呼び出された桂さんの屋敷で儂は一通の封書を凝視している。

 『陸軍大将 乃木希典ヲ 大日本帝国欧州領総督ニ 親補ス』

 任ずではない。任ずであれば総理の人事権であり辞退も選択の内、せめて逡巡だけでも出来るだろう。親補――陛下直々の任命――即ち勅命と言う意味だ。

 『勅命』

 では反論の余地は無い。私個人の美学もあるが出来る出来ないは兎も角、陛下の命に公然と逆らえる日本人など皆無だろう。たとえ発議者が【橙子の史実】だけでなく、この世においても勅命乱発宰相で知られる儂の前にいる男、桂太郎元総理大臣であってもだ。


 「せめて裏だけでもお聞かせ願いたい。」


 儂の言葉を待っていたのだろう。先ほど宰相を辞任した彼の最後の仕事がこれだったのだ。彼は苦衷(くちゅう)に歪んだ顔をさらに捻じ曲げ押し殺すように言葉を絞り出す。


 「列強だ……我々は全ての列強を敵に回してしまった。乃木さん、全部……全部! あんたの所為だ。いや! 解っている。あんたにも罪はない事位。だが列強はそれでは納得しない。だから我々は……我々日本人はあんたを生贄に差し出すことにしたんだッ!」

 彼が土下座をする。額を畳に擦り付けんばかりにして平伏する。結局、儂も驕っていたのだろう。強大な力でも使い方さえ間違わねば問題など無いと。橙子の性を見誤り、“橙子”の痛みに気付いてやれず、二人の橙子の暴走を招いた。万死に当る咎、しかし償う機会が与えられたのだ、ならば儂のやることなど決まっている。


 「ひとつお願いがございます。儂と共に追われる民にどうか御高配を、せめて彼らが御国から追われるのではなく新たな門出を迎えるだけの配慮を確約して頂きたいのです。」

静かに答えた儂の言葉を彼は土下座で伏している眼を驚愕の余り見開いているのだろう。以前の儂では考えられない台詞なのだ。勅命に条件をつけるにとどまらず『御高配』という強烈な単語を突きつけるなど不遜で済む事態ではない。
 そう、御高配を言ったのは故がある。陛下にこの言葉を奏上しろという意味だ。陛下ならば勅を持って臣民に示される。臣民も陛下の御言葉に表立っては逆らえない。『逆賊』だの『後ろから匕首』だの騒いでいた連中は押し黙らざるを得ない。罵っている方が逆に罵られると思えば誰とてそうだ。…………そして桂さんは確実に命を絶たれる、そう政治生命という物だ。


「解り申した、既に薩長の時代は終わりです。政治家らしく死に花飾って見せましょう。」


彼と再び目を合わせる。後、彼が最後の力を振り絞り移民完遂の政党を作り上げた後、世から消えたと聞いたのはずっと後の事だった。





―――――――――――――――――――――――――――――






 中秋の名月には遅く、すでに月は新月を越えて上弦の光を放っている。それでも儂の周りは2年ぶりに穏やかな空気が戻っていた。飾られたススキ、高杯に盛られた団子、静かに茶碗へ廣島の醸造元から送られてきた天爵を注ぎ呷りながら儂は尋ねた。


 「で……お前はどうするつもりだ? すでに戦は終わり契約も過ぎたはずだ。」

 「お気づきでしたか。」


 後ろに橙子が座っている、孫が起きているには遅い刻限だ。儂が夜酒をしていれば顔を出すだろうと思ったが予想通り、こんなことは滅多にない。それに“橙子”から橙子が気配を感じなく……いや感じさせなくなってから一度聞いてみたいと思っていた。


 「迷っていないと言えば嘘になります。現状、乃木橙子は本来の“橙子”に呑み込まれつつあるのです。日露戦争が始まる直前から兆候はありました。現在のこの体の主人は“橙子”であってユニットの私ではありません。もちろん強制分離は可能ですがコアユニットはそれを拒否しました。」


