愛紗は今、非常に悶々とした気分に襲われていた。
別に兵士達の訓練が上手くいっていないとか、そう言う事ではない。
愛紗自身、この気分の根本的な原因はよく分かっていた。

原因は自分の主――長曾我部元親だ。

原因と名は打ってあるが、元親の取っている行動が特に悪い訳ではないのだ。
時折こちらがハラハラするような行動に出る時はあるが、無事に事無きを得ている。
この群雄割拠の世の中で彼が持つ他人への深い優しさと人情はとても貴重な物だ。
そのお陰で命を救われた者、運命がガラリと変わった者も大勢居る。

しかし悲しいかな、愛紗の悶々とした気分は元親の優しさにあった。
日に日に元親の周りに――何故か集中的に――女性が増えていっているのだ。
無論、これは元親が迎え入れた武将等がたまたま女性だっただけの話である。

しかし彼が他の女性達と楽しそうに話しているのを見ると、どうにも落ち着かなかった。
これがどう言う気持ちなのか、いくら自分が疎いからと言って分からない訳じゃない。

――これは間違いなく彼に対して“恋心”を抱いている。

何時頃こんな気持ちが芽生えたのかは自分でも分からない。
気が付いたら彼が好きになっていた――本当にそんな感じだった。

そう自覚してから間もなく、愛紗の元親に対する想いは増していった。
元親に仕える1人の家臣としてでは無く――1人の女性としてだ。
―――だと言うのに。

やっかいな事に恋敵が次々と現れ始めたのだ。
無論、これは元親が迎え入れた武将達に比例していると言っても過言ではない。

まず最初に鈴々。
どちらかと言えば兄を慕うような言動が多いが、最近は少し怪しい。
元親に甘える時間も徐々に増えていっているし、油断は禁物だ。
まあ元親が彼女に落とされるとは微塵にも思っていないが。

次に朱里。
彼女はもう言う事は無い、完全に彼に惚れている。
軍議や戦の時は元親に頼りにされているし、朱里自身も元親の為に頑張っている。
最近は取りとめの無い話をする為だけに、元親の部屋に時折通っているらしい。
要警戒である。

更に紫苑や星、最近仲間になった翠も怪しい。
紫苑は夫を1度亡くした未亡人であるが、愛する娘の璃々の為に再婚を目指しているかもしれない。
星は興味が無さそうな言動を取ってはいるが、腹の底が読めないので警戒はしておいて損は無いだろう。
翠も訓練中に元親がその様子を見物していた際、人一倍張り切って望んでいたから怪しい事この上無い。

上げるとキリが無いのだが、他にもまだまだ恋敵は沢山居る。
朱里と同じく、完全に元親に惚れていると思われる糜竺、糜芳の姉妹。
元親に直接命を助けられて加わった水簾、伯珪、月、詠の4人。
璃々は――論外だろう。

そして愛紗が1番の強敵だと思っているのが、甘え上手の恋である。
元親が仕事中なのもお構いなく、部屋に入ってきては愛犬のセキトと共に居座る。
昼食の時も後を付いて行き、元親が仮眠を取る時も彼の腕を枕にして眠っている。

普段はボーッとしている者の特権なのか、元親に対する行動が大胆に取れてしまうのだ。
これには愛紗はヤキモキするが、羨ましいと不覚にも思ってしまった事が何度もあった。
筆頭家臣としての立場もあるが、素直になれない性格も相まって、思い通りにならない結果を生んでしまうのである。

しかしこのままではいけない――と言うか悔しい。
自分は元親と最初に出会い、最初に家臣としての忠誠を誓った仲である。
それに出会った頃から彼を追い掛けてきたので、好きな物も嫌いな物も知っている。
更に彼が浮かべるあどけない寝顔も知っている(これは複数の人が知っている可能性有り)。

上げただけでもかなり有利な立場に居る自分が、このまま恋敵達に埋もれる訳にいかない。
しかし具体的な打開策が一向に思い浮かばず、散々考えた結果――
愛紗は今、客室の一室で紫苑と向かい合っていた。

