俺が初めて見た欧州の街は未だ建設の途上にある。
第2海南丸の
甲板にはトラキア特別警備連隊の士官達だけではなく、俺達陸軍士官学校生もかなりの数混じっている。勿論連隊を指揮するのは古参の士官達であり未だ学生の身分である俺達は良くて実習生、悪ければ足手纏いの立場だ。それでも乃木家の係累と言うだけで、俺に会う士官殿全員が丁寧な受け答えをする。指揮官である田中義一大佐殿すらそうなのだ。会食に呼ばれ、近況を聞かれ、トラキアの噂を尋ねてくる。当然俺は【若輩者】【学徒】であることを強調し『是非とも閣下の御鞭撻を』と胡麻を
擂る。部隊について質問をし、代わりに姉貴の手紙から察した噂話を開帳する。そんな
目立たないが要領の良い新米を演じている。
「あれが征京……」
平たく言えば奇妙な街だ。例えばこの船が錨を下している港、街からすれば南面に当る場所、建設途上の巨大桟橋、陸地へと繋がる出口に巨大な門がある。丁度かつての古都にあるような羅城門を彷彿をされる。先ほどの士官から聞いた話だと此処は羅城港と呼ばれているらしい。その後ろ少しばかり霞んで見える街は呆れるとしか言いようがない。碁盤の目に張り巡らされた道路、中央を自動車が十数台並んで競争できるほどの大路、その後ろにでんと鎮座する官庁街、左側の街並みに出っ張りの用に存在を誇示する外郭、――此処が軍事区画だそうだ――まるで奈良の都、平城京だ。
「凄ェ! これが御国の最前線【トラキア】か!!」
隣ではしゃいでいる星野達同輩を横目に見て、物見遊山じゃないんだぞ! と注意しようとして……やめた。爺様と姉貴の国、だからこそ俺は色眼鏡で見てしまうのか。
「乗り組み士官集合!」
銅鑼声で全員直ぐ様、我に返り駆け出す。上陸に当っての注意と行動指針の説明だろう? まだ建設途上の街――第一期工事の完成は5年後――だから星野達が糠喜びだったと頭を抱える姿を思い浮かべてしまった。しかし状況はその斜め上を行く。
「これより警備連隊の主力はオスマントルコ帝国イズミル市に移動。内陸での匪賊討伐に加勢する事となった。到着早々、誠に御苦労であるが友邦との絆を深めんが為、皆奮起貫徹して貰いたい。ちなみに士官学校生についても同伴を基本とする。
見戦とはいえ初陣である! 気を引き締めてかかれ!!」
連隊長の田中義一大佐殿の言葉に皆唖然とした。それはそうだろう? 身一つで来た連隊が、訓練も演習もさらには味方との顔合わせすらないまま実戦投入!? 無茶苦茶だ! それほどこの地は危ないのか??
それでも軍人として叩きこまれた
躰は即座に反応してくれる。一斉に敬礼して
諾意、連隊長の隣にいる参謀から説明が始まる。相手はトルコの山賊では無いという。クルド人……聞いた事のない名だ。どんな人々なのだろう?