 まるで自分が唯の物であるかのような発言、訝しげに再び尋ねる。


 「良いのか? 貴様とてひとつの命なのだろう。自らが消えるという事がどれほど恐ろしいか解っているはずだ。」

 「だからこそ迷うのです。私達に命という概念はありません。だから命を失うという事に抵抗は無いはずなのです。コアユニットの命令を受けそれを実行するだけの存在、それなのに、今そう問い詰められれば不安を隠せません。でもそれ以上に別の不安を感じてしまうのです。」


 ふむ、少し逡巡する。命無きと言う者がすでに命を得ているのであれば、その戸惑い足るや如何程のものであろう。しかしそれ以上の不安とは? 話が続く。


 「“橙子”と共に在れなくなる不安と言った方が良いのかもしれません。コアユニットも既に強制的に分断しない限り、私を元の索敵ユニットに戻すことは不可能と結論付けています。そしてそれは望まないと。
 我等索敵ユニットはコアユニットにとっていくつもある駒の一つにすぎません。たかがひとつの駒に拘泥(こうでい)して希少なサンプル(とうこ)を失うわけにはいかないと言う事なのでしょう。」


 少しばかりコアユニットと呼ぶ存在に悪感情を抱く……彼らが機械とはいえ同胞にそれほど冷酷な命令を出すものなのかと、しかし話が少しばかり脱線している。


 「でもそれ以上に、私は“橙子”と共に在りたいのです。この子が私達の力を得て何を成そうとするのか? 何を目指すのか? 人はこれを期待という言葉で表すことは解ります。私達……いいえ、にとってその感情を実装できただけで私が生きる意味はあると思っています。」


 生きる意味か、西南戦争である意味死んでいた儂にも通じることだな。連隊旗を奪われたことで己の地平を極端に下げ、ただ無私と言う名の自暴自棄に明け暮れた己に比べれば孫達の方が遙か先を走っている。
 御上に託された儂の生きる意味……此方(ていこく)彼方(トラキア)、永遠とは云えぬままでも築けるものはあろう。それをこれからの儂の生きる意味としてもよいのではないか。そう思った。


 「あら、私を除け者に内緒話?」


 笑いながら近寄る声に『御婆様』の声、橙子と“橙子”。話し方の(いん)が微妙に違う。“橙子”に戻ったようだ。何かを抱えゆっくりと静子が暗がりから縁側に出てくる。
そうか…………そうだったな。激情と悔恨に身を委ねたこの数カ月で極めつけというものを二人の橙子には話していなかった。話せるはずもなかったが。





―――――――――――――――――――――――――――――






 御婆様が抱えて来たのは産着にくるまれた小さな赤ちゃん……どういうことだろう? どうみても御婆様には子ができる年でもないのに。


 「勝典の子です。橙子、貴方の妹ですよ。」

 「父様…………の?」   わたしの言葉がどこか遠くで聞こえる。

 「5月に生まれました。もう五月(いつき)になりましょう。」


 知らなかった。確かに大元を逆算すれば父様はその頃に一度家に戻っている……でも私には一言も! 御爺様の声が続く。


 「間が悪かったからな。儂も知ったのは11月、黒溝台の最中だ。凱旋の祝いとして話そうと思ったのだが……。」


 解ってる。その時わたしと御爺様が大喧嘩、だから話す暇もなかった。でも不審に思う。何故母様が抱いてこないのか?


 「母様、母様は?」    


今まで本人の前ですら出なかった言葉がすらすらと口から出るわたしに驚く。


 「橙子、気をしっかり持って聞きなさい。あの子はこの赤ん坊と引き換えに勝典の方に逝きました。」

 「え?」 


意味はわかる……解るのだけれども頭がついていかない。口だけが陸に上がった魚のように開閉され赤ん坊を覗きこむ。続く御婆様の断言、


 「橙子、お前の母様は身罷ったのです。」


 頭を何かで殴られたような気がした! 痺れるような感覚のままかろうじて言葉が出る。


 「……やだ、嘘……嘘でしょ? わたし憎まれ口ばかりでなんにもしてない、ありがとうも言ってない。なんで? なんで??」


 正直嫌いだった。父様とわたしの間に入り込んで来た女、尋常小学校に入ったばかりでも子供って異質なものに敏感なの。私の敵……それが母様に対するわたしの第一印象だった。
 でも、それでもわたしの母様だった。悪さばかりするわたしの代わりに近所に頭を下げてくれていた母、学校に行く時も顔を振り向く事も挨拶もしようとしないわたしに笑って手を振ってくれた母。

 わたし……なにもしてない! なんにも返してない!!

