噴水から吹き上がった冷水が、飛沫となって小さな虹を作る。
赤や黄など鮮やかな花々が植えられ、手入れの行き届いた花壇。
時折吹く涼やかな風が、緑の木々を揺らして時の移りを伝えていた。
――キン。
そんな絢爛な中庭には不釣り合いな金属音が、空気を振るわせた。
何度も何度も繰り返すその音は、耳を劈く剣戟の響き。
縦横無尽にのたうつ大蛇のような動きをする連接剣と、青白い刀身に純白の柄を持つ片手直剣の迎合。
紛う事無き闘争の証であった。
剣を握る両者とも全く引く気配はない。
しかしその力量は、誰が見ても連接剣の使い手の方が上なのは明らかだ。
それも当然。何しろ片方は戦の最前線での戦闘経験に加え、恐れがないのに対し、
もう片方は戦いそのものを忌避し、刃を振るうことに躊躇いを抱いているのだから。
「せいっ!」
慈悲の女神アイドス――その剣閃は、思わず目を奪われてしまうほどに流麗だ。
剣の柄を顔の右に、そして切っ先を天上に向けた構えからの半月を描くような切り下ろし。
彼女が慕う黒き翼の魔神と同じ構えから繰り出される、力ではなく技で斬る神速の剣。
風鎌の刃を手にするために“彼”と共に考え、その課程で飛燕剣から彼女が独自に生み出した"弧月の型"である。
だが……。
その美しい技は、剣術が本来意図する目的からは程遠いものだった。
アイドスの繰る剣には足りないものがある。
「もう、止めましょう。やはり貴女は剣を取るべきではなかった」
「はっきり言うわね。でも、私はそれでも“これ”で会話できなければいけないの」
「それは、あの方を止めるためですか?」
「……そうよ。私は彼との約束を果たしたい」
鋭い剣閃を一撃もその身に受けることなく避け続けていたエクリアの忠言。
それはアイドスにとっては不本意であったが、思慮するまでもなく正しいことは自覚していた。
いかに争いを嫌っていても、彼女は剣を握れないわけではない。
しかし、彼女には戦場で剣を振るう上で最も必要なものが欠けている。それは――相手を害するという、強靭な意思。
その欠如こそが、相手への攻撃をアイドスに躊躇わせ、剣を軽くしている原因となっている。
とはいえ、もしも彼女がその意思を抱いてしまえば、彼女は慈悲の女神では無くなってしまう。
だからこそ、その苦悩は計り知れないものがあった。
「私は“彼”と、道を間違えた時は必ず止めるという約束をしているの。
でも……今の私にはその力がない……それが、悔しい」
「ですがそれは、貴女は決して“貴女の在り様”を間違えなかったという証です」
「だからといって……っ、このまま何もせずにいろというの!?」
「そんな――っ、そんなことは言っていません!」
感情が昂り、つい出してしまった苛立ちの声に、同じように荒ぶった声で返され、
アイドスはエクリアもまた自分の無力さを嘆いていたことに気付いた。
あの日、彼を止めることができなかったことを悔やんでいるのは自分だけではない。
エクリアは激情を内に秘めながら、それを押し殺していたのだと。
「……お姉様、どうかなさったのですか?」
気まずい空気が流れる中庭に、第三の声が届く。
それはいわゆるメイドが着るような服に身を包んだセリーヌだった。
エクリアも同じようなものを着ていたが、可愛らしいという理由で着ているセリーヌとは違い、
この屋敷を任されたのだから相応の服を着て、管理の知識や様々な技術を身に付けなければならない。
そんな考えからだったりするのは実にエクリアらしい。
声に気付いたアイドスはセリーヌを一瞥したが、直ぐに目を伏せる。
少しの間をおいて、ぎゅっと剣を握りしめると彼女は顔を僅かに上げた。
「私が……エクリアの気持ちも考えずに、感情をぶつけてしまったの。
でも、ごめんなさい。それでも私は、自分の意思を変える気はないわ」
アイドスは自分が握る剣の柄に埋め込まれた蒼玉を見つめた。
かつて別の剣に宿っていた、浄化の効果を持つ鉱物――月晶石。
再び物質化し、自分の手元にそれがある理由を強く意識し、自然と俯き加減になってしまう。