初めての地はなにもかもが戸惑いの連続、その中で俺・石鎚橙洋は走り始める。
―――――――――――――――――――――――――――――
「ついに追い詰めたぞ……匪賊共め!」
「ケマル“将軍”、意気軒昂なのは良いが此処まで来て路半ばと言う事を思い出すべきです。彼らは馬鹿ではない。追い詰められたことぐらい理解している筈です。」
「同感、あくまでクルド反乱勢力の鎮圧はイラク人への見せしめでなければなりません。オスマンの権威と列強各国の意思の元、油田開発は行われる。原住民に石油の一滴たりとも渡さぬようにするのが我等の役目です。」
小高い岩山のふもとから少し離れた野営地、その中の天幕。士官候補生として司令部の壁の花、それが俺の最初の任務だった。自己紹介の後は後ろに控えている。連隊長殿である田中義一大佐からすればそれだけで十分なのかもしれない。『ノギ・パシャの係累がこの地にいる。』共同作戦中のケマル将軍率いるトルコ皇帝第一師団所属第2連隊、英国の傭兵部隊である第9インド師団には良い意味でプレッシャーになると考えているようだ。
たかが士官候補生にケマル将軍自ら握手を求めてくるなど異例中の異例。苛立たしいが、爺様の権威が俺を取り巻いているのを厭でも思い知らされる。勿論外面は別、トルコの若き将軍に憧憬を抱くような顔と態度をするのが礼儀と言うものだ。
先程まで話を聞いていたが、オスマントルコ帝国という国は御国とは桁違いに統治が厄介らしい。元々中央アジアのテリュク民族が欧州の外れ、アナトリア地方まで移民してきて国を打ち立てたのが始まり。その後、イスラム軍事力を用いて周辺各国を征服、併合して大帝国を打ち立てた。つまり元のテリュク人は僅かしか居らず、大半が被征服国の民なのだ。現在はその広大な領土も世界各国に蚕食され見る影も無いが、それでも御国より広大な領土を持つ大国であることは確か。
英国人インド師団長、最後の差別意識満点の発言に反感を覚えたが、田中大佐殿から事前に説明された内容からそのあらましは知っている。領土が減ったと言ってもオスマントルコ帝国内には多種多彩な民族が居住している。
坩堝と言っていいくらいだ。そもそも
トルコ人とは誰の事か? と言われて言葉に詰まる国民も多いらしい。
現トルコ政府はそれに一定の枠を付け諸民族にそれを強制している。
オスマン帝国国民である事とか、世俗派のイスラム教徒である事とか……だ。以前の地方総督自らの強圧的な支配こそ緩んだが、恨みは根深い。どうにもならない連中を集結させて徹底的に叩き、周辺住民を怯えさせて統治に協力させる。当然、飴も用意してだ。特に今回のキルクークという地方に関しては更に巧妙かつ苛烈な統治がおこなわれることになるらしい。理由は一つ。トルコ本土で出ない重要資源、
油田地帯! これを地元のクルド人に独立と言う名の持ち逃げをされたら堪らない。飴と鞭を交互に使い切り崩していく。
列強とオスマン政府に協力するなら分け前位与えてやる。しかし反抗すれば一家一族亡滅と言うわけだ。この場合彼らに利権を与えないのがミソだ。あくまで与える権利は列強とオスマン政府にある。クルド人もイラク人もトルコ国民として生き、投げ与えられるものに感謝して暮せば良い……そういう支配と被支配の構造だ。
反吐が出る! そう思う人間なら善人の証拠。しかし国を維持するために民に無理を強いるのはどんな国家とて同じ、その証拠に御国のコメ……米国資本の参入により単純労働者が増えて農村から徐々に小作人が流れ出している。それは御国の農業生産を低下させ収穫量が減る。その先に待っているのは国民の飢餓だ。しかしそうはならない。
米国人は朝鮮、満洲の呆れるほど広い農地を水田に変え、タダ同然で漢人や朝鮮人を使ってコメや麦、大豆を生産し御国に流し込んでくる。逆に御国の地主達が安いコメに押され苦境に立たされる程だ。しかも手近で働かせるべき小作人はよりよい暮らしと給金を求めて都会へ出て行ってしまう。帝国主義……いや今は
汎経済圏主義と呼ばれる理念によって世界中を物資と富が循環し列強に呆れるばかりの力を集約させている。そのおこぼれに預かっている御国が何の文句を言えようか。
「質問をよろしいでしょうか?」
作戦内容の質問事項を受け付ける中、それが終える直前に俺は手を挙げた。少し前、田中大佐殿に質問して言葉を濁され『候補生の疑問は尤もであるな。話はつけておくから今の会議で質問して見ろ。』と言われた件の事だ。
「候補生、質問を許可する。」
案の定、何らかの思惑を持って諾意を出した田中大佐殿の言葉で俺は質問を始める。