 わたしが昔のままだったらそんなことは考えもしなかった。そう、あの河原で死の恐怖に晒される前までは。体がガタガタと震えだす。わたし、わたしはなんてことを!


 「しゃんとなさい! 乃木橙子!!」


 御婆様から鋭い声が飛ぶ。こう言うとき御婆様は本気だ、絶対に逆らえない何かがある。私の中の橙子からの意思、【精神安定剤分泌開始】という言葉に関係なく壊れそうになる心が瞬時に正され背筋が伸びる。


 「お前様へ母様よりの遺言です。よくお聞きなさい。橙子、私はこの子に何も与えてやれなかった、名前すら。あなたの最後の家族です。貴方がこの子に幸せを与えてあげて。それが貴方が今生きている証しなのですから。


 目から大粒の涙が零れ出す。わたしには父様がいた。どんなに嫌いでも母様がいた。でも、この子には……この子には誰もいない。生まれた時から一人ぼっち。
 小さな手が覗きこんでいたわたしの顔に触れる。見ると産着の中の赤ん坊――女の子だ――が手を出してわたしの頬を撫でている。不器用に、でも何度も何度も……まるで頬を流れる涙を拭うように。


 「橙子、お前はやらねばならぬことがある。」  御爺様の声で振り向く。

 「あれの最後の願いだ。その子に名を授けよ。そなたら2人掛かりで出来ぬことではないだろう。」


 後ろを向き手酌でお酒を呷っている御爺様が声を続ける。少し言葉が詰まりがちなのは泣いているからだろうか。何度も考え、橙子と相談し言葉を導き出そうとする。その時、赤ちゃんの産着に小さな虫が止まった。この季節であり得ない虫、尻尾の先を明るく灯して自分の存在を主張している蛍。


「燐子」
 


 御爺様が振り向き首を傾げる。御婆様も妙な顔をしている。変な名前だったかしら?


「産着の光から蛍子かと思ったが?」  御爺様が意外と思うような言葉を発した。

「蛍は(はか)なさすぎですし、こんな季節外れに一人ぼっちではこの子が可哀相です。」


 話を続ける。


「鉱物の燐はどこにでもありそうな物でありながら火を灯すだけで激しく燃え上がります。こんな寂しい巡り合わせに挫けることなく、命の炎を激しく燃やし皆の眼を捉えて離さないそんな妹であって欲しい……変ですか?」

「これは、御転婆娘がもう一人できそうね。」  笑いながら御婆様がからかう。

「まぁ! ひどい」


 私の言葉に御爺様も笑い出し、つられてわたしも笑う。その笑い声は燐子が拭った私の涙を口にしてしまい泣き出すまで続いた。




―――――――――――――――――――――――――――――






 陸軍省の第一講義堂、本来なら式典以外には使われることが無いホールに机と椅子が並べられ三十人余りの士官が作業を行っている。私は自らの書類を精査しながら隣でせっせと判子を押している乃木大将に声をかけた。


 「どうかね? 乃木君、兵士はなんとか詰め込めそうだが物資の方が辛かろう。」


 彼も難しい顔をしている。はるばるこの星の反対側、欧州まで屯田に行く身なのだ。数年後殉死する筈の彼がなんと地球の反対側に島流し……良かったのか悪かったのが表現のしようもない。


 「武器や兵器はなんとかなります。橙子の“上役”(コアユニット)が硫黄島を放棄して丸ごとエーゲ海の小島、タソス島とか呼ばれておる島に移動しそこで兵器を作って列強に売り払う事で日銭を稼ぐつもりのようです。勿論我が軍の装備も全て新規に作り直すそうで児玉閣下は無理せずとも。」

