帝国海軍の軍都とも言える街、呉。そこに多数の商船団が入港するなど異例中の異例だろう。しかも全ての国旗がユニオンジャックを誇らしげに掲げている。こんな欧州の裏側まで
かの大国は数万トン級の貨客船多数を送り込んで来たのだ。
帝国軍人、その家族、商会や工場、果ては村落丸ごと、屯田の詔勅を受けて集まった人々が続々とその船倉に呑み込まれていく。誰の顔も不安がこびりついている。自らの故地を離れ、見知らぬ地を新たなる故郷とせよと言われて納得できるものは少ない。船から最早戻れぬ故国を想い涙ぐむ者、おいおいと泣き崩れる者すらいる。
しかしこの地を離れなければ周りの人々から賊徒の係累と呼ばれ悲惨な末路をたどるかもしれない。平家の
凋落、室町の荘園領主、維新の幕府方……特に佐幕と言われた士族の中には不安以上に不信と絶望、そしてなにより恐怖の表情が濃い。
船倉が一杯になると貨客船は次々と出港していく。初めの目的地は英国最大の植民港シンガポール。そこからコロンボ、アデンを経てスエズ運河を通り、トラキアでも数少ない港町
アレキサンドロスポリスへ、
日英共同による一回の商船団で2万人――最終的には40万人――もの住民をトラキアに移民させる大遠征。後に
『征一号作戦』と呼ばれる移民計画が発動した。
―――――――――――――――――――――――――――――
久々に船倉の暗い部屋から這い出して
甲板で日の光を浴びる。籠に入った
檸檬に手を伸ばし酸味に顔をしかめながら齧る。
恐ろしいのは壊血病と英国船員が触れて回る。“感染”すればたちどころに体を壊し、皮膚から血を噴き出し絶命するという話を聞いて慌てて齧る者も多い。
史実の知識から考えれば笑い出したくなる話だが、彼らの名誉のため黙ることにした。当然、儂も壊血病が閉鎖空間でのビタミン不足であることは知っている。
青空を見上げる。強い日差し、印度洋の
陽がこれほど強いとは思わなかった。だが英国人は愚か
回教徒も
南蛮人と呼ばれていた欧州各国の人々もこの大洋を押し渡ったのだ。彼らに出来て我等に出来ぬ事は無い。しかも世界帝国たる英国の後ろ盾あって出来ぬとあらば、御国は永遠に劣等民族の汚名を着せられてしまうだろう。
橙子は昨日の夜更け、水中を進むあの霧の方に行っている。どうみても水上艦が水中を100ノット以上で走り回る等異常なのだが出来るのであれば致し方が無い。
暑い陽の中、相変わらず帳面片手に算盤を弾いている男がいる。この移民船団の事務役を一手に引き受けている
財部という男だ。海軍中佐と言うより商家の跡取りといったような風貌の男である。儂に気づいたようで算盤で敬礼し、……慌てて算盤を引っ込めた。
「これは乃木閣下! 失礼いたしました。」
「かまわんよ、君はいつも算盤を手放さないな。職務熱心なのは良いことだ。」
いえ……と彼は苦笑いしながら話し始める。成程、これほどの船団を組み欧州まで行くのにいくら費用がかかるか熱心に勘定しているとはな。
山本海軍大臣の娘婿だそうだが今度どんな人物“だったのか?”橙子に聞くとしよう。
船団の中、御国の戦艦がいる。儂に海軍の事など解る訳ではないが英国製の敷島級のようだ。
まてよ? 敷島は渤海海戦にて沈んだ、初瀬も同じく。ひと月前ほどに海軍の軍艦【朝日】で爆発事故があったという。思わず声に出た。
「もしかして……アレは三笠なのか?」 何故
連合艦隊旗艦がここにいるのだ?