「今回我々増援部隊にて随伴してきた工兵中隊でありますが。
瓦斯戦部隊と愚考いたしました。しかし今回の籠城戦は相手が山の上にある事もあり空気より重い瓦斯は山下に向かって流れ逆に我々が瓦斯に
捲かれることになりかねません。その点、御教授を願いたいと質問致しました。」
きっちり話し敬礼、着席する。俺は候補生代表として此処にいる。日本士官候補生の代表として質問しているのであれば緊張しない方がおかしい。周りの士官達、特に英国の技術士官の何人かが訳された言葉で聞き、頷いたりしている。英国人師団長が満足げ顔で話し始めた。それを通訳が訳し俺に伝える。
「良い質問である。田中大佐、貴国ではこのような騎士道精神に外れた兵器であっても良く教え込んでいるようだな? 勿論、揶揄では無い。相手に敬われてこそ騎士道という浪漫は成り立つ。相手が此方を敬わない以上、それ相応の手段を取らねばならない。今時の主義者共が喚き立てるヒューマニズムは放っておけ。」
どうやら合格点のようだ。日本陸軍の士官候補生の素養を測るつもりだったらしい。本題はここからの様だ。テーブルの上に従兵達が地図やら写真やらを並べる。それを前に英国人士官が説明を始めた。
「まず瓦斯とは気体であるからこそ厄介である。吸い込めば即、害に成らねば使い物にならない。しかし敵味方吸い込んで大損害では目も当てられないのも自明。だからこそ貴君が見た圧力容器に液体として封入されているのだ。そして液化した瓦斯は気体の瓦斯より扱いが容易い。確かに君は質問した通り、瓦斯は下に流れる。しかし瓦斯を山上に上げて其処からばらまければどうなるね? 勿論風向きから此方に瓦斯が流れないよう工夫はする。そして……」
彼が手招きし俺を机の上に立たせる。そこには作戦地図と何枚もの写真。そしてトンネル網の図面があった。
「これが奴らの本当の拠点だ、カッパドキアの
岩窟教会よりは単純だが1000年も前から存在している天然の要塞。ここで突入して大損害を受けるよりは。奴等を瓦斯で
燻し出すのが適当と君の総督閣下に我等は願った訳だ。」
最後のニヤリとした笑いは俺と爺様に確執がある事を皮肉ったのか? 捨てるのは騎士道精神ではなく甘ったれた反抗心だと言われたような気がした。それに俺を皆の前に出して態々説明したのは能力のある軍人候補という紹介と非道な現実と言う物に耐えられるか? というプレッシャーを測っているのかもしれない。新任者を迎える荒っぽい歓迎という奴だ。『御教授有難うございました。』の言葉と共に敬礼し天幕の縁まで戻る。
「さて質問は……もうないな。では解散、準備に掛れ!」
ケマル・パシャの号令で俺達は天幕を出た。外に岩山がある。その中腹に過去の栄華の残滓として未だそびえ立つ岩窟神殿があるらしい。小走りで俺は仲間の元に戻る。
―――――――――――――――――――――――――――――
先陣を切るのはトルコ皇帝師団。御国の強力な武器を装備し、エリートと言う待遇が彼らの士気を上げている。実弾を使った訓練も頻繁に行うらしいので戦慣れしていると言ってもよい。次に続くは連隊長率いる我らが混成連隊、装備は良いが戦慣れしていない為、抑えといったところだ。周囲の峡谷や撤退路になりかねない隘路はインド師団が分散して配置され退路を封じている。
何故一万名もの兵力を擁するインド師団を用いないか? 訝ったものだが橙洋の話だと実戦を経験させないためだという。
「なんじゃそりゃ?
金まで払って戦場まで出し、戦争させないってのは矛盾してるぜ。ウチら黄色人種を人間扱いしない英国人だぞ! 真っ先に使い潰すんじゃないのか??」
思わず口から出た憤懣に呆れた顔で橙洋が答えてくれた。なんだかんだガキの論理で
乃木将軍や姉貴に楯突くだけじゃない。それらから得たモノは着実に吸収し自らの糧にする。だから俺達より視野が広くいろいろ知っている。
「そうでもないさ、トシ。
戦わせるが戦をさせないという魂胆なのさ。誰も実戦を経験すれば現実を知る。白人もアジア人も同じ血を流し、平等に腸ぶちまけて死ぬ人間だとな。それじゃ植民地帝国足る大英帝国には都合が悪い。インド兵に与えられるのは精々落ち武者狩り。戦争をするのは高貴なる義務だとな。当然、実戦経験を積ませないという腹もある。」
「ひっでぇ……其処までやるのかよ欧州人て奴は。あいつ等殺したくなってきたぜ。」
本気で頭に来たぞ! 遠くで他の同僚に説教しているらしい英国士官を睨みつける。ポンと肩を叩き橙洋が耳元で囁いた。なんで下腹
摩っているんだ?