だがセリーヌもエクリアも気丈に立ち上がっている今、それで弱気になって、自分だけ逃げだすわけにはいかない。
だからアイドスは顔を上げる。立ち止まらずに、エクリアに戦う術を教えてもらうため。
「アイドス様……。どうしてこう、貴女もセリーヌも……」
エクリアの諦めたような苦笑とため息が、アイドスの耳に届く。
そういえば嘆きの渓谷でセリーヌがセリカを助けると決意した時も、同じような顔を見せていた。
だがアイドスはここで折れるわけにはいかなかった。約束を果たさなければならない。
自らの主が囚われてしまった神の墓場へ行く方法を探しているセリーヌのように。
「仕方がありません、分かりました。ですが誓ってください。決して誰も殺さないと。
貴女が……“あの方”が決してそうさせなかった貴女が、もしも誰かの命を奪う。
――そのような事態にしてしまったら、私は私を許せません」
「それは貴女が“彼”に示す矜持なのかしら?」
「ええ、ずっと側にいてくれなんて言っておきながら、私たちには何も言わずにあの有様ですからね。
……あの方に、少しくらい意地を見せてやらないと」
「ふふ、そうね」
微笑したアイドスは片手直剣の切っ先をエクリアに向け、右頬の横に構えた。
その構えを受けたエクリアは、いつでも左右どちらでも動けるように踵を僅かに上げたようだ。
おそらくは、神速の刺突以外にアイドスの構えから出せる技はないと踏んでのことだろう。
「約束する。殺したくないじゃなくて、殺さない。
私は私の意志に従って剣を振るっても、決して殺生はしない。
かつてお姉様がそうであったように……いいえ、お姉様は関係ない。慈悲の女神として誓うわ」
本当ならば、こんなことでもなければもう二度と剣を取る気はなかった。
あの四百年前の勅封の斜宮で、飛燕の技で実の姉を刺し貫いて以来になる。
だがそれでも、アイドスには譲れないものがあったのだ。
『それにしても女神よ。その剣――銘を確か蒼光剣“ルシフェリオン”といったか。
貴重なリエン石に瑠璃色の星石、金剛石まで使って何を鍛えるのかと思ったら……。
青き月女神の力を宿しておるのだから、そこは“リューシオン”が妥当であろうに。
……まったく、御主はどれだけルシファーのことが好きなのだ』
セリーヌが常に道具袋に入れて持ち歩いている魔神剣ハイシェラが徐にそう告げてきた。
魔力消費を抑えるために短剣の形に変化しているのだが、その嵐のような力には聊かの衰えも感じられない。
「それは、筆舌に尽くし難いわね」
『……ああ、そうか。……溜息しか出ぬ』
怪訝な顔をするアイドスには、何故ハイシェラがそんなことを言うのか分からなかった。
今はあんなことになってしまっているが、好きなものは好きなのだ。
ハイシェラとてかつてはセリカと敵対していながら今の関係になっている。
だから、分からないでもないはず――
「――ハイシェラ様、貴女の方が若いのですからそんなではいけませんよ?」
「……セリーヌ、いま貴方何を言ったのかしら?」
「え……あっ……お姉様、失礼します」
「待ちなさい、セリーヌ!」
中庭まで運んで来たらしい紅茶の道具一式と魔神剣を丸テーブルの上に置くと――セリーヌは逃げ出した。
唖然とするエクリアを放置して、そんな彼女をアイドスは追いかけていく。
いったい誰の影響で、あの真面目で貞淑だったセリーヌがあんなことを言う様になったのか……。
『随分と愉快な性格になったものだの』
『……片鱗は元々ありましたが、大部分はこのレヴィニアに滞在して貴女と行動するようになってからですよね?』
『くっくっ……そうだったかの』
そんな会話がアイドスの耳に届いたかどうかは定かではない。
だがアイドスは無邪気な幼子のように感情を顕わにしてセリーヌを追いながら、ふと、あの日のことを思い返していた。
アヴァタール五大国が一つレヴィニア神権国にて屋敷を借り、こうして後悔を糧に剣技を身に付ける日々。
その要因ともなった半年前。