不思議そうな顔をして財部が尋ね返してきた。
「閣下は知らなかったので? 敷島、初瀬が沈み朝日もこの前の事故で全損になりましたので護衛艦隊の旗艦があの
艦ですよ。艦長の千早真之中佐も気の毒に。」
聞いたような名前だが……いやまて! 戦艦の艦長が中佐? どう見てもおかしい。海軍の花形職である艦長、大佐になっても憧れの戦艦の艦長になれず退役しなければならないと盛り場で
管を巻く士官もいるのに中佐で戦艦の艦長、何者だ? 不審な顔をしたのに気付いたのだろう。財部が溜め息と共に説明を始めた。
「…………言うなればスケープゴートなんですよ。義父の海軍縮小案を取りまとめた人物です。対馬(日本海海戦)で参謀職まで務めたのに本来義父の威を借りれば良かったのですが、並みいる反対派を尽く論破してしまい海軍全体から恨みを買いましてね。
『なら勝手に縮小した艦艇でトラキアに行け!』てな具合に海軍を追い出されたわけですな。小さい子もいるのに無謀なことをと山本閣下も諫めたのですがどうにも頑固な男でして……」
「では、あの三笠も
厄介払いなのか。」
驚く。御国の最新鋭戦艦、しかも日本海海戦の殊勲艦をそこらの雑艦と同様に扱う海軍の性根を疑いたい。
「同型艦無しのフネでは後々運用が不便ですし、来年あたりに英国に発注した
戦艦が到着します。――日本海海戦の殊勲艦として欧州で広告塔の役割だけ果たせばいい――海軍全体ではそういった考えのようです。」
史実では伝説とまでされた艦が今世では厄介者か。儂の罪の重さを感じてしまう。
「そういえば聞きましたか? 英独仏米で
新型戦艦の建艦計画が発表されたらしいですよ……」
彼のシンガポール上陸の土産話を聞きながら儂はぼんやりと水平線を眺めている。
―――――――――――――――――――――――――――――
日本に戻る暇が無い! 桂さんに釈明すらできず、憤激する国民の前で詫びることすらできんとは。
「小村さん、これがトルコ帝国からのトラキア割譲証明、こちらがマケドニアの保護条例です。」
「小村全権委員、フランス大使から火急の用件で会談を設けてほしいと……」
「小村閣下! そろそろオーストリア外務省に出立しなければ……」
「がぁぁぁッ! 五月蠅いわッ!!」
どいつもこいつもこの僕に仕事を回しおって。この欧州にまともな大使館員はおらんのか! ひとしきり喚き立てた後で温い茶を呷り、気分を落ち着ける。仕方が無い事、欧州各国に散っている大使館員は100名足らず。その内半分をかき集めたとしても仕事量は莫大だ。自分の仕事に忙しい他の大使館員も慣れたもので私が癇癪を起している間だけは静かにしていてくれる。――単に僕を無視しているだけにも思えるが――机の上の割譲証明書が思わず目に映る。
トルコ帝国マケドニア地方トラキア
正確にはトルコ帝国の首府イスタンブールから北はロドピ山脈の険峯をやや越えたブルガリア公国東ルーメリア州の平原の端、南はエーゲ海、西はストリモン河までの海岸地帯の事を云う。今回大日本帝国の本土とされた地域は北と西はそのままに東をエウロス河で留めた面積にして10000平方キロメートル、四国の半分ほどの大きさと考えればよいだろう。
丁度、四国を南北に割って瀬戸内側を上下反対にひっくり返したようなものだ。現地の人々は約10万人。少ないと思ったがこの地方はトルコのバルカン三街道では裏道に属する。ただギリシャ半島へ続くだけの辺境と考えれば入植できる土地は無いわけでは無い。問題は気候、風土、そして宗教が全く異なっていることだ。
まず雨が少ない、瀬戸内も雨が少ない方だがそれにも増して少ない。だから米作は望めない。基本、小麦を基本とした西洋式の食卓が当然の物となるだろう。さらに現地ではトルコ語、ギリシア語、ブルガリア語と言語が混在して使われている。日本語一つで足りていた御国とは統治の難易度が違いすぎる。止めは宗教だ。東方正教会、
回教、少数ながら
耶蘇……どいつもこいつも独善的な一神教だ。はたして日本人の宗教観と相容れるだろうか?