「それは
腹の中に隠しておけ。俺達も一応『欧州人』なんだぞ。今回はトルコ皇帝師団が欧州人足り得るかの試験でもあるって連隊長殿が漏らしていた。」
意味不明な単語が橙洋から飛び出してきた。いろいろ考えて思った事を口に出す。凄ぇな橙洋……ウチなんかが逆立ちしても手に入らない情報を気前良く教えてくれる。ウチがコイツの為にしてやれることなんざ碌にないってのに。
「そりゃ一応
トラキアも御国の本土だから、欧州国家と言えん事も無いけど……同じ色の肌の人間殺して欧州人に昇格? 欧州人ってのは人種じゃ無くて身分なのか??」
「そんなもんさ。欧州人だけが人間、その他は人間として扱われない。それが世界の中心・欧州で覆されることの無い秩序って事だ。」
白人共の指図でアジア人同士が殺し合い、しかもどちらにも後は無い。腐ってやがる。だが、それが現実だ。この世界の大半を支配するのは彼等白人なのだから。説教を受けていた同輩が近寄ってきて『山岳戦闘が始まるらしい』と伝えてきた。勿論ウチ等候補生は戦闘を行わない。唯眺めるだけだ。士官候補生は戦を学びに来たのであって殺し合いの為に来たのではない。
皇帝師団の中隊、大隊が狙撃者や麻薬でイカれた突撃者を大火力で制圧し。目標の門に取り付いた。なんでも彼らのアジトは大昔のローマ大帝国時代からあった岩窟神殿という建物らしい。明るい褐色の岩肌に神々が掘り込まれ、往時は栄華を誇っていたのだろう? いまや神の門は神すら殺しかねない
下劣な連中によって
最終戦争の真っ最中だ。クルド人の連中も機関銃を持っていたらしい。皇帝師団の兵士がバタバタと倒れる。やり返せの怒号らしきトルコ語と共に100型携帯歩兵砲が何発も撃ち込まれ爆発音が響く。それでも足りずに機関銃で掃射し、使い捨て同然で突撃してきたクルド人を抹殺する。7.92ミリ高初速弾の洗礼を浴びれば人間の体など
襤褸切れの様に千切れ飛ぶ。怒りを隠した、それでいて静かな声で橙洋が呟く。
「これを……あいつはやったんだよな。旅順で、奉天で。」
「実際見てみりゃこいつは戦争じゃねぇな。ウチ等が想像するお綺麗な戦争なんて無かったのさ。だからじゃねぇか? 胸糞悪ぃが乃木将軍は世界の現実を見せる為にお前をここに押し込めたんじゃねェのか?」
「チッ!」
やれやれ、将軍閣下の思惑が解るたびにコレじゃな。だが無理もねェか。まともな人間がこんな地獄を見たら誰も兵士にならねぇ。気分が悪いで済んでいるのはウチ等が士官候補生として自らを律しているからに過ぎない。【こういったものだ】と頭だけで考え心と体を切り離す。教官から喰らう鉄拳制裁に『有り難うございました!』と大音声で返答するのと同じ理屈だ。それでも隣の同期が口を押さえて岩陰に飛び込んだ。軍人と言うのは人間としてある程度腐っていないとやっていられない。腐っていない奴、腐れない奴から順に死んでいくのだ。 誰かが言っていた。
『最高と最悪しか戦場では生き残れない、最良など真っ先に死ぬ。』と、
「終わったみたいだな。」
「あぁ……軍の工兵隊が出てきた。俺達も上へ登るぞ。」
下にいればいくら安全管理を徹底しても瓦斯に捲かれる可能性は上がる。自衛武器の機関拳銃を掴んで岩だらけの斜面を這い登る。何度見てもいい銃だ。過不足無い大きさに圧倒的性能、しかも上に上るのに邪魔にならない革帯付き。日露の戦で『こんな楽して戦争が出来る。』を歴戦の下士官が吼ざいたそうだが納得できる代物だ。
脚を慎重に動かして今度は岩窟神殿の上へ。周囲の警戒は怠らない。
罠や掃射口、狙撃口があるかもしれないのだ。自分の尻穴に銃弾ぶち込まれてお陀仏なんざ死ぬに死に切れない!