「――と言う訳なんだ。……ご主人様に私を見てもらうにはどうしたら良いだろうか」

愛紗が顔を少し伏せながら、辛うじて聞き取れる程度の声で言った。
頬は真っ赤に染まっている事から、恥ずかしさが込み上げているらしい。

「ふふふ……」
「な、何が可笑しいんだ! 私は真剣なんだぞ!」

突如として笑い始めた紫苑に対し、愛紗がすぐさま噛み付く。
しかし頬を真っ赤に染めている表情では少しも迫力が無かった。

「ふふふ……別に馬鹿にしている訳じゃないわ。何だかんだ言っても、愛紗ちゃんもやっぱり女の子だなぁって、思っただけよ」
「な、な、うう…………」

紫苑の浮かべる“大人の余裕”の笑みを見て、愛紗は押し黙ってしまった。
恋敵の疑いがある紫苑に相談を持ち掛けるのはどうかと思ったが、女性で年上と言ったら彼女しか居ない。
この手の話題は大人の女性に詳しく訊くのが一番だと愛紗は思っていた。

「ご主人様から少しでも好感を得る方法と言ったら……手料理はどうかしら?」
「て、手料理?」
「ええ。自分の力で作った料理を想い人に食べてもらうなんて素敵じゃない? それにご主人様なら私達が作った料理を喜んで食べてくれると思うわ」

紫苑の言葉は一理あると、愛紗は思った。
確かに手料理を作って持って行けば、元親なら喜んで食べるかもしれない。
更に美味しい等と言ってもらえたら、また作ってあげる口実も自然と立つ。

愛紗の頭の中には、元親に手料理を食べてもらう様子が映し出されていた。

 

『ご主人様……お味はどうでしょうか?』
『ああ、物凄く美味いぜ。愛紗は料理が上手なんだな』
『そんな……恐れ多いお言葉です』
『そんなことねえって。また……作ってくれるか?』
『ご主人様……! はい、喜んで!』
『嬉しいぜ。ありがとな、愛紗』
『ご主人様……』

 

完璧だ。一寸の狂いも何も無い。
愛紗の表情が自然とニヤけた。

「愛紗ちゃ〜ん。顔が物凄くニヤけているわよ〜」

妄想の世界に旅立ってしまった愛紗に対し、紫苑は相変わらず落ち着いた様子のまま、愛紗の正気を戻そうとする。
正面で手を2、3回振ると、愛紗がニヤけた表情からハッとした表情へと瞬時に変わった。

「わ、私とした事が……何と言う……」

顔が信じられないくらいに真っ赤に染まり、愛紗は両頬を手で押さえながら顔を伏せた。
紫苑からして見れば年相応の、とても可愛らしい反応だとしか思えなかったりする。

「ふふふ、これで手料理を作る事は決まりね。愛紗ちゃんは得意料理とかあるのかしら?」
「私が唯一作れるのは……ちゃ、炒飯ぐらいしかない」
「あらぁ、それだけでも十分よ。作れる料理にご主人様への想いを沢山込めれば上出来」

紫苑の言葉を聞き、愛紗が意を決した表情を浮かべた。

「よしっ……早速取り掛かるぞ。ご主人様の為にも頑張らなくては」
「私も手伝ってあげるわ。これでも夫に色々と作ってあげてたからね」
「す、すまない。助かる……」
(ふふふ。困ってる娘は助けてあげなくちゃね)

紫苑の考えている事など露知らず、愛紗は意気揚々と厨房へ向かった。
その後を紫苑が慈愛に満ちた笑顔を浮かべつつ、ゆっくりと付いていった。

 

 

 

 

「う〜ん……疲れたのだぁ」
「何言ってんだ鈴々。これぐらいで疲れてたら、後々の戦に響くぞ?」
「ふふふ。そう言う翠もかなり息が上がっているではないか」
「星が容赦無い攻撃をドンドンと続けてくるせいだろうが……」

訓練で出た汗を拭きながら他愛の無い会話をしつつ、鈴々、翠、星の3人が歩いていた。
3人が今から向かう場所は、疲れた身体を十分に癒してくれる浴場である。
いくら彼女達が勇猛な武将達だとしても、まだまだ乙女だと言う事だろうか。