「端金と引き換えに売り飛ばすのが精々な土地」 なのだ。
しかし欧州列強からの戦役補償基金の中に秘密裏にこの予算が組まれており、あのチャーチル卿は日本国民の気分を先取りして国論を誘導して見せたのだ。まず態と日本国民を挑発するような情報を先に流し、欧州列強に対しての国民の憤激を煽りたてる。橙子嬢ちゃんの言っていた日比谷の騒動が規模を数倍にして起きるのも当然だ。そこで“同胞”たるトルコ帝国の怒りと自らその補償を買って出るという申し出を流す。自らの土地を削ってでも“同胞”たる
我等を
助けて欲しいという言葉に欧州列強に勝った筈の戦争を覆されたと感じる国民は共感するだろう。
同じ有色人種、しかも今まさに白人達の前で息絶えようとしている国家に手を貸す! 【御恩と奉公】の言葉通り日本人は土地に対して執着が強く、その土地の対価を当然なものとして受け入れる悪い癖がある。
日本からの外交文書では実利と義侠心から国民世論は『トルコを救え! 有色人種国家の地をこれ以上削らせるな!!』に一気に傾いてしまったらしいのだ。しかもその御国は匕首騒動で大荒れに荒れているときた。政府としては世から弾かれかねない者を優先的に移民させ、国家をでっち上げることにしたらしい。
そしてその
首魁が乃木大将だ。宣伝が功を奏し、
欧州では僅か一個師団で日清日露の二度にわたって旅順を陥としただの、ロシア極東軍を粉々にして奉天を火の海にしただの、聖書の悪魔もかくやの如しの書かれ方。
バルカンの中小国では今も恐怖と非難の大合唱である。かつて彼らを切り従え、一時はバルカンを制して欧州の古都ウィーンに迫ったメフメト皇帝の再来と言う者も多い。バルカン国家にとっては悪魔、オスマントルコにとっては英雄の再来と言ったところか。
内実を知った者からすれば笑うしかない。欧州列強によるバルカン安定の一方策、日本の国内勢力激変に対する
棄民政策、そして大将と嬢ちゃんの日本からの隔離、そのための大芝居なのだ。列強のパワーゲームから作られた喜劇、しかし観客からすれば自らに降りかかる悲劇しかない事実。
「フランス大使の話は解っている。いつもの工作機械の要求だろう? 完成品はともかく、そっちは無理だと伝えてやれ。文句を言うならそれ以上に新兵器を押し付けるぞと脅しをかけてもいい。詳しくはホーフブルグの全権大使に聞けでトドメを指せ。」
大使館員に要件を投げ返しオーストリア外務省への支度をさせる。なんといっても我が国で言う京都の立場の都市だ。やたらと品格を重視する。この前、身一つで外務省についたら乞食扱いで追い返された。必ず四頭立て馬車2台以上、随員14名、自動車は御法度、服装にも礼法にも気をつかわねばならない。
初めは黄色人種故の差別と怒り狂ったが、欧州の中小国はおろか同格以上の歴史を持つローマの末裔たるイタリア大使すら追い出すのだ。僕が鏡を見て身だしなみを整えていると桂さんが聞けば腹を
捩って笑い転げるだろう。
どうせなら羽織袴と
髷で行ってやろうか? と考えながら僕は支度にとりかかる。オーストリア外務省の用件は恐らく……
――報告に高橋君こそ返したが、僕が御国に帰れるのはまだ先のことだろう。そして、移民第一陣を迎えるのは僕の仕事になるんだろうな――
そう考えて
草臥れた事務服を脱ぎ捨てた。
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列車の中、
噎せるような戦場の匂いをこびり着かせたまま私と私の部下、そして我等が上官殿は故郷に向かって揺られている。勿論客車という上等な物は無い。隙間風が流れ込んでくる穀物用の貨車の中だ。たとえ日本との戦に勝ったとしても、たとえ我等が捕虜にならなかったとしても状況は変わらない。
