虎の章/第51’話『二人の誇り』
その瞬間、俺の心を満たしていた感情は“恐怖”一色だった。
普通に考えれば、そんな状態だとまともに動くことなんてできない。
筋肉が強張ったり、精神が不安定だったり……
……そう、“普通に考えれば”動けるはずなかった。
「きゃっ?!」
「くっ……!」
けれども俺の体は俊敏に動いた。
頭で考えるよりもよっぽど早く着実に……
「な、直詭?!」
すぐには雪蓮も状況を理解できなかったらしい。
何で自分がいきなり突き飛ばされたのか、目を白黒させながら俺に尋ねてくる。
ただ、勘の良さは常人離れしてる雪蓮だ。
俺が右手の甲を抑えていたり、突き飛ばした直後に近くの木に矢が突き刺さったのを見て、何が起こったかをほぼ理解してくれたらしい。
ガササッ!
「待て下郎!」
「──っ!行くな雪蓮!」
何者かが雪蓮目掛けて矢を射かけてきた。
それが失敗に終わって逃げようとしてるのは、そいつらが潜んでいるであろう草むらの音を聞けばわかる。
雪蓮の額に青筋が浮かんだのが見えた。
怒りのままに剣を抜いて、そいつらの所へ行こうとしたみたいだけど……
……半ば無意識に、俺は雪蓮の腕をつかんでそれを制止した。
「直詭?!何で行かせてくれないの?!」
「雪蓮に万一のことがあったらどうする気だ!?」
「でも……!あいつらは直詭に……!」
「狙われたのは雪蓮であって、俺はそれを庇っただけだ!傷も大したもんじゃない、だから行くな!」
「何の落とし前も付けさせずに逃がす気?!そんなの、私の誇りが許せない!」
「傷を負わされた俺が行くなって言ってんだ!」
「だけど……っ!」
なんとか俺の腕を振り解こうともがく。
けど俺も離すつもりは無い。
今ここで雪蓮を行かせちゃいけない……
……いや、行ってほしくない!
「私の大事な仲間に手を出したのよ?!孫呉の王としてそれを黙っていられるわけないのは直詭だって分かるでしょ?!」
「だとしてもだ!雪蓮の誇りが奴らを逃がすことを許さないなら、俺の誇りが雪蓮を行かせることを許せない!」
「でも!……でもっ!」
「何度も言わせんな!行くなって言ってんだ!!」
「……っ?!」
気付けば俺は、張り裂けんばかりの大声を出していた。
俺のその怒鳴り声に、ようやく雪蓮は気付いてくれたらしい。
……俺の声が、俺の腕が、震えていることに……
「……直詭?」
「頼む……行かないでくれ……」
「……………」
狙撃してきた連中の気配はほぼ消えた。
今から追いかけても追いつくのは難しいだろう。
そんな状況になって、ようやく雪蓮の腕から力が抜ける。
俺もそこで、雪蓮の腕から手を離す。
「頼むよ、雪蓮……」
「直詭……」
ガササッ!
「姉様っ!城で緊急事態が……!」
逃げて行った連中と反対方向から蓮華の声が響く。
随分と切迫しているのは声の雰囲気ですぐに分かった。
「蓮華、ここよ!」
「……姉様?何かあったのですか?」
「ちょっと刺客に襲われちゃってね」
「刺客に?!お怪我は?!」
「直詭のお蔭で無傷よ。直詭の方は?」
「見ての通り……矢が手の甲を掠っただけだ」
「お、おのれぇ……っ!すぐに犯人を捜し出し、八つ裂きにしてくれる!」
「落ち着きなさい蓮華」
「し、しかしっ!」
「孫呉の王が取り乱してはダメよ。それより、緊急事態って何があったの?」
「……あ、はい……曹操が国境を越えて我が国に侵入。すでに本城の近くにまで迫っているようです」
思わず息を呑んだ。
あの曹操がこんないきなり攻めてきたってのか……?
「伝令とか見張りとかは?」
「悉く捕殺されてしまったらしい……一人の勇敢な伝令が、その命を賭して情報をもたらしてくれたんだ」
「そう……その彼は手厚く弔ってあげて」
「はい。冥琳もそのようにしろと……」
「状況は理解したわ。私たちもすぐに城に戻る。蓮華は先に戻って出陣準備をしておきなさい」
……私“たち”?
今すぐに蓮華と一緒に戻ったほうが良いんじゃないのか?