「……ほえ?」

すると突然鈴々が辺りをキョロキョロと見始めた。
一体何事かと思い、翠が問い掛ける。

「どうしたんだ? 鈴々」
「何だか変な臭いがするのだ」
「変な臭い?」

翠も鈴々と同じく、辺りを見回して臭いがすると言う場所を探す。
暫くして翠も気付いたのか、少しだけ顔を顰めた。

「本当だ……何なんだこの臭い」
「ふむ……どうやら調理場の方から臭ってるみたいだぞ」

星は臭いの発生源を既に着き留めていたらしく、その方向に指を指した。
そうなるとそれが発生しているのは料理を作っているからだろうが――

「これは料理を作って出す臭いじゃないぞ……」
「でも少しだけ気になるのだ……」
「ならば、勇気を出して行ってみるか?」
「「……………」」

星の提案に暫くの間だけ黙る鈴々と翠だったが、見てみたいと言う気持ちが勝ったらしい。
2人は我先にと調理場へ走り、星もやれやれと言った様子で後を付いて行った。

そして目的地の調理場へと3人は辿り着いたのだが――

「何だか物凄く嫌な感じがするのだ」
「ああ……まるで戦場に居るみたいだ」

調理場と通路を隔てた1枚の扉からは、戦場で出る独特の空気が流れ出ていている。
扉を開ければどんな凄まじい光景が広がっているのだろう――3人の背中に嫌な汗が流れた。

(ふむ。提案しておいて何だが、逃げる準備をしていた方が良さそうだ)

提案をした張本人の星が内心で逃げる準備をしているなど、鈴々と翠は知らない。
それから3人は意を決し、扉を開けて中へと入った――

「あら? 鈴々ちゃんに翠ちゃんに星ちゃんじゃない」
「ありゃりゃ? 紫苑が出てきたのだ」

彼女達を出迎えたのは皆の纏め役兼相談役の紫苑だった。
表情は満面の笑みを浮かべているのだが、何処か暗い。

「一体どうしたの? 3人揃って」
「いや……ここから変な臭いがしたから何かな? って思ってさ」

翠の言葉に紫苑は一瞬だけハッとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔へと戻った。
しかしその一瞬の表情の変化を星は見逃さない。

(鈴々と翠には悪いが、これはもう逃げた方が良さそうだ)

そう即座に判断し、星は通路へと密かに後退を始める。
しかしその撤退行動は紫苑によって塞がれた。

「そうだわ。今料理を一品作っているんだけど、味見をしていってくれないかしら?」

紫苑はそう言いつつ、3人の後ろにある半開き状態の扉をやんわりと閉める。
星は内心舌打ちをし、(やられた!)と悔しげに思っていた。

「りょ、料理って、臭いの発生源になってる……?」
「そうよ。その料理♪」

紫苑の表情は笑顔なのだが、何処か怖い雰囲気が漂っていた。
翠の表情がみるみる青ざめる。

「り、鈴々は好き嫌いしないけど……御免被りたいのだ」
「そんな事言わないで。臭いは酷いけど、味は多分大丈夫だから」
「…………何を作っているのだ?」
「う〜ん……炒飯を作ったつもりよ?」

何故か疑問形になる紫苑の答え。
この言葉に星は脱出の経路を見い出した。

「ふむ。非常に残念だが、私は大好物のメンマが入っていない炒飯は炒飯とは認めていない。よって私は味見役を遠慮させて――」
「メンマも見栄えが良いように入れてあるわ。だからそんな心配は無用よ、星ちゃん」
「ぐっ……!(おのれ、唯一の逃げ道が……)」

唯一の脱出経路を潰され、星は唇を噛み締めた。
3人は何とか試食を断る理由を模索するが、そんな都合良く出てくる筈もない。
そして3人は紫苑に引き摺られるように、調理場の奥へと案内されてしまった。

「おや? お前達、どうしてここに居るんだ?」
「「「あ、愛紗…………ッ!?」」」

調理場の奥には、愛紗が中華鍋を持って立っていた。
3人は愛紗を見た後、即座に中華鍋へと視線を移す。

するとそこには世にも奇妙な物体があった。
一言でその物体を言い表すのなら――生ゴミの塊だ。

「鈴々ちゃんも翠ちゃんも星ちゃんも、愛紗ちゃんが作った料理を味見したいんですって。だから今さっき出来上がった物を出してあげたらどうかしら?」

紫苑の言葉に3人は絶句する。
自分達はそんな事は一言も言っていない筈だが。

「そうなのか……! 正直助かる。ご主人様の好みの味に近づけたいのだが、どうも上手くいかなくてな」
「えっ……!? そ、その生ゴ……料理をご主人様に出すのか?」
「? そうだが?」

翠の問い掛けに対し、愛紗はあっけらかんとした様子で答える。
あまりにも普通過ぎる態度に翠は身体の力が抜けていくのを感じた。

(お兄ちゃん……絶対にお腹がピーピーになるのだ)
(あの黒く縮れた物がメンマか……? 認めん、私は絶対に認めないぞ!)