兵士は消耗品、これがロシア帝国の変わらざる実態だ。
「しかし良かったんですか? 大佐は客車に行ってもらわなきゃ困るんですが……。」
一人の伍長がおずおずと声を上げる。別に士官と兵士は別だとかという話では無い。この場合、上官のマンネルハイム大佐が客車に居なくてはならない理由が存在するのだ。我が軍は士官と兵士で明らかな一線が存在する、士官が客車で安穏とできるのはそれに見合った理由が存在するのだ。
シベリア鉄道で20日余り……その間士官は兵士達の衣食住を保証しなければならない。少なくとも彼らを生かして故郷へ帰さねばならないのだ。鉄道沿線から食料を確保し、それを兵士達に分配する。飢えた兵士達は容易に暴徒と化すのだ。最悪列車の運行停止になればその列車の担当士官、この場合少将か大佐クラスが責任を取らされる。
大概シベリア送り、いやこの場合シベリア取り残されか? マンネルハイム大佐は担当責任者では無いが連帯責任は取らされるかもしれない。その大佐がここで我等と共にいるのだ。
「ん、客車で酒盛りしている連中の輪に加わるのは少しね、飯のことは心配しなくてもいい。ちゃんと少将閣下と車掌に
鼻薬を嗅がせた。優先的に取り計らってもらえる筈だ。こればかりはゲネラル様様だな……むしろこれからのことを考えると楽観はできないと思う。」
「どういうこと……我々が捕虜になったからですか?」
尋ねようとし思わず自分で理由に思い当たってしまった。恥ずかしい限りだが私は無学だ。軍隊に入るまでは字も書けなかった程、
「いや、そう言った意味ではないのだよブジョンヌイ君。僕達が捕虜になったのなら極東全軍は帰ってくるなで済ますはずだ。臨時総司令官のリネウイッチ大将も含めてね。だから捕虜交換が嫌だ、本国送還が嫌だと駄々をこねる必要は無い。」
捕虜収容所でそういった言葉を吐いて首を吊ろうとした者すらいたのだ。敗者にロシアという国は冷たいこれは侵略者であろうと国民であろうと関係が無いのだ。――日本と言う国に残りたい、亡命させてくれ――兵士は愚か士官すらそう言い出す程なのだ。ロシアと違い暖かで美しく穏やかな気候と気質の日本という国を知ったのなら尚更なのかも知れん。私としてはウクライナの雄大な自然の方が好みなのだが。
「気になるんだよ……この国の未来が。」
「は?」
彼は話し始めた。捕虜収容所でよく中隊内で話題になったゲネラル・ノギに会ったという。ゲネラルは大佐の名を知るや大いに驚き、大佐が負傷中の事など忘れて話を弾ませたという。特に忘れてしまった真の故郷――フィンランド大公国――のことを知りたがるので大いに困ったらしい。そのゲネラルが涙ながらに繰り返し言っていた言葉…………
「儂は君の祖国にとんでもない厄災を招いてしまった。この愚かな男を許してほしい。」
初めはこの戦争に実質ロシアが負けたことの詫びと思ったようだ。それはお門違いと大佐が反発したのも頷ける。勝敗は時の運、むしろそんな
憐憫を向けられれた方が何より屈辱だ。しかしゲネラルはその言葉を最後まで翻すことは無かったという。
「本来なら屈辱と怒りで彼に退出を願ったのかもしれない。だけどゲネラルの左顔面を見るたびに何も言えなくなってしまうんだ。ゲネラルは……たぶん人間では無い、もはやと言った方が正しいかもしれない。では彼がロシアに招いた厄災と何なのか? 私は最後まで尋ねることすら出来なかったんだ。なにかおぞましい事を打ち明けられそうで、己の魂が汚されると感じたのかもしれない。」