アイドスは――熾天魔王ルシファーと邂逅した。
◆
彼の目覚めはいつもと変わらず、黄金の太陽が大地を照らし始めた早朝だった。
重い瞼を開け、ゆっくりとその体をベッドから起こす。そしてしばしの間を置き――再び目を閉じる。
心の内を去来するさまざまな思いを一つひとつ確認し、彼は何かを決意するように右手を握りしめた。
「起きているかい、サタネル」
自分のもう一つの名を呼ぶ女の声に目を開ける。
声の主に与えられた、王族が寝所とするような古めかしい部屋。
その広すぎる空間の入り口――廊下へ続く扉の向こうに尋常ならざる気配を感じる。
「ルシファーだと何度言えば分かる。もう私はその名を名乗る気はない」
悪態を吐きながらそう告げたが、扉の外は無反応だ。
仕方なく部屋に入るように促すと、紫紺色の髪をした中性的な顔立ちの女が入ってきた。
背中の高位精霊種のような、きらきらと光を透過するほどに薄い四枚羽が微かに揺れている。どうやら忍び笑いをしているらしい。
そんな態度に思わず顔を顰めたルシファーだったが、女の方は気にも止めていないようだ。
「だったら、僕のこともビヨンデッタと呼んで欲しいなあ」
「……分かった。それくらいは譲歩してやる」
「やれやれ、ご機嫌斜めは変わらないみたいだね」
彼女――ビヨンデッタはルシファーのベッドに腰掛けると、上目遣いで覗き込んできた。
太腿までを覆う短い脚絆から下の、すらっと伸びた白い足を崩し誘うような仕草をする。
しかし、その子供の駄々に困った顔をする親のような口調がどうにも気に入らず、ルシファーの眉間にはますます皺が刻まれた。
そんな様が可笑しいのか今度は隠そうともせず、ビヨンデッタはクスクスと笑った。
どうにも……いや、間違いなくからかわれている。だがそう思っても、ルシファーはその矜持故に絶対に口にしない。
代わりに、彼がここに留まるようになってから続けている要求を、またビヨンデッタに突き付けた。
「そう思うのならば、いい加減私を自由にしたらどうだ。
……お前の張った結界を破るのは私とて苦労するのだぞ」
「君ってやつは、まったく……そろそろ分かってくれたと思ったんだけどなあ。
今は現神の下僕どもの動きが活発化してるんだよ?
少なくとも僕らの体勢が整うまでは解放できないよ。この前みたいなことにはなりたくないしさ」
「お前たちのことを話す気はないし、今はまだアイドスに会う気もない。私はしばらく、今度は一人で世界を見てみたいだけだ
……私の成すべきことが……ついに見出した私の存在する理由が、正しいかどうかを確かめるために。
尤も、共に旅してきた使い魔たちは連れて行くがな」
そう言うとルシファーは、今は己の身と同化している召喚石を意識した。
先のアイドスたちとの遭遇の折に、封じられた者たちの同意を得て、
召喚石と共に預けた神剣ごと奪ってきたかつての使い魔たち――すなわちニル・デュナミス、ベルフェゴル、ディアーネである。
「それは信用しているよ。君が言葉を違えるとは思えないしね。……でも、だからこそ信用できないんだよ」
「どういう意味だ?」
「君さ、エクリアとかいう人間を勧誘したそうじゃないか。それを僕が知らないとでも思ったのかい?」
そんなことは当然分かっている。
この女がその程度のこと把握していないはずはない。
「彼女は女神の血統だ。私たちの同胞として迎え入れることもできる」
「なら慈悲の女神にはどうして声をかけなかったんだい?」
「……それは」
疑う様に目を細めたビヨンデッタの態度に、ルシファーは口を閉ざすしかなかった。
代わりに彼は振り返る。冥き途より己が真の肉体を得て復活したあの日――。
――そう、全く同じ日に彼も彼女同様に思い返していた。
後に魔族と人間の大戦へと発展していく――始まりの日のことを。
あとがき
最終部、漸く始めることができました。
最後までお付き合い下されば在り難いです。
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