翠の傍らに居る鈴々と星も、心の内で悲鳴を上げていた。
前方には楽しそうに物体を皿に盛り付ける愛紗、後方には笑顔で扉を塞ぐ紫苑。
正に前門の竜、後門の虎と言った感じであろうか。

「さあ3人共、感想を聞かせてくれ!」

張り切った表情で物体が乗った皿を3人に向けて差し出す愛紗。
ご丁寧にも紫苑が素早く3人に――無理矢理――レンゲを持たせていたりする。

(ううっ……凄い臭いなのだ)
(な、何で眼が痛くなるんだよ! これって仮にも炒飯だろ!?)
(愛紗の奴……戦場では輝くが、調理場では全く輝かないのだな)

こうなってしまったらもう逃げる術は無い。
愛紗がこちらから視線を外さず、紫苑もずっと見つめ続けている。

この場に妙な圧迫感があるのは気のせいだと思いたい。

覚悟を決めたのか、鈴々、翠、星の順番にレンゲを物体に差し込み、少しだけすくった。
レンゲ1杯分でもかなりの臭いである。口に入れたら一体どうなってしまうのだろうか。

そして3人は物体を恐る恐る口へと運んだ。
それから彼女達が調理場から出る事は無かった――

 

 

 

 

「よっ、水簾。兵士達の訓練お疲れ様」
「伯珪もな。騎馬隊の世話とは言え、人間と馬の両方を見なければならないのだろう?」
「確かに大変だけど、元親の兵士達って根性があるからな。上達が早いんだよ」
「ふっ……確かにな」

自分達が担当する場の訓練を終えた水簾と伯珪は部屋へ戻る途中で通路にて合流。
互いに訓練の疲れを労い、他愛の無い会話を続ける。
最近この2人は妙に話が合うのか、他の者達より仲が良かった。

「そう言えば伯珪は真名をご主人様に教えないのか?」
「へっ……!? な、何だよ突然!」
「いや、ここに居る殆どの人間は真名で呼び合ってるからな。何故教えないのか気になった」

急に話題を真名の件に振られ、伯珪は狼狽した表情を見せた。
何をそんなに慌てるのか、水簾は首を傾げる。

「どうした? 教えたら不味いのか?」
「そ、そう言う訳じゃないんだが……」
「ならどうして?」

酷く狼狽したと思ったら、次は顔を真っ赤にして伏せてしまった。
水簾からしてみれば、彼女の反応は訳が分からない事この上無い。

「わ、私の真名は……その……似合わなくて……」
「はっ……?」
「に、似合わないんだよ! 私の性格上……私に合ってないんだ!」

成る程、自分に似合っていないから教えたくないらしい。
水簾は納得、または少々呆れが入った気持ちで伯珪を見つめた。
こんな表情になるくらいの真名って一体何なのだろうか。

「しかし合ってないからとは言え、ご主人様は知りたがっているかもしれんぞ?」
「えっ……? そ、そうなのか?」
「ご主人様は我々の事を大切な家族だと仰ってるんだ。家族の1人であるお前の真名を聞きたがるのは当然だと思うが……」
「うっ……た、確かに。あいつってそう言う性格だしな」

水簾の言葉を聞き、伯珪は顎に手を添えて考え始めた。
若干まだ顔が赤いが、気に留める必要も無いだろう。

水簾自身、恋敵(あくまで水簾の予想)に塩を送るのも何だと思ってはいた。
しかしそれでご主人様の喜ぶ顔が見られれば良い、とも思ってもいる。
主に密かに抱いている想いがこんなにも複雑な物だとは思わなかった。