ぶるりと体を震わせて話す大佐は教戒室で神父に己の罪を話す罪人の様な声だった。
「だから故郷に戻ったらそのままこの国を出ようと思う。たぶんこの国に未来は無い、何かよくないことが起こる気がするんだ。フランス外人部隊に伝手がある。ブジョンヌイ君も来てくれないか? 優秀な騎兵は貴重だ。」
大佐は迷信等信じる人では無い。験は担ぐがその底には冷静な判断と思考があるのだ。その人が勘という不確かなものに身をゆだねざるを得ない程、祖国が危険と考えている。私に後ろ髪を引かれる様な係累はいない。家に戻っても、軍隊に戻っても厄介者であることには変わらないだろう。なら、
「喜んで! 大佐」
そのまま意気消沈している部下に怒鳴る。負け戦の不安を振り払い、新たな意思で種を蒔くのだ。それが嵐の穂になろうとも! 我等が何所に行くかは解らない。しかし大佐がいる限り、世界中で面白いものを探し続けられるだろう――そう思った。
―――――――――――――――――――――――――――――
1908年4月29日 アレクサンドロスポリス
端午の節句も間近の筈。しかし空気はやや乾き、そして嗅いだこともない異郷の匂いに満ちていた。小さな港町、住民が一万人もいれば町から人が溢れ出してしまうだろう。そして石材と木材、モルタルで立てられた建造物、御国とは全く違う街並み。なにより
死者の町の名が相応しい程、静寂に満ちていた。
儂も移民関連の役人達もあっけにとられて街区を眺めている。もしかしてトルコ帝国は儂達の為に丸ごと町を造ったのだろうか? 移民船の甲板で物珍しそうに見ている日本人たちも同様だろう。案内しているトルコ帝国の役人に尋ねてみた。
「失礼だがこれほどの町、貴国の皇帝陛下が造って下ささったのは誠痛みいる。しかし、貴国に町一つ丸ごと作り出すだけの力があれば我等は態々移民する必要があったのだろうか?」
通訳がトルコ語で話すと彼は不思議そうな顔をし、すぐ得心したようで何か話した。それを通訳が日本語に訳し儂に話す。
「皇帝陛下は新たなる
親衛隊長の領地に有象無象を住まわせては陛下の御威光だけでなく、ノギ・パシャの沽券に関わるとお考えのようです。住民は陛下の御言葉により整然と退去し、本土たるアナトリアに移住することになりました。」
「(……解せんな。)」
そんなに聞き分け良く民衆がトルコ皇帝の命に従うのなら態々我等の移民する必要は無い。それなりの指導者……例えばイスタンブールで会見したエンヴェル将軍のような人物ならば維新が興せるだろう。
「橙子、この時代でのトラキアはどうだったのか?」
尋ねてみる。世界は違えど孫の上役からすれば共通する情報も多い。そこから真相を探る。少し孫の瞳が揺らめき孫が話し出した。あの時よりコアユニットの代弁者・橙子は顔を出していない。
「このあたりは回教に改宗したギリシア人やブルガリア人がいたはずです。オスマン・トルコ帝国では欧州系の臣民は二級人種扱いでしたから、強制移民させられたと考えていいかと。でもそれにしてはおかしいですね? 今まで見た政府の倉庫は穀物の山でしたし、逆に民衆の家屋から財貨が持ち出された様には見えません。」
「閣下……これはおそらく」
ホーフブルグの講和を主催した小村君が耳打ちしてくる。彼と会うのは久しぶりで移民船の中で話が弾んだ。その彼も街区を見てから恐ろしく難しい顔をしていた。
「おそらく民族浄化です。嬢ちゃんの言葉で
“エスニッククレンジング”と言いますが、言うなれば気に入らない邪魔な民を精神的肉体的に追い詰め、彼らの故郷から追い出してしまう悪辣極まるやり口です。住民が3カ月程度で全員移民や放逐出来る訳では無いですからやった手段は恐らく、住民を郊外へ連れ出し…………皆殺し。」