 「半分はお主を止められなんだ私の責任だ。これくらいはせんと罰が当たる。」


 私は乃木のアメリカ行きを望んだ。あの国は人種で差別することさえあれ有能、有望な者にどしどし仕事を与え高い役職に就ける。力を持つ橙子嬢とこの漢ならすぐにアメリカ国内でひとかどの人物として立てるだろう。そう考えたのだ。
 しかし乃木はそれをやんわりと固辞した。彼の国はいまだ若い、若いという事は上へ伸びることを恐れない反面一度道を誤るととんでもないことになると話し出したのだ。もし橙子嬢の圧倒的な力を目にすれば彼の国の国民は狂喜して二人に強大な権力を与えるだろう。今まで新大陸の雄ととられながらも意図的に欧州から植民地人と揶揄され二級国家と貶められていたのだ。その復讐を果たす好機と考える上流階級(ハイ・ソサイエティ)がいてもおかしくないだろう?
 そんな事をすれば彼女の【上役】の狙い通り大戦争が勃発しかねない。それは戦争を望む、人間を更なる高みに無理矢理にでも登らせる為に手段は選ばないはずだ。この戦争が終わり、橙子嬢が戻ってきてから我々は今までのからくりを知ったのだ。
 彼女そのものが力を行使するわけでは無い。兵器を作り出すわけでもない。彼女はあくまでそれに憑かれてそれに意思を伝える巫女に過ぎないのだ。それの目標は、


 『人類を150年間発展させ、この世で発動する彼ら【霧の艦隊】を現出させること。』

 その手段が

 『人類間で適度な戦争を繰り返させ、人類文明の発展を加速させること。』


 震えあがった! 正しく神や悪魔の所業だ。ここまで相手が人間を物扱いする存在だとは。
しかし、迂闊に逆らうわけにもいかない。相手は外見だけでも40年後の巨大戦闘艦。中身はそれすら子供だましのバケモノだ。我等全人類総掛かりでも簡単に蹴散らされるだろう。しかも悪いことにそれは人類を150年間発展させれば良いのだ。つまりどこの国を発展させようが構わないとも捉えられる。この事実が知れたら世界征服を夢見る自称独裁者がひと山いくらで量産されかねない! それでなくても列強皆、疑心暗鬼の挙句、内紛で自滅するだろう。
 人類滅亡の危機……我々人類は奈落の上に渡された細い縄の上を歩かねばならぬ立場になったのだ。だからこそあのモールバラ公(チャーチル)という若者の言葉が耳に突き刺さってる。人として、人であるからこそ屈しないという決意、


 「今、あれに勝つ手段などありはせぬよ。負けなければ良い、いやそもそも対抗するなど考えぬ方がいい。」


彼が言葉を紡ぐ。このことを少し前に橙子嬢と共に話した彼が、まだ私が思い悩んでいると察したのだろう。


 「世界の危機を放置すると?」  


小声で聞き返してみる。少しばかり呆れた声で彼が話し始めた。


 「儂等がそれを知って何になる? 150年後の話だぞ。ここにいる全員、墓の中に入っておるわ! 儂等のできることは責任を果たすだけ、欧米にでっち上げられ我々の枷として与えられた国を本当の我等の国にするのだ。先ず我々【は】生き残る、全てはそれからだ。


 どれだけ極限をかいくぐればこの堅物がこんな事を言えるようになるのだろうか? 仕事振りも今までとは比較にならない。間違い、悩みながらも彼は着実に前に進もうとしている。昔の彼が我武者羅な生き方に思える程だ。口調を変えた彼が判を押さずに考え込んでいる。


 「問題はこれですな。日本人に必要でトラキアに無いものです。当座だけでも相当数確保しなければなりません。最悪、森軍医長の懸念が現実になりかねませんな。」


 書面を私の机に回し彼は呟いた。私もそれを見ると唸り声を出してしまった。森軍医長――森林太郎少将、或いは森鴎外先生――なら同じことをするだろう。
 少しばかりの間二人で唸り声を上げている間。部下たちは近寄りがたかったそうだ。御蔭で昼飯を食えたのは茶菓子の時間に近かった。





―――――――――――――――――――――――――――――






1906年12月7日 とある寺社にて、



 家族で出かけるのは久方ぶりだ……そう思う。死地への旅路とはいえ最後にこの景色だけは眺めておきたかった。昨日降った雪が少しばかり積り仁王門、三重塔、本堂の屋根を白く染めている。本堂の舞台に立つと京の街が雪に煙って見えた。妻や橙子は住職の方に行っている。儂は唯その景色に立ち尽くしていた。そして意外な人物にも出会う事が出来た。


 「高野君、君にここで会うとは思わなかった。」


 過酷な波濤と戦塵に晒され日露の戦を生き抜いた彼がいた。失った指に少しだけ逡巡し彼はそちらの腕で敬礼をする。少し思う、勝典があの世で差配しても可笑しくなかろう?