何にせよ、水簾の心は多少複雑な気持ちに覆われていた。

「う、うん。よし! 言おうと思った時に言おう。それで良いよな?」

伯珪の答えに水簾が少し呆然とする。

「…………ま、まあな。お前がそれで良いなら良いんじゃないか?」

曖昧な伯珪の答えに水簾も同じ曖昧な態度で返した。
2人の間に微妙な空気が流れるが、すぐにそれは打ち消される事になる。

「…………ん? 何だこの臭い」
「何? …………本当だ。妙な臭いがする」

通路を歩いていた2人の鼻を妙な臭いが衝いた。
香ばしいようで、何処か鼻が痛くなるような臭いである。
2人の身体は無意識に匂いの発生源へと向かっていた。

「ここ……だよな?」
「ああ。ここだな」

2人の眼の前には調理場と通路を隔てる1枚の扉。
伯珪は頬を掻き、水簾は不快そうに顔を歪める。

「近づいてみると分かるが、ますます変な臭いだな」

鼻を押さえ、伯珪は咳を1つ。

「ああ。調理場だから料理を作っているのだろうが……何を作ったらこうなるんだ?」

同じく水簾も鼻を押さえ、咳を1つ。

この場に居続けたら気分が悪くなりそうだ。
2人はそう思い、その場から離れようとしたのだが――

「あら? 水簾ちゃんに伯珪ちゃん。こんな所でどうしたの?」
「むっ……紫苑か」

突如として扉が開き、中から現れたのは紫苑だった。
思いもよらぬ人物の登場に水簾と伯珪は少し呆然とする。

「いやね、ここから妙な臭いがしたもんだからさ」
「あら、そうなの? ……まだ臭いがするのね」

紫苑の吹いた言葉に対し、伯珪が首を傾げる。

「はっ? 何か言った?」
「ううん。何でもないわ」

紫苑が笑顔を浮かべて先程吹いた言葉を誤魔化す。
あまりにも不自然な態度に水簾は首を傾げたが、追及はしなかった。

「そうだ。2人共、少し味見をしていってもらえないかしら?」
「あ、味見……?」
「今調理中で、この刺激臭を出している物をか……?」
「大丈夫よ。もうだいぶ見栄えは良くなってきたから」

大丈夫と、根拠がまったく無いことを述べる紫苑。
水簾と伯珪は無理にでも逃げ出したかったが、既に2人の腕は紫苑に掴まれている。

「「え、ええ…………!」」
「さあ、多少の痛みは分かち合わなくちゃね?」
「「痛みって何だ!? 痛みって!?」」

2人はゆっくりと紫苑によって部屋の中へ引き込まれていった。
開いていた扉はまるで口を閉じるようにゆっくりと閉まる。
その後、調理場から2人の呻き声らしき物が響き渡った――

 

 

 

 

調理場で惨劇が起こっているとは知らず、場所は変わって元親の部屋――
いつもの通り元親は朱里に手伝ってもらいながら、書類整理をしていた。
本当なら愛紗や伯珪も手伝ってくれる筈なのだが、今日に限って来ていない。

そのお陰で元親の精神的な疲れは酷かった。
書類を1枚読めば欠伸が出るし、油断をすると睡魔が襲ってくる。
首がコクリと前に揺れれば、傍らに居る朱里が元親の身体を揺すって起こした。

「あ〜〜〜〜」

疲れた首の骨をコキコキと鳴らす。
思い切り身体を動かしたい気分だ。

「頑張って下さいご主人様。寝たら死んでしまいますから」
「いや、眠っただけで死なねえだろ……」

はわわ軍師のトンデモ発言にツッコミを入れつつ、書類を上から下まで読み通す。
金太郎飴よろしく、全ての書類の内容が同じに見えてくるのは冗談だと思いたい。

そんな中、元親の部屋に入る人影が2つあった。
影の正体は侍女の月と詠である。

「お疲れ様です。お菓子を持ってきました」
「予想通りね。やっぱりヘバッてたか」

お菓子が乗ったお盆を手に持つ月と、呆れ顔で溜め息を吐く詠。
その2人を元親は苦笑しながら迎えた。

「参ったぜ。朱里が居るからまだ良いが、いつも手伝ってくれる愛紗と伯珪が居ないからな。進みがいつもより断然遅え」

そうボヤキつつ、元親は月が机の上に置いたお盆に乗るお菓子を摘む。
ほんのり口内に広がる甘さが疲れを少し癒してくれた。

「そう言えば2人共さっきから見ないわね。一体何処で何やってんのかしら?」
「私も心配してるんですけどね。御2人は私より早くご主人様のお手伝いをしているんですけど」

いつもは居る2人が居ない違和感に朱里は少しだけ首を傾げる。
しかしいつまでもその疑問に構っている暇は無いのだ。
自分の分である残った書類を手に取り、朱里は凄い勢いで読み通した。