隣で儂と同様、橙子も青くなっている。自らがやらかした結末の重大さに慄いているのだろう。此処で平然としておれば容赦なく縁を切るがまともな倫理は残っておるようだ。
「貴様、殺したな! 罪のない民を殺して何が帝国か!! トルコ帝国など滅びて当然の悪逆非道の国家だ!!」
同じ考えに至った一人の陸軍少佐が怒りの余り案内しているトルコの役人に掴みかかろうとする。間一髪、鍵島と周りの下士官が取り押さえ引きずって行くが彼は引きずられながらも喚き立て続けた。
「乃木閣下、此奴らを信用してはなりませぬぞ! 此奴らは我々も使い捨てるつもりですぞ!! どうか……」
軽くその役人に頭を下げ儂は詫びの言葉を口にする。
「部下が失礼した。状況が状況な為、感情的になってしまったようだ。ただ今回の強制移民については儂も思う事がある。我等はこの土地をよく知らぬ、そもそも貴殿等の主食であるパンの作り方さえ知らぬ者が多いのだ。我等は軍人であるが教官なくして軍人は大成せぬ、御解りかな?」
彼は微笑んで一礼した。
「パシャの申す事も
御尤も。もしこの地で親衛隊のお世話をしたいと申し出る者がいましたら、此方で民に宣伝し帰郷できるよう取り計らいましょう。また、周辺の街々でも御世話したいと言い出す者がいるかもしれません。我らにお任せを。」
「よろしく頼む。」
軽く睨みつけておく。鉄仮面じみた左顔面とそこで炯々と輝く榛の凶眼はさぞかし威圧的だろう。彼は怖気づいたように一歩下がりながらもトルコ式に臣下足る一礼をし控えた。案内役が止まってしまった行列を促し皆歩き始める。
ここが儂の地獄の一丁目か……だがここで立ち止まれば後に続く御国を追われた民達、そして後に続くであろう人々が苦境に立たされる。だから、
儂は歩き続ける。
泥沼に嵌ろうが砂塵の中だろうが魑魅魍魎の森だろうが構うものか。泥沼を埋め尽くし、砂塵を洪水で押し流し、魑魅魍魎共を斬り払って進んでやる!
此方(トラキア)と彼方(帝国)、永遠たるモノを築き上げてやる。道の隅、名もなき溝に体横たえて息絶えるその日まで!!
「橙子、征くぞ!此方にまほろばを作り出すのだ!!」
孫に振り向き儂はそう宣言する。
―――――――――――――――――――――――――――――
そのころの俺はまだ12になったばかりだった。母親だと思っていた乳母、父親だと思っていたその夫、兄姉弟妹として接していた皆……その時、その事実が突き付けられたのだ。
「橙洋、お前は私達の子では無い」 …………と。
ある日、自分に会いにきた軍人にこう言われた。
「乃木の小父さんに頼まれてきた。東京の学校に行かないかね?」
乃木の小父さんは知っている。白髪頭で笑顔を絶やさぬ御爺さんだ。たまに美味しいものを持ってきて遊んでくれた。俺と同じ頃の女の子がいて一緒に遊んだ覚えもある。やんちゃな子で一度泣かされたこともあった位、でも何故東京の学校なのだろう? こんな那須の田舎から行ける場所では無い。俺は家族と一緒にいたかったから断った。
でも父さんと母さんが執拗に勧めたのだ。その挙句があの言葉……
何もかも信じられなくなった! 僕が石鎚という名家の長男、乃木の小父さんが【乃木将軍】? 一緒に遊んでいた女の子が実は僕の姉で
乃木将軍の孫娘!?
でもその事実を受け入れるしかなかった。僕が家を出れば貧しい一家に御国が援助してくれる。弟妹を良い学校にやることもできるし、兄さんは良い職を、姉さんは良い嫁ぎ先を、幼年学校に入学した後何度も反吐を吐き悪態を吐いた。言うなれば両親は俺を売ったのだ!