「姉様はどうされるのですか?」
「……少しだけ直詭と話をしたらすぐに行くわ。ほら、早く行きなさい」
「……分かりました」
完全には納得してないって顔をしたまま蓮華は去って行った。
……話ってなんだ?
白状すれば……そんな余裕はないんだけど……
「ねぇ直詭」
「なんだよ?」
「……歩ける?」
「いきなり何を聞いて──」
「答えて」
「……………いつ気付いた?」
「蓮華が来る直前。直詭自身はどう?」
「傷を受けた瞬間、何かしらの違和感は感じた。それが間違いじゃないって気付いたのは、雪蓮とほぼ同じくらいだな」
「毒、でしょうね」
「……だろうな」
今も傷口が焼けるように熱く感じる。
全身は痺れのようなものに襲われてる。
蓮華がいなくなった後、刀を杖代わりにしてるけど、足も震えてる状態だ。
まともに歩けるかの自信は無い。
掠った程度だから体内に入った毒は微量だろうけど、これからの戦いで武器を振るえる自信なんか無い。
「さっきの蓮華からの報告からして、曹操軍の一部がやらかしたんでしょうね」
「でも、曹操の所の軍律は厳しいんじゃ……?」
「最近傘下に加えた部隊ならそうはいかないわよ。けど……それは曹操の責任。この落とし前は付けてもらわないといけないわ」
「……先頭に立つつもりか?」
「それが孫家の家訓よ。常に先陣に立ち、兵たちの先頭を走る。その勇敢さがあってこそ、民衆は孫家を支持して力を貸してくれるの」
「……………」
「あまり賛成できないって顔に書いてあるわよ?」
「分かってんなら──」
「けどね直詭。ここで先頭を走れないようなら、私は王として失格よ。私の為に命を賭した仲間の為に、私は全軍を率いて戦う責務がある」
「今の俺じゃ、雪蓮を守るどころか……足手纏いにしかならねぇぞ?」
「そんな体の人間を戦場に放り込むような真似はしないわよ。直詭はただ、私の生き様を見ていてくれればいいの」
「……死に様を見せようとか思ってんなら、今ここで俺がその頸刎ねるぞ?」
「ふふっ、分かってるわよ。直詭が身を挺して守ってくれたこの命、むざむざ敵に手渡すつもりなんか毛頭ないわよ」
にっこりとほほ笑んでくれる雪蓮。
その言葉には、すごく力強いものを感じる。
だから、死ぬつもりは無いんだって言うのは分かる。
……でも俺は、どうしても不安が拭えないでいた。
ここ最近見続けてる悪夢が、頭を過って言葉が詰まってしまう。
「……ねぇ、直詭」
「ん?」
チュッ
不意にキスをされた。
唇が一瞬触れるくらいの、優しいキス。
……何故だか、雪蓮の表情は一変して暗くなっていた。
「いきなりなんだよ?」
「……ごめんなさい」
「雪蓮?」
「私が直詭の忠告をすぐに聞いていれば、毒を吸い出す時間くらいあったはず。でも直詭は、私の命の方を優先してくれた」
「当然の事だろうが」
「当然じゃないわよ……これからの孫呉を担ってもらう人間を、私自身の身勝手で危うく殺しかけたのよ?」
「庇ったのは俺の意思だ」
「だとしても、直詭が今苦しんでいるのは私の責任……ホント、王失格ね」
「……バーカ」
……チッ、本格的に立ってるのが辛くなってきたな。
城に戻るには雪蓮の肩を借りないと無理そうだ。
「私は曹操の頸を上げる以外に責任の取り方が分からない。頭悪いからね、私……」
「……なら、俺の言うこと、一つ聞いてくれるか?」
「何でも言って」
「……死ぬな。幾百の傷を負ったとしても、絶対に死ぬな。ただ、それだけだ」
「……うん」
「ホントは俺自身が守り抜きたい。それが出来ないことが歯痒くて仕方ない……」
「そう思ってくれるだけで充分よ」
「俺が不服なんだよ!さっきは出来たけど、ホントは俺の手が届く場所にいてほしい……雪蓮に降りかかるすべての厄災を払い除けたいんだよ!」
「そんなに想ってくれてるんだね。私、幸せ者だね」
「守らなきゃ……俺がこの手で守らなきゃ、俺はこれからもずっと怖い思いをし続ける……!ただの独り善がりだけど……アイツにできなかったからこそ、雪蓮を守りたい!」
「アイツって……虎牢関で逝った部下の事?」
「あぁ……あの時も本当は、アイツを守りたいから同じ配置にしてもらったんだ。けど、それをできなかった……」
「……私でそのやり直しをしたいの?」
「やり直すんじゃねぇ……今度こそ、約束を違えたくないってだけだ」
「……でもね直詭。私はそんなお願いも約束もしてないはずよ?」
「雪蓮にはな。けど、この人に今からしようとしてたんだよ」
そう言って、孫堅さんの墓石に目を向ける。
「母様に?」
「あぁ。雪蓮が孫呉の民と仲間を守るなら、俺がその雪蓮を守るって……そう誓うつもりだった」
「……母様から言わせれば、甘いとか言われちゃうわよ?」
「構わねぇよ」
仲間が血に染まって斃れて行く悪夢を見る度、俺はずっと考えてた。
この悪夢を現実にしないためにはどうすればいいか……?