「ふあぁぁぁぁ……」
「ちょっと……情けない欠伸を出さないでくれる?」
「勘弁しろよ詠。向こうを見りゃ俺の気持ちが分かるぞ?」

元親が視線を向ける方向に、詠がゆっくりと視線を移す。
するとそこには絨毯の上で気持ち良さそうに眠る恋、璃々、セキトの2人と1匹。
恋が中心となり、セキトは恋のお腹の上、璃々は腕枕と言った具合だ。
成る程、近くでこんなに気持ち良さそうに寝られては仕方がない。

「なあ朱里。月が持ってきてくれた菓子も良いんだが、調理場に行って何か食ってきちゃ駄目か? 小腹が空いちまってしょうがねえんだが」
「う〜ん……そうですねえ」

元親の頼みに朱里は――微笑を浮かべながら――考える素振りを見せた。
詠は甘やかすなと言うかもしれないが、先程から元親はぶっ通しで仕事をしている。
少しぐらいの小休止ぐらいはあっても良いだろうと、朱里は思った。

「分かりました。でも少しだけですよ? お腹が膨らむと、また眠気が襲ってきますから」
「助かったぁ。恩に着るぜ」

朱里から許可を貰い、元親は椅子から立ち上ろうとした。
その時、不意に扉を叩く音が部屋に静かに響く。
皆の視線が一斉に叩かれた扉へと向けられた。

「誰だ? 別に入ってきても構わないぜ」

元親の声に応えるように、ゆっくりと扉が開かれる。
入ってきたのは先程まで噂をしていた愛紗、そして笑みを浮かべる紫苑の2人だった。
更に愛紗の手には美味しそうな湯気を漂わせた炒飯が乗った皿が持たれている。

「ご、ご主人様。お腹が空いていると思い、炒飯を作ってまいりました。よろしければ……その……お食べになって下さい」
「愛紗ちゃん、ご主人様の為に一生懸命作ったんですよ。是非食べてあげて下さいね」

愛紗が緊張した面持ちで炒飯を元親の前へと置いた。
元親の表情が感心したような面持ちに変わり、愛紗はホッと息を吐く。
料理の第一印象はとても良いようである。

「凄えな。愛紗って料理が出来るんだな」
「い、いえ……それ程でもありません」

元親はこの地に来て初めて炒飯を食べたのは街にある料理店だ。
そこで出された炒飯はまずまずだったが、愛紗が作った炒飯はとても美味しそうに見えた。

「それじゃあさっそく食わせてもらうとするか」

皿に予め置かれていたレンゲを手に取り、湯気が立つ炒飯へと差し込む。
レンゲ1杯分の炒飯をよそい、元親はゆっくりとそれを口に運んだ。
元親の反応は――

「…………うん。美味い」

元親の表情に笑顔が浮かぶ。
愛紗も顔を赤くしながらも、元親と同じように笑みを浮かべた。

「ふう……苦労しただけあって、ご主人様の笑顔が見られて良かったわ」
「苦労って……紫苑、あんた一体何してたの?」

詠の問い掛けに紫苑は少しだけ悩むような仕草を見せた後――

「う〜ん……色々とね。愛紗ちゃんのお手伝いよ」

いつも通りの笑みを崩さず、紫苑は詠にそう答えた。
詠は不穏な物を感じたが、怖くてそれ以上訊けなかった。

「それにしても驚いたな。愛紗が料理上手なんて知らなかったぜ」
「いえ、ご主人様にお褒め頂く程の物では……」
「いや、本当に凄い美味いぜ。愛紗はきっと良い嫁になる」
「あ……う……あ、ありがとうございます」

徐々に広がっていく2人だけの空間。
その空間を間近で見ている朱里と月は頬を膨らましていた。

「むう〜〜〜……ご主人様と愛紗さん、良い雰囲気です……」
「わ、私も簡単な料理ぐらいなら作れます……!」

朱里と月が一気に不満の言葉を漏らす。
そして炒飯の美味しい匂いに釣られたらしい、何時の間にかに起きていた恋は無表情のまま元親と愛紗を見ていた。

 

その後、夕食の準備をするために調理場に入った調理師が惨劇をみる事となった。
何と泡を吹いた、幽州きっての武将達が倒れていたのである。
調理場で倒れていた部将達は皆、手にレンゲを持っていたらしい。
そしてその近くには鼻を衝く臭いがする黒い物体があったとか――



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