それでも、それでも父親だった男が軍人に何度も頭を下げ、頼み事をするのを目にしたとき、母親だった乳母がなけなしの財産を崩してまで俺の細々とした支度を整えていたのを目にしたとき……それを思い出す度に怒りより先に惨めな想いに苛まれる。
『俺に力が無いからだ。』 …………と。
だから東京に立つ日、俺は家族だった人達に『行って参ります。』の一言しか言わなかった。もうこの家には帰れない、帰ることもできない、俺と家族の道は分かたれたのだから。
あの乃木将軍の孫息子と言うだけで誰彼となく話しかけてくる。適当に相槌を打ち
周りの空気に合わせる。東京陸軍幼年学校でそういった処世術が身についた。なるべく目立たぬこと、凡庸な人間と見られること。思えばあの時から俺は牙を研いでいたのだろうと思う。
『俺と家族を引き裂いたあいつに復讐してやる。』
「オイ! 石鎚生徒殿。幼年学校のCさんはDコロの話なぞ聞いちゃいないってか!?」
上の空だった俺の耳に鋭い声が飛んでくる。刺々しさよりも自分をからかっているような声、ちなみにCさんとは幼年学校卒の士官候補生、Dコロとは中卒から士官候補生になった者への蔑称だ。両者の対立は凄まじくそして根深い。俺達はあくまで例外なのだ。
「んなわけねーよ! 星野、また無断で工廠に入り込んだろ? いい加減にあきらめないと技師に
旋盤と
金槌で殴り殺されっぞ。反省室から何度脱獄の片棒担がせる気だ!?」
「ハハハ! でも諦めないぜ。あそこには絶対に帝都で走ったアレがある筈だ。拝まずしていられるか!!」
戦争が終わり凱旋の時、兵士達の行進の中に見た鋼鉄の戦闘機械、我が陸軍で装甲戦闘車両――戦車――にこいつは一目惚れしたんだ。中学卒業時の作文が『戦車の可能性とその未来』なんて書いて出したものだから士官学校に強制入学させられたらしい。実態は珍しい物好きの悪餓鬼だ。
陸軍士官学校外の土手の坂道、二人で寝転びながら屈託なく笑い合う。1911年、それはまだ俺達の全てが穏やかに流れていた
最後の年だった。
あとがきと言う名の作品ツッコミ対談
「どもっ、とーこですっ! ようやく第2章も終幕となりましたっ。ここまで読んでくれた読者様に感謝感謝♪ ついでにそこで撃沈している作者も ほら起きろ作者! ツッコミはじまってるよ。」
こっちはついでかよ。でもこの2章は本気で疲れたのは事実だね。じーちゃまの死亡フラグ回避を筆頭に著名人の描写とか霧の本質についてさんざん考えされられたからね。本来閑章として5話で済ますはずだったモノがよくぞここまでって呆れるやら自分を褒めてやりたいわの気分だよ。
「なら最後まできっちりやる! じゃツッコミ行きます。9話でも思ったけど日露終戦後の海軍が主力艦8隻に総数30以下って史実と大して変わらないんじゃないの? 作者的には広告塔海軍と化したと設定で明言していたんだし矛盾してない?」
表向きしか見てないな。戦艦・巡洋艦・水雷艇といった戦闘艦艇から補助艦まで全部合わせて30以内という意味だよ? 主力艦8隻に巡洋艦を同数の4隻、護衛の水雷艇を倍数として16隻、これで28隻になってしまう。補助艦への数の割り当てが全くない。WW2直前の大日本帝国海軍も真っ青の事態になってるわけ。一枚看板どころかプラ板に塗装だけしたという使いようもない日本艦隊にすることが作者の目論見だから。
「酷っ! それって軍港に飾っておくだけしかできないって意味じゃない?」
だから水雷艇を削れるだけ削って最低数の補助艦は揃えるだろうけど、基本日本近海での迎撃戦以外一切使えない艦隊にしたわけさ。作者的にもこのころの大日本帝国的にもね。」
「??(何言ってるんだろこの作者)」