ウチ等の下、岩窟神殿の入り口では皇軍兵士、工兵隊が作業をしている。入口全体に蓋をするように合成
護謨の覆いを付け、絞り込んだ空気取り入れ口には大型の送風機、さらに細い管を伝わって瓦斯の圧力容器に接続している。不気味なのは工兵隊の格好だ。軍服の上から護謨製の全身を覆う合羽を羽織り外気と遮断され背負った圧力容器から供給される空気で呼吸をしている。まるで西洋の
装甲騎兵を不格好にした出で立ちだ。
「3……2……1…………放射始め!」
指揮官のくぐもった声と共に送風機が全力で動き神殿内に空気を送り込む。兵士の一人が瓦斯の圧力弁を開け液化瓦斯を覆いの中に送り込む。ウチ等は解っていなかった。瓦斯を用いると言う事がどういう事なのか? 答えは30分もしないうちに出た。
◆◇◆◇◆
あちこちで小銃の発砲音がする。すわ! 戦闘再開かと思ったがどうもおかしい。全て単射、集団で射撃するような連続音すら殆ど聞こえない。瓦斯の流入はとっくに終わっている。無力化したクルド人に止めを刺すにしても妙な気配だ。
自前に想定された脱出口のひとつに橙洋が駆け下っていく。あんの馬鹿野郎! もう規定を忘れたのか。追い付いて頭の一つも殴ろうとしたら、
護謨合羽と手袋を押し付けてきた。ちゃんと本人も瓦斯戦装備で
瓦斯面貌を顔に下ろしていやがる。用意のいい事で。
脱出口の辺りからトルコ兵士の一人が四つん這いで逃げだしてきた。それを追いかけ胸ぐらを掴み、張り手を浴びせるトルコ軍下士官、それでも兵士は悲鳴を上げ拒絶し、首を横に振り続ける。
どうしたのか? となけなしの英単語を頭の中から掘り出して言葉を作っていると。双眼鏡で何やら覗いていた橙洋が目を離しこっちに押し付けてきた。『覚悟して見とけ。』呟く声を尻目に覗き込む。焦点がいきなり合ったのは偶然の筈だ。それでも神さんの悪意を疑わねばならない光景。
折り重なった肢体、屍なのかまだ生きているのかも解らん人間の山積み。
入口からよろよろと盲人のようにてを突き出し這いだしてくるクルド人の残骸。
剥けた皮膚を引き摺り亡者のような有様で入口で右往左往する女子供
地下通路から這い出てきた人間らしきモノに離れた距離から銃弾が撃ち込まれひっくり返る。人間の顔面……後で聞いた名称、大日本帝国39年式
黄型糜爛性瓦斯で焼け爛れた顔面が双眼鏡に移った時、
「ウごぅエェェぇぇぇッツ!!!」
悪寒と共に胃の中の物が逆流する。最早プライドも何も無い。手をつき、地面が汚れるのも構わず。ありったけの物を吐瀉する。対して食っていないことが幸いしたのと、流石軍隊教育の成果だ。頭に焼きついた映像を無理矢理追い出しウチは軍人だ、軍人が死体如きで吐くなど恥だ! と言い聞かせる。
と! トンデモねぇ!! 眠らせたり咳き込ませるだけの無力化瓦斯なら兎も角、見せしめのためだけに致死性のしかも息を止めても肌から浸食する糜爛性瓦斯をあの建物に流し込んだのか!!!
やっと吐き気がおさまる。胃液まで逆流しなくて良かった。そう考えながら顔を上げると橙洋が『後頼む』といって場を離れた。なんでだ?
視線を向けてみると英国の工兵士官が立っているのが見える。皇帝師団の兵士、先程任務を放棄して逃げ出した兵士を凝視している。その兵士は下士官に鉄拳を振舞われてもなお首を振り拒絶し続ける。不味いな……このままじゃあの兵士は命令不服従で拘束、軍法会議一直線だろう。トルコ皇帝師団の待遇は良いらしい。そこから追い出されたら自分だけでなく家族全てが路頭に迷っちまわないか?