……結論はいつもすぐに出た。
俺が守ればいいだけの話だ。
過酷な戦況でも生き延びて、誰一人失わないように守り抜く。
夢から目覚める度に、それを頭に叩き込んできた。
そう心に決めてきた!
「……ふふっ、やっぱり訂正するわ。母様は笑顔で直詭にこういってくれるはずよ。『強い男に巡り合えて幸せだ』って」
「こんな甘い男が強いわけねぇだろ?」
「甘いのと強いのとは違うわよ。それに……直詭は“怖い”って言ってくれた」
「……それこそ弱い証じゃねぇのか?」
「じゃあ聞くけど直詭、戦が起これば一番怖い思いをするのは誰?」
「……一般庶民だろうな。戦う術を持ってないんだから」
「そうよ。そして直詭は、その庶人と同じ感情を今も持ち続けている」
「武人としては失格じゃねぇのか?」
「確かにね。でもね、それは殆どの武人が戦場に“慣れた”ってだけの話よ。そしてその殆どが、民の犠牲を徐々に省みなくなる」
「……雪蓮もか?」
「白状するとね、戦ってる最中は頭に血が昇ってて、目の前の敵を殺すことしか頭にないの。戦う前の口上で民の事を口にしていても、よ」
「……それが武を極めた人間の普通の思考じゃないのか?」
「そうだと思うわ。でも、私は直詭が羨ましい」
「羨ましい?こんな臆病者の何が羨ましいってんだ?」
「戦の最中においても、民と同じ気持ちでいられることが、よ。そう言う人間は、きっと誰よりも守ることの大切さを分かってる」
……羨ましいと言われて正直驚いた。
さっき聞いた孫堅さんの話からすれば、戦場に恐怖心を持ち込むなんて弱者である証拠になると思う。
それでも雪蓮は、そんな俺を羨ましいと言った。
まっすぐな目で、はっきりと……
「直詭は手の届く距離で誰かを失う怖さを知ってる。だからこそ、今こうして私を生かすことが出来たの。それは立派な強さの証明よ」
「……これから戦が待ってるってのに、俺はそこで雪蓮を守れないことの方が歯痒いんだけどな……」
「大丈夫よ」
「何が?」
「今し方直詭と約束したばかりじゃない。絶対に死なないって」
「それでも俺は──」
「死なないわよ。直詭が私を信じてくれる限りはね」
「……信じる?」
「そう。普段以上の実力は、誰かに心から信頼されてこそ発揮できるの。直詭が私を信じてくれるのなら、私は絶対に約束を違えずに生き延びられる」
「相手はあの曹操だ。配下には一騎当千の武将だって揃い踏みだぞ?」
「じゃあ……私の事、信じられない?」
「……………分かり切ったこと聞くんじゃねぇよ」
「ふふっ、ありがと」
雪蓮が俺に肩を貸してくれる。
二人で並んで皆の下へとゆっくりと歩いていく。
「ねぇ直詭。皆のところに行く前に、一つだけ聞いてもらっても良い?」
「何でも言ってくれ」
「うん。あのね──」
後書き
随分とお久し振りです。
完全にスランプだったのと、生活環境が忙しかったのもあって、執筆にとりかかる時間がほぼありませんでした。
待ってくださっていた方がどれほどいらっしゃるかは想像つきませんが、申し訳ありませんでした。
14周年記念作品の方も出来れば参加したいと思ってるので、またお付き合いいただければなと思っています。
ではまた次話で
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m