疑問形のままだな(苦笑)。この日露戦争が日本が【戦争に】勝てなかった結末がコレさ。史実はまだ良かった。勝ち報道で国民が麻痺して有頂天になり陸軍も海軍もその無言の支援のまま軍拡に走れたからね。だけど今回は列強から問答無用に【お前負け】の通告、国民の怒りが収まったら政府としてはその歪みの帳尻をつけなきゃならない。実際ホーフブルグ条約で日本の周りに公式で敵国はいなくなったわけだから過剰な軍備は都合が悪い、しかも日本国民自体「やるだけ無駄な戦争だった」との失望も大きいと思うよ。軍備への風当たりが強くなるのは当然だね。
「難しくて読者ついてこられるかしら?」
ここで政府としては列強と国民双方にいい顔をするために自ら軍縮をしなければならなくなったのさ。勿論『橙子の史実』による軍官僚専制を防ぐためにもね。じーちゃま初め、元勲達が今回の日露戦争で狙っていたのはコレだったのさ。
「んなこと一言も本文に書いてないけど。」
んな小難しいこと書いて誰が喜ぶと? あくまでこのお話は変わる世界とその中で生きていく人々、そして歴史上イレギュラーな存在となった乃木一族をアルペジオの補助によって描いていくのが本筋だからね。
「なーるほど、それで『2章は巨大な修飾文』か。これまでのこと、これからのことをイメージしやすいように日露戦争後という解り難い時代をグローバル観点から眺めた。これでいい?」
最初で最後の仮想戦記における戦略パートだからね。ここで書いたことがこの世界の大日本帝国を形作るコアになるから慎重になったよ。
「(コレ以上この話題は振らない方がいいな……作者の妄言だし)では本文のツッコミどころ! とうとう橙洋参戦!! いや序章以来長かったわねぇ、でもさなんか時系列的におかしくない? 此処で日本帝国陸軍士官学校生ということは15歳以上、でもこの時点で橙子は12歳だよ? 双子だから年齢の差はないしそれから考えれば3年過ぎているんだけど??」
うぁ……痛いところツッコンできたな(大汗)その通り、この節の橙洋の回想部分こそが同時系列なのよ。つまりプロット部分で第3章に入れるべきだったポイントを回想を軸とすることで第2章にもってきた。これが裏ネタ。
「つまり2章で橙洋のパート作りきれなくて無理やり最後に持ってきたわけか(ジト目)」
ソレもあるけどいよいよ最も橙子を意識して比較対象にする人物が動き出すからね。第三章で新キャラとしてゾロゾロ出す連中よりも格が高いことを意識したらこうなった。
「まだ出すの新キャラ(呆)」
橙洋周辺だけはね(笑)だからこそこの第2章最後で彼に関係する人物が連続して登場するのさ、乃木じーちゃま、財部中佐、マンネルハイム大佐、ブジョンヌイ曹長、それに影だけど橙子。それに見えていないけど千早艦長もねw 4章ではこれらの上にいる方々に加え橙洋自身の同僚たちにが加わるから橙洋パートは大変だよ。完全オリジナルとしてバルカン戦争を再構築するわけだからね。それに彼の同僚、この年次前後の日本陸軍の卒業者は綺羅星の如くだよ。良くも悪くもね。
「序章に至った経緯とその後がついに書かれるわけか。てかさ悪くもってやっぱり彼も出すの??作者が唯一アンチとして書きかねないあの人……」
苦しいけどアンチにならないよう頑張るつもり。一応この作品、人の好き嫌いでの贔屓はしないというスタンス取っているから。
「……迷っているあたり苦しそうねぇ(笑)さてお話も長くなったし締めますか?」
では改めまして大改造の末に形にしました第2章読了お疲れ様でした。次回より第3章……と行きたいのですが何かとリアル事情が立て込んで居りまして記念作品からの投稿になります。おつかれさまでした(土下座)
「実質休みふた月とって3章の清書と校正やるわけか(ボソ)」
ホレこれ、3章の台本(脱兎)
「ん? んんんん!? ナニコレ!! ネタの塊じゃない!!! 何考えているって作者逃げるなー!!!!」
(轟音と悲鳴が交錯)
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