 「閣下も御壮健そうでなによりです。」

 「ここに来た……と言う事は君もかね? 海軍さんも酷なことをするものだ。」


 何人かの軍人が軍装のまま参拝していた。ここの由来を考えれば当然だろう。初の征夷大将軍が建立した謂れもさることながら参拝者にとっては験担ぎ、寺にとっては厄介な所業の事もある。彼も来たという事は召集令状というトラキアへの片道切符を受け取ったのだろう。


 「いえ、私は志願したクチです。」


 彼は話し始めた。郷里の長岡でも【匕首騒動】は広がったらしい。彼も山本家を継ぐこともできず鬱々としていたそうだ。そこに流れた屯田の詔勅の噂、いてもたってもいられず志願したらしい。


 「考え続けていました。戦争が終わってからも乃木大尉の言葉を、戦争は終わり御国は守られました。しかし大尉はそうなることをあらかじめ知っていたのかもしれないと思うのです。では、何故私にあのような最後の言葉を遺したのか…………御国を守れとは何の意味を持っていたのか? 探してみたくなったのです。少なくとも“この日本”には無いと確信できる。」


 驚いた、史実で名将と評されただけのことはある。確かに勝典は儂と同等の事、橙子の正体、契約の真実、史実の日露戦争とその後を知っていた。しかし息子がそれを口にすることは無い筈だ。この男はたったそれだけの言葉で真実の輪郭をあぶり出そうとしている。


 「君は大した男だよ。高野五十六君。」   溜め息交じりに言葉を紡ぐ。


 巷でいろいろ言われている男に褒められたのが嬉しいのだろう。彼は後ろ手で頭を掻き笑う。


 「御爺様? あら高野様、久方ぶりです。」


 静子、保典、そして橙子がやってきた。後ろから僧の何人かが頼んだものを担いでやってくる。さらに後ろから住職も続いた。法令違反すれすれのことをやるのだ、これくらい当然だろう。


 「御嬢様、奥様、大尉殿もですか?」


 高野が驚いた顔をする。総督とはいえ一族全員でトラキアに骨を埋める気かと思ったのだろう? 思わず笑みが零れた。懐かしい、まだ家族全てが今を想像すらできなかったあの時、


 「儂は台湾でも同じことをするつもりだったぞ。だが保典は別だ、今回は見送りだけで陸軍少将になるまでは此方で奉公することになっておる。」


 保典は彼が誰か気がついたようで頭を下げる。昔は勝典(あに)に橙子が言うコンプレックスを抱いていたようだが、彼の死と嫡男という重圧が良い方向に動いていると儂は見ている。
そう、保典は次期総督が内定しているといってもいい。これから宮様軍人と同じペースで昇進が進むことを覚悟させてある。御国から遠く離れた地の総督、格と言う物が必要なのだ。そして……
 少しばかり心の中で呟く。位牌も持ってくつもりはない、母上を父上と引き離して異国に祀るのは(はばか)られる。台湾で難病に罹り命を落とした母を想う。


