の答えだった。
為すすべもなく仕方なしにこの地にやってきたのだから、答えようがない。
「宜しければ――」
続くリーフの提案は、彼の故郷であるイソラ王国に滞在してはどうかというものだった。
彼は王国の力――ひいては神殿の力を借りて聖女の捜索を続けるつもりらしい。
その過程で皆さんのお役に立てることもあるかもしれないと。
しかし、それにもまた応えることはできない。
いくら騎士道精神からくる善意に基づくものであったとしても、マーズテリアの騎士が神殺しや古神の眷属と行動を共にするなど、世間が許すはずがなかった。
極力失礼にならぬように断りを入れるエクリアを視界に納めながら、アイドスはぼんやりと神剣を見つめていた。
『アイドス様、命を断とうなどとは思わないでください』
『セリーヌ……?』
突然の心話に驚きつつ顔を上げると、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめるセリーヌの姿があった。
その優しげな瞳が縋るように乞う。
『私は決めました。あの方は帰還の方法を探してほしいとそう言ったのです。ですから、私は決して諦めません。……この胸の内にあの方との確かな繋がりを感じるうちは絶対に……。ですからアイドス様もどうか……どうかお願いですから、諦めないでくださいっ!』
『……セリーヌ』
その意思のなんと強いことだろう。
この女性は、神たる自分よりも遥かに短い時しか生きていないにも関わらず、その胸に確かな不屈の心を持っている。
セリーヌだけではない、エクリアもそうだ。
置かれた状況は私と同じだというのに、あんなにも確と己を示して行動している――これが、人間の強さ。
『そうね……まだ諦めるには早いわね。胸の内にある繋がりが……――っ!』
繋がり――それがまだある。
ルシファーとアイドスは契約を結んでいる。その繋がりは未だに彼女の中に細くも確かに残っていた。
これがある以上、ルシファーはまだ……っ!
『生きて……あの人はまだ生きてっ……!』
音にはならずとも、それはアイドスの心からの叫び。
彼女が平静を取り戻すまで、しばしの時を要した。
◆
リーフの申し出に感謝しつつも村で別れた三人は数日をかけ、再び嘆きの渓谷へと戻った。
何かしら、ルシファーとセリカをこちら側に戻す方法の手がかりがあるかもしれない――あるいは彼らが、いつものように不意に現れるのではないかという淡い期待に縋り、その周囲を探し回っていた。
開拓者でもなければ誰もこないような荒れ果てた街道、そこからそう距離のない荒野や森の奥深く。
しかしいくら探しても姿どころか、心話さえ返ってくることはなく、アイドスは否応なしにルシファーの不在を確信せざるを得なくなっていた。
今となってはもはや、胸に残る繋がりだけが支えだった。
「神の墓場というのは死の世界と聞きますが、実際のところどのような場所なのでしょう?」
『我も詳しくは知らぬが、三神戦争の折、敗北した神々が打ち捨てられた場所と聞いておる。……少なくともあまり気分の良いところではなかろうな』
「脱出できなければセリカ様は、そのまま死んでしまうのでしょうか?」
『分からぬ。しかし、嬢ちゃんが未だ使徒である以上、あやつはまだ神の力を喪っておるだけじゃろう』
ハイシェラとセリーヌの会話を聞きながら、アイドスはふと自分の傍らを行くエクリアに視線を移した。
見れば随分と疲れが堪っているようだ。噴き出した汗で服が白い肌に張り付き、それが余計に体から体力を奪っているように見える。
アイドスは鬱陶しげに髪をかき上げるエクリアに掌を翳すと、治癒の効果を秘めた神聖魔術を唱えた。
「まったく、誰に似たのか無茶な人ね」
「アイドス様ほどではありません。戦いから離れて久しいというのに、まるでこのような場所に成れているようです」
「かつては一人で世界を旅していたもの。その経験は簡単に消えたりしないわ」
「……なるほど」
何がなるほどなのか、やけに深く頷くエクリアに問い返したいところだったがアイドスは癒しの術に集中することにした。
思った以上に疲労している。これは精神的なものもあるように感じられた。
……平気な様子だったから大丈夫なものと思っていたが、ルシファーを喪って苦しんでいたのは自分だけのはずがなかったのだ。
「でも、存外このまま死んでしまえば、ルシファーのところに行けるかもしれないわね」
「馬鹿なことを、おっしゃらないでください。例え冗談でもです」
「……そうよね。まったく私ったらだめね」
そうだ。この胸の契約があるうちは、彼がこのディル=リフィーナの何処かで今も生きていると信じられる。
だから死後の世界などと……
「それだわっ!」『それだのっ!』
誰かの声に自分の叫びが重なったことを訝しむと、それがハイシェラであったことにアイドスは気付いた。
『どうやら女神も気付いたようだの。なぜこんなことも忘れておったのか。死後の世界……現世にありながら、かの地に繋がってる場所がこの近くにある。お主等――嬢ちゃんたちのセリカとルシファーとの繋がりは、あやつらがそこにいるからではないのか?』
――冥き途。
かつてルシファーと共に赴いた場所を、アイドスは覚えていた。
しかしそこにルシファーがいるということは、彼はやはりもう……。
『女神の考えておることは分かる。しかし、まだ結論を出すには早いだの。死者が使徒を維持できるなど聞いたこともない』
「取り敢えず一度行ってみてはどうでしょう。少なくともセリカ様のいる神の墓場へ行く方法くらいは訊けるかもしれません。セリーヌ、貴女はどう?」
「お姉様……。はい、行ってみましょう!」
「貴女たち……。そうね、諦めている場合ではないわね」
あの時出会った少女の魔神――ナベリウス侯爵に聞けば何か分かるかもしれない。
見えた光を消さぬよう、数か月はかかる道程へと思いを馳せてアイドスたちは渓谷を漸く後にする。
一歩一歩荒れ果てた道を踏みしめる中、アイドスは切に願う。
どうか、この希望が偽りではありませんように……と。
あとがき
お久しぶりですというにはあまりに時間が経ち過ぎましたが、漸くの更新です。
大変申し訳ありません。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m