橙洋も同じ事を考えたようだ。兵士の前に進み小銃を無理矢理握らせる。あいつもトルコ語なんて挨拶程度しかできないだろうが。無理矢理単語だけで怒鳴っている。兵士を伏せさせて
銃把に指を掛けさせる。その横に付き、橙洋は
照尺で狙いを定めた。隣で指まで震わせてガチガチと歯を鳴らしている兵士。
「撃て!」
橙洋の声、しかし兵士は撃たない。涙を流し何かを言っている。シャラーフという単語が聞こえた。
「撃て!!」
怒声に近い声でやっと兵士が引き金を引く。その悲痛な思いに比べ、余りにも軽い音がして撃鉄が薬莢を叩き、弾丸が銃口から飛び出した。目標は言わずもがなだろう。号泣に近い兵士の嗚咽を背に橙洋は立ち上がり英国士官に敬礼する。英国士官は頷くと背を向けて歩き出した。腰の後ろのホルスターに拳銃をしまいながら。
「橙洋……お前ェ、無理してないか?」
戻ってきた橙洋に声をかける。顔色が悪い、別にウチの様に凄惨な現場を見て吐いたとは違う別種のものだ。押し殺したような声が返ってきた。憎しみとやる瀬無さが混交した橙洋の言葉が耳に響く。
「
無理に決まっているだろ! だがそうしなけりゃアイツは英国士官に殺されてた。戦闘中の命令拒否と敵前逃亡、どう見たって
即時銃殺刑だ。奴が戦闘中に戦場から離れたのは身を守り、より効率的に敵を打ち倒す場所移動と納得させなけりゃならなかった。」
そうか、あの英国士官の拳銃はそういった意味だったのか。ホント出来の良い軍人だよお前は、でもな……でもな! 口を開こうとしたウチに橙洋は先に言葉を吐いた。
「わかっているさ。こんなのは偽善でしかないって。だが俺は味方殺しにだけはなりたくない。己の意思を通すが為に御国中の民を巻き込み、殺した奴の様にはなりたくない。」
『拘るなァ』、そう思う。日露戦争は不可抗力じゃないか? 乃木総督閣下とて好き好んで旅順や奉天の民間人殺しをやったわけじゃないのに。橙洋にとって閣下は
己の道を阻む壁のようなもんか。それもとびきり高く、とびきり堅い
断崖の様な壁。
「石鎚候補生!星野候補生!! ナニやっとるかァ!!!」
直属の上官殿に見つかったようだ。慌てて二人立ち上がり走る。橙洋の後ろ姿を見て思った。
鋼索は硬いが脆い、
護謨紐のようであれという士官教育を思い出しながらこいつの護謨紐になるのがウチの役目だ。そう思う。
◆◇◆◇◆
本部に帰還した後、俺達は予想外の命令を受ける。
「候補生諸君は即時トラキアに帰還、第13独立警備中隊の指揮を執ってもらう。臨時中隊長は石鎚候補生、即刻支度せよ。」
あとがきと言う名の作品ツッコミ対談
「どもっ! とーこです!! てまた!!! 今回に至っては弟の戦場一つだけじゃん。全然初志貫徹しないしー」
ども、作者です。こらこらよくみろとーこ? ちゃんと視点が2つにわかれているぞ。橙洋と星野、4章でコンビ組む為にあえて同視点で戦場書いたんだぞ。難しいったらありゃしない。
「それであーでもないこーでもないと世界遺産ペトラのエル=カズネ眺めながら考えていたわけか。一応舞台は架空だよね?」
流石にね場所はシリア北西部からイラク北部のつもりだったけどさ。絶賛現在戦闘地域でやんの(2014)この世界での現代はさらに殺伐としたものになるかもね。じゃそろそろツッコミいこうか。
「(何か慌てているな?)じゃその1 今回のガス戦読んで思ったけどさ、作者ってネタとして登場させた要素を必ずといって良い程2回使い回すよね? しかも絶対に3回は使わない。なんで?」
う〜ん。とーこが言っているのは残酷描写のことか。3章での匪賊討伐戦は「遠くから見た映像」にすませたのに何故旅順とココで同じ残酷描写を使ったと言う事?