 「失礼しました。トラキア辺境伯叙任、おめでとうございます。」


 彼は思い出したように慌てて再度敬礼し祝辞を述べた。辺境伯、この称号は欧州にとって特別な意味を持つ。確かに貴族であれば伯爵は中流の階級である。ただしこれに辺境とつくとその座は化けるのだ。
 辺境にいる伯爵という蔑視的な意味合いではない。本来国家の飛び地や重要な国境に接した領土、価値の高い植民地は国家にとって戦略的な拠点でありながら政府の命令が届くまでに時間がかかりすぎる。いちいち中央の意向を(うかが)っていてはそんな重要拠点が敵に奪われることにもなりかねない。
 そこで中央でそこそこの格を持ちながら領地では王権や政府に委託された強大な権限を振るう存在が必要になる。それが辺境領伯爵、略して辺境伯である。植民地総督という役職はそこから貴族と言う権威を取り払った物と考えてよい。
 だから政府での実質的な格は一ランク上の侯爵かそれ以上と言う場合もある。そのさらに上、公爵が欧州では王族にしか許されない特別な物なので、日本流にいえば『位人臣を極める』といっていい。同時に、形式だけしかない律令の位も正二位まで上った。世が世なら藤原摂関家にしか許されなかった位だ。
 死んでこいと言う政府の御達しにも思えるが、強引にまで事を進めたのは陛下であらせられるらしい。儂に欧州で恥をかかさせぬ大御心なのだろう。臣として恐懼(きょうく)の限りだ。返礼と小噺を交え最後にこう締める。


 「政府の思惑はともかくトラキア移民を儂は欧州に参ずる御国の代表と考えている。御国だけでなく己の矜持に賭けて国を興す。その覚悟でいるよ。」


 準備が終わった。舞台から下に垂れ下げられた荒縄、ある程度の間隔で手がかりが掴める様結び目がついている。11師団に儂が話したところ皆喜んで作ってくれた。一時は危うく部隊内で佐幕討幕の争いが起きかけたのだ。彼らを説得し絆を結びなおすきっかけになったのがこの縄。結び目には小さな布がついている。尖兵第8中隊とか、師団兵站部とか……縄を()ってくれた部署ごとに布札が付いている。
 これを伝い下に降りる。ここは『清水の舞台から飛び降りるつもりで』に倣って本当に飛び降りる命知らずが後を絶たないそうだ。だからこそ儂はここから降りるつもりでいる。一か八かの賭けでは無い。縄を手繰り、命綱をつけ一歩一歩降りていく。トラキアで国を興すのはそのような根気が必要なのだ。
 静子が儂の腰に命綱をつける。それは橙子が時々引っ張って回る大きな車輪付き鞄に接続されている。あの上役や橙子を形作るものと同質のナノマテリアル製命綱だ。儂の腰が砕けても千切れまい。
 ふと思う。彼も老年になってからあの言葉を吐いて米国に戦争を吹っ掛けたのだったな。下の様子を怖々と覗きこんでいる彼に叱咤のつもりで言葉を吐く。


 「高野君、次は君だ。トラキア統治は半端な心で出来るものでは無い。飛び降りてどうにかなるものでは無いぞ!」


 驚いたように彼が目を丸くする。どうしてそれを! と考えているのだろう。まだまだ若造に過ぎんな。皆の見る前で欄干を跨ぎ儂は縄を頼りに中空へ身を躍らせた。






 あとがきと言う名の作品ツッコミ対談




 「どもっ、とーこですっ! つかぬこと聞くけど作者? 今回の章全然戦闘シーンなくて大丈夫なの??」


 う〜ん……入れたいのは山々なんだけどね、でもあえて全部切った。ぶっちゃけ戒厳令下の暴徒鎮圧シーンだって乃木おじさんの出番が為だけに入れたようなものだしねぇ。はっきり言うならば戦争は外交の一手段である以上、今回は最もグローバルな話になるのが確定だったしそれに無駄な小戦闘を入れるべきじゃないと思ったわけ。


 「ふ〜ん、作者の言い回しとしては今回の第2章が乃木じーちゃまのキャラ軸からすれば修飾語に等しいから余分なものは極力省くてな考えか。」


 そのおかげで閑章で済ますどころか一章になりかねなかった新第2章を10話で短縮できたしね。


 「アレ?じゃ今回は後1話か、じゃ前置きもなんだし突っ込み行きます。突っ込みそのいち! 解った〜〜〜〜わたしの名前の元ネタ!! どうにも境界のほうじゃないなー? と思ったら植芝理一氏のアブノーマル作品のオカルト姉妹の姉か!! 考えてみれば家族構成が全く同じ、性癖と境遇も設定時代は全く同じ。しかもファザコンなのも中折れしたエディプスコンプレックスなのも!!! まったく本作のヒロインになんて設定もちこむのよー!」


 バレた?(笑)でも決定的な違いがある。あの作品のタイトルでもある彼女たちの職業だけどそもそも相当に屈折かつ陰に篭る性格でないとできない。だからこその人間としての思考の整理期間を力とする「夢使い」の適正がそこにあると作者的に考えたのさ。でもこっちの橙子はどうよ? 向こうとは一字違いの同名だけど性格は完全に陽に出る方、そこらじゅうで暴発するしねw だから向こうの“塔子”はパパ死亡の後、世捨て人化して表世界から縁を切っちゃったけどこっちの“橙子”はこれを契機に表世界で暴れだした。思考の方向性が逆なのよ。


 「だから世界が大混乱って……まぁいいや、とーこの出番が増えるのなら♪」


 開き直るなw でもこのお陰でこの物語の史実が根本的な変化を見せたのも事実。どこぞの仮想戦記じゃないけどリバウンド現象を通り越して歴史そのものが暴走を始めている。もう第2次世界大戦は起きないね。現状ドイツは本土決戦だし日本は二流国確定で戦争どころじゃない。イタリアは……まーどーでもいいやあの国はw


 「そっちこそぶっちゃけるな!(笑)じゃ突っ込みその2、56をこういう風に組み込むか! 映画でもあったけど何かをキーワードに考えてしまう辺り彼らしいわね。でも彼まで島流し?」


 うん、もう日本で彼に舞台を与えることはできないから。でも困ったもんだったよ。本来このシーンは10月上旬で紅葉まっ盛りだったはずなのに、時間があれよあれよと過ぎてしまって11月中旬……初冬になってしまった。木枯らしだけだと詰らないから初雪降らせてみたけど氷滴に覆われた楢の実の房なんて表現すべきだったのかなぁ?と悔やまれる。


 「この作者本当に自然物表現したがるわ、下手なくせに。」


 ゆーなwでもこれでやっと踏ん切りがついた。56はこれから日本側の立ち位置から霧側の立ち位置に切り替わる。彼が霧になるわけじゃなくてアルペジオ主人公のように日本政府と立ち位置が違う日本人といったことになるね。


 「おぃおぃ……でも一人だけじゃないでしょ? 伊401も群像君含めて基本クルー5名で動かしていたから誰が来るんだろ? たのしみ〜♪」


 一人はもう出ているけどね。もう一人は時代的に若手で躁艦やらせるならこの人というキャラにした。正直有名人でも不遇な人だったしね。


 「あれ? 3人??」


 そんなもんだよ。無駄に人増やしたくないし。

 
 「ついでにツッコミ2.5! なんか二章で森鴎外先生ちょろちょろ文章に出てるわよね? しかもなんか脚気予防とかありえないこと書いているし?」


 作者の度忘れまで突っ込んでくれるな(泣)まぁ慌てて書いたおかげで間に合ったけど……じゃなくてw 森鴎外先生こと森林太郎軍医長は本来は本編で出す予定だった。ただ歴史改編のための蛇足文章になりかねなかったので思い切って分離し外伝として書くことになったから。


「いつになるやらねぇ(ニヤニヤ)」


 いやそう時間はかからない。今年の記念作品に出展予定品がコレだからね。


「おうおぅ! 大見栄切ったじゃねーか!!」


「その言葉遣いじーちゃまにチクろうか?(実はじーちゃま相当に言葉遣いに厳しいのは史実のとおりw」


 「コ、コホン! じゃ最後にその3、此方(ていこく)彼方(トラキア)、永遠とは云えぬままでも築けるもの」これさ……聞いたことがあるよ? 作者の作業部屋で。」


 最後は内輪ネタかよ(苦笑)ま、その通りだ。原曲の歌詞は「此方(こなた)より彼方(かなた)へ、永久築けぬなら」だね。東方系アレンジ曲 月に叢雲華に風 の一節を拝借して大改造した。


 「やっぱりか(汗)まぁ目的も構築も全く異なっているから問題なさそうだけど。じゃ最終話のコレがんばって書きましょうね?(にたぁり)」


 ちょっとまて! 何故10話のコレを書いていないことが……?


 「脳内を早く文章化せんかー!!!」


 (轟音と悲鳴が交錯)



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