「長ったらしいけどそんなところ」
世界状況の激変を表現してしたかった事かな。この時代でこそ人種差別万歳、帝国主義万歳だけど第一次世界大戦前、いや史実の第一次バルカン戦争辺りから急激に人道主義とか人類平等と言った論理が欧州各国に蔓延り始めてきた。でも先進技術を使ってみたいという欲望がそれを押しつぶす程上回る様になったと言う事。つまり全部じーちゃまが原因で在る事を強調する手段としてあえて大体的にガス戦を2度書いたの。まー3度も書くとネタ使い回しなのがばれるしね。そこらへん注意して2回使い回すネタはありきたりな物ではなく強烈なインパクトをもつ『兵器』に限定してる。
「あーなるほどそれでゴニョゴニョ……」
だーかーらー4章のネタを開帳しない! 全く次回予告じゃないんだから。
「ぶはっ! 全く幼女の顔をなんだと……じゃツッコミその2、なんかトルコ自体トンデモな状況になってるわね? 作者はロシアもトルコも似た者同士の悪の帝国って言ったけど本当にこんなイメージで良いの?」
第一次世界大戦であれほどクルド人やアルメニア人を自国の軍事作戦がうまくいかなかった八つ当たりだけで殺しまくった国を弁護しようが無いな。トルコは親日的で遠い国だから日本人にとって親近感がわきやすいけどあの国近隣全て敵どころか国内まで敵だらけというトンデモな情勢の中生き残ってきたのよ。平和だけ経典の様に唱えていればいい国とは潜ってきた場数が違うからね。今回はさらにパワーアップ。大日本帝国の論理を此方に持ち込んで大トルコ帝国(笑)化してもらう。だからそのリソースを薄く広く出なく現トルコ、シリア、イラクに限定して英国の指導下に入り日本と連携するようになった。後の世では日本と立場こそ違えど黄色人種の裏切り者になる事になる。
「なんか作品自体がヒール臭ぷんぷんたる状況ね。」
激動の20世紀は悪に徹さないと生き残れないほど過酷って事。自前の正義を勝手に振りかざせるのはあのチート国家のみ。あとは踏み躙るか踏み躙られるかしなけりゃならない。だからあえて今回の作品は漠然とした正義は書かない。あくまで個人の利己に基づいた正義を書こうと思ってる。
「あーだから2章であの作家にじーちゃま批判させたのか!」
そういう事、だからあえてじーちゃまは迷いながら悪に徹しているし橙洋だって解っていながら悪に手を染めざるを得ない。
「キャラ構築もなかなか変なところで凝っているわよねこの作品。じゃツッコミその3、最後でついに序章フラグ来たわね! どうして新米士官候補生が部隊率いることになったのか?」
しょーもない理由だけどね(笑)でも異世界に飛ばされた人間なんてこうなっても不思議ではない。橙洋は欧州と言う異世界を日本に居ながら橙子からの手紙で知り、西洋教育の名目で風習を学んだけど。それはあくまで例外中の例外なんだよ。だから今回率いる部隊も欧州到着して半年足らずの新編部隊になる。さぁ弟君大変だ〜なにしろ士官候補生の中に同期で奴が混じってる。
「まさか……ヤルつもり? あの作者曰く帝国陸軍きっての愚将を。」
同情する点はあるがそもそも奴は陸軍に来るべきじゃ無かった。どっかの会社で会計やれば良かったんだよ。作者的には進路を間違えた事を自覚しながら見栄と打算だけで軍に居座り続け、最後に最大級の愚行を犯しやがった。(←菓子盆激突!!)
「読者の前で感情全開で毒吐くなっての!!」
すまん(土下座)だから彼の視点は書かない。どうにも作者が感情的に悪意を持って書きかねないからね。悪役ならいいけど悪そのものを作者が規定しちゃ作風的に不味いと思った訳。
「でー? 誰の視点から書くのかな? ちょっと楽しみ。」
ま期待してくれ。第二次世界大戦で知る人ぞ知る戦術指揮官を隣にして一章以来ご無沙汰キャラ出すから。あーでも出番は今までも沢山あったよな(笑)おや? 今回粛清無し??
「さっきので十分かと思ったけど1発逝っとく? て逃げたら撃つに決まってるでしょーが♪」
(轟音と悲鳴が